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通常は 易しく解き明かせないということ自体、その物事の解明はまだ「易しく解き明かす」までには順序良く整理されきってはいないという事を意味していると思います。

この通常の定義の通用しないような思索展開が、 真理とか美とか善とはとか、私たちが生きてるということの不思議さとかその因果とか、あるいは存在自体の因果の謎(?)とか、ではその中での価値とはとか、意味とはとか
そういう言葉を使う私たちの言葉自体の可能性とか限界とか、 考えをどんどん深めていくにしても、なぜ哲学という思索の中では起こりえるのかが解かりません。

難しい言葉を使ったほうがより鮮明になる思索展開があったとして、その難しい言葉は、順序良く解かり易く説明できないということはありえないと思うのですが、どうなのでしょうか?

もしかしたら 考えすぎて頭のこんがらがったままの人が作った難しい言葉で(概念でもいいです。概念という言葉なら中学生でも解かる概念ですからそれはこの難しい言葉の範疇ではないですからね)、 あるいはむずかしい概念で、さらに考えようとしてきたために、歴史的にだれにも分り易いところまで整理するのが大変な世界となってしまっているのが哲学という学問の世界なのでしょうか?

A 回答 (19件中11~19件)

 あらゆる全ての感は、肉体の感覚神経の仕組みによって成っているものです。

感覚神経の質が違えば、違うものが感じられます。
 例えば色盲の人は、青を見て「青」と呼びますが、実際には赤く見えていたりする。
 そう考えると、この世というものは感覚神経の仕組みによってそう認識されているものに過ぎず、実際はこの世とはどうなのか、分からないじゃないか、という議論があります。感覚神経など信用できない、という事ですね。
 しかし、そんな視点に何の意味があるのか分かりません。今自分が直面している世界の、それが何なのか知る事は、自分の為になり肥やしになるように思われますが、「自分が直面している世界が、嘘かもよ」と言われたって、全然関係ない気がします。
 嘘なら嘘でいいから、その世界の真理を知りたいと思います。自分が直面している世界について考えれば良い気がします。「自分が直面している世界は、本当は違うのかもよ」なんてどうでも良い議論に思えます。違うと表現された世界について知りたいだけです。
 哲学は言い回し方など、とても難解である事は、私も同感であります。何故、その議論をするのかわからないこともあります。せめて、 万人が分かりやすい表現の仕方を、すべきではないかと思います。本当は、この世とは何か知りたいのは、万人の共通意見ではないでしょうか?本当は、皆が哲学者です。ある表現の仕方について読解力を訓練していなければ、書いてある事が分からない文章など、一部の者にしか価値を発揮出来ません。つまり、価値が低いと言えます。
 もっと、万人に分かり易い表現の仕方はあると思います。文字数が多くなるというだけでしょう。哲学は努力すべきだと思います。
 「哲学者は、処世術としてわざと難しい表現をする」という話を聞いた事があります。そんな利己的な動機に、ただ振り回されているだけかも知れません。
 

この回答への補足

ありがとうございます。

直接内容に入りますが、 まさに「感覚神経の質」について、なぜ解かりやすく哲学が説いてくれてないのか? という疑問が私の質問の本流です。

生まれつき色盲の人にも、 言葉を通じて順序良く整理して説明すれば、
青を認識しているそれが、みんなが赤と感じてる赤であり、青なのではないということを易しく解かりやすく説明して認識にいたるまで持っていってあげることは 難しそうではないですね。

しかし サリバンが生まれつき、目も耳も聞こえないヘレンケラーに言葉の光を教えた論理は 興味深いところです。

私も 子供の頃、ほんの30分程度ですが、二回ほど、気の触れた状態になってしまったことがあります。(サリバンもそうだったようです。) イジメというやつによって神経がおかしくなってしまったのです。

黒澤映画に「赤ひげ」というのがありますが、 あの中に出てくるやはりいじめによる気の触れた女の子と赤ひげ先生の出会いの場面に、その女の子が
キッとけだもののように赤ひげ先生を睨む場面がありますが、 その場面を(高校生の頃に見たのですが)見たとたん、なみだが滝のように溢れてきたのを憶えています。  だれが演出したのか それは、その時の私とおなじだったからです。

はっと気がついて現実にもどっても、その間のことを憶えているから惨めなんです。 その間自体は、苦しくもなんともありません。

でも いまでさへ思い出せる、その間の意識状態は人間のそれではなく、たぶん動物がおびえた時の意識状態でした、それだけじゃくくれないものもありますが、それがその本質である気がします。

わたしが助かったのは、仁術のお医者さんの力ではなく、大自然の中の虚弱児施設の 明るくおおらかな先生がたや、友だちや、消灯時間に放送室から流れてくる音楽とかによるものですが、

ここでサリバンの話にもどすと、サリバンの場合は、さらに長い間、何回も何回も、気の触れた状態を子供の頃体験しています。

その原因は知らないのですが、やはりそうとうな地獄が前後にあったのでしょう。
どうして救われたのかは、表面的にはずいぶん簡単に語られています。ここでは略しますが、でも私には、彼女を救ったその老婆の知恵の深が今ならわかる気がします。

わたしは、サリバンが、どうやってヘレンケラーに言語を教えたのかのその言語学的な根拠は知りません。 でも たぶん、彼女は、ただ普通のことをやったのだと思います。

ただし、こころの中が違ってたんです。 「あなたは、ヘレンケラー、あなたは、人間だ! !」 この叫びが誰よりも誰よりも誰よりも強かったのだと思います。 だから、ほんの、たぶんほんのすこしのヘレンケラーの何かに反応する表情の一瞬を見逃さなかったのだと思います。

哲学者が何故、この<努力>をしてくれないのか。 と考えたら、わたしの疑問は解かると思います。

私は いつか、いつかは、世界中の「人間」が解かり合える日が来ると思っています。

教育の魂と 哲学の真の発展とによってです。

私は、偶然にてか、自然にてか、神の摂理にてか、知りませんしそこまでの考えの及ぶ人間ではありませんが、 いろいろな場、生活、状況の違いによって、自分自身が、奥深く音楽や、大自然のすばらしさを感じて 生きている事自体の背骨も謳いだす世界も知っていれば、その同じ人間であるというのに、なにも感じず、無感動で、根暗で、無気力で、両方を比べると違いすぎる感覚神経の質の違いを体験しています。

人間として、まだ、ここに生きてる以上、人間としてそこにある人間的な道筋を探求したい、知りたい、語れるようになりたい。  そして、未来の子ども達が 音楽を魂から聴けるようなそんな世界にしたい。

これが出来るのはけれど、 「わかりやすい哲学」だけだと思ってます。

でありつつ、わたしは、間違ってるかもしれないとも思っています。

あなたの文面から感じることは、あなたが、一番肝心の点で何か悩み、誠実にその洞穴を旅してきた人間だという推理です。 そして、何かよく解かりませんがそこに一点かもしれない光、でもなにか確実な出口の光を見つけられているということです。 (別に高度な直感とかでではなく ただ単にあなたの文面に優しさとをそのゆとりを感じる事からの推理なのですが。)

わたしがわからないのは、神のメッセージというものがこの世にあるのかどうかというあたりなのですが。 何かわかりますでしょうか。

これだけでは抽象的すぎますでしょうけど、何か解かりましたらおしえてください。

補足日時:2007/10/15 20:24
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お時間があれば、是非、上記の疑問点について、何か教えてください。

お礼日時:2007/10/16 07:23

ANo1ことharepandaです。



ずいぶん大変な人生を歩んでこられたんですね。あなたのような方に、私が哲学を語るなど、恐れ多いことをしてしまいました。ご容赦ください。経験に裏打ちされた深い思考も感じ取れます。しかし、せっかくのご要望ですので、私のできる範囲内で回答したいと思います。

> 「経験とか無関係な純粋な理論というものは存在するだとうか。私は、存在すると考える。」←ここでいう「経験」とは どういう範囲の事を言ってるのでしょうか?

> 生活にすぐ役立つことに繋がる経験という意味合いであれば、そういう利益とかにとらわれない論理というものは存在するだろうか?とう問いとなり、
すぐに役立たない数学の論理や物理学の発見や、例えば何万億光年の光がどどいたのがあのあたらしく生まれた赤い星だとかということの科学的知識をもすべて純粋に経験外の世界ということになりますから、考えるまでも無くそういう存在は存在するいうことになります。 

これは、カントの懐疑論と認識論の基本原理です。彼の関心は、世界を人間が観察するにあたり、人間の認識能力をいったん通過せざるを得ない以上、人間は「経験」を通じて「物」を見ているに過ぎず、「物自体」を見ているわけではないという考え方をします。よって、数学の論理や物理学の発見、星の観測等も、望遠鏡を使って「物」を経験しているにすぎず、「物自体」は見ていない、という考え方になるかと思います。「考えるまでも無くそういう存在は存在するいうことになります」というのは極めて日常的・非カント的な発想であり、カントであれば「考えるまでもなく、などとなぜ言えるのか。まずは人間の認識能力を精査するのが先だ」と言うでしょう。

カント以降のドイツ古典哲学者はカントに立脚しながらも、このあまりにも人間の認識能力を批判・検討してばかりである態度を嫌う傾向があります。ヘーゲルの場合、カントのやろうとしていることは、水泳の練習の前に、まず地上で水泳の練習をしているようなものだと考えていたことでしょう。飛び込んでみないことには、「経験」はおろか、世の中の現象の何も理解できないではないか、と。

> 五感で感じられること(あるいは体験)の全て、またその組み合わせで思索できることの全てを「経験」と呼ぶのであれば、言うところの「純粋な理論」とうのは、たしかに私にもさっぱり解かりません。 

カントの「経験」概念が分かった今なら、「純粋な理論」ということで彼が何を言いたいのか、何となく分かると思います。彼は五感で感じられることを「経験」と呼んでいるわけではないのです。カントの文脈の中で、「純粋な理論」が何を意味するのか、何となく分かってきたと思いますが、正直に言って、私の場合、カントの理論構成は分かるのだが、なぜこんなことに拘泥するのか、目的がさっぱり分かりません。世界を観察するまえには、めがねを完全に磨いて、度数も完全に合わせて、乱視もきっちりなおしてからでないと、世界を観察する意味がないと言っているのと同じですが、どんな近視や乱視の人でも、めがねなしで生活している時間帯はありますよね(ラーメンを食べる時とか、顔を洗う時とか。)

だから私は、カントと相性が悪く、ヘーゲルと相性が良いと言っているのであって、経験概念はヘーゲルとカントで全く違います。ヘーゲルの場合、五感に基づく実体験のほかに、書物等を通じて他人の思考過程を追体験することも経験に含めます。ただし、厳密にいうと、日本語ではどちらも経験なのですが、ドイツ語では前者をEmpirie、後者Erfarungという類義語で使い分けています。

> たとえば、なんで、哲学は、これだけの情報化社会に、西洋医学の価値と東洋医学の価値をその違いを明確にしないまま統合されようとしている姿にたいして、マスコミにまで出かけていって「それは ほんとのホーリステックの道を遅らせますよ」とかの論議をしかけたりできないのでしょう。

医学は専門性が高いので、門外漢の哲学者はなかなか入り込むことができません。しかし、安楽死と尊厳死、環境倫理学、老人の孤独死の問題と社会的コミュニティのあり方等については、積極的に発言している人がいます。

> 「テーゼとアンチ・テーゼがアウフヘーベンされて、それがまたテーゼとなり、またべつのテーゼと‥というふうにして物事や認識は発展してゆく」という風に言ってた先生がいましたので、 そのように理解してよいものだとするならば、 これって 「物事や経験したことを多面的の比較検討すること」 といったいどういう違いがあるんでしょう。 むしろ、比較検討の仕方のほんの一部にすぎないと思ってしまって それで憶えているんですが。比較検討とはべつの意味合いのものなのか、それともそこにはすぐれた比較検討の秘密のようなものが隠されてるのか、そのへんが知りたくなりました。

教科書的な説明ですね。さぞ、退屈だったことでしょう。ヘーゲルやキルケゴールの専門家ではなく、マルクス主義者が教えた弁証法かもしれません。多分、あなたの世代ではアドルノは新しすぎて体験していないでしょう。

弁証法の本質は、「概念の自己運動」の観察にあります。(これをマルクスは理解できなかったか、もしくは、理解しても嫌っていたのです)概念の自己運動とは何かというと、人間がいろいろと物を考えたり文章を書いていたりすると、いつの間にか言葉の定義が入れ替わってしまうような現象を考えてみてください。これなら、いつの世にもありうることだと思います。まして、長い哲学史を通して見ると、一つの概念の意味が、がらっと変わってしまうことすらあります。たとえば西洋哲学史において「自然」ほど、意味が変化した概念はありません。多分、高校の教科書あたりでホッブズとロックの自然概念の違いとかの説明を受けたと思います。単純記憶でこれを覚えこむのは苦痛ですが、ルソーを分かっていると、議論が一気にわかりやすくなります。ルソーはだいたい、こんなことを言っています。「だれそれは、自然状態とはこういうものだと言った。だれそれは、こういうものだと言った。いろんな人が、いろんなことを言った。だが、本当の自然状態にたどり着いた人は、一人もいない」。鋭い指摘です。これを、ヘーゲルは後に、自然法の経験的扱いへの批判という言い方で、別個に同じ結論に到達しています(どうも、ルソーに先例があることに、気がつかなかったようです)。自然とは、天然・自然のほかに、「そんなの自然だよ」という言い方もあることから、物事の本質やあるべき姿という意味もある単語です。英語ではNatureですから、ものごとの本性という意味もあります。また、ヨーロッパ語では普通、第2の自然というのは、習慣のことを表す言葉です(アメリカの本で普通に使われているのも見たことがあります。アメリカ人にとっては、車のドアを開けるというのは第2の自然だ、と)。

ルソーの議論を理解したうえで社会科の教科書を読むと、「ああ、こういうことだったのか!」と初めて分かるのです。自然法とは、人間の本性とは何であるかをめぐる、長い論争の歴史だと。ヘーゲルにいたっては、「精神とは第2の自然である」という解釈に踏み込み、精神と習慣の間があいまいになりかかってます。が、これはわざとやっているのです。

こうして観察してみると、人間が主体で自然概念を操作しているのか、それとも、もはや自然概念のほうが主体で、様々な哲学者の脳みそを媒介しながら、自分自身を変貌させているのか、分からなくなってきます。後者の解釈こそ、弁証法の本質である概念の自己運動の典型であり、これを「観念論」と呼んでマルクスは毛嫌いしたわけです。

> また「天敵」という言葉にも、わたしのようなひとりで人生(その哲学)を考えてきた者には、不思議な世界です。 物事が整理できていたら人間と人間との間にはその分対立ではなく「和」が生まれるとしか思えないのですが。そこがまた、変にというか どうしても疑問なんです。

さまざまな学者がいて、同じ結論に到達せず、互いを批判しあうのは、哲学だけでなくあらゆる学問にみられる現象です。物理学の例を出せば、相対性理論と量子力学の2つの重要原理があって、双方を統一的に説明できる理論は、まだ見つかっていません。アインシュタインは量子力学を毛嫌いし、「神はサイコロを振らない」と言ったとされています。

未来の子供たちを助けてくれる哲学、それはどんな哲学でしょうね。これは、哲学全般というより、倫理学、社会哲学、宗教哲学のような領域から出てくると思います。カントやその後継者とも言える分析哲学者は、世界をどう観察するかにばかり着目し、人はどう生きるべきか、社会はどうあるべきかは、具体的には何も語ってくれません。一応、判断力批判という本がありますが、内容は空虚だと思います。ヘーゲルは社会哲学者としても超一級なのですが、社会のあり方ばかり注目して個人のための倫理学はないといわれます。キルケゴールは人間の生き方を教えてくれますが、あまりに根暗です。わたしの知識の範囲内では、未来の子供たちを助けてくれる哲学が、どのような主義主張をするのか、分かりません。ただ、環境倫理学の一部に、世代間倫理という考え方があって、要は環境問題について、「今の世代の環境汚染のつけを、未来の世代に押しつけるのは正しいことではない」と言っています。同じことは、国の赤字についても言えるでしょうが。

また、お会いしたら、ぜひご相手ください。

この回答への補足

カントは、西洋の歴史の流れの中で神の存在証明の何らかの形で寄与したかったのではないですか。

でも、五感の体験が深かければ、最後はどうせ人の奥には神への信仰は存在してることになるはずです。 表向きなどにはとらわれる必要はなかったことと思います。

神がいると仮定すると という思索する形をとれば、たしかに神ならば、「物自体」の存在とは関わらずに、もしかしたら存在しない「物自体」というのが「物自体」の実態であったとしても、 そのような人間の認識能力の存在は存在しえますからね。

一見 生物と張り付いているように見える五感がその基盤となってるだけで
「我思うゆえに我あり」というデカルトでしたっけ(これ、高校生の時にききかじった断片言葉として記憶がある言葉です。)この哲学の発祥らしい言葉を照明できますからね。

そのように見えるだけで、五感など実際には存在しない可能性もあることを認識能力の精査な探索の内に思索し落とす必要は無い という考えなのでしょうが、

解釈自体が私のそれでは、間違ってるかもしれないですが、それこそそんな考え自体必要ないですね。

まず五感が生物学的に張り付いて存在している世界を探索するだけでも、サルから人間に進化する過程で獲得したとも表現できる「見つめる」という能力がそこに長い間はたらけば、「自然」と「イメージという能力」も人間が獲得していくよすがもいろいろと推察されるところと思います。
<Erfarung>は、そうして、それこそ「自然」に獲得されたものと思います。

アドルノというのは哲学者の名前ですよね。 他の登場哲学書の名前は名前だけならば聞いていますが、 それだけでしかないところの私はそうとうのそのへん無知な人間です。

<新しすぎて体験していないでしょう。> 他の哲学者もまだ「体験」してないのに、なにか すっかり体験してみたくなりました♪

つぎに「弁証法の本質」について「概念の自己運動」の観察 とのことですが、これだけではむずかしかったというより私には理解不能だったことが「ああ、こういうことなのか」というあたりですこしだけわかったような気持ちになれただけでした。  ずいぶん難しい世界ですね。

東洋でいう「無心」な心の追求、「無理しないバランスの取れた心」の追及の西洋バージョンなのでしょうか?

マルクスは 無心論者(心の奥底ではどうだったか知りませんが、そういう腹芸のできた実践家だったにではという推理もわたしの中には在ります。)で革命家、あるいは革命志向の学者という印象がわたしの無知なイメージの世界にあります。

だとすればですが、無理の無い革命を完成する道筋が彼の理論ではまだ見つからなかったためにその「無心」と矛盾してしまったのかもしれませんね。

わたしの考えは 無知単純すぎのためのバランスを欠いた見解にどんどん発展してしまってるようですね。

将棋のルールの世界と、哲学の定義の世界が、その複雑性の因を、ただの駒数や9×9の升目数と、膨大な思索項目数との違いにあるのではなくて、定義自体がどこまでも複雑なルールであることが認められてる世界にあるとするならば、まさにそこはルール変更ランダムの世界ですよね。(正確な言い方ではないと思いますが 言いたいこと解かってもらえるとおもいます。)

作り出されたこのような混乱をなくすためにも新たにより正確を謳う概念が生まれつづけている世界でもあるのかもしれません。

でも、では何故「未来の子供たちを助けてくれる」哲学としてそれが収斂しないのかがわたしにはやっぱり疑問です。こんなに長いその格闘の歴史がです。

そして、やっぱりこう思うのです。 五感がいまだに忘れられてるのでは、 それと絡む「欲」の泥沼には逃げ腰の理論がどんどんふくれあがってしまってるのでは、 仁術は気脈とつぼの医学を生み出したけれども その経験科学の面自体はもっと現代医学や科学と手をとりあうべきであると同時に、仁の心をこそ、仁の歌をこそ、今哲学はなんとかして掴み取りなおさなければならない地点にあるのかもしれない、と思うものなのです。

以上が感想です。

ほんとうは、どっかでおめにかかりたいですよね。 ネット音痴にはかなわ夢ですが、 なんらかまた機会がありましたら、また知識の世界も教えてください。 知識とむすびついて「仁」も「和」の知恵も その 力となるのがこの大地だと信じているものですので。

補足日時:2007/10/14 17:29
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この回答へのお礼

いつか こんな人達と友達になれたらな と思ってしまいます。

「解かりやすい哲学」を志しての 無知な人間からのとある哲学のブログを始めてますが、 アンサリストになれれば、紹介できるのになとか思ったりもしてます。

でも、これだけいそがしくては その責任はとても取れるとわたしには思えません。 はるか先の希望となってしまうところです。

再度のこんなにもの丁寧なご回答 ほんとに ありがとう ございます。

お礼日時:2007/10/14 17:39

一体何のことを指し示しているのか抽象的過ぎてわかりませんが、、、抽象化した言葉を使った方が哲学するのに平易だから、意図的に哲学者は未知の意味を持たせた言葉を用いてきたのだと思います。

もしくは著作者の文体スタイルによります。

質問者さんが指摘するように、思想家と言われる人は、前代の小難しい哲学書(?)を読み解いて思索し、整理し直しているといえるでしょう。哲学者の言葉が正解なのではなくて、哲学の変遷や論理を検証して自分の言葉にして考える事が本来の哲学です。

例えば、「個人主義!と自由!」という概念を中学生に言ったところで、どれだけ~の中学生がこの言葉の意味を理解しているでしょうか。個人主義とはindividualismの訳でありegoismではありません。社会や組織内における一人の人間の権利を尊重するという意味ですから、権利を主張し「他人に迷惑かけてない!」と言う人がいれば概念はおろか、もう言葉の意味すら無視されていますね。分かっているような言葉も紐解いていくと際限なく深いです。概念とは何か?深いですね。ポストモダンは概念だったものを崩している思想ですし、、、

アイデンティティを「自分らしさ」とおきかえればいい言う教師がいましたが、これでは、ちょっとした評論さえ読み解けないでしょう。もっともっと言葉(概念)を突き詰めて考える必要があるので、新たな定義を持った言葉(概念)が創られるのは当然なのです。

この回答への補足

たとえば、抽象化という抽象的ことばも、 中学生以上の人には一応このようにそれなりに深く説明可能です。

それは 鷹の目となって、上空からいろいろな角度から物事を見つめようとする想像力と思索の試みのひとつだよ。

でも、よくあることなんだけど、あまし空の高いところかばかり具体的なぼくらの生活を眺めてるとこんな誤ちをおこしがちなんだ。

具体的な一歩一歩があって人間は前に進めるのに、その具体的な一歩一歩が
高すぎてよく見えなかったり、ぼけてよく見えなかったり、さらには雲がかかったり、霧がかかったりしてても、つい上空から見てる安心感やおごりやよけいなプライドから、まちがった方向までも偉そうに指示してしまったりするのが抽象化した言葉の世界でもあるんだよ。

ちゃんと、そのへんを見極める必要の在る言葉だし、抽象化するときにも自分自身でも気をつけるべき概念だね。」
という意味合いの説明を わたしならば、気迫をもって、説明し続けるでしょう。

どこかの<「自分らしさ」とおきかえればいい>と、「自分らしさ」という言葉の、生涯をかけてもまだ回答など見つからないのかもしれない深さを自ら知らないかのような教え方をする教師には、私はならないでしょう。

実は、時間の都合上、私は質問を途中でとぎってしまっています。書き直すべきか否かのせつなにて このまま急ぎ「完了」するべく意思決定を決断して この質問はここに記されることになりました。

後から、背景とか、その他の具体性を それぞれの方に付け加えております。

そちらにも、もっとくわしい質問の背景とか書きたいですが、紙数が足りません。

このまま、さらに質問させていただきます。

上と同様の考え方にて、「個人主義!と自由!」という深い概念も、それなりにではあったにせよ、私は、おお~くの中学生にも具体的にも抽象的にも正しく深く説明してゆくことは不可能ではないかと思ってます。

人間否定の卓上の抽象理論や、自らの哲学を放棄しての信仰の理論(ほんとうの信仰がそんなものであるはずがない)に、目の前には争う相手しか見えていないような、人間の尊厳を忘れた人達に、目のぼけた人達に語るよりはよっぽど、 中学生たちのほうが すくなくとも深く理解するよすがを身につけてくれると思うのです。

その背景が書けなくて残念ですが、わたしは「ポストモダン」と言われても、どこかで聞いたことがある言葉だなあ という感じでしか解からないものです。

ですので、その点、つまり「概念だったものを崩している思想」という文面もこれだけだと解かりませんので、 

上記の私の解釈へのお考えと、この点についてだけ、 もし、紙数内で説明のつきそうなことでしたら、教えていただけますか?

なお、私の背景について、現状だけ触れさせていただきますが 83歳の母と暮らしていますもろもろの条件から、起業もままならぬ中、現在、月に一冊の本も買えない状況に陥っております。

よき解説文がネットにあれば、それは紹介いただけるならありがといところ、その前に、そちらの、一気に私の質問の抽象性を見抜きしかも柔らかく「和」につつんでそれを語ってくださったadaypajimyさんの気迫を、信頼する者なのです。

以上です。

補足日時:2007/10/14 12:43
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

ご回答ありがとうごさいます。

秋も深まり、肌寒くなりました。お体には充分おきおつけなさってご精進ください。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/14 13:42

哲学という学問にあまり縁のない人間ことばで


よければ読んでください。
私も何年か前まで哲学の本をいろいろ読みましたが
はっきりいってよく分からないものから
目からウロコのものまで様々な思想・哲学の本が
沢山ありました。なんとなく分かったというものは
(あくまで私が勝手に判断したことですが)
自分がよく似たシュチュエーションの場面に
出会って、そのとき考えた事柄の内容と似ている
場合だったことやいろいろな人生の問題に直面した
ときに問題として横たわっているものがほとんど
でした。
生きることや死ぬこと存在すること倫理観や道徳など
ですかね。昔の人でも同じように感じてたんだなと。
不思議なことに自分の問題として
現われているものほど難しい言葉で表現されていても
スーと溶け込むように頭に入っていったように
記憶しています。

難しい概念だったり新しく使用した言葉でも
人間が思いついた事柄なのだからもし、その哲学者
と似たような体験を経験したり、同じように
なんとなく感じていたりすればいつか理解できるんだ
と思います。一般的に難しいと思えるのは、言葉の
曖昧さを排除しようとした結果なのかなと思います。
哲学者の自分の本を読んだ人が間違えないようにとの憎い
きくばりなんだろうなあ。

言葉というものが正確な様でいてそれほどではなく
曖昧なものというのは私たちの生活や社会で
嫌と言うほど見たり聞いたりしていますよね。

抽象的なものを人に伝えようとするとき人はよく例え話
をしますが、同じような経験したことが無かったり
自分の意識と遠く離れている例え話をしても共感する
ことができないのと同じで、さまざまな人間が読んでくれる
ことを想定したら安易にたとえ話に置き換えたり
分かり易い文章を選ばなかっただけじゃないでしょうか

おおもとはわたしたちの生活や身の回りのことや
いつの時代でも人間なら考えてしまうことを問題にして
いるんだという意識が必要なんだと思います。
質問者さんがこれからさき色々なことを経験して
一つでも多く哲学から何かを得られることを願っています。

この回答への補足

llamaさん、ありがとうございます。

ご回答の文面は、たくさんコメントしたいことがありすぎるため、再質問にしぼって、突っ込ませていただきます。

わたし中のゴッホ体験というのをお話したくなったんですが、こういうことです。

わたしは、35歳あたりのある時までは、ゴッホの絵の(これもたぶんとしか言葉では人に言えないのでしょうが、)その本当のすばらしさは解かりませんでした。

でも、絵を見るのは好きでしたから、ゴッホの絵はたくさん見ていましたし、35歳以前にも、評論家風のことならたぶんいくらでも話したり書いたりもできたと思います。

「あのひまわりの絵のタッチも、糸杉のタッチも、あの夜空の星の渦も、まさに心の表出の美の典型だ。ゴッホの心の中の炎がそのまま絵に現れてる。」などなどと 偉そうなことならいくらでも書けただろうと思います。

ところが、35歳のあるときに、題名とかは憶えてないんですが、畑があって垣根があったと思いますが、その裏に遠く丘が続いているひろがりのある絵を見てるうちに、 けっきょくこれは言葉でどう書いていいかわからないのでこう書くのですが、言葉を失ってしまったことがあります。

たぶん、始めてゴッホの絵の「たぶんほんとの」すばらしさが解かった瞬間だったのでしょう。

しかし、この気付きには、原因が特定できないため、これこそ言葉の限界なのかと思えてしまう説明のしがたさがあります。

どういう概念の言葉を創出しても、その壁は崩せそうに無いという感じです。
おもしろいことは、その後の私のゴッホ感は、35歳の前の私自身にも説明が不可能に思えてしまう点です。

わたしは、美こそ「和」の根源と思ってます。

その点から、絵と音楽と歌と踊りの世界には特に注目している者でもあるんです。

でも肝心のこの人間心とも言えるものの源泉が こんなにも壁に覆われてたら、極端な話、これでは宗教戦争とか憎しみの連鎖とか(後者はすこしはずれてもいるかと思いますが、ここにはだからこそ「和」の根源を明らかにしたいという夢がこめられてるという意味で書かせていただいてます。)もこれでは終わらないわけだ。と思えてもしまうところなんです。

切実な価値の世界の問題です。

言葉は、確実正確に伝わるシチュエイションも無限とも言えるほど在る世界です。

「そこのハンカチ取って」と言われて「はい、ライターね」などという受け答えをするのは アルツハイマーがそこに一人いる時の会話でしか100%ありえないシチュエイションです。

同じようにして、言葉でも「ゴッホ体験」を伝えるすべ、深い美の世界を伝えるすべは、そのよすがは、どこにあるのだろう?

<スーっと溶け込むように頭に入っていったように
記憶しています。>  

これって、ゴッホ体験と似てます。

たぶん、わたしの中での<似たような体験>なのでしょう。llamaさんのご回答の文面の中でも、このことが一番、何か再質問の筆とならざるをえないものでした。

もし、お時間がありましたら、このへんの感覚で何か似たシチュエーションとか、出会った似た問題だったりとか、同じような経験だとかありましたら
また何か書いただければという 気持ちになってしまう者なんです。
もちろん<目からウロコの哲学の本があれば最高です。

よろしくお願いします。

そうそう、 学生の頃の事ですが、多摩川の川原に寝そべっていて最初は何も感じなかった川の音とか ほんのせせらぎの流れとかが、深く体にはいってきて(数時間後ですが、疲れてただけだったのですが) きもちがすっかり安らいできたことを思い出します。 ここには時間と自然とのふれあいの
原因、おそらくだれでもそうなるだろうようなかなりの共通項がある気がします。 言葉→体験→言葉、この循環の中に何か、何か、答えがあるのではという気がしてはいるのですが。

補足日時:2007/10/13 17:07
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この回答へのお礼

すみません、 再度のご回答は、ごゆっくりで結構です。 いろいろ思い出されることとかありましたら、ま、風呂にでも入って月でも眺めながら、気さくに、書きたいときに書いてください。 もちろん、その時間がありましたらということですし、 また、いそいで忘れないうちにい書いておきたいこととかありましたら、月など眺める時間も惜しんで(笑)書いてくださってもいいのですが、

みなさんがこんなに誠意いっぱいのご回答をくださってる中で、いそがしい身にて、たぶん、それに目を通すことさへ日数を経てしまう形になりそうなのです。  そのへんをご了承ください。

そちらの誠意あふれる文面にも、再質問をしないではいられない気持ちになってしまったことをご理解いただけてると思います。

でも、 ほんとんに、お時間の都合にあわせて、ご無理はなさらないでください。

言葉で言えないものがあり、なにかジーンとくるものがあります。
どういったらいいかわかりませんが

ありがとうごさいました。

お礼日時:2007/10/13 17:32

この問いこそ、哲学では?


哲学は難しい、何故なら・・・・・。難しい文章や考え方の解説はあくまで解説であって、哲学とは違うと思いますよ。
解りやすい、簡単な言葉で書かれた文章すら「 哲学 」となのです。
では、哲学とは何でしょう?
これは個人的な意見ですが、「 人間としての閃き(ひらめき) 」なのではと思います。
十人十色、人間には色々いますから、読んで全部理解する事は不可能に近いでしょう。だって、頭の精神構造や感受性を理解しようと思うことが、同じその人じゃなければ完全には無理かと。
それよりも読んで自然に共感を持ったとか、これは理解不能だとかが解ればOKだと思うしね。
私はニーチェ読んだときに直感的に「 駄目だ~ 」と思いましたもの。
自然に入って来る言葉や、受け付けない言葉があり、言葉の庭を散歩して、花の様に好き嫌いは感覚でよいと思うなぁ。

この回答への補足

一見<解かりやすい、簡単な言葉で書かれた文章>がさらっと書き流されてるように見えて、

最初は、そのままさらっと読んで「納得」と言った感じになってたのに、

あとからじわっとなにか感じるものがあり、驚くものがありました。

最初の3行、文章がおかしいところがありますが、<‥文章すら「哲学』となのです。>の部分ですが、それすら、あえて間違えて何かを示してくださってるのかと思えてしまいました。

ちょっと、私流に解かり易く書き直してみますが、まずは、こんなふうな解釈でよろしいでしょうか?

「この問いこそ、哲学では?」の部分はひとまず抜かします。
その後の2行の解釈ですが、

哲学は深い、何故なら‥‥。難しい文章も、その考え方の解説も、その段階にとどまるなら、まだ深いその姿「哲学」はそこに顔をのぞかせたり花開いたりはしていない。
解かりやすい、簡単な言葉で書かれた文章こそ「哲学」なのです。

というふうに、 でも、「文章こそ」では無く、意味は通じにくいけれど<文章すら>のままにしておくと、 これは深さ→つまりそちらが<難しい>と最初に哲学を規定したその意味合いとわかり易さの大切さがここで1つに溶け合って強調されているようにも聞こえます。

友に話しかけてるみたいな文章であることは一番最後の文からも解かりますが、意味合いは上記のように受け取りつつ、そのままを味わい深く受け取らせていただいてます。

うまく言えてませんね。

将棋の達人は、基礎を繰り返し繰り返ししてまさにその達人の域なると次の一っ手を、閃きで判断するのだといいます。 考えて駒を進めるというより、音楽を聴いてるようだとある若い名人の方は言われております。
まさにそちらの言われる「哲学」と言える「深い」思索段階が、それなのでしょう。 でもこういう解説は解説ですね。

<これは個人的な意見ですが「 人間としての閃き(ひらめき)」なのではと思います。>

これが、生きられた哲学とでも呼べる あなたの<頭の構造や感受性>のなにがしか、ほんのなにがしか、なのでしょうね。

神様が 完全な「偏在」であるとするならば、神様ならあなたのことも私のことも全部解かっているわけですが、人間は、すぐ隣の人さへ、その「なにがしか」しかほんとうには解かってなどいないんですよね。

つねに謙虚に、これが道ですね。 そうすると何がしかはすこしはわかって<共感>できるように、なれる、かもしれないだけですね。

つい忘れがちなその道を こんなに詩的(すてき)な文で思い出させてくださり ありがとうございます。

閃きにたいしては、まさに<共感>、理解できないものは理解できないと「哲学」すれば、それで<OK>ですね。

ニーチェは「神は死んだ」と言った人ですよね。でも自分は神を信じてたという。 これって西洋の文化の中の人でないと、たぶんほんとうには解からない世界かもしれませんよね。  何がしかは いや謙虚なら、不謙虚な西洋人よりは解かる時が来るのかもしれなくても、西洋自体への謙虚さも必要なのですよね。  

<直感的に「駄目だ~」と思いましたもの。> なにがしかかもしれませんが(わたしは読んでませんから)でも共感出来ます。(笑)

<自然に入って来る言葉や>→turubeさんの言葉は 後からじわっと 自然に入ってきました(笑)

<受け付けない言葉があり、言葉の庭を散歩して>→むずかしい言葉の段でとどまってるような言葉もたぶん、その裏には何かひらめきに通じるものもあったり、そうではなくわからないと解かるようなものあったり‥、さあ散歩しようじゃないですか、言葉の庭を。

「花の様に好き嫌いは感覚でよいと思うなぁ。」

そして、私の文にも共感してくださり「この問いこそ、哲学では?」と始まってるんですよね。

じんわり、くるなぁ。(笑) なにか ほっとします。癒されたみたいな感覚ですね。

ご回答 ほんとに、ありがとうございました。

まだ紙数がありそうですね。

最近ですが、私のある親しい人が、ある犯罪で裁判にかけられ私も傍聴に出かけたことがあります。

わたしは、法律のこととかはまるで解かりません。

でも、その裁判で、きびしい罰を言い渡す側も、弁護をする側も、その友の
正直な告白を正しく理解していました。 人の弱さと 人の将来性もただしく理解していました。 両方の立場の専門家がたしかに「弱者の見方」でした。  私は、すっかり関心していました。 一週間後、確信していたとおり彼は無罪となりました。

そこには法律の重みがありました。長い長い間の。

turube555さんのご回答には、生活の重みが感じられました。長い長いあいだの。

ありがとうございました。

また何か共感することでもあれば、この庭にも散歩にきてください。

補足日時:2007/10/12 17:54
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/12 19:22

哲学が難しいのはなぜか。


この問いの前提を覆してもよいでしょうか。
哲学とは難しいものなのでしょうか。
その前に難しいとはどういうことでしょうか。

難しいということばは、「~は~にとって難しい」という厳密さを要求されます。
しかし、日常的には「~にとって」は省略されがちです。
この「~にとって」というのが曲者で、もしかすると、哲学が難しいのではなく、哲学に向き合おうとしている人にとって哲学は難しいのではないでしょうか。

だとすれば、それはどんな物事にもあてはまることです。
例えば。将棋の駒の並べ方すらわからぬ門外漢が、プロの対局を見たらまったく理解できないでしょう。駒の動きがわかった人間になると少しはわかるけれども、どうしてプロはこの手を使うのかということがわからないでしょう。さらに戦術を理解して、何手先も読めて、それでようやく理解できるようになるでしょう。しかしそれが本当に理解できるようになるためには、そのプロのレベルに追いつくことができるようにならないと。
★最初は誰もが無知な状態であるから、いきなりなんでも理解できるということはない。


しかし、難しいと思っている人の無知や理解力のなさばかりの問題ではありません。
もう一つ言えるのは、学問のあり方の問題です。
学問にありがちなことなのですが、最先端の物事を考究する癖が関わっていると思います。
最先端を研究することばかりに熱中して、それを一般に伝える「啓蒙」がおろそかにされている。
はしごで登ってしまって、もう降りる必要がない(しかもさらに先を進みたい)人にとって、登ってきたはしごはなんの役にも立ちません。
それよりそのはしごを取り外して、これから向かうさらに高いところへ架けようと思うのです。
そのために、一般の人との断絶が激しくなる。
★知った人が、必ずしも知らない人に伝えるとは限らない。
伝える親切な人もいるので、そういう人に頼りつつも自分で理解しようと努力することも大事だと思います。

以上、およそ2点の分析考察をしてみました。

この回答への補足

すみません、タイトルはキャッチコピーみたいな感じで導入となる言葉として使ってもいます。

厳密でないかというと、そうも言えないものでもあるのですが、ここは先へと進ませていただきます。

将棋の世界と「哲学」の世界の違いは、駒の動かし方を勝敗という目的のために使う分析考察の世界と、人生という想定外だらけの確率の目的自体不明確な世界のための分析考察の世界、ということにもなろうかと思うのですが、

この人生の分析考察にて、では他の学問との厳密な違いは何かというと、こうして書いている言語の学を除いては、総合的な繰り返し的基本的考察と、部分的な専門的は積み重ね的考察ということにもなるだろうと思います。

生物学の分野かららしいのですが「複雑系の科学」という専門用語で、倫理の世界にまで総合的な考え方の大切さを物語る分野があるそうです。

全体は部分の総和以上のものであり、部分の総和には、部分には無い新しい命が宿っている というもののようなのです。

でもこれこそが、もともとの哲学のあたりまえの本質だと思うのですがどうでしょう。

もちろん、それを考えれば、哲学こそ解かりやすい解説という命題をおそらく教育学以上にたいせつにするべきところ、だから、こうして「哲学が難しいのはなぜか」という設問も成り立つと言えばなりたつというわけなのですが、

他の学問が、まあ「複雑系の科学」のようなこともあるわけですが、最先端に閉じこもるがゆえに、一般への「啓蒙」をおろそかにしてるという傾向が強いならば、哲学はそのへんをもっと「それは非価値的じゃないの、もったいないんじゃないの。もっと多くの人の知恵と力を引き出すためにもそれじゃあね。」と誰よりも解かり易く反旗を翻すべきところと思います。

ほんとに、<難しいと思っている人の無知や理解力の無さばかりの問題>とは言えなさそうですね。

するどい厳密に分けられた文面、学ぶものがあります。

哲学に向かう姿勢に感銘を受けるものがあります。

再質問よろしければ、そちらの「哲学の役割」についての分析考察をお聞きしたいです。

そちらの見解にもあるその哲学という学問の本質的不備が、どのようにして生まれたのかというと、何か 「欲望」についての哲学をどこか深めてこれなかったためではないかと思えてならない者なのです。

もし、人生のこの問題(セックスも含めてのことですが)に、切実であれば、こんな奇妙とさへ感じてしまう「断絶」など起こりように無かったのではないかと思えてしかたのない者なのですが。

補足日時:2007/10/12 06:03
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この回答へのお礼

哲学を学ぶ姿勢に関してえりをだだすべき何かを感じさせられました。

ありがとうございます。

できれば 上記再質問に関して また何か書いていただけるとありがたいところです。

ありがとうごさいました。

お礼日時:2007/10/12 07:28

「難しい言葉を使ったほうがより鮮明になる思索展開があったとして、その難しい言葉は、順序良く解かり易く説明できないということはありえないと思うのですが、どうなのでしょうか?」


その通りですね。至極まっとうな考えです。なんでも理解していれば平易な言葉で説明できるものです。理解できていなければどのような言葉を使おうが「言葉遊び」にしかなりません。子供でもわかることですね。この子供にでもわかることが哲学の世界ではわからなくなってるのですね。だれ・それがこのように言ったから正しいとしてわけもわからず妄信している場合が多いですね。
例えば、日本の哲学者と呼ばれる方の「即非の論理」(「Aは非Aであり、それによってまさにAである」、これどう考えてもあなた大丈夫?としか思えませんよね。たんなる屁理屈ですね。
他の先生の例「絶対矛盾的自己同一論」、これ本人は理解されてたようですが言葉だけでも後の人は誰も理解できないね。
確かに高度な哲学には非日常の部分が含まれますが、たとえそれが一般人にとって荒唐無稽なことであれ、わかりやすく解説するべきですね。
「絶対矛盾的自己同一論」これね。私なりにわかりやすく説明すると、花というものはいくつかの花びらでできてますね。花びらは花びらとして独立しているが実は1つの花でしょ、という感じですね。これに時間と空間の差を導入すればおのおのの花びらは異なる時間と空間に存在するけど本当は1つの花なんです。これを人間に当てはめるとどうでしょう。という哲学なんですが、説明すれば理解はできなくてもなんとなく「非日常」ということはわかるでしょう。この程度まで説明できてないんですね。つまりわからんから屁理屈になるんですね。世にある哲学と呼ばれるものの多くは屁理屈学でしかないですが、本当の哲学は平易にして深遠なるものですね。 参考に

この回答への補足

参考になります。 ありがとうございます。

mmkyさんのご回答は、
同じ難しい言葉でも、その言葉がほんとうにそれなりにでも「意味」のあるものとなっているのか、いちど妄信に類するイメージを取り払って、見直し考え直すことで、その浅い深いが見えてくる。というふうに全体的には理解してよろしいでしょうか?

こんなことも考えました。 「意味」というものへの激しくさへある希求心がそこにあるならば、もしかしたら、そちらの例示してくださったような浅い深いもきっと見分けられ そこから整理の糸口が見つかってゆくのではないかといいう希望です。

でも、やはり、
「絶対矛盾的自己同一論」これはたとえば「絶対とは」とか「矛盾について」とか「自己」とはとそれぞれについては、 死の床をはいずった体験のある人間の必然的思索として考えてきたことの内ですが、やはり「絶対矛盾的自己同一論」となると、そちらの解説抜きにはそれを紐解く糸口さへ見つかりかねたでしょう。

ありがとうごさいます。

そちらの解説の内容であれば、なるほど「意味」がたくさん示唆されたまさに深遠な一文ということなりますね。

たとえば、自己意識という事を考えると思い浮かぶのが記憶喪失症です。 記憶が無い世界で、自分が新たにべつの記憶の世界を作り出して別人のような行動を取れるまでの期間存在していたら、短い時間内にてはただ記憶と失っていたという感覚となるでしょうが、まさに、そこにいたのは「私」つまり「自己」とは「私にとってはとても言えない存在」ということになってしまいます。 でも そのべつな花びらも、自分であるとすれば、では自分とはと考えると、記憶内の自分もその時々同一であるとは言えず、それぞれが絶対矛盾してしかも同一の私である。ということになる ということだと思うのですが、  一見これも意味無い屁理屈に思えて、これは確かに「神と私」という世界を私に想起させます。
私にとって私とは「絶対矛盾的自己同一性」を持った存在だ。しかし「神」にとっての私は、同時に「矛盾しない唯一の私」である。ということです。

私自身も難しい言い方となってしまいましたが、要はともかく宇宙を創造した方なら記憶をつなげるとかのことならいつでも簡単に出来る手の内であるに決まってるということにすぎません。

わたしが、ここに再び、mmkyさんにおたずねしたくなったのは、そちらの文面からは わたしには解からないまさに深遠な神のような存在の摂理の世界をそちらが何か、何か、ともかく何か知っておられるのではという推理が働いたからです。 

なぜ、こんなにもさらっと、明らかに屁理屈の「難しい言葉」と明らかに深遠な世界と繋がる「難しい言葉」を、平易に例示してくださったという事からの推理というか、私の受けた直感みたいなものです。

私の哲学では、五感自体が深いのです。それは低い段階では欲望に支配されますが、やがて五感が深くなると呼吸だけで深遠な幸せとつながってゆきますが、そこでは同じ欲望と結びついた五感は、自我も「利他の道徳」とかも越えて生きることが全部「思いやり」だけになるというか、ともかくそんな感じです。
でも、そうなると、すべてが不思議です。どんな神経学も生物学もそれがこの不思議を生んでいるとはとても思えません。 それもまたそれ自体だけでは「意味」たりえないという感じなのですが解かりますでしょか。

目にレンズの機能があってもそれで見えるわけではなく、なんらかの神経の動きがあって始めてその神経がそういう刺激をうけていてそれで「見える」という現象がおこっているのだとしても、 そんなことは私にとってどうでもいいこととなりますが、 なんでそんなすごい「見える」という存在がここに存在してるのか、それがあまりにも不思議だ ということなのですが。

わたしが、やっと得ることのできた「安定」は、明らかに何者かから与えられた安定です。  ですから 同時に生身である私は、もちろんその安定が絶対的なものでないことはあたりまえでも、「神」とか「仏」の「摂理」がまるでわからないままでは、わたしの哲学は このままずっと根無し草の哲学となり、知的には「思いやり」の根拠も失ってしまいます。(行為が無責任となってしまうように思えるということです。)

すみません、簡単には書けませんでした。 迷いが今にても私の中にあります。 何か解かりましたら、またご回答をいただけたらと思いました。

以上です。 ありがとうごさいました。

補足日時:2007/10/11 18:35
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この回答へのお礼

参考になります。

でも、ただの参考なんてものじゃないですね。まさに深遠です。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/11 18:52

私は哲学は人の可能性だと思っています。



人があらゆることをあるがままに生きていると言うことに、
分析学的にメスを入れる訳で、
難しい言葉を使うのは、数学の方程式や関数と同じ理屈です。
コンピュータという一言でパーソナルコンピュータを示すように、
ITにはIT用語、法律に法律用語、経済には経済用語とそれぞれ、
それに適した分かりやすい言葉で置き換えられています。

もし人の生き死にが易しく解き明かせるようなものであれば、
誰も命を賭して平和を守ったりすることもない訳で、
つまり、人間とは1+1=2のように簡単に生きている訳ではないのです。
その深みを知ることが哲学を学ぶ上での幸せだと思います。

きっと考えることは人の知恵の拠り所ですから、
自分なりの哲学を見つけていって下さい。

この回答への補足

ganesha meさんのご回答は、 文の1つ1つの裏に、何か広い世界を考えさせられ、 何度も何度も読み返しています。

◎<私は哲学は人の可能性だと思っています。>

まず、この一番最初の文から、確かに1+1=2のような簡単な考えではないことは確かですね(笑)。

(1)人科の生物は(生物以上の存在とも言えますが、‥。)他の生物とどこが一番違うのかということを分析してそこにその本質と抽出するならば、
「物事や状況、またその渦中にいる自他を見つめる能力」ということになるかと思います。  だから人科だけが、その能力によって「反省し、進歩する」ことが出来たのだし、さらに進歩し続けているのだ。 というふうにまず考えてみてください。  <「あらゆること」>を見つめる能力があったからこそ、反省の質が他の動物をはるかにしのぐものとなり、こうしてそのように赤ちゃんの状態からしてものすごい勢いで人間の頭に変化していきつつ人間は言葉も獲得してきたのだと思います。 そして、その言葉を使って人はさらに、人と人を見つめ、「では何が進歩なのか?」という本質まで追いかけつつ 反省し進んでゆけるようにもなった。 ほんとうの進歩への
価値への「可能性」というものを手にいれた。 その「可能性」こそ「哲学」という思索領域がなんであるのかを意味してる。

(2)もう1つには、このようにも考えました。

哲学とは「「人の痛みを取り去り、幸せを増幅する」」まさに「可能性」と呼びたい祈りの世界だ。 あらゆること、あらゆる科学にて、それぞれの言葉があり、研究されてきた。深く深く追及されてきた。 でもそれは科学探求、謎探求という思索であって、それぞれの学問なのであり、その思索なのであり、哲学って、それが切実に人間に必要な深い価値であるほど切実な祈りとなりハートとなって時にはその全ての化学、すべての学問を総合化してでも「可能性」をこそ求めるのが、哲学なんだ。 哲学は人間の切実な叫びなんだ。 総合化だけが「哲学」ではなくて、その叫び、苦しんでる子供をみたら何とかしたいと考える、人としての祈りが、 馬鹿だっていい なんだっていい、それが「哲学」することなんだ。

といったふうに わたしには、あなたの文の裏には どうしても人生のひろい流れのようなものを感じたのです。

「分析学的にメスを入れる」というのは、分析学というのが解からないので
不正確な解釈となってしまうのかもしれませんが
物事の「可能性」は、前文の(1)にしろ(2)のそれにしろ、分けて分けて分けまくって、それを並べて、比較して、検討して、 そこからなにが大切なのかをやっと見つけ出せるのですから、 本質とはと追えば、まず分析のメスを入れることになるだろうと思う。

でもその哲学の本質って やっぱり この人間文化の可能性を 真の平和を求めるものじゃないかと思うんです。 もっとあたりまえな にんげんとしての祈りからの思索しないではいられない心、もしかしたらその「心」のことかもしれないと思うんです。

だから、 <あるがまま、>(この言葉が解明できない謎の広がりを私の中にうんでしまっています。) この奥の深さはたしかに計り知れないけれども、それでもやっぱり、哲学だけは、それを いつかは世界中の人が理解できる道筋をもったものとなって欲しいんです。 これはたぶん 私の中で(つい9月の26日に60歳となってますが)いつしか命を化し賭した願いとなってるようなのです。

そして、その道にて、私は物事を解明してきました。

いろいろなことをそれでも解明してきたつもりです。   でも どうして解からないことも今でもあります。

宗教です。  存在自体の因果の謎(?)です。

どこまで時空を進もうが、乾いた燃えカスと火しかない何億万光年もの果て無き宇宙、 なんで ここだけが 水にこんなにも    こんなにも こんなにも 豊かに潤ってるんですか。
この青空や海のある しとしととした雨もそぼ降る 葉っぱには雪の降り積む、竹林の風の音は遠く日本の海べの潮の香りをこころに運んでくるような‥、
文化を生み出し、愛を育み、たしかに足元に在るこの大地に、
なんで、いつしか知らない間に 私たちは生きてたのでしょうか?

解からないです。 でも 1つだけすこしわかるのが、私たちは 人間はそのような「友」だということだけ。

それを大切にしなきゃということだけ  です。

解からないです。 私は根無し草です。 木の葉みたいです。 解からないです。

むずかしい哲学用語が解かれば、解かりますか?  仏陀とかキリストに少しでもちかづけますか? 

もしお時間があれば、 また回答お願いします。また、何か(その広い何かが)教えて欲しい気もちをさそわれるものとなっています。

補足日時:2007/10/10 20:38
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この回答へのお礼

いそがしい合間に 時間をもぎとるようにして書いてます。

ちょうど、母(83歳になります。)から電話がかかってきて、お礼を書く暇のないあいだに、 再びご回答をいただけたようです。

まさか、こんなに多くの方が、こんなに丁寧にご回答くださるとは想定外の予想をはるかに越える想定外(笑)でした。

たいへんなことになってますね。 そちらの再びのご回答へのお礼文等、遅くなりそうです。 でも、読むのは早いほうなので、一読はしています。

またまた、考えてからでないと即答できそうにない文面ですね。

でも わたしには、それが助かるところなんです。

すでに、再質問も再び頭に浮かんでいます。 

ありがとうございます。   もいういちど補足を書かせていただきます。

よろしくお願いいたします。

お礼日時:2007/10/11 18:49

西洋哲学については、日本語訳のできが悪いのが一番の問題点です。

別に、哲学者が、わざわざ単純な事態を複雑に描いているわけではありません。たいていの哲学者は、本質的には単純なことを言ってます。まあ、たまに自己矛盾や同義反復に気がつかないタイプもいますが…

哲学は、哲学者ごとに考え方に大きな違いがあり、ひとりひとりの問題意識に合う哲学者と合わない哲学者がいます。だから、全ての哲学が難しいと考えるのは、間違いです。たまたま、自分と問題意識を共有する哲学者に、まだめぐり合えていないというのが、哲学を難しく感じる最大の理由でしょう。

例えば、カントはこんなことを言っています。「経験とは無関係の純粋な理論というものは存在するだろうか。私は、存在すると考える。」この意見に賛同するひとは、根本的なところでカントに思考様式が近い人です。逆に、私のように「は?経験と無関係の理論?んなもの、あるわけねーだろ」と考える人は、根本的にカントとは思考様式が違うのか、すくなくとも今現在はカントの問題意識を理解できる状態にはないということです。私自身はカントを、一生、理解できないと思います。ロジックは理解できるのですが、なぜこんなことを考えるのか、目的がさっぱり理解できないのです。

たとえば私の場合、好きな哲学者は、ルソー(天才的なひらめき)、ヘーゲル(弁証法と概念の自己運動の完成者)、キルケゴール(実存主義的弁証法)、アドルノ(否定弁証法)です。

苦手な哲学者はカント(こいつ本当に人間か?宇宙人じゃねーのか?)、ハイデガー(ナチの手先)、サルトル(歪んだ自己意識)、フッサール(ああ、頭が痛い…)、日本式の構造主義(哲学書を持ち歩くことをファッションの一部にしてしまった哲学バブル野郎ども)、カール・ポッパー(ヘーゲル・マルクスについて無知な言動を繰り返した保守反動にして、弁証法家の天敵)です。

では、ヘーゲルとの相性について考えてみましょう。彼のセリフにこういうものがあります(正確な表現は忘れました)
「理性的なもの、それは現実に力をもつものであり、現実に力を持つもの、それは理性的なものである。あらゆる哲学は(偏見に)とらわれない意識と同じで、この確信から出発する。」
わかりやすく言い換えると、「理論と現実は一致する。理論と現実は一致しないなどというのは、偏見にとらわれている人だけだ」となります。
私はこの意見に大賛成です。私は話の筋を通すほうなので、よく「それは理論的には正しいかもしれないが、現実には受け入れられない」とかいう人とぶつかります。ヘーゲルは、そんな時も、私を支えてくれます。

実存主義者の中で、キルケゴールは良いがサルトルはダメだ、と私が言っている背景も説明しましょう。
キルケゴールは、大体、こういうメッセージを発している人です。「君は今、幸せ者かもしれない。でもどんな幸せ者でも、不幸者に転落してしまう可能性があるんだ。そのプロセスを、僕が今から示してあげよう」これが、キルケゴールが、ヘーゲルの正当な後継者である重要なポイントです。
逆に、サルトルの文章からは、こんな歪んだ思考法がにじみ出ているような気がします。「自分は不幸者だ。だから頭がいいんだ。どうせ、お前らのような幸福はバカには分からないだろう。」サルトルが好きな人には申し訳ないのですが、私にはサルトルの本音は、こういう点にあるようにしか思えないのです。

いずれにせよ、様々な哲学者の入門書・解説書を読んでいれば、そのうち、あなたと問題意識を共有している哲学者を見つけることが出来るだろうと思います。哲学は特に難しいものではありません。

この回答への補足

詳しく 丁寧に回答してくださり、ありがとうございます。

わたしは、肉体労働者で、つい9月の26日に60歳となった者で、それも
かなり厳しい生活状況を生きてきた者ですので、読書というものをあまり出来ないまま生きてきました。

しかし、子供の頃 重い肺炎で死の床を何度もはいずったり、その最大因であるとあるイジメにより、一時的に気が狂う経験とかもあり、それが、大自然の中の虚弱児施設にて、おおらかな先生がたや、明るい友達たち、そして、消灯時間に放送室から流れてきたクラッシック音楽等に癒され、心身すっかり立ち直れたといった 地獄と天国の二つの生と死の二つの狭間を「体験」したことで、   ちょうど分数を習う頃の事ですから数学は出来ませんが、そんな頭でも、たぶん誰よりもあらゆる体験の一つ一つを考えに考えながら生きてくることになったようなのです。


「経験とか無関係な純粋な理論というものは存在するだとうか。私は、存在すると考える。」←ここでいう「経験」とは どういう範囲の事を言ってるのでしょうか?

生活にすぐ役立つことに繋がる経験という意味合いであれば、そういう利益とかにとらわれない論理というものは存在するだろうか?とう問いとなり、
すぐに役立たない数学の論理や物理学の発見や、例えば何万億光年の光がどどいたのがあのあたらしく生まれた赤い星だとかということの科学的知識をもすべて純粋に経験外の世界ということになりますから、考えるまでも無くそういう存在は存在するいうことになります。 

五感で感じられること(あるいは体験)の全て、またその組み合わせで思索できることの全てを「経験」と呼ぶのであれば、言うところの「純粋な理論」とうのは、たしかに私にもさっぱり解かりません。 幻想だってその範囲のうち(範疇ともいうのでしょう。)だと思います。幻想的理論?にしても、どんな数学にしても、その数学による推理がどう現実と一致しようがしまいが、それも、文字という刺激の反応かもしれない「経験」の内ですから。

たとえば、
なんで、哲学は、これだけの情報化社会に、西洋医学の価値と東洋医学の価値をその違いを明確にしないまま統合されようとしている姿にたいして、マスコミにまで出かけていって「それは ほんとのホーリステックの道を遅らせますよ」とかの論議をしかけたりできないのでしょう。

どう考えても なにかが 疑問なんです。 ほんとうにシンプル・イズ・ベストというベストなシンプルさが、哲学の学問の世界に大切にされてきたのか否か。  そこをもう一度 質問してみたいのですが。

あと、弁証法というのは大學で(心理教育学部を3年で中退しています。その大學での心理学の授業にがっかりしてしまったためもあり、そのほかの理由もあったのですが、中退しました。)「テーゼとアンチ・テーゼがアウフヘーベンされて、それがまたテーゼとなり、またべつのテーゼと‥というふうにして物事や認識は発展してゆく」という風に言ってた先生がいましたので、 そのように理解してよいものだとするならば、 これって 「物事や経験したことを多面的の比較検討すること」 といったいどういう違いがあるんでしょう。 むしろ、比較検討の仕方のほんの一部にすぎないと思ってしまって それで憶えているんですが。比較検討とはべつの意味合いのものなのか、それともそこにはすぐれた比較検討の秘密のようなものが隠されてるのか、そのへんが知りたくなりました。

また「天敵」という言葉にも、わたしのようなひとりで人生(その哲学)を考えてきた者には、不思議な世界です。 物事が整理できていたら人間と人間との間にはその分対立ではなく「和」が生まれるとしか思えないのですが。そこがまた、変にというか どうしても疑問なんです。

たぶん、私は 病気で苦しみに苦しんだ(そんな言葉じゃかけないんですけどね。)体験と 今いろいろ神経が幸せでもあれることから(たとえば、心から歌を歌えます。体中から歌を捉えることが出来るといったほうが哲学的なのでしょうか。)その天国と地獄からは、  どうしても すこしでも未来は、未来の子供たちは幸せであってほしいだけなんだと思います。

なるほど、サルトルという人から見たらわたしは「バカ」なのでしょう。(皮肉っぽいですね)

 私は今の今も忙しい身です。 83歳の母と暮らしていて時間もお金もなく、月に一冊の本を買うのも大変な思いをいちいちしてしまう状態がまだまだつづくでしょう。

生きているうちに どうか 実際に未来の子供たちを助けてくれる哲学とであえますように。 

もし、よろしければ、またお時間がありましたら、 再質問等への再度のご回答をいただければ、これにすぐる喜びはありません。

補足日時:2007/10/09 19:59
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この回答へのお礼

このようなご回答があると ほんとに助かります。

うれしいです。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/10 07:34

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