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江戸時代に幕藩制国家はなぜ解体してしまったんでしょうか?
世直し、倒幕派や攘夷派と何か関係があるのでしょうか?
わかるかた、教えてくださいお願いします。

A 回答 (3件)

簡単に言うと「時代に合わなくなったから」です。



さらに簡単に言うと
「日本という国家を一つにまとめないと、列強に対抗できないから」
です。

幕藩制度というのは、プロイセンがドイツ第二帝国を建設する前、更にその前のプロイセンがドイツの覇者になる前の「ドイツ」と似たようなものです。プロイセンが中心になって、日本の「藩」に相当するような様々な「領邦国家」を一つにまとめたからイギリスやフランスに対抗できる「ドイツ」が生まれて、紆余曲折はありましたが現在に至っています。イタリア王国の成立も、プロイセンをサルジニアに置き換えれば似たようなものです。

伊藤博文など明治政府の要人がプロイセン=ドイツ帝国を模範にしたのも「いかにして幕藩制国家だった日本を一つの国家にまとめることができるか」を探りたかったからではないでしょうか。

なお、ドイツ帝国は平和裏に「領邦制国家」(幕藩制国家に類似)を統一国家に移行させましたので、第一次大戦の後までもドイツという国は公式には「プロイセン国」や「バイエルン国」の集合という扱いでした。その流れが現在の「ドイツ連邦共和国」にも受け継がれており、例えばフランスと比べるとずっと中央集権度が弱い国家となっています。これはアメリカ、カナダ、オーストラリアなどの政治体制とも類似します。

日本人には中々実感を持って理解できない「連邦」というしくみが「幕藩体制を思いっきり近代化したもの」と考えてください。
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簡単に言えば、今は金で買えない物は無い。

なんて言えますが、
江戸時代に支配層がそんなことは簡単に出来ない。
武士は給与が上がると強制的に支出が増やされたのですし。

支配層の行動範囲が極力締め付けられていたので下々の者の自由さがあったのかもしれませんね。
言われているように行動の自由度が低かったので近視眼にさせられていたのかもしれません。
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日本人が出現したからではないかな。


それ以前は、長州人、薩摩人、江戸者といった感覚で、日本人という存在は無かったのですけど、黒船の襲来により、老中阿部正弘が各大名に意見を求めると、全国の武士たちが政治に目覚め、「日本」という国を考えるようになりました。
ご存じの通り、幕藩体制では、譜代の中小大名が政治を行い、100万石の前田家も、御三家筆頭の尾張徳川家も、政策決定には全く参加せず、視点が近視眼的だった訳です。
それが日本という国の存在に向くと、世界の中で日本はどうあるべきかと考えるようになり、時代の閉塞感を打ち破るために、新しい中心、京都の朝廷を中心に革命を起こそうとなったわけです。
もちろん前提条件として、幕藩体制の矛盾があり、武士は困窮し、特に寒冷期に入ったため、佐幕派の多い東北諸藩は力を落とし、反幕派の西日本は豊かな時代となり、いち早く商業資本と手を組んだ薩摩などが力を付けてきたということもあります。
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