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江戸時代のことを調べています。
百姓と町人の身分の違いなんですけど,両者には身分に上下はなく,移動や通婚もあったと理解しています。また,農山漁村に住んでいれば「百姓」,都市部に住んでいれば「町人」住んでいるところでこの身分は把握されていたようです。ですから村にいる鍛冶屋や大工は百姓。ということになります。

そこで,この身分を把握する根拠となったものは何かということなんです。両者の身分を規定するものが何かあったのでしょうか?宗門改帳などがそうなのかなと思うのですが,どうなんでしょうか?
また身分間の移動はあったようですけど,仮に身分を把握する帳簿などがあったとすれば,それを書き換えていたのでしょうか?

A 回答 (3件)

町奉行(幕府、諸藩)に支配されていれば町人、それ以外の代官、郡奉行等に支配されていれば百姓ですね。

そのほかに渡り奉公人などは武家に雇用されていれば武士、雇われていないときは町人となります。
把握する根拠としては、それぞれ支配組織(名主や町名主)に把握されていたかどうかでしょう。宗門改帳についてはいまの戸籍のように常時更新されているわけではなく、その内容についても作成者により内容にも精粗があるので適切ではなかったかもしれません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
支配組織による把握とは目からうろこです!

お礼日時:2008/01/19 22:24

江戸時代における百姓は、身分制度で見れば「士農工商」で、士分つまり武士に次ぐ位置付けでした。


これは、封建制度下における支配の基本が、農産物にあったからです。
そして秀吉によって始められ、徳川家によって完成した検地による土地の把握と人別帳等の原始的戸籍制度により、農民は土地に縛り付けられました。
江戸時代、つまり幕藩体制下における経済の中心は年貢、つまり米作です。
その耕作人たる農民の離農は、厳しく制限されていました。
そのころの町人は、商人と言っても、主は武士階級に対する物資の供給が主で、従として、城下町等で他の商人や鍛治・職人等に対する物資の供給を担っていました。
江戸時代は、はっきりとした身分社会でした。
初期は、特に農民は生かさず殺さずの自給自足生活でした。
時代が進むにつれ、平和になり、生活も豊かになったたため、通商活動も盛んになり、商人がその財力を背景に、力を持つようになったのです。
それでも、身分の差と言うものは、厳然として存在していました。
ですので、武士の子は武士、農民の子は農民、となっています。
世襲制で、狭い地域に先祖代々暮らしていくので、変わりようもありません。
江戸時代は、今のように気軽に旅行できる環境が無く、また、その経済的余裕も無かったのです。
当時の住居は借家、特に長屋が多かったのですが、その大屋は、店子の動静を掌握する役割も持っていたのです。
ですから、今のようによそから来た人間が、保証人を立てて家を借りる、ということも難しかったのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
いろいろ調べていくと,江戸時代の百姓も意外とゆとりがある生活をしているみたいですね。「貧農」のイメージと実態は実は違うのかも知れませんね。

お礼日時:2008/01/19 22:30

No1でご指摘のように、基本は「どこに登録されていたか」によります。



政権というか、幕府というか大名というか、彼らが戦国末から江戸時代までやろうとしたのは、身分制度の確立ではなく、効率的な税金の徴収です。なので、「地方(じかた)」支配が行われるところが百姓であり、「町方(まちかた)」支配が行われるところにいるのが町人となります。百姓は土地によって税金を取られ、町人は間口により税金を取られていました。この辺は網野史学で、「村にも職人がいて、人口的にはどうみても、町じゃん」という指摘がなされています。能登の時国家研究などで、実態は船主であったり、船頭である人物が扱いは「水呑」とされているそうです。

江戸時代に、儒教を学習した学者が、中国古典を典拠に士農工商という概念を日本に当てはめ、明治時代に江戸時代には厳しい身分制度があって(悪い時代で)明治は身分制度が無くて、よい時代だ!という一種のプロパガンダで定説にやったようです。
明治の知識人も、基本は儒教の四書五経をやった連中なので、儒教理念を忘れられないのでしょうね。

身分帳としては、宗門改め帳になり、そこから外れるものを、無宿人とした。無宿人を、また有宿人(?)に戻す制度として人足寄場が作られた・・・というようなことではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
最近は江戸時代の身分制を表す言葉としての「士農工商」は実態に合っていないということが盛んに言われていますね。僕ももう少し調べてみたいと思います!

お礼日時:2008/01/19 22:27

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Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

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お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

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Q町人・百姓と武士の関係

江戸時代町人や百姓は武士を怖がっているという印象があります。
実際はどうだったのでしょうか?
町人や百姓が武士と話す時どんな感じなんでしょうか?
お願いします。

Aベストアンサー

武士と平民の身分差というのは、現代人が想像するほど大きなものではなかったようです。

武士というのは多くが兵農分離以前は「豪農」であり、江戸時代になって専業武士となって各大名の家臣になった者、農業に専念して庄屋・名主となった者は「元は同じ」です。

経済力で言えば、大名から知行・扶持を得て生活する武士より、庄屋・名主の方が高いことは珍しくなかったでしょう。これは現在の「公務員と中小企業オーナー」の関係のようなものです。公務員は一定の収入を保証されていますが、事業に成功した企業オーナーが公務員より裕福な生活をしているのはごく普通ですね。

武士と平民という身分の壁がありますので、富裕な商人や名主・庄屋であっても、歴々の武家(供を連れて歩いている武士)に行き会えば礼をして道を譲ったでしょうが、その程度のことです。

なお「斬捨御免」という制度は、「武士が気が向いたら平民を斬っても罪に問われなかった」などというものではありません。
「『正当な理由があれば』武士が平民を斬っても罪に問われない」
というものです。

「正当な理由」というのは、「ヤクザが武士に侮辱を加えた」といったケースです。この場合、武士はヤクザを斬り捨てねば、

1) ヤクザに侮辱を加えられて、ヤクザに勝つ自信がないのでそのまま立ち去ったことが発覚した場合
←武士の面目を傷つけたということで、処罰を受ける。

2) ヤクザに侮辱を加えられて、刀を抜いたがヤクザに負けてしまった
←武士の風上にも置けないということで、切腹処分。(1)のケースより重い処罰を受けます。
なお、江戸時代の平民は丸腰を強いられていたわけではなく、「脇差」と称して一本の刀を差して歩くのは原則自由でした。ヤクザはアウトローですので、「長脇差」と称して武士の刀と同じ寸法のものを差すことが黙認されていた(取り締まりきれない)状態であったようです。

となりました。ですので、剣術に自信のない侍は、ヤクザに出くわさないように気をつけて歩いたそうです。

武士が、ヤクザ者でない平民を斬った場合には厳しく事情が調べられ、
『武士に正当な理由がない』と判定された場合には厳しく罰せられました。平民を守るのが武士の役目なのですから、当たり前のことですね。

こういう質問では「平民が御家人の株を買って武士身分を得ることが出来た」という回答が必ず出て来ますが、これは「御家人の養子になることで、平民出身者が武士階級の末端に加わることが可能であった」とういうことです。
平民側が多額の持参金を出したり、借金を肩代わりすることが武家の養子になる条件となりましたので、俗に「御家人株を買う」と言ったのですが、決して「カネを幕府に払えば御家人の身分を買えた」訳ではありません。

武士と平民の身分差というのは、現代人が想像するほど大きなものではなかったようです。

武士というのは多くが兵農分離以前は「豪農」であり、江戸時代になって専業武士となって各大名の家臣になった者、農業に専念して庄屋・名主となった者は「元は同じ」です。

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Qオランダが鎖国中にも貿易ができた理由

鎖国中には清とオランダが出島に限って貿易を許されましたが(他に朝鮮通信使や琉球慶賀使などはありましたが…)オランダ船来航が禁止されなかったのはキリスト教布教に熱心ではなかったということを聞いたことがありますがこの理解で正しいでしょうか?

Aベストアンサー

キリスト教布教に熱心でなかった、なんてレベルじゃないです(^^;)。

キリスト教布教絶対絶対やりまっせん!!! 商売一筋!!!
だから我々オランダの船とだけ仲良くしてねっ♪♪♪

とゆー強烈アピールをしまくった結果です。
何しろ島原の乱の時、幕府に協力して、篭城中の日本人キリスト教徒たちに砲撃までしてますから。
(他の欧州キリスト教諸国からは「そこまでして金儲けしたいんか!?」と大顰蹙だったそうです)

当時のオランダにとって、対日本交易は結構な利益でした。
独占出来ればこんなにオイシイ話はないので、表から裏からアレコレと頑張っていたようです。
(以前NHKで見た歴史番組によれば、そもそも、ポルトガルとスペインは布教目的で来日するから追い出したほうがいい、と進言したのもオランダだった、という話です)

幕府としては、キリスト教に関係の無い国となら貿易しても構わなかったのですが、それぞれいろんな事情があって、「皆そろって長崎で交易」というわけではありませんでした。
逆に言えば、長崎を通して交易していなかったからと言って、日本と交流が全く無かったわけではない、ということです。
以下、知っている限りで並べておきます。

●朝鮮王国●琉球王国●アイヌ諸族●
>>>>>それぞれ対馬藩、薩摩藩、松前藩が専門に担当。
これらの藩は、江戸時代以前からの交易相手であり、財政も交易の上りで成り立っていました。
他藩に横入りされると死活問題なので、江戸幕府成立前後は硬軟様々な手段を講じ、「対XX交易のエキスパート」という地位を獲得しました。

これら3つについては、幕府直轄の長崎を通していなかった、というだけで、日本全体で見た場合は“交易があった”と言えます。
(通信使や慶賀使は国家同士の公式の使節のやりとり。
 商売はまた別に、各藩の港でやってます)

●明→清帝国●
正式の国交は無し。民間の貿易商のみ往来。

●東南アジア諸国●
実は江戸前期には数回来た記録が残っています。
しかし、遠い上に、対日交易を独占したいオランダが妨害工作することもあって、いつの間にか来なくなってしまいました。

東南アジア諸国の物産はオランダや清の民間商人が持ってきてくれるので、日本人は別に困ることもなく放っておいたと思われます。

キリスト教布教に熱心でなかった、なんてレベルじゃないです(^^;)。

キリスト教布教絶対絶対やりまっせん!!! 商売一筋!!!
だから我々オランダの船とだけ仲良くしてねっ♪♪♪

とゆー強烈アピールをしまくった結果です。
何しろ島原の乱の時、幕府に協力して、篭城中の日本人キリスト教徒たちに砲撃までしてますから。
(他の欧州キリスト教諸国からは「そこまでして金儲けしたいんか!?」と大顰蹙だったそうです)

当時のオランダにとって、対日本交易は結構な利益でした。
独占出来ればこん...続きを読む

Q★「封建制度」を簡単に説明してください!

★「封建制度」を簡単に説明してください!

世界史の時間によく「封建制度」なる言葉が出てきます。

いろいろと調べてみたのですが、いまいちよくわかりません。

理解力を深めたいので、封建制度を簡単に説明できる方よろしくお願いします!

Aベストアンサー

封建制度とは「封」(封土=土地)を与えて家来を「建てる」と言って、つまりは
「土地をなかだちとしてむすばれた主従関係(しゅじゅうかんけい)にもとづく社会のしくみ。」
のことを言います。
御恩と奉公ですね。
もちろん日本・中国(周)・中世欧で指す封建制度とはそれぞれ少し意味が異なったりしますが、基本的には上記の意味です。

ちなみに対義する言葉は絶対王政や絶対君主制です。

Q江戸幕府はなぜ町人から税金を取らなかったのですか?

素人の質問なんですけど、江戸幕府はなぜ町人から税金を取らなかったのですか?既に貨幣経済が発達していたのだから、農民に年貢米を納めさせるだけでは、いずれ財政が破綻するのは分かりそうなものなのに、当時の人達は疑問を感じなかったのですか?

Aベストアンサー

なぜ取らなかったか、と言うよりも上手く徴税する方法が分からなかった、とお考えになられたほうがよろしいでしょう。
要は町人の所得を正確に把握する手法が見当たらなかったということです
農民に対しては土地というものを基準にできますが、土地に頼らずに所得を得ている町人の租税の負担能力を測る手段がなかった、とお考えになられても差し支えありません。
とは言え全く町人から税を徴収していなかった訳ではありません。
現在の固定資産税のような性格の公役銀とか定期的に一定額を納める運上金、不定期に納める冥加金などという税を取り立てていました。
この冥加金の中には、営業免許税とでも呼ばれるようなものもありました。酒税に相当するようなものもありました。
参考
冥加 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/冥加

江戸や京、大阪などの都市部では町政は町役人という自治組織に一括して委託していました。
この町政に必要な費用は町人が負担していました。
町人とすれば納める先が違うだけで実質的には納税しているのと同じことでした。
この町役人制度というのは大なり小なり大名領の城下町にもありました。

「既に貨幣経済が発達していた」とされておられますが、貨幣経済が行き渡っていたのは、江戸や京、大阪などの都市部だけでした。
物の売買の手段として、貨幣は全国的に使用されてはいましたが、全国的な規模では、貨幣経済と呼べるほどには発達してはいませんでした。
江戸時代を議論する場合には江戸の街や京、大阪の都市部の情報だけでは議論できませんので注意して下さい。
江戸の街というのは全国から見た場合は極めて異質な街でした。
経済史の観点から採用されている史料は、この全国的には異質な都市部の経済活動についての史料ですので注意して下さい。

幕府が財政破綻を来したのは、農民からの年貢による税収が不足したという単純な話ではありません。
幕府の財政を支えていたのは、金山や銀山などの採掘権をほぼ独占していたことによってもたらされていた金銀でした。
江戸時代中期以降はこの金銀の備蓄が枯渇してしまいました。
一方経済学的な見地からすれば、米という現物を徴収してこれを貨幣に変えて初めて幕府の運営費に使うというシステムが財政破綻の大きな原因です。
このシステムの最大の欠陥は、交換作業を全て町人に任せた上に、米価のコントロールを一切せずに市場経済という町人の経済活動に丸投げしていた点です。
札差と呼ばれる、米を現金化する作業を請け負っていた町人の手元に巨額の金が蓄積される一方で幕府が困窮して行った姿に現れています。
町民からの税収が少なかったためというよりは、農民からの年貢を米という現物ではなく貨幣による金納に変換しなかったことが結果として財政破綻を招いたと考えられてもよろしいでしょう。

租税の納入を米という現物から金納に変換するということは、明治政府がやりましたが、貨幣経済が未発達であった農村が忽ち疲弊してしまいました。
この史実からもお分かりの通り全国の大半を占めていた農村部では貨幣経済は普及していませんでした。
貧農史観というのは明治時代の状況を江戸時代にまで延長したことによって生まれた誤解です。
江戸時代の農村というのは貨幣の蓄積は少なかったものの極めて豊かでした。
豊かでなければ郷土芸能が発達したり伝承されるような余裕は生まれてきません。

>当時の人達は疑問を感じなかったのですか?
この徴税システムの欠陥にいち早く気が付いたのが田沼意次でした。
如何せん近代経済学というものがありませんでしたので、理論的に政策を推進することができませんでした。
急激に貨幣経済化を進めようとして失敗してしまいました。
不幸にも天候にも災いされました。
江戸時代の○○改革と呼ばれるものは改革でも何でもありませんでした。
ひたすら貨幣経済を否定して農本主義に戻ろうとしただけのことです。
当然悉く失敗しています。
むしろ改悪としたほうが当たっているでしょう。

蛇足
農耕文化から生み出された儒教精神にかぶれた人達が今でも○○改革と持て囃していますが、時代錯誤です。

なぜ取らなかったか、と言うよりも上手く徴税する方法が分からなかった、とお考えになられたほうがよろしいでしょう。
要は町人の所得を正確に把握する手法が見当たらなかったということです
農民に対しては土地というものを基準にできますが、土地に頼らずに所得を得ている町人の租税の負担能力を測る手段がなかった、とお考えになられても差し支えありません。
とは言え全く町人から税を徴収していなかった訳ではありません。
現在の固定資産税のような性格の公役銀とか定期的に一定額を納める運上金、不定期に...続きを読む

Q藩主と大名は同じ人物か?

江戸時代1万石以上の領地(藩)を与えられた武士を大名と言い,その領地と政治組織を藩といいます。となるといわゆる藩主というのは大名と同一人物になるのでしょうか?1つの藩に藩主は1人でしょうが,大名と藩主が同一人物でないとすれば,藩に大名は複数いたのでしょうか?

Aベストアンサー

江戸時代の藩は300とも500とも言われますが、幅がおおきのは藩、大名の規定が複雑だった事を物語っています。大名という言葉は鎌倉時代からあり、徳川幕府が一万石以上を大名と定めた事から、大名とは一万石以上の領主となりますが、例外もたくさんあったようです。先ず大大名の家来には一万石以上の者がいるわけですが徳川幕府が認めなければ家来の家来(陪臣)は大名扱いを受けていません。

大名として認知されていない領主も藩を治めていれば藩主なので、大名と藩主がイクオールでないケースも出てきます。米の取れなかった松前藩は禄高ゼロでも北海道特産物を瀑布に物納して一万石の大名扱いを受けていたそうです。

参考URL:http://www.nifty.ne.jp/forum/fsiro/hp/fsiro_db/han/01-01.htm

Q国会と内閣の違いを簡単に教えてください!!

国会・内閣・裁判所って三権分立であるじゃないですか?それで、裁判所と国会は建物もあるし、なんとなくは分かるんですけど、内閣って一体なんなんですか??内閣には国会議事堂や裁判所のような建物とかって無いですよね??(間違ってたら指摘お願いします!)
じゃあ内閣って一体どこにあるんですか?内閣で一番偉い人は首相。つまり今は小泉総理ですよね?じゃあ国会で一番えらい人って誰なんですか?今の僕の意識では国会の中に内閣がある。っていう感じなんですけど、コレって間違ってますか??教えてください!

Aベストアンサー

 簡単にいいますと、国会は法律を作り、内閣は実務(実際の行政)を担当し、裁判所は法の執行を行う
これが三権分立ですね。
どこが違うか?って全然仕事が違います。

 しかし、内閣は「こういう法律を作ってください」と言うことはできます。
法律案のほとんどは内閣提出です。
でも、それを認めるかどうかを決めるのは国会です。
今年度の予算をどういうふうに使うかを決めるのは、実際に仕事をする内閣ですが
国会はそれを事前にチェックしたり(予算審議)、
実際の使い方をチェックし、ミスを指摘する(こちらは決算)ことができます。
このように、お互い独立して仕事をしていますが
自分の担当だからといって自分勝手な行動をとらないようにチェックしあっているのです。
ですから、どこが偉いということはありません。
3つとも同じ地位にあります。
総理大臣は必ず国会議員ですから
「国会の中に内閣がある」というような気もしますが
そうすると、国会議員の中でも偉い人が総理大臣、
つまり国会より内閣の方が偉い!ということになってしまいますから
その認識は正確ではありませんね。

 内閣はどこにあるか?ですが
内閣には総理大臣のもとにたくさんの省庁がありますね。
外務省とか財務省とか、防衛庁もそうです。
その建物の一つ一つが内閣をつくっています。
仕事が膨大で職員の規模も大きいので、
まとめてどこかに置くというわけにはいかないのです。
内閣のまとめ役の総理大臣の城である首相官邸が一番小さかったりします。
紛らわしいですが、内閣府は内閣の一つの機関にすぎませんのでお間違えなく。

 最後に、国会で一番偉い人ですが
やはり衆議院、参議院の議長でしょうね。
議長は野党でも与党でもなく、中立の立場にいます。
議長、副議長になると、党を離れて無所属になるんですよ。
ですから、与党からも野党からも敬われる存在です。
とはいえ、話し合いを重んじるのが議会ですから
偉いからといって何でもできるわけではないですけど。

 簡単にいいますと、国会は法律を作り、内閣は実務(実際の行政)を担当し、裁判所は法の執行を行う
これが三権分立ですね。
どこが違うか?って全然仕事が違います。

 しかし、内閣は「こういう法律を作ってください」と言うことはできます。
法律案のほとんどは内閣提出です。
でも、それを認めるかどうかを決めるのは国会です。
今年度の予算をどういうふうに使うかを決めるのは、実際に仕事をする内閣ですが
国会はそれを事前にチェックしたり(予算審議)、
実際の使い方をチェックし、ミスを指...続きを読む

Q江戸時代の身分制度について。

こんにちは(*゜ー゜*)

江戸時代に出来た身分制度
「士・農・工・商・えた・ひにん」
の「えた・ひにん」の意味と区別がわかりません。というか、学校で習った記憶があるのですがすっかり忘れてしまいました。教えて下さい。

また、今は小中学校では教えてないという文章を見たことがあるんですが本当なんでしょうか。

Aベストアンサー

非常にやっかいな質問ですが
歴史的事実として回答します。

江戸時代社会の士農工商・えた・ひにんといった
上下の身分的仕組みとして政策的に作り出されました。

「えた」はある業種の手工業者で
「ひにん」は遊芸人や職業を持たない人々でした。

「ひにん」については一種のアウトローですので特に説明する必要もありませんが(社会的・政治的にどこにも属していない人たち)「えた」について簡単に説明します。

中世の賤民は農業から離れた仕事をしているものほど賤視され手工業者や商人の多くも賤民視されていましたので「えた」「ひにん」だけに限られなかったものが、江戸時代の身分秩序の成立のなかで最末端に置かれてしまい時をたつにつれ差別が相当ひどいものになり、この業種以外の仕事に就けないとか住居も町はずれにあり動けないといったことになりました。

半農半工の「えた」は村(農業共同体)の生活からだんだんはじき出され(例えば村祭りからの疎外や用水の権利など)社会外の社会を作らされました。

政治的なねらいとしては人口の80%以上を占める農民から支配階級の武家が年貢や労働力を確保するためや、これに対する不平不満(一揆や越訴)を押されるために分裂支配する必要があったわけです。そして最底辺に置かれた「えた」「ひにん」といった人々を権力機構の末端の仕事(牢番・処刑・城内の掃除)をさせ身分秩序を支える役目を担わされました。

江戸時代も中期にはいると武家の生活水準も高くなり農村に対する態度も変わり商業経済もすすみ農村も変貌を止め町人が台頭し経済的には武士の上に立つようなり農民を押さえるようになって来ました。
このことは幕府や藩にとって社会基盤の危機にほかなりませんから身分制度を厳しくする必要がでてきました。特に8代将軍吉宗のころから身分規制を非常に厳しく行っています。逆に考えますと取り締まりの対象となるような反動が盛んになったと考えられます。
(例えば社会での差別が厳しくそれに対し立ち上がったとか・・)

この身分制度も明治4年8月の解放令まで続くことになります。

最後に「ある職業」と書きましたが
差別に繋がる恐れがありますので
ここには記載できません。ご了承下さい。

非常にやっかいな質問ですが
歴史的事実として回答します。

江戸時代社会の士農工商・えた・ひにんといった
上下の身分的仕組みとして政策的に作り出されました。

「えた」はある業種の手工業者で
「ひにん」は遊芸人や職業を持たない人々でした。

「ひにん」については一種のアウトローですので特に説明する必要もありませんが(社会的・政治的にどこにも属していない人たち)「えた」について簡単に説明します。

中世の賤民は農業から離れた仕事をしているものほど賤視され手工業者や商人の多く...続きを読む

Q江戸時代はなぜキリスト教はNGだったの?

日本は仏教が中心ですが、キリスト教信者もいます。キリスト教に篤い学校・老人施設・病院などもあります。
しかし、江戸時代はキリスト教は禁止されていました。キリスト教を信仰すると罰を受け、踏み絵などキリスト教信者を見つけては処罰という制度もありました。天草四郎を中心とした島原の乱も起きるなどしながらもキリスト教は禁止されましたが、隠れキリシタンも多数存在していました。
で、いったいなぜ江戸時代はキリスト教が禁止されていたのでしょうか???

Aベストアンサー

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観とは相容れなかった。欧州では支配者と創造主は同一であるという「神権政治」、そこから発展した、王の地位は創造主より授けられたものという「王権神授」という伝統的倫理観が土壌にあります。そのような倫理観がない世界(日本)に創造主の絶対性を重んじる思想は、主君・領主への忠誠より、創造主への忠誠を優先させます。このことが天下統一のさわりになると、豊臣秀吉は天正15年(1587)に禁教令を発します。

 さらには外交政策の面。徳川家康は和平外交を進めるため、当初は信仰を黙認していましたが、慶長5年、オランダ船リーフデ号漂着により、プロテスタントであるオランダ・イギリスと交渉開始。日本市場の拡大を図るため、ポルトガル・スペインの締め出しを計画。そこでカトリックへの不利な情報と中傷を行いました。つまりカトリック国の侵略的意図。信徒を利用した反乱計画などをは、当時の幕府としては「天下統一のさわりになると」いう危惧をより拡大させました。禁制により教会の破壊・宣教師の国外追放。信徒の東北・蝦夷地への放逐などが行われました。
 徳川家光はさらに厳しく禁制を行いますが、寛永14年(1637)の島原の乱による衝撃から、鎖国政策の徹底とキリシタン弾圧はより強固となります。
 カトリックの海外布教は、プロテスタントに対する対抗措置という面がありました。その点、海外布教を重視していないプロテスタント国とは幕府は貿易を行えたのでしょう。

参考
『国史大事典』(吉川弘文館)

 ただし、禁制も太平の世が長く続くことで形骸化していき、当初はキリシタン監視の意味でもうけられた寺請制度も、寺院側からすれば「檀家としての勤めを果たしていれば、裏でキリスト教を信仰していても黙認する」という事実もありました。領主も「良き領民としての勤め」を果たす限りは信仰も黙認状態でもありました。キリシタンであると暴露しても、領主の監督不行届と罰せられる危険性があったからです。
 現在でも「カクレキリシタン」の家では、寺院の檀家であり、神社の氏子であり、家には仏壇・神棚が祀られて、同時にカクレキリシタンである。その信仰体系は仏教・神道・民間信仰とキリスト教が混在した、いわゆるカトリック・プロテスタントとは異なる信仰形態ですが、キリスト教公認以後も、カトリック・プロテスタントに改宗せず、先祖が守ってきた信仰として「カクレキリシタン」として守り続ける家があります。

資料
『オラショ―魂の通奏低音 カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・長崎新聞社)
http://www.nagasaki-np.co.jp/jigyoubu/book/kakure_book.html

『カクレキリシタンの信仰世界』(宮崎賢太郎・東京大学出版会)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130104020/250-7207972-6663457

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観...続きを読む

Q江戸時代の町と村の違いは?

非常に基本的な質問なのですが・・・
江戸時代の行政組織として全国に「村」がありました。そして江戸や大坂などには「町」という組織がありました。
両者には明確な定義、あるいは違いがあったのでしょうか?
ご存知の方、教えてください。

Aベストアンサー

原則として町というのは町奉行の支配地域であり、村は郡奉行や代官が支配する地域です。
ですから、規模の大小は問わず領主が町と認めれば町であり、実質的には町でも郡奉行・代官支配地ならば村でした。
町と村の違いは村であれば年貢を納める義務がありましたが、町ならば免除されました。


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