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歴史に詳しい方、
最近何かと話題の五公五民ですが、今の時代と、過去の時代でどっちが税の取り立てが厳しかった?
奈良~平安にかけての租庸調、平安中期以降の荘園による税の取り立て、戦国時代の織田信長量に対する年貢、江戸時代の年貢。
厳しい順に挙げてください。
理由も併せてお答えください。

A 回答 (2件)

江戸時代末期の年貢の量は年間総生産量(つまり農家の総収入)の1割程度です。

5割も取られたのでは食えるわけがない。
五公五民とは「高(たか)の5割が年貢」ということです。高と年間総収入を混同してはダメだよ。
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五公五民とは、江戸時代の年貢率の一つで、全収穫量の5割を領主が年貢として取り、5割を農民が取得する場合をいうものです¹。

これは江戸初期には四公六民というより厳しい割合であったが、享保年間(1716〜36)以後に五公五民に改められたものです¹。

租庸調とは、律令制下で定められた税制で、租は土地を対象にして賦課するもので、庸は民の労動力を直接使役することで、調は戸を対象に生産物を貢納させるものであるものです²。租庸調は平安中期に荘園制の発展によって崩壊しました³。

荘園とは、平安時代以降に成立した私有地で、朝廷や貴族・寺社などが領主となり、地頭や荘官などを通じて年貢や雑役などを徴収するものです³。荘園では租庸調に代わって田率賦課や臨時雑役などが課されました³。

織田信長は戦国時代に活躍した武将で、天下統一を目指していました。信長は農民からの年貢を一律に3割と定めて、残りの7割を農民に与えることで農業生産を増やそうとしました。

以上のことから、税の取り立てが厳しかった順に挙げると、以下のようになると思います。

- **租庸調**:土地・労働力・生産物のすべてを対象にした重税であった。
- **荘園**:田率賦課や臨時雑役などが不定期にかかり、農民の負担は増えた。
- **五公五民**:収穫量の半分を年貢として納めることはかなり厳しい割合であった。
- **織田信長**:収穫量の3割だけを年貢として納めることは他よりも緩やかな割合であった。

以上が私の回答です。ご参考になれば幸いです。

ソース: Bing との会話 2023/8/6
(1) 五公五民(ごこうごみん)とは? 意味や使い方 - コトバンク. https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E5%85%AC%E4%B …
(2) 租庸調 - Wikipedia. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%9F%E5%BA%B8 …
(3) 年貢(ねんぐ)とは? 意味や使い方 - コトバンク. https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B4%E8%B2%A2-1116 …
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