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都道府県庁に問い合わせると 兵籍簿に 名前がなかったのですが、

これは祖父の身分としては どういうものだったのでしょうか。

祖父は満40歳で B-29の焼夷弾で亡くなりました(国内で)。

A 回答 (4件)

 御質問を拝見すると「空襲で亡くなったので、軍関係の死亡である。

当時は全員が徴兵により兵役に就いていた」というような確信をお持ちのようでしたので、そりゃ誤解です、という趣旨の回答でした。
 御商売をしておられたなら、なお当然のこと、疎開はし難かったでしょう。それをすると言うことは、商売を投げ棄てることになってしまいますから。

さて、
>まず、国民兵役なら兵籍に記載されますか?
 というより、ほぼ男子全員の分はあったはずです(丁種不合格者の場合が浅学のため不明ですが・・・)。

兵役法施工令によれば
「陸軍ノ帰休兵、予備兵、第一補充兵及第一国民兵並ニ第二補充兵(海軍ニ召集セラレタル者ヲ除ク)及徴兵終決処分ヲ経タル第二国民兵(海軍ニ召集セラレタル者ヲ除ク)ハ之ヲ本籍所在ノ聯隊区又ハ兵事区ノ兵籍ニ編入シ当該聯隊区司令官又ハ陸軍兵事部長ノ管轄ニ属セシム」
とありますから、国民兵役者のものもあるはずです。
 これに徴兵検査の結果や、服役していればその時の経歴、兵科、技能などが記録されています。

>兵籍は、完璧なものなのでしょうか? とくに終戦間際において。
 末期の昇進などが完全に記載されていない、というケースはあるようです。また、空襲・敗戦時の処分によってこの手の書類が焼失している、というケースも有り得るかもしれません。

都道府県に照会し、該当無しとされたのならば
1)本籍地と居住都道府県が違う
 これはままあることです。特に都会の人間は田舎の本籍地で徴兵検査を受けるようにする風習がありました(比較として、肉体労働の多かった田舎の青年より、より貧相に見えるので、ランクが下がることが期待出来る)。本籍だけ御祖父様の先代・先々代の出身地のままである可能性はあります。
2)原簿が喪失している
 これは回答子の知識不足で、そもそう言うことが有り得るのかも含め不明です。その場合の確認方法も分かりません。
3)海軍に服役していた
 この場合、厚労省に資料が引き継がれています。

という可能性が考え付きました。

また、元の御質問に立ちかえるなら、
警防団か、時期によっては国民義勇隊の隊員であった可能性もあります。
 前者は警察署長の指揮下にあり、防空の補助(消防・避難誘導・救護)などにあたるものです。今で言う消防団のちと物騒な奴のようです。
 後者は20年3月に編成された組織です。勇ましい名称とは裏原に、消火活動や食糧増産、疎開作業などの工事に従事しました。前身は青年団や翼賛壮年団、婦人会なんかですから、かなり間口の広い組織であったことが想像出来ます。
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この回答へのお礼

お詳しいですね。様子が分かってきたように思います。

< 警防団か、時期によっては国民義勇隊の隊員であった可能性もあります >

これの団員・隊員であるのかは、兵籍簿に相当する何という資料を見ればよいでしょうか? 引き継いだ管轄は都道府県でしょうか?

お礼日時:2008/01/30 22:34

再三取り止めのない回答で申し訳ありません。



>これの団員・隊員であるのかは、兵籍簿に相当する何という資料を見
>ればよいでしょうか? 引き継いだ管轄は都道府県でしょうか?
(改行位置変更は引用者)
はその資料があるのかさえ、知識不足のため分かりかねます。これらの業務中に死亡した場合、準軍属ということで、恩給の対象になりますが、これを受けていらっしゃらないようですね。

 後者は当時の県知事が県レベルでの連合体のトップに立っていました。参院の議事録で散見する限り、軍の指揮下に入っていないことは確実なようです。
#広島原爆の際に、軍の「要請」で近隣の義勇隊が救援を行って2次被爆しています。「命令」でなかったのは、命令を行う為の法整備が無かったからである、という趣旨でした。
 とすれば、資料を持っている可能性があるのは都道府県ということになります。ただし、都道府県のウエブページをざっと見た限り、兵籍簿の照会には応じているモノの、準軍属関連の履歴をどう証明するのかはよく分かりませんでした。

 なので、この辺をつきつめるためには、都道府県に照会することが近道だと思います。あるいは、慰霊碑の文面を検討する必要もあるかも知れません(特に、陸軍大将が空襲で死亡した、という例はちょっと思いつかないので・・・)。

 また、当時、一般市民であっても軍服のような「国民服」(http://www2f.biglobe.ne.jp/~DEVO/shouwa/sho_09.htm)を着ているのが普通でした。ですので軍服を着ていた、というのが記憶違いである可能性もあります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
兵庫県庁に聞きましたが、鼻で「ふっ、さあどうでしょう」

との答えでした。

まじめな職員が大半でしょうが。

京都府に聞くと、丁寧に調べてくれ、応対も良かったです。

お礼日時:2008/02/02 22:18

 別段、40歳の男性が都市部に生活していてもおかしいことはありません。

イメージとは異なるかも知れませんが、戦時中であっても、市井には男性がいたんです。

 そもそも日本は産業構造が脆弱で、軍に対する人員の動員率はWW2の主要国では最低クラス。
#特に都市とは関係ないが、農業に人を貼り付ける必要があった。
 終戦時-本土決戦を念頭に所謂根刮ぎ動員をかけた時-でさえ20%、44年には10%位です。
 独ソなんかは30%を越えていますから・・・。
また、御祖父様の場合は関係が薄いかも知れませんが、軍需生産などに従事する者などは、徴集しないような決まりもありました。

 当時40と言うことは、兵役検査を受けた当時はまだ抽選で兵役に就く者を選抜していたはずです。
 ここで抽選から外れていれば、国民兵役ですし、仮に現役兵として入営していたとしても、やはり年齢の関係から国民兵役に入っていると思われます。
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この回答へのお礼

質問内容に限って回答にもう少し解説をいただけますか?お願いします。

まず、国民兵役なら兵籍に記載されますか?

徴兵検査を受けたなら、その記録は、何に残りますか?

兵籍は、完璧なものなのでしょうか? とくに終戦間際において。

お礼日時:2008/01/29 21:13

>これは祖父の身分としては どういうものだったのでしょうか。



旧軍人軍属でない、一般市民という事ですね。
兵籍簿(軍隊履歴書)には、応召から除隊までの事細かな履歴が書き込まれています。

>祖父は満40歳で B-29の焼夷弾で亡くなりました(国内で)。

日本爆撃の場合は、木造建造物が多かったので焼夷弾を無差別で投下しています。
質問内容だけの情報では、一般市民として空襲で死亡した事になります。

この回答への補足

徴兵検査はおそらく受けたと思われます(勝手推測)。
終戦末期には、兵隊の年齢上限は45歳であったとの証言を得ています。体力的にも申し分なく、更に若い頃は乗馬もしていたそうで、燃料問屋を先代から引継ぎ商っており、酒造会社に卸していたようです。

兵役でないなら身勝手な判断で疎開できたような気もしますが、自身は都市部に残り、家族だけ3月に疎開させ、8月の空襲で防空壕に住民を案内していて亡くなりました。

敗戦が濃い中においては召集に狩り出されず、一般市民であり続け、もし徴兵拒否者であれば当時の空気から住民側にも非難されていたでしょうが、周囲の住民と おおやけに暮らしていたことを考察すると、当時の制度的背景で国内にいたのだろうと合理的に推測できます。果たして、男子として、一般市民というのは 可能であったのか かなり疑問なのです。何に資料を求めてよいのか分かりません。

家族を疎開させた近隣の戦没者慰霊碑には、陸軍大将○○○○の文字とともに私の祖父の名前が刻まれています(その他 数百のお名前とともに)

補足日時:2008/01/28 23:54
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