ショボ短歌会

特にピカソやマティスの鉛筆描きでは、たんなる鉛筆の線から光と言うか、ぼんやりとしたオーラを感じ取ることができます。しかし、いったいなぜそのようなことが可能なのでしょうか? 単に「絵が上手」なひとからは、そういったものを感じ取ることはできません。(これはたとえば書画にも通じるのでしょうが)。

深い精神性の所作といえばそれまででしょうし、多くの芸術家はそのレベルに達するまでを一生かけて目指しているのだとは思いますが、「本物性」を獲得する精神と技術のプロセスはいかなるものでしょうか。こういうことを真剣に論じている本なども少ないように思われますが、なにかお薦めのものがありましたらご紹介ください。

(はじめ美術のカテに質問したのですが、美学の領域かと思って再度質問しています。)

A 回答 (41件中11~20件)

この質問への回答者様(bragelone様)からの、このサイト上での紹介から、ここに来ました。



去年の7月からの質問ですね(**):。

「「私は 絵と歌と踊りという表現ジャンルの世界は、本質的に感性(五感やその重複、あるいは総合化の感覚)の表現に、ウソの混じらないタッチや音声や動きの表情の可能な世界という確信を、 実は自分自身の作品の世界(公表していない)を通して感じている(直感している)者です。」」

が、この中で絵に関しては 客観的は審美眼がいかに無いかを、実はゴッホによって思いさらされてる人間でもあるのです。

これは、34歳の頃、 あるゴッホの絵の前に始めて釘付けとなってしまったことがあるのですが、 それ以前の評論とかで知った世界から想像もできないあまりにもすごい世界があることを見てしまったからです。

ということは、他の絵についても、頭で評論を通してしか私は知る能力が無いし、何か感じたにせよ、それはそのほんの1000分の1にも満たない感動の世界「かもしれない」ということになり、 これがほとんどの絵について当てはまってしまうことになってしまったということなのです。

であるにもかかわらず、自分自身の中に感じる「「上記の確信」」はかなり明確なものとして感じられます。  しかも、それは文化全体の発展にとっても重要な鍵を隠したものであるという確信にもつながっています。

私自身が 「「その中にて、」」>「本物性」を獲得する精神と技術のプロセスはいかなるものでしょうか。<という設問をもしかしたらそちら以上に強く、その客観的な理論を求めてきた人間かもしれません。

鉛筆とペンが、一番私にとっては直接心が現れる世界です。 油絵はその次にむずかしいです。水彩はさらにむずかしいです。 書画となるともはや雰囲気程度にしか心の世界を表現できる感覚がなくなります。

補足質問の(1)、>(これはたとえば書画にも通じるものでしょうが)<とありますが、何か書画にて、そのオーラとそちらが仮にでも呼んでおられる直感で「本物性」を感じる能力の確信を得たことはありますか?

私の感覚の中では、 それならそれはなおのことすばらしいのだろう(「だろう」となってしまいます。 今のところは一番解らない世界なので)ということにもなりますが、 やはりそちらも 鉛筆にその確信を感じると言うのであれば、 わたしにとってはかなり親しみやすい興味をよりいっそう持てる世界となります。

オーラというのは、結局 ほかに適当な言葉が無くて使った言葉だと思うのですが、 でももともとは、ヨガの修行の中で使われていた世界がいつしかそのビジネス化とかそのへんのごまかしとかの中で一般にも使われてしまった概念として、かなりいい加減な定義で使われている言葉かとも思います。

補足質問(2) オーラは、そちらの質問タイトル文にも出てくる言葉ですが、重要なのかどうかはまだよく解らないところ、そのへん、もし何か ご自分なりの定義があって使われておられるとしたら教えてください。

また、その直感ですが、感覚は総合的なものとは言え、やはり視覚の中での直感といったもので実際の視覚イメージ(ぼんやりした光のようなもの)をかなりともなうものですか、  それとも ( )内に今書きましたような世界は あくまでその直感を例えた しかし感覚的ななにかはともなっている、という感じのものですか?

《私は太陽や水 つまり地球の、あるいはこの大地の 大自然との出会いや触れ合いと関わり、かつその関わりで人と人との間に感じる感性も深まった時に、 人間関係の中で総合的に感じる感覚を「美」と考えているのですが、 その「美」の直感は、なんらか私たちの人生の経験と思索の仕方(それが「精神と技術のプロセス」を含むところのものというふうにも通じるところでしょうが)と関わりつつ、 人間の五感自体の浅い深いも決めているというふうにも考えているのです。》

わたしには、ピカソやマティスの「美」が見えてきません。 それはよく見る機会が少ないという原因もあるのでしょうけど、 多くの人がすごいというゴッホがすごかったことから、今のところはそれを信頼するしか他に手がないところなのです。

そちらご自身、 いうところのオーラの客観性を求めてのご質問なのでしょうが、 私自身の中の直感の世界(その確かさの感覚から それは狭いとは言いきれないものでもあるのです。)からも、その客観性を求める気持ちは同じです。

私の場合 今求めているそのへんの思索は 生物学の方向に傾いています。

脳科学の新しい可能性への まだ哲学的思索と言える段階の模索の世界です。

「快楽をつかさどる扁桃体」と「記憶をつかさどる海馬領域」と総合的人間性と関わる前頭葉」との三つの世界の交流の世界を、神経細胞の中のシナプスの中の物質流動の活発化の世界とともに追いかけてゆくことで、その答えは、かなり鮮明となる実験の発見二つながるのではないか?という仮説のための思索の段階ということです。

そちらの質問は、それが 物質の波動の世界とか音楽の理論の世界とどのように結びついているかとかにも興味があってのオーラという仮の表現なのでしょうが、そのへんは、数学の苦手な私には思索範囲を越えたものとなってしまいます。

そのへんがもしかしたら、神秘思想の科学化という私たちの次の世界の課題なのかもしれないですが、 私が上記に簡単に定義しました《「美」とは何か》とそのプロセスの課題を解決するには 科学的には、生物学とその哲学のあたりの世界に答えがあると思うのですが どうでしょうか?

大勢の私たちの文化にとって急務なのは、 このへんの客観化の問題だと思われます。  

>こういうことを真剣に論じている本なども少ないように思われますが<

これは感性教育がまだ始まったばかりと言われていることと関係があるのではないかと思っています。 おおきな観点からはです。

>なにかお薦めのものがありましたらご紹介ください。<

わたしとしては、大脳科学へ疑問を持ちながら哲学のメスをいれながら、その科学を追及してゆくのが一番の近道かなという感じがします。



この質問への回答の場合は、ことさら思うのですが、に実際にお会いし、こちらも普段は描かない絵をそちらの前で実際に描きながら、いろいろ対話を進めて生きたい気持ちとなるのですが、…。 それがかなわぬ現状にても、 もしそちらが、“私のなかの「確信」の世界である「美学」の世界”にも興味があるようでしたら   さらに突っ込んで回答してみます。

*、

でもそれにしても わたしにもその能力(その直感力)があれば、これはかなり便利なのですが。 …。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。僕はまだまだ募集しております。答えが出ないからです。ご紹介してくださった方、ありがとうございます。この場を借りて御礼申し上げます。

まことに失礼なものの言い方ですが、ずいぶんと長い文章で込み入っており、読解に時間がかかりましたが、恐らくそれは真剣さの表れなのだろう、と受け取りました。
僕が漠然と理解した範囲で補足にお答えしたいと思います。

1.の書画の件ですが、書画に限らず、本物には淡い光が見えます。僕がオーラと読んでいるものです。人間でも芸能人、アーティストあたりは光っています。全く知らない人でも、です。僕が知っている人なら意味ないです。芸術と人間のその光が同じものであるかは、わかりません。確信がなければ、こんな質問を自信を持ってできません。「気のせいじゃないの?」といわれて「気のせいでした」では、成立しませんね。

「私は・・・確信を、実は自分自身の作品の世界(公表していない)を通して感じている(直感している)者です。」ということですが、あなたのように確信を持っていらっしゃる方は少ないようですね。その確信が、お互い、ですが、妄執ではないことを祈るばかりです。だからこそ、こうやっていろいろとやって、そういう人を探しているのですが。恐らく、あなたもそうなのでしょうけどね。

2.の定義の件ですが、「芸術、もしくは人から放たれる、淡い光のようなもの」です。贋作、偽者、自分がよくわからない芸術からはそれが見えません。僕は掛軸、焼物が苦手で、いまだにそれが本物でも見えません。

ピカソやマティスの絵に何もかんじないのは、自分の感性がそこに到達していないか(勉強不足)、あるいは単に気が合わないか、ではないでしょうか。僕の場合は単に勉強不足だし、他にやらなきゃいけないことがたくさんあるので、その方面にまで手が回らない、というのが理由です。


arayata333さんのお考え、多く共感する部分はあります。「人間関係の中で総合的に感じる感覚を「美」と考えている」だとか大脳生理学の問題なんかは、その通りだと思いますよ。後者に関しては、とてつもなく証明が難しいことではありますが、遠い未来に明かされるのでしょうか。

またご自身の描いた絵に光を感じるのでいらっしゃれば、それは素晴らしいことです。そしてその光が、きちんと審美眼を持っていらっしゃる方に通じるとするならば、芸術とは何かの一端が明かされると思います。さらにarayata333さんは芸術家になるべきでしょうね。

実際にお会いするというのは、ちょっと難しいですが(笑)、この場で活発な議論を繰り返すことで、ある面は見えてくるかと思います。興味深い案ではありますが。

何か思うことがあれば、ぜひ突っ込んで回答してください。僕はそういう方をお待ちしているのですから。でも、不遜で恐縮ですが、もう少し、わかりやすく書いていただければと思う次第です。恐らく、書きたいことがたくさんありすぎて、溢れかえっているのだと思いますが。

補足日時:2008/10/24 10:53
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29です。


わたしもここに書くこと自体が久し振りなのでした。
ある場の遠さ の実感となると、やはりジャコメッティが思い浮かびます。

壊れない自我の根強さのなかに、自己を決定し対象を決定する劇場がありますが、
自我が崩壊すれば対象の客観性も崩壊します。
対象を見ること、存在をとらえようとすることが、自己の生の処在を不確かなものにするような経験が、ジャコメッティにはあります。

シュタイナーは農業の実践的哲学者でもありますから、
自然の生との同じ場を人間の個の生に見出すとき、
遠く大きなものの小さな射影を見つめたようにわたしには感じられます。

いずれも、主体自体によって認識できない主体を、劇場の外に放り出しながら、生の事実へ回収しようとする際に、
瞬時であるのに無限であるような関わりかたでしか
絶対性と主体とを結びえないという問題が見え隠れします。

哲学でよく使うタームと感じられるのでしたら、もしかするとフランクフルト学派が念頭にあるのでしょうか。
彼らの言う 遥けさ の場合は、神から切り離された存在として生きる人間が、人間の行いのすべてにおいて、
ありうべき姿の取り戻しをはかる、ないし、ありうべき姿との乖離を自覚する という警鐘的態度を表明するもののように思います。
そこに切実な社会実現への暗中模索が絡み、概して暗い思考ですが。。。

ご質問の場合、美術に限ったことですから、もしかすると
グリーンバーグそしてT.J.クラークやマイケル・フリードのモダニズム美術批評がヒントになるのだったかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
なるほど、ジャコメッティと聞いてピンと来るものがありました。またシュタイナーにそのような考えがあったとは知りませんでした。勉強になります。

哲学ターム云々…に関しては「そういえばそういう風に物事をいう人がいたな」という程度です。ですがヒントを戴いて、直感的に把握しました。

モダニズム美術批評、恥ずかしながら未見です。お粗末ですが、時間をかけて読んでみたいと思います。ご指摘ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/25 17:11

プラトン、ゲーテ、シュタイナーをおすすめしますが、


ニューエイジ的なものに染まらずにシュタイナーを通過するには、並ならぬ哲学と近代幾何学の素養が必要のようです。
しかもシュタイナーに関しては、邦訳が頼りないとの声を聞きます。

プラトンのイデアと模倣に関する論考は、他の二人の基礎部分でもあり、
いまなお先端科学でも扱いうる、新鮮なトピックでありつづけていると思います。

一筋の線描は、ほかの全一なる場にある何らかの姿の、仮象のような影にすぎない、
現実世界へのその展開の素早さを、ピカソやマティスの技術は示していると考えることができます。

自然のすべては影であり器であり現象である そのように見るとき、
線や色彩やフォルムは固定的なものではなく、
芸術家が固定すべき対象は謎めいたものになります。

それは写真であっても、写真家にそのような眼があるとき、
しかも社会派のスタイルでなく、風物に徹して撮るような場合に、
対象の殻がほどける瞬間というものを見逃さないのではないでしょうか。

いっぱんに「絵が上手」であることの要素である、見えるがままという表現は、
現前 を再現するものとなりますが、
質問者さんが、オーラという言い回しで感じておられるものは、
ある場のひとつの解釈 を見せているものだけが持つ、
ある場の遠さそのもの、また、解釈の射影幾何学的な的確さ、
かもしれません。
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この回答へのお礼

久しぶりにご回答をいただきました。ありがとうございます。
ううむ、なかなか興味深いお答えですね。

お断りしておくのは、ニューエイジ的なものの「歴史の浅さ」に胡散臭さを感じるだけですし、「我こそが絶対」的なものの言い方にいささか疑問を持つというのが、僕の感想です。もちろん神秘学の歴史は長くかなり奥が深いことを承知の上での発言ですが、僕は神秘学者になりたいとは思わないわけです。

>対象の殻がほどける瞬間というものを見逃さない

これです。なぜこのようなことが起こってしまうのか、主体と客体との間で生じるこの不可思議を、どう説明するのか、僕にとっての大きな課題です。

こう言ってどう思われるか分かりませんが、僕は対象の殻がほどけ、むき出しになるのを、かなり意志的に、そして持続的に見つめることができます。しかしそれを何かに定着させるには、恐るべき努力、精神力が「集中力」を養うのに必要とされます。写真家がそれを「スナップ」する、あ、いまだ、それ! という具合になるまでに払う努力は相当なものでしょう。加えて技術の問題もあります。画家であり、写真家であり、同時に歌手であるには、人生はあまりにも短いものですね。(そういう人はときどきいるけど、一つ以外のことは「レベルの高い趣味」の段階に留まっています)

やはりシュタイナーは大きいようですね。シュタイナーそれ自体を研究するのは、僕の手に余るものだし、シュタイナーを理解しなくとも、いずれはシュタイナー的なるものが理解できるようになるのだと思っています。「それは向学心がないのではないか」と言われますと、反論のしようがございません。

お聞きしたいのは「ある場の遠さそのもの」という言い方が哲学ではよくつかわれるようですが、実感的によく理解できないでいます。具体的にどういうことを想像、あるいは想定すればよいのでしょうか?

お礼日時:2008/02/22 18:00

No.24&25です。


《何を言っているのかわかりません》という表現が 気にかかります。ふつうは 《知らん》つまり《相手にせぬ》と言っている表現ですよ。

わたしは いぢわるのつけが回ってきたのかと思って お応えします。

けれども わたしのあとの方が うまいこと言っておられます(=ANo.26)。
(ちなみにその前半は 難解でしたと告白しておきます)。
つまりわたくしの《正のオーラ》とは 次の文章に表わされていると思いました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 【定義】本物の芸術(の「何か」)は自分一人が前進することを望まず、全てが本来の姿で調和し尊重されることを望んで創造されるのではないか。

 【説明】その本物も 永遠とか普遍とか〔生命・人格あるいは心の気高さといった〕貴さを望む人間(作者)が居て〔こそ 現われ出てくる〕。〔この人が世に送り出す作品が〕 〔われわれの生きるこの世の〕相対的に〔して〕消滅する〔無常というような〕儚さを表現〔してい〕る〔とき その〕技術(?)力を〔も〕観賞させていたり〔するものだ〕。鑑賞者が〔自分自身の〕生の営み〔の中〕に〔も〕そう感じる出会い〔を持つならば〕、〔それは 本物ゆえにこそ〕シンクロして身体中に響いたのだと思います。

 ・生きてる実感は響き合う〔こと〕、〔さらにあたかも 何処かヘと〕導き合うこと。〔しかも これは波長が合うといった種類の事態には収まらない。シンクロと言ったけれども〕同調ではなく差異との調和でしょう。
  (ANo.26よりの引用ですが わたしの解釈と責任で――おゆるしを得ておらず たいへん申し訳ないですが――補足しました。)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
わたしの解釈では この正のオーラでない場合が 負のそれになると考えます。

もう一文のみ また引用ですが 掲げておきます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 イメージはロゴスに従属するのではない。
 ロゴスはイメージから抽象され、イメージの働きを基礎にして、象徴的な思考が可能になり、その結果として哲学や科学などがうまれた。
 このイメージないしその記号としての美術の本質は変貌であって、発展ではない。
 進歩、退歩とか開化、未開とか言われるが、これはすべてのことをロゴスに翻訳して考える習慣が我々にしみついているからである。
(『木村重信著作集』〈第2巻・はじめにイメージありき〉の紹介文より。木村重信(1925~ ):民族芸術学・美術史学)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
いわば 美術相対主義です。上手・下手はないという見方です。(jojo-jojo-jojoさんは これら上手・下手を超えて 《偉大》という範疇をこしらえておられるかも知れませんが)。

直接のお応えになっていないかとも思いますが わたしの務めはこれで果たしたものと考えます。美術談議が気軽にできるようになれば いいですね、   
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この回答へのお礼

何度もご回答、ありがとうございます。
補足もしていただいて、ありがとうございます。確かにそのような要素はあると思います。深い人間の精神性に共鳴を起こす。ある精神の水位が作品の何かに同調を起こすとき、並々ならぬ感動をもたらす、ということはあるでしょうね。

負の場合はこの逆と言うことですが、ピカソの《ゲルニカ》は、上のようではないのですね。なぜでしょう。

またおっしゃるように、ポストモダンでは、上手、下手はないです。セザンヌは画力は相当下手ですが、偉大なる天才です。これは岡本太郎も認めるところで、彼の本を読んでその通り、と得心しました。彼はすごいんですけどね、いまだに低く見られているようで、かわいそう。印象派の中では、ルノワールが抜群に絵は上手です。

お礼日時:2007/10/31 02:31

すみません訂正です。

私の回答はANo【19】と23でした。
失礼しました。
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ANo.14・23です。


私なりに補足を咀嚼してみましたが感じ方は人それぞれですから自己満足で書いてみます。

・芸術のオーラの位相とは具体的にいかなるものか?

>衝動で動くものは芸術を用いない。
より素晴らしいものにする能力(意志ではない)がなくても芸術は要らない。
より醜くしようとする能力(これも意志ではない)がなくても芸術は要らない。
バイオリズムとかタイミングで揺らされ、他者に及ぼされ、時に支配されることを望む人間にとっては芸術や道徳が必要なのではないかと思います。

芸術に支配されて生きていける人は少なく、優雅な暮らしあって道楽としてや、手段として表現せざるを得なく生きる人と両極端に限られてきます。多くの人は完全でない芸術にやむを得ず同調して暮らしているだけでそれも事実。

支配されてその内に権威のオーラ(力強さとも、依存心とも)を感じるのは生き甲斐を感じたいからで、感情も言語の一端ではあるが、嫌がる口よりも身体はもっと正直な反応をするのです。権威に背くことは恥じなければという気持ちが後押しさせて余計に差異や嫌悪を感じるかもしれません。


>・本物性を獲得する精神性は、自我の消滅によってもたらされるが、より具体的に自我を消すプロセスと、「何か」を芸術の側に転写する技術はどのようなものか?

本物の芸術(の「何か」)は自分一人が前進することを望まず、全てが本来の姿で調和し尊重されることを望んで創造されるのではないかと主観で定義するのですが、その本物も永遠とか普遍とか貴さを望む人間(作者)が居て相対的に消滅する儚さを表現させる技術?力を観賞させていたり、生の営みにそう感じる鑑賞者が出会い、シンクロして身体中に響いたのだと思います。

生きてる実感は響き合う、導き合うこと。同調ではなく差異との調和でしょう。人生短し、されど芸術は長し。出されたオーラはまだ人の身体を使って生き続けているのだと思いますよ。
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この回答へのお礼

たびたびご回答ありがとうございます。
永遠の領域に属している芸術のオーラに触れ、作品と共鳴を起こすことは確かによくあります。

お礼日時:2007/10/31 02:18

お応えをいただきました。



定義にぶれがある / 正負の感受性が二元論だという点など そうは言っていないはづですが そこのところを論じる気持ちは起きませんし 出来るものでもないでしょう。ひとこと 見方は違いますとお伝えするだけです。

一点 気にかかるところがあります。
《見るものの主観に拠ると言うのは、言うまでもなく当たり前のことです》と《〈偉大な芸術家〉という一般規定》とは 両立しないと思うのです。後者は 社会歴史的に〔一定の地域・期間・文明のもとに〕 評価を一般に同じくするという共同の観念のことを言うと思います。

おそらく その上で つまりあくまで前者の評価の自由を前提として 自由な批評を繰り広げるなら おもしろいし 楽しいと考えます。
そんなところでしょうか。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
たとえばですが、

>評判が高いが そういうものかなぁというように 多少こちらが引く事態をともなうもの それが マイナスのオーラ

>負のオーラは[…]その問題点としては 気をむしろ 見るこちら側から奪ってしまうように感じる

では、何を言っているのかわかりません、ということです。《ゲルニカ》は傑作ですが(僕の意見)、あなたはそこから「そういうものかなぁ」と「引く」わけですね。それは気を奪っているからだ。かつそれは普遍的ではない。ということですか。これではどういう意味だか、正直わかりません。あるいは、僕の頭が悪いだけなのでしょう。議論するおつもりがないのは良くわかりますが、もしよければ「正のオーラとは・・・である」「負のオーラとは・・・である」という再定義を厳密に行い、具体例を提出してくだされば、こんな僕でもわかりやすくなるのですが。

あなたの気にかかるという点も、失礼ながら、何を言っているのかわかりません。「偉大な芸術家」の定義において、僕がナイーブというのでしょうか? 違っていたらすみません。

偉大な芸術家は偉大だと思います。今も昔も、どこでも。偉大な芸術家を偉大だと評価しない人々は、あるいはどこにでもいるとは思いますが、単なる好き嫌いの問題を一般論に押しはめている人が多いのだと思います。

お礼日時:2007/10/30 15:32

Q:《芸術のオーラの位相とは具体的にいかなるものか?》


A:正と負とがあると考えます。
 どなたかが述べておられたように 《生き生きとしている気持ち》が 互いに感応するのが 正のオーラです。気というくらいの意味です。
 負のそれは――表現がむつかしいですが―― 感応かどうかわからないけれど その作品にオーラがあると思わせるものです。評判が高いが そういうものかなぁというように 多少こちらが引く事態をともなうもの それが マイナスのオーラです。
 おそらく すでに回答での指摘があったように 一つには 広い意味での先入見がなせるわざでしょうし もう一つには 見るこちら側の何らかの心理状態が いづれかのかたちで 影響しているのだと推測します。
 ですから 正直に言って 負のオーラは 普遍的なものであるとは考えません。めっきが剥げても 一時期にはオーラがあったと言えばそれまでですが。
 (どうも 否定的な内容になるかも知れないのですが)。

Q:《本物性を獲得する精神性は、自我の消滅によってもたらされるが、より具体的に自我を消すプロセスと、「何か」を芸術の側に転写する技術はどのようなものか?》
A:《自我の消滅》を仮りに ブッディスムで言う《無我(非我)》だと解して まさにこのことによって《本物性を獲得する精神性》が現われるとしましょう。
 そこで 正負のオーラが出てくると考えます。正の気は 見る側にその内面からの自分の気として オーラを感じさせるものです。言いかえると はっきり言えば 広く生活芸術といったような表現行為であり そうではあっても かたちある作品の側にわざわざ転写するというような行為ではないと解しています。でも ゴッホの作品には わたしは このような正の気を感じます。

 《「何か」を芸術の側に転写する技術》についてですが わたしは わかりません。わかっていることは たしかに技術として何かを転写しているのではないかと わたしも推測することです。しかも 技術というよりは 自己の限界に打ち当たって これをのり越えたと思ったときの状態 或る種の新境地 これが 作品にも現われて来ているのではないでしょうか。
 ただし この新天地の感慨は もし自我の消滅を実現したものであったとしても おそらく それを無理に為したものというのが わたしの色眼鏡による理解です。どちらかというと あとは 外部における評判そしてその先入見が オーラを――つまり負のオーラを――帯びさせているように思えてなりません。
 負のオーラは――これでは ぼろくそになってしまって お怒りだとは思いますが こういう見解もあるのかと寛大に聞き流していただきたいのですが―― その問題点としては 気をむしろ 見るこちら側から奪ってしまうように感じるのですが いかがお考えになるでしょうか。わたしにとっては ピカソは 残念ながら そういうたぐいのものです。ゲルニカは そういう歴史情況が オーラを帯びさせる元だと思います。モナリザは 正でも負でもなく 中立の感覚としか言いようがないものです。
 
 むろん 趣味の領域という問題が いまの議論の外に あります。それについて触れたものではありません。例示として 触れているではないかと言われたなら 逆にもしこのことが 一人ひとり趣味の問題であるとはっきりすれば オーラの位相というものは これも あくまで各自の趣味の領域にあるという結論になります。

 有名女優の放つオーラも 演技の上で修羅場をくぐってきたという新境地のもたらすところと相いまって 周りや世間からの評判のなせるわざだと考えます。そういう意見もあっていいと思いました。

(そうとういぢわるですが この種の見解にどうお応えになるかで あなたのオーラ観が さらに 明確になると思われます。そうして お互いの考えを修正しあっていくのも よいと考えました)。
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この回答へのお礼

どうもご回答ありがとうございます。
あなたのおっしゃるとおり、多くの点で同意しかねる部分がありますが、僕が求めているのは、まさに多角的なものの見方です。すでに24件の回答が寄せられましたが、さまざまな意見は、たんに僕の持っていた考えに、大きく影響を及ぼしております。

芸術のオーラを正と負という二元論に分けることには同意いたしかねます。さらに、その両方のオーラの定義にぶれがあり、お答えの仕様がありませんでした。ただ、精神に与える影響に正と負のものがあるか、と言えば、当然あると思います。

また、見るものの主観に拠ると言うのは、言うまでもなく当たり前のことです。物事にはさまざまなフェーズが存在し、むしろ多角的に捉えることによって、その存在の性質が現れるわけです。その点で言えば、僕はファン・ゴッホを見るとときどき発狂しそうになるし、ピカソの絵画を見ているとたいてい気分が悪くなります。それは個人の感性であり、主観以外の何者でもない。しかし、僕はだからといってファン・ゴッホとピカソの絵画を否定しませんし、間違いなく彼らは天才の領域に属していると断言できます。それがあらかじめの情報によるのか? それはわかりません。なぜなら、絵画に対して意識を向け始めたころには、彼らは天才として扱われていたわけですし、だからこそ注意を払って鑑賞しなければなりません。そうしたあとに、オーラが見えるようになってきたのです。

また「趣味の問題」ではなく、自分の審美眼も大きくかかわってきます。たとえばルノワールは若き自分に多分に訴えかけましたが、一時、何が良いのかわからなくなりました。その後、再びある美術館でのコレクションを見たときに、ルノワールの偉大さを思い知ったのです。

芸術作品は、独裁者が「これは本物でこれは偽者」と決め付けるものではありません。多くの人々がその価値を判断し、そして歴史や時代の「ふるい」にかけらることによって残っていくものです。

ある精神の状態に達したとき、オーラが出るのではなく、偉大な芸術家は、その精神の状態に、すぐに持っていくことができると考えています。その自意識があるかないかによって、キャリアの継続に差が出てくるのではないか、と考えます。

お礼日時:2007/10/30 13:16

抽象も芸術ですから(汗)ANo.14です。



今ではモナリザの模写やさらに繊細な表現を出来る人は沢山います。けれどタヴィンチの人生や意志を他人が絵で体現しうるかというと難しいもの。

遅筆なダビンチが生涯かけて描き倒し肌身離さず守ったモナリザの絵も未完!なのに美術館の自慢だったり、絵は画家の手を離れると鑑賞者の感受性に委ねるしかなくなるものであるかも。

本物にオーラがあるとすると、絵具や完成度よりも画家の人生の厚み(長さではなく)あってこそだと思います。

「本物」と知っているのは気が知れた仲だったので情が湧くからより、美化された擦り込まれた情報があるからで、情報入力にはイメージ処理と人間には言語処理があり、情報としての文字や言語は瞬間的に言語野に入れる勤勉な門番が全体と隔離してしまいます。

言語情報というのは説明や言い訳として有効ですが、それだけで生活が出来るものでもないので、原始的な処理も相変わらず大活躍しているのが脳です。

興味のあるものを見つけると明暗に関わらず瞳孔が開いたり心拍数が上がったりすることから身体は思考や感情よりも正直です。目は口ほどにものを言うんです。

イメージは都合のいいようにフェードインしたり誇張させたりすると明るく浮きあがるように、後光が見えたりするかもしれない。

脳と写真やコンピューターの違いは視覚的な情報処理をイメージ野が簡略化してから(視覚情報も脳で1/100に脳で処理されてます)他の四感?と世界を感じさせているからですね。

道端の石ころに興味を持つ人は少ない、でも月の石に興味を抱く人や、ありもしない月の所有権をロマンチックだと自慢する人もいる。そんな感じ?ですかね。

まぁ私の人生なんてどうでもいいのですし、たかがしれてますが・……。
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この回答へのお礼

再度のご回答、ありがとうございます。
大変恐縮なのですが、あえて言わせていただければ、あなたのご回答は、すでに他の方がおっしゃっている内容とほぼ同等です。そしてよろしければNo.22の方への補足説明をご覧になった上でご回答のほどよろしくお願いします。

お礼日時:2007/10/30 12:43

芸術や音楽、スポーツ、舞踊が先にあって、それにオーラが宿るのでなく、界面に位置する人間などを通して、時空間側に気(オーラ)がほとばしり出るのです。

気を入れるとか気が入っていないという表現をしましたが、本来はそうではなく、主体は気(オーラ)と時空間側の物質等であって、お互い独立したこれら主体が、人間(生物)という界面を等して、芸術、音楽等々が露出発現するのです。そのとき気を垣間見ることができます。それは、まさに色と音階と同じように多層的(7層)で量子的で、人間のあらゆる感情を一瞬にして昇華させ純化させる場合さえあり得ます。気そのものがそういう性質を持っているからです。
気は時空間や物質の制約のない純粋な実存(物理的存在ではない)で、良いも悪いもなく、知性も感性も持っていません。高純度で制御不能な気を人間側からは作為的にはどうすることも出来ず、全く意識しなくなったときに気の側から突然体を貫いてくるのです。

この回答への補足

とここまで書いて、自分の質問部分を読み直すと、いまとなっては修正の余地が多分にあることに気づきました。補足させていただきます。

いま僕が問題としているのは、

・芸術のオーラの位相とは具体的にいかなるものか?
・本物性を獲得する精神性は、自我の消滅によってもたらされるが、より具体的に自我を消すプロセスと、「何か」を芸術の側に転写する技術はどのようなものか?

となります。なにとぞご了承ください。

補足日時:2007/10/30 05:22
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この回答へのお礼

たびたびのご回答ありがとうございます。
なるほど、もう少しわかりやすくなってきました。ただ、おっしゃっていることは同じであるように思われます。
僕はあなたの意見を、ある部分では否定しておりません。むしろ肯定しているはずです。ある仮定した空間αに属しているAが人間を通してこの世の芸術Aダッシュになる。当然ではないですか。向こうにあるものを自我を消して掴み取り、こちらの世界に転写・転移・移し変えをする。それが芸術でないのなら、いったい何が芸術でしょうか。

繰り返しますが、いまは「芸術はそこから始まるのだ」ということを言いたいのであり、芸術(ここでは絵画)に転化されたはずのオーラがどのような位相を持っているかを明らかにしたいのです。つまり、出発点ではなく、いったん着地し(芸術化される)、そこからさらにジャンプしたときの様相を知りたいのです。

お礼日時:2007/10/30 05:13

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