以前、エスニック、アジア系の雑貨を扱うお店で、顔を両手で覆った小さな仏像?を購入しました。
とても小さな物だし、ユニークに見えたので、宗教性を考えず(感じず)に思わず購入しました。
先日、別の輸入雑貨を扱うお店で、同じように顔を両手で覆った仏像を見つけました。
そのお店の解説では「チベット仏教のお守り」という事でしたが、チベット仏教で検索しても、
このような仏像はわかりませんでした。
両方とも、坊主頭で胡坐をかき、両手で顔を覆った姿です。

この仏像は、本当にチベット仏教のものでしょうか?別の宗教のものでしょうか?
そして、どういった意味合いでこのような姿勢を取っているのか等、ご存知の方がいらしたら
教えて頂きたいです。

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A 回答 (3件)

調べてみましたが、わかりませんでした。



が、イスラム教では神の顔を描かない。
ユダヤ教より派生してたのがイスラム教で、10戒律で神の像を作って拝んではならなとありますので、像を作って拝むということはイスラム教ではしないんですね。

で、そこから考えられるのは、その像は修行して成仏した者として描かれているのではないかと。

人間が成仏したので仏になり、それで顔を失う という意味じゃないかと思います。

仏教だと仏像があり、それを拝んでいますが、宗派により違うのかもしれません。

全ての欲を喪失したことで、個も消えたので、顔が無い という風になったのかもしれません。


また、別の解釈ですが、ユダヤ教では神が顔を向ける という表現があります。
神の祝福を受けるためにお願いする言葉として「顔をこちらに向けてください」という表現があったと思います。
顔を覆っているということは、、、、顔を背けていることになり、、、
あまり縁起がよくない。

ですが、お守りというのであれが、その仏像は神を表していると思えます。
隠れた存在者を表すものとして、顔を覆っている者を神としているのかもしれません。


また、別な解釈だと身代わり。
日本などは土師が考え付いたのですが、人形を人の身代わりとして作り、後に御札を身代わりとして使用するようになったことから、身代わりの人形という意味があるのかもしれません。

あなたの代わりに災いを受けてくれることで、あなたを守るという意味かもしれません。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

>また、別な解釈だと身代わり。
二つ目を見つけた時、売り場の解説のポップに「身代り」という言葉も出てきたような…
(きちんと読んでくれば良かったです)
二つ目は確かに、やや平べったく、持ち歩くのに適した感じでした。

No.2さんにいただいたお土産説も高いようです。
お土産物であり、どこかの宗教のものであれ、私にとっては穏やかな気持ちを齎してくれる
像ですので、大事にしようと思います。

お礼日時:2008/02/11 12:08

来日のチベットの僧より指導が得られる多くの所で十数年来学んでおり、そのような場ではお守りの類を含め、関連するチベットの色々な情報や物に接したり入手したり出来ますが、御質問にあるものは見聞した記憶がありません。


もしかしたらそういうものもあるかもしれないので確実にないとはいえませんが…。
画像が無いのでわかりませんが、お坊さんをモチーフにした中国のお土産物かなと想像します。
あと、輸入雑貨のお店は、ヒンドゥー関係グッズや、中国系仏教のグッズをチベット仏教のものと誤って販売してる例は多く、詳しい説明をしていてもその内容が間違っていることがよくあるので確かなことは自分でちゃんとした情報を得て来る必要があると思います。
チベット亡命政府関連の機関などのチベット関連機関に問い合わせてみるとか、あと、画像を提示して質問出来る場で答が得られそうなところを探すといいのではないでしょうか?

参考URL:http://www.tibethouse.jp/link/index.html#japan
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

はじめに見つけて購入した時は、お土産物(宗教的な意味合いはない)のかなぁと思っていましたが
二つ目を見つけ、「二つもあるという事は、きちんと意味のある像なのかな」と思い、質問させていただきました。
でも、お土産物の可能性も高そうですね。

お土産物であれ、どこかの宗教のものであれ、私にとっては穏やかな気持ちを齎してくれる
像ですので、大事にしようと思います。

お礼日時:2008/02/11 12:01

顔を手で覆っている像、といえば、三猿が有名ですが、どの様な覆い方ですかね。



三猿は日光東照宮のが有名ですが、ヨーロッパ諸国からアジアまで至る所に似たようなモチーフの彫刻があるんだそうです。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

三猿のように、どこか一か所の器官を覆っているわけでなく、両手の手のひら全体をすっぽりと顔に当てています。
たとえて言うなら、「恥ずかしがっている」「いないいないばあの『いないいない』の時」ような感じです。

補足日時:2008/02/10 22:56
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Aベストアンサー

少し補正と補足を入れます。

補正)

>もともと原始仏教では、釈迦も阿羅漢の一人でした。つまり阿羅漢と仏陀は、本来は同義語なのです。

「同義語」は言い間違いですね。仏陀は悟った人のこと。阿羅漢は、尊敬されるべき者の意味。ただし、両方とも原始仏教では、悟った人を指す言葉で、同じものを指すことに変わりありません。

>とくに説一切有部というある種の特殊な存在論を説く学派に対して、自分たちの立場から批判を向けものです。

これもおおむねその通りで、大乗の人々(とくに有名な龍樹などはそうです)が具体的に批判したのは、説一切有部という、ある一部の仏教学派ですが、広い意味で、自分たち大乗の教えこそが一番優れていると思っているので、その意味では、テーラワーダなど、自分たちの奉じる大乗以外の仏教諸派も、一段劣ったもの、小乗的なものとして、捉えていたということは言えると思います。ただし、実際のインドでは、大乗と小乗という対立関係は、それほどなかったとも言われています。経典など記録されたものは、ある一面を誇張して伝えていることも多いようです。

補足)
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大乗仏教は、原始仏教で説かれた聖者のあり方では不満足でしたが、これは世界観の違いによるところが大きいです。「この世は、苦しみであるから脱却しよう。悟れば、この世の苦しみから出られる」というのが、原始仏教の考え方です。でも、それでは満足行かない人も居ます。「苦しいけど、本当はこの世は素晴らしい。気づいてないだけ。だから悟ればそのすばらしさに気がつく」と考えたのが大乗の人々です。だから、大乗の人々から見れば、苦しみから逃れた状態にしか過ぎない阿羅漢は、真には悟っていないし、仏たるものそんなものではない、阿羅漢は自分のことしか考えていない、という主張になるわけです。


大乗の主張には、歴史的な要素などいろいろ絡みます。分かりにくかったかもしれませんが、これ以上は、簡単に書けません。分からない時は、仏教史の本を適当に図書館で読んでみて下さい。ダライ・ラマの本は、宗教書としてはとても優れていて、素晴らしいですが、歴史的なことは書かれていません。大乗も小乗も、テーラワーダもまとめて整理してお話になるので、この手の話を調べるのには向きません。

少し補正と補足を入れます。

補正)

>もともと原始仏教では、釈迦も阿羅漢の一人でした。つまり阿羅漢と仏陀は、本来は同義語なのです。

「同義語」は言い間違いですね。仏陀は悟った人のこと。阿羅漢は、尊敬されるべき者の意味。ただし、両方とも原始仏教では、悟った人を指す言葉で、同じものを指すことに変わりありません。

>とくに説一切有部というある種の特殊な存在論を説く学派に対して、自分たちの立場から批判を向けものです。

これもおおむねその通りで、大乗の人々(とくに有名な龍...続きを読む

Q【宗教】宗教で都合が良いように解釈されている事例を教えてください。 例えば、日本の仏教。 本来

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Aベストアンサー

本来も何も、宗教の教えは全て人が考えだしたものですよ。
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Q早稲田大学文学部の東洋哲学コースでインド・チベット仏教をきちんと学べるでしょうか

先日もインド・チベット哲学を学べる大学について質問したものです。
私はインド・チベット仏教哲学(主に論理学派や中観派)に興味を持っています。私は私立大学を受験しようと思っているので、早稲田大学文学部の東洋哲学コースに非常に興味を持っています。
このコースには岩田孝教授という仏教論理哲学の専門の方がいるようです。
しかし、他にインド・チベット哲学を専門としている教授がいないので、一人だけの下で十分に学べるかどうか非常に心配です。
インド・チベット仏教哲学を学ぶ上で、教授が一人でも大丈夫でしょうか。
ちなみに、他にも駒沢大学や東洋大学なども候補にしています。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 早稲田について、知っていることを書きます。
 文学部に変更になり教授の所属が分散してしまいましたが、岩田先生は引き続きインド・チベット学関係の指導をされています。
 授業数自体は外部の先生や弟子にあたる方を呼んで講義してもらっているので、学ぶ環境は問題ないと思います。
 しかし論理学の分野は学部の授業で取り扱うことは少ないです。恐らく、基盤となる中観や唯識の教学、それにインド六派哲学をしっかりと押さえておかなければいけないので時間がかかり、論理学まで手を伸ばす学部生が少ないからだと思います。加えてサンスクリット語とチベット語を学習する必要があるので普通の学部生には負担が大きくなります(論理学関係を卒論のテーマする学生がいないというわけではありません)。そのため、この分野は大学院の授業で多く扱っています。
 基本的にこのコースに入ってくる学生の多くは第一志望のコースから外れたと言う人が多いので、最初は「東洋哲学って何?」というレベルです。そのため実質的に3年間という短い学習期間しかありません。人気が無いといえますが、その分少数精鋭ということになります。さらにサンスクリット語の負担を避けて日本、中国に流れる人もおり、卒論指導でインド関係の学生は極めて少なくなる(今年は一人らしい)ので、勉強するにはうってつけといえるでしょう。(これに対して大学院では何故か大所帯、最大派閥となっていますが。)
 無論、はじめから目標が定まっていればそれに越したことはありません。研究室に出入りして先輩に教えてもらったり、やる気さえあれば学部生でも大学院の授業や研究会に参加することも可能であり、現に(他分野ですが)そういう学生もいます。
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Q木彫の仏像に虫食い(宗教的価値観とは)

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このことをどう考えればいいのでしょうか。

Aベストアンサー

「>人間的宗教的価値観といのは、実はまったくの幻想である」というのは事実でしょうね。
しかし、幻想が必要な場合があることもまた事実と言えます。

人間が宗教という形式を生み出したのは、本能によって成立している生体に超自我という余計なものが属性として備わっているからでしょう。
つまり、その矛盾に耐え切れず、解決策として想像された概念にすぎません。
この本質から目を逸らすと、「仏像=仏」という不合理な思い込みが簡単に発生してしまうのだと思われます。
宗教という方法論の道具のひとつだということを忘れなければ、虫に食われたり欠けたりすることは、【(道具として)不完全になる】というだけのことだとわかります。

しかし、「思い込み」がどうしても必要な人や場合もあります。
方法論は違っても、目的に取って変わってしまうような本末転倒さえなければ特に問題はないと考えます。
仏像が木という自然でできているということは、それだけ真理に近い形態と言えると思うので「代用」としての値打ちは高い(「思い込み」をしやすい)でしょう。
虫に食われるという現象は、その象徴的現象と捉えることが可能ではないかという気がします。
必ずしも虫に食われたほうが良いということではありませんが。

先の思い込みがあるうちは仏像に説得力を要求するだけになると思いますが、真理へ至る一つのきっかけであると解釈すれば、「虫の正論」からも何かを得られるのではないか、という気はします。
 

「>人間的宗教的価値観といのは、実はまったくの幻想である」というのは事実でしょうね。
しかし、幻想が必要な場合があることもまた事実と言えます。

人間が宗教という形式を生み出したのは、本能によって成立している生体に超自我という余計なものが属性として備わっているからでしょう。
つまり、その矛盾に耐え切れず、解決策として想像された概念にすぎません。
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