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昨日の市長選。
1位の自・公・民相乗りの門川さんと2位の共産党の中村さんとの差が950票余りでした。

毎度の事ながら特に今回はあまりの僅差にびっくりです。

本当に京都は共産党強いですよね。
国会議員の選挙ではほとんどの地域で共産党惨敗なのに(共産党の国会議員の数も少ないのに)、京都だけ地方選挙でもすごい勢いです。

過去に蜷川府政があったからという事は聞きました。
それ以外になぜここまで共産党が強いのか教えてもらえないでしょうか?
よく聞く労働組合という物との兼ね合いがいまいち分かりません。
その点も教えてもらえると嬉しいです。

また、「蜷川府政の20数年間で京都は出遅れた」とか「京都がおかしくなった」とか聞きます。
実際、その当時の京都はどうだったのでしょう?

また、もし今回2位の中村さんが市長になっていて2期から3期続けたとしたら京都はどうなったでしょう?

一般市民からの素朴な疑問です。
私個人としては批判ばかりしていて代案もなく、未だに消費税を無くすとか聞こえのいい事ばかり言っている政党は??と思うのですが・・

A 回答 (7件)

以前中小企業の経営者に聞いた話です。


信用保証協会ってありますよね。中小企業者が金融機関から事業資金を借入れるとき、公的な保証人になって資金を借りやすくするための機関です。
万一、何らかの事情により、中小企業者が借入金を返済できなくなったとき、信用保証協会はその中小企業者に代わって金融機関に代位弁済をします。
その信用保証協会の保証をもらうに当たり、共産党の関連組織といわれる民商(民主商工会)に加入していると、保証申込書類が円滑に流れたようです。
「なんで民商に加入しなければならないのか」と加入を拒むと、なんやかんや難癖を付けて、保証申込書類が滞ることがよくあったようです。
仕方がないので民商に加入せざるを得ない、という背景もありますね。
もっとも、私などは、民商に嫌々加入したとしても、選挙で共産党に投票しなければいいだけだと思いますけど。
民商自身は共産党との関係を否定していますが、関連組織であるのはかなり有名です。
加入経営者には赤旗購読を勧めたり、選挙での投票を求めるのは自明の理ですね。
今は知りませんが、京都の信用保証協会の末端職員の多くに、こうした対応をしていた時代もあったようです。
これをもって京都は共産党が強いというわけではありません。あくまでも中小企業経営者にとって、という一面的な事実のご紹介にすぎません。
他の分野でも、京都は、共産党系の組織(民商のように、直接共産党を名乗りはしないので分からないが、実際は共産党)の活動が活発な地域なんでしょうね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

ほんとにいろんな組織に関連してるんですね。
でもそれこそ選挙で投票しなければいいと思うんですけど、それぞれ考えがあるんでしょうね。
病院なんかもすごかったってよく聞きます。
大げさなんだと思いますが、他党支持者は入院できなかったりとか^^

お礼日時:2008/02/19 10:10

他の方と違った視点で述べさせていただきます。



(1)<組織メンテナンスをしっかりしているから>
共産党推薦で当選した蜷川知事の影響力がよくいわれます。ただ30年前の話です。影響といってももう微々たるものしかありません。
あえて言うなら「労働組合に共産系組合員がいまだに多い」位しかないと思います。

それよりも、地域を丹念に調べて住民の声を代弁したり、役所や団体に要求を突きつけて業務改善させたり行政裁判をしたり、
駅前で欠かさず演説したりビラを撒いたりと努力と成果を積み重ねていることを市民が認めているからだと思います。
京都人は、「いけず」とかいわれますが、陰で努力しているものには優しいです。
これらの日常の成果で、党員・『赤旗』読者を着実に集めて組織を保っているから強いのです。

京都市長選で出馬された中村和雄氏も、京都弁護士会副会長をつとめたり、23年の労働弁護士として勝ち取ってきた優れた実績はよくしられていました。
また、出馬表明から1年間準備して京都中をひたすら回って声を集めていました。このことが951票差の要因です。

(2)<「運動団体」に対する共産党の姿勢>
第二に「運動団体」に対する共産党の姿勢が支持されているからです。

確かに「」の人々は貧困と差別に苦しめられてきました(江戸時代の差別の名残)。
しかし、今は差別する人は殆どいませんし、憲法で居住移転の自由も保障されています。
「あいつは××出身だ」といった方が周りから白い目で見られるぐらい社会も進んでいます。今はもう「指定地区」だったのかわからない位整備されました。

しかし彼らにとっては、ここでお金やモノ・人を打ち切られると自分で立って歩かなくてはいけなくなります。
また、今まで補助を受ける際の窓口になってきた「解放同盟」などの運動団体にとっても飯の種がなくなってしまいます。
だからこそ組織存続のため何が何でも「まだ、差別がある」という事象をこしらえないといけないのです。
そのため役所や民間でギャーギャ叫び続けて嫌がらせや事件も度々起こしました。

京都市としても解放同盟などの「運動団体」の意見を鵜呑みにしておいた方がおとなしくなるので、彼らの意見に屈するようになりました。
そして京都市の職員として「運動団体」に関わった人を無試験で大量に雇い入れ、関係地域に金を長年にわたり投下し続けてきました。

その結果はマスコミで報道されたとおりです。
役所で雇われた人は「これはワシ等が長年差別されてきた償いや。仕事なんかどうでもよいんや」と叫びながらサボり・中抜け・横柄な態度を続け
「京都市の役所職員の態度は最悪」と市民に忌み嫌われる大要因となりました。
中には暴力団関係者が役所の中に入り込んで覚せい剤取引を行うなどというトンでもない事態にもなりました。
地域に投下されたそのお金も大部分が使途不明になり闇の組織に大量に流れてこれも事件化しました。

またにばかり金をつぎ込んだため、逆に「一般行政」が疎かに貧乏になり
市民のみんな「なんであいつらばっかり(怒)ろくに働きもしないくせに!!」という市民の不満の声が爆発しかかっています。
そのために新たに偏見が生まれています。

日本共産党が、京都で支持を受けるのは「これは、明らかに逆差別だ。もう特別扱いやめよう」
「税金横領したお金は彼らに弁償させよう。犯罪をおこす職員は徹底処分しよう」
「同和行政完全終結して予算も廃止しよう。」という当たり前のことを当たり前に訴えて、運動しているからです。

市長候補だった中村和雄弁護士は、市民団体「市民ウオッチャー・京都」の活動で、「運動団体」と京都市を何回も訴えて、損害賠償を勝ち取った凄い人です。
中村和雄氏が市長になっていれば、間違いなく同和行政が終結し、職員に対しても厳しい態度でのぞんでいたでしょう。
そしてお金を一般行政に振り分けて市民生活が豊かになっていたと思います。

(3)<宗教関係の支持者が多い>
共産党は「唯物論的無宗教」の政党として知られています。一方京都は寺社仏閣がたくさんあります。

そこで共産党は「私たちは、唯物論的無宗教です。これは別に宗教を否定するわけではなく、あの世があるかないか「考え方」の違いです。
そのことは脇において今は「この世」をよくするために宗教者の皆さん一緒に組みませんか」
「無宗教だから色眼鏡なく牧師さんともお坊さんとも付き合いますよ。私達が橋渡しますからみんなで手をつなごう」という論法で支持を獲得していっているのです。

また、いわゆる「カルト宗教」に対する反発も京都には根強いです。
共産党が「カルト宗教」と血みどろの闘いをしてくれたおかげで聖地・京都を守ってくれたと感謝している宗教者の方も多いです。

私が思いついたのは以上3点です。

それだけ強いのになぜ勝利できないのかといえば、「運動の詰めが甘い」のと、「(憲法9条)イデオロギー」が足を引っ張っていること、宣伝があまりうまくないことに尽きます。
このひたすら努力してもできの悪い組織は息子のようでいじらしいということで、京都人のハートをくすぐるのかも知れませんね。
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京都は


資本最優先主義?(金儲け主義)哲学のユダヤ政商らの
聞こえのいい、言葉だけ(つまり・・・手続き上だけ?)での「民主主義」「平等」という美名にだまされた?利用された?
薩長らによる戊辰戦争で、
明治政府がたてられ、
もちろん!その主役である薩長は政治実験者としては未成年者扱いで、
その保護者たる英印中ユダヤ政商、グラバーが窓口として
財政、政治経済教育の直接指示を受けることとなります・・・
明治新政権とは・・ユダヤ政商政権と断定できる?!?とすると・・・・
アンチユダヤ政商哲学政権?!?が、とどのつまり・・・
明治までの日本の歴史での安定政権が理想として追求してきた価値観とすると・・
その哲学、美学の中心地の?シンボルの地が「京都」であったし、
またそれ故、ユダヤ政商哲学の反体制派の
新鋭も京都に集結していた・・
大阪はその京都に
海外や地方の文物を一旦受け取って吟味して届ける位置にあった・・?!?

住んでる市民一般人自身にも
薩長のような尻軽な振る舞いで日本全体の社会不安を起こさせてはならじ?というという自覚があり、
学識?認識の高い人々が多く暮らし、
また、そういう人々が世代を通して大切にしてきた価値観の上で作られてきた
文物、建造、文化が隅々にまで満ちている・・
という土台のある地が京都・・・・?!?

大阪からすると・・
ちょっと、口うるさい叔父さんや叔母さんがいる本家みたいな感じ・・?!?
そういう人がいるから、
安心して新しいことにも挑戦できるし、
薩長のように深み?土坪にはまらない自制心ももてるし
客観的な視点で事物を見つめることができる・・・・?!?

(ただ・・島津家の蘭キチ殿様の散財を
 調所とやらにしてやられて・・
 尻拭いさせられてしまったこともある・・
 大阪商人がお金の貸し借りに
 義理人情信用を平気で足蹴にする日本人がいたのを実感したのもこのとき・・
で・・・福沢諭吉のようなユダヤ政商的な資本最優先割り切り何でもしますヤローが出てきてしまった・・
松下幸之助の走り?!?
彼らがあんまり有名になって、
ユダヤ政商明治政権以降やりたい放題だったので、
彼らのような異端が大阪の顔だと誤って周知されてしまっている・・
情けなや
明治当初、大学ができたときは
東大の次が京大というランク付けの認識もなく、
東大からの合格通知が遅くて、
「もしかしたら、落ちてるのかも・・
 だったら、京大の試験がまだ間に合うおやろ」と
 駅まで馬車を走らせたという話を
年寄りから昔、聞かされた・・
格差かによるランク付けで権威付けをするのは
ユダヤ政商の常套手段・・
明治になって、
天下は東京となっても、
明治はじめには
日本人の認識には、東大の権威も京大の権威も
左程変わらなかった・・・
それが・・
ユダヤ政商哲学で社会の確立がされてくると・・・
序列化が明確にされ、
東大の次が京大・・というレッテルが確定したという・・
大阪に何で大学がなかったのか?
商人が自分らの息子、跡継ぎをけったいな認識(ユダヤ政商哲学)で毒されたくないから、
作らせなかったという・・
商家では大学進学は跡継ぎでないおトンボらが京都や東京に出してもらったという・・
学問への憧れが
そのパトロンとして開花し
明治政権から押し着せの哲学でない自由な文化が大阪で花開く・・・

戦国時代、利休が堺で開いた自由な哲学も、
利休にくっついていた女性(ユダヤ政商工作員?)が
利休死後、
千家を二つに割り、
そのマニュアル?の基本を彼女が実際には立てたという・・

つまり・・厳密に言うと・・
利休の哲学は、
裏表どちらにせよ、、
一旦、途絶えて?ユダヤ政商の手に下っている・・?手が入り込んでしまっている・・?!?
だから・・
政権や権威(伊勢神宮)との関わりに執着する歴史がある・・?!?

案外?!?
主流でないところに・・
利休の精神が伝えられてるのやも知れない?!?
道具、DNA、建物、出入りの職人?が
そもそも・・利休の精神の後継者とは
まったく!無関係かもしれない・・?!?

見えるもの、形あるものに執着するから、
心を失う・・?!?

学生自分、海軍士官学校卒業後、入隊してすぐ終戦になって
猛烈な倍率の中!見事!京大法科合格なさった
社会の先生がおっしゃてらしたのは、
哲学者・西田幾太郎???から、
京大の法科が
ユダヤ政商哲学による官僚性の強い東大に対し、
法学、社会哲学において
まったく別の生き生きとした
本質を追求する流れとして
社会で認められた・・というようなことをおっしゃって裸子多様な気がする??
(当時、中国も朝鮮も韓国の台湾の違いも認識できてないレベルの社会学力ですので
 先生が猛烈な速さで授業時間しゃべり続けられるのを
 いかに、速記?するかというのが当時の私の興味で、
 ほとんど!先生の講義内容は理解できていないので・・
 早口でしゃべり続けられる先生が
 何か問題提議をされるように、
 答えを出されない点だけが
 ノートにし難く、
ノートにするのに言葉が困ったものですが
その意味をそれ以上深めることもなく、
只、、その他の多くのこと同様、
私の理解には届かないことだし、
また、政治経済には煩悩の世界のような認識があって、
そのまま小泉政権のイラク派兵まで
餅は餅屋と捨て置いて封印されてきたのですが・・)
餅屋が何やら失脚させられたり?暗殺させられて?
餅つき機で大量生産を始め、
安心して食べれなくなって・・今に至る・・

植物学で有名な牧野富太郎博士なんかも、
東大に席があるにもかかわらず、
孤立無援だったご様子で・・?!?
よく関西への研究活動には
吹田の(後鳥羽上皇さま)仙洞御所に長逗留されてたとお聞きしました
通常、庄屋というと、、
白川郷的なおうちの中に陰鬱で抑圧的な圧迫感?強大な家長の権威と
ランク化を意識せざるを得ない暗い文化を感じさせる豪農を思い浮かべますが、
吹田御陵はどちらかというと
商家のおうちのような明るさとホスピタリティと清々しさがあり、
ホッとさせられます
(民俗学関連の人物らが
国宝や重文を明治期に選定した基準自体、
 ユダヤ政商視点での抗日性をどこかしら感じる?!?
 第一号が確か大阪の吉村邸?だったというので、
 子供時分から、何度か社会見学というので行った事がありますが
 何度いっても、いつもその抑圧的な風情を
日本文化の清々しさとは異質の煩悩を抑圧した暗さを感じてしまう・・
これらを決めた民俗学系学者らが
日蓮正宗の煩悩からの
一時の開放を求めてるような・・?!?熱狂・・
創価学会の設立時と同様、内務省関係と連動していているのかもしれない
・・??
ひょっとすると!?!
内務省に連動した民俗学系に対し、
植物や博物学などの自然科学者らが、
正攻法で懸命に歴史認識はじめ真実の書き換えを抑制しようとされていたのでしょうか?)
日本初オリンピック金メダルの水泳選手は、
仙洞御料の防火水槽で練習されたと?聞いたようにも思うのですが、
自信はありません。。??
子供時分夏になると南海電車で兄に連れられた
大阪の浜寺の水練学校も、
彼女を育てた水練学校だと聞かされたことがある
いざという時はひっぱりあげれる様・・
男子はふんどしだったのを思い出す・・

戦後、東大赤門?の前田藩邸の周辺のように
西尾家も家来由来の人々に、
周辺の所領を分け与え、
多くの知的で啓蒙家的な庄屋と同様
地元を豊かにしようと、
植物の品質改良の研究もされてきた、
戦前?戦後?暖房つきの温室もあります!
書生?の漆職人の仕事は
繊細でアクがなく
ご当主のお人柄をしのばれる。。
明治期になり、次々西洋化された建築が乱立し
歴史的な建築物も
小説や映画に取り上げられた火事や何度もの改築により・・
(大阪城もコンクリート建にされ
朝鮮遠征という形で渡来人を多く移民させた秀吉時代、新撰組に入り込んだスパイらが
自分らの屯所として利用した高台寺・・)
すっかり!歴史の真実を伝える証拠としての価値が失せられていく中で
西尾家の当主の視点には
明治、大正、昭和の風潮には惑わされずに・・
しっかりとした帰納視点を持たれた冷静さ理性をかんじます・・
他の庄屋建造物との大きな違いです・・
牧野博士は、日光にも度々足を運ばれ、
日光の宇都宮が
もともと宇都宮神社が大切に見守ってきた神社、宮様の領地?で
周囲の人々もその哲学を大切に見守ってきた土地なのに・・
どんどん、西欧人らの別荘地開発がされ
自然環境の破壊に心痛めてられ
漱石が英帰国後すぐ、
ラフカディオ・ハーンの後任として、
東大教授と同時に
一高で数百人の若者の厭世自殺者のきっかけとなった
藤村操を教えるが
当時の日本社会がよほど若者の間に厭世主義?閉塞感が蔓延してか・・
操は華厳の滝で自殺?したことになっている・・
(遺体は上がらず仕舞。
当時、世を儚んで自殺したという説明でまく引き去れてるが・・・
彼の周辺をかんがえると・・
両親がいなくとも
自然科学だか迷信やカルトに惑わされにくい
明かるい学者一族の叔父がいてくれるし
第一!たった一人の妹を一人残して自殺などするバカに思えない・・
これはヤラセ殺人では・・?!?
同級生としてそばにいた安倍能成の狡猾なその後の人生を思うと・・
彼ならやりかねない?!?
おそらく・・藤村の妹に執着し?
藤村に交際を反対され??・・・??
犯行に及んだ??!?
彼こそは文部大臣のあと学習院院長となり生涯退かず、
皇室の教育にかかわることに執着している・・
開戦時には、
「青年学徒をしてよく今日まで読んだ書を明日は銃に代へ、
昨日の剣を棄てて今日を実験室に急がしめるだけの
安らかな心境を掴ましめるならば、これは実に大した所得・・」
と一高校長としてファシズムを煽っている・・?!?
ちなみに彼の父は
シーボルトの落とし子・イネを育てた二宮敬作の故郷・松山の
医師・義任の八男で
松山城下の
小“唐人”町(現、松山市大街道)出身・・
また・・・
仲のよい芥川と久米正雄の漱石の愛弟子、漱石の哲学をくむ芥川龍之介が世に出た喜びを手紙にし、
皆の前で(最後となった木曜会で)漱石の人生哲学「則天去私」を若者に説き、
帰国後、大学研究者や官僚として出世街道を敢えて退け、
起源はヴァイキングの英海軍に主導される海軍?を抑制しようとする陸軍軍医総監である鴎外とは
出来るだけ公には直接の接触を避けながら、
二人は手紙通じ?共通の問題に焦点をおいている・・・
イネ初めユダヤ政商工作員拠点として松山の真相究明・・??
漱石の父と樋口一葉の父が、
内務省で特高と化している警視庁で
樋口一葉の父と漱石の父が同僚で、
漱石の兄との見合いの話があり、、

漱石がいよいよ!鴎外と袂を分かつのは・・
ユダヤ政商に心底毒された抗日政治家・西園寺らが意図するM44年5月:文芸委員制度に鴎外が辞退せずに、
官僚としても名を連ね、陸軍の高官として歩まざるを得なくなったとき??から・・?!?

松山を危ぶみ?調べてきた漱石が?!?
 漱石の人生哲学、「則天去私」
 天に則り、私を去る・・エゴを捨て自然の摂理のままに生きる・・
 この話を若者たちにしたとき・・
 松岡は、漱石が漱石の長女との結婚に反対しているのを
暗に痛感し・・
漱石に毒を盛って??入院させ、
このあと、漱石は没すこととなる・・・
T4年3月:漱石が東京から
新撰組の背景に出てくる祇園一力(元は万亭)の大石忌に
画家・津田清楓の段取りで出席し、
茶屋・大友(ダイトモ)の女将・磯田多佳(イネの娘が工作員として地下活動?多佳の義姉?が一力の女将)と出会い、
そこで(死因となった胃病の)毒を盛られて??1ヶ月養生逗留する羽目になり
夫人が東京から駆けつけている・・
ここでも・・漱石は丁寧に自分に毒を盛った?多佳に
「玄人、うそつき」の自身から倫理上の人格としての交流を
テーマとして投げかけている・・
T5年10月:元々は・・一読者として文通し、
漱石をカルト洗脳?入信させようと
名古屋の修行の会に出席したついでに
東京見物へ回りたいとねだり、
漱石の家に1週間、無賃宿泊し、小遣い銭ももらって
神戸祥福寺の雲水見習い中の富沢敬道、鬼村元成は 
ここでも、胃病を起こす毒を漱石に飲ませている?!?
彼らは一見、連携していないように見えるが・・・
帰納的に仮定していくと・・・
連携して?漱石に胃病の毒を盛っている・・??
しかし・・多佳まで出てくるということは・・
この時点ではまだそれほどにはユダヤ政商工作員の人数が
今ほど!多くなってはいない・・??
1916年(T5)12/9:漱石、没
胃潰瘍の病名で入院し病死とされている・・・?!?(暗殺?)

なお・・・
芥川と親友の久米と松岡譲(1891生。昭和天皇が靖国参拝をやめられたきっかけとなった
開戦を強引に導いた外相・松岡洋右(1880生1893渡米)がアメリカへ頼った親戚?)
ら二人が漱石の長女の奪い合い?で
1918年、松岡が結婚を勝ち取り・・
1922年、久米が小説『破船』で松岡のことを暴露し、
1927年(S2)7/24:彼ら二人の友人であった漱石の精神を
  文学で伝承した芥川龍之介が自殺したとされてる・・
  漱石が、若者に強く言い続けてきた
  自分で自分の命を断つほどの自然の摂理にはむかう事はない・・
  自殺をしたとされている・・
  若槻内閣が陰謀策で倒され、
  田中義一内閣、開戦の色彩がますます強く押し寄せる時期・・・
戦後、西山廣喜(平家の落人?)は
社会党宮崎県本部青年部部長を務めたあと 
社会党青年部の本部役員となり上京 
新橋のツツミビルの党本部に詰め
委員長:片山哲
書記長:西尾末広
組織部長:浅沼稲次郎
会計:松本治一郎、担当
後に国会で活躍する
左翼系の官僚的な統制や教条主義が本質、現実の真相を突いていないと感じ、?
西尾寿造:1948年A級戦犯(不起訴により釈放)

藤井丙牛を介して 
三浦義一を知り、
浅沼とともに右翼へ転向。


20才:ウランバートル(モンゴル)を目指すとして
    出発し、
    あえて、馬賊の捕虜となり、
    馬賊の下働きとして入り込み、
    工作員活動を始める
    数多くの戦いで頭角を現し、
    のち千山無量観(馬賊の聖地)で
    道教と武当派の中国拳法等を修行し、
    葛月潭老師(大長老)より
    尚旭東(しゃんしゅいとん)」の名と
    破魔の銃「小白竜(しょうぱいろん)」を授かった。
    出口王仁三郎(大本教)の蒙古入り後に、
    捕らえられた張作霖の釈放に奔走

大本教・・・・
1892(M25)年、綾部で、
   出口なお(霊能者(神懸り)として金光教布教者)に降りた国祖・国之常立神の神示を立教の原点とする教派神道系カルト
1898(m31)年、霊能者の出口王仁三郎が
    なおの娘婿となり、
    大本として金光教から独立
    後、王仁三郎養子になり
    戦前、巨大教団へと発展
    『霊界物語』・・・
    万教同根という精神
    キリスト、仏、儒教、(バラモン教は悪役として)、老子、列子、仏典(浄土和讃、観無量寿経)、espスウェーデンボルグ(エマヌエル・スヴェーデンボリ)など
世界を代表とする宗教の源泉は
 ゾロアスター教二元論哲学と同根と提唱
 多様性を尊重
英名スウェーデンボルグ
(エマヌエル・スヴェーデンボリ)・・・
 ( 1688~ 1772年3/29)
 スウェーデンのバルト帝国出身だが、
 28才:カールXII(プファルツ王朝のスウェーデン国王)より王立鉱山局の監督官
 当時のキリスト教(ルーテル派)から異端宣告されたが、
 王の信頼篤く回避され、神秘主義に転向し、
 英国滞在続け、母国には戻らなかった
 神概念・・・
 伝統的な三位一体を三神論として退け、
 父が子なる神イエス・キリストとなり受難した(サベリウス派)というものだが、
 サベリウス派と異なり、
 聖霊を非人格的に解釈。
 聖書の範囲に関しても、
 正統とされる信仰と大幅に異なる
彼の死後、
 新エルサレム教会( New Church )として創設 :
  黒魔術などとは隔絶されてるため、
  オカルト愛好者らは、
  自然にその著作物から離れていく
  米国派遣のメソジスト派から異端視圧力

1918 谷口雅春、入信。文筆活動
1921 I大本事件
     皇道大本(皇道大本内で、
   出口なおの神格を尊重する浅野和三郎らが、霊界物語改竄)と改称
1919:亀山城、買収し、
         本拠地とする準備に入る
1920:大阪で有力だった大正日日新聞を買収して
      言論活動にも進出するが、
      有力信者・浅野和三郎〔元、海軍機関学校(現防衛大学校)教授)が、
     谷口雅春らを利用して
     出口らを天変地異の予言と称し
     一般市民(信者)を混乱させていると
     批判し、
      「大正維新」
      「大正10年立替説」を唱え、
      社会体制の変革を主張
   2/12:不敬罪と新聞紙法違反の疑いで、
    出口王仁三郎と教団幹部を検挙
       ↓
 126日間の未決生活の後、保釈
 綾部の本宮山神殿は破壊される
1923年:関東大震災⇒」
   富山(妻・谷口輝子の実家)に身を寄せる
   浅野和三郎主宰『心霊科学研究会』〔現、財)「日本スピリチュアリスト協会」)で活動し、
   谷口雅春は外資系ヴァキューム・オイル・カンパニーに就職し、
   当時 米で大流行していた本ニューソートの影響を受け
   様々な宗教・哲学思想家と交流
    (一燈園の西田天香ら)
1924年2月、出口王仁三郎(責付出獄中)、
  植芝盛平ら日本人6人と
  大日本帝国を脱出し、
  モンゴル地方へ行き
  盧占魁(馬賊の頭領)とともに活動
   6月、パインタラにて張作霖による危機もあったが、
   7月、帰国
裁判は・・・
 大審院まで争われ、
 大審院が前判決を破棄し、
 控訴院へ差し戻し、
 再審理中に
 1926(T15)年12/25:大正天皇崩御により、
 恩赦免訴される
王仁三郎、保釈後、秋頃から『霊界物語』の口述を始める
この事件を契機に・・・
 多くの教団幹部・信者が大本を去り、、
その後浅野和三郎は心霊科学研究会を、
1930(S5):谷口雅春、生長の家(神・仏・キリスト教等を含)を創設
   総本山:龍宮住吉本宮(長崎県西海市)、
   別格本山:宝蔵神社(京都府宇治市)
1935 II大本事件
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今は違うかもしれませんが、以前は・・


京都は、大学が多いから、、学生運動がらみで、、強い、、
と言われていた時期があります。
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蜷川府政が長く続いたのは、革新ばかりでなく保守側も同調できるような政策もミックスしてたからです。


観光開発や企業誘致は蜷川府政の大きな特色であり、今の京都を見る限り、このあたりの政治的なバランス感覚やリーダーシップはもっと評価されても良いのではと思います。
その一方で市民視点での都市開発抑制や福祉の重視、教育の平等化などの革新系の施策をやっていたわけですが、これらはマイナス面として生活インフラの整備の遅れ、バラ撒き型福祉の温床化、教育水準の低下などの欠点として批判されました。また内側では公務員労働組合を厚遇して歯止めが利かなくなったという批判も多いです。
もっとも、このあたりも評価する人の価値観なりイデオロギーなりで違って見えてきます。
私に言わせれば、観光都市としての京都の個性(あるいは古臭さ)は蜷川府政ならではのものだったような気がします。
バラ撒き福祉にせよ、保守陣営の知事なら誰でもやってきた都市開発の土建業者へのバラ撒きと比べてどうなんだろう、って感じもします。(もっとも、蜷川府政は地方での開発は重視してましたので一概にはいえませんが)
公務員労組の件は、さすがに甘やかしすぎて失敗してますね。

あと、最後の「批判ばかりしていて代案もなく」というのは民主党とかのことじゃないですかね?
共産党に関しては、与党よりもよほどはっきりとした財源構想を持っていますよ。ただそれが財界人・保守層には絶対に受け入れられない内容だというだけのことです。(所得税で得られた財源の大半は法人減税と資本家・富裕層の所得減税と景気対策名目の公共事業(いわゆる無駄なハコモノというやつです)に使われたというのは数値で証明できる一面の事実ですので、これを是正すれば消費税は要らない、というのは否定するのが難しいですね。)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
蜷川府政時代のお話が聞けてとても参考になりました。
全く知らない時代なもんで。

「批判ばかりしていて代案もなく」というのは個人的な浅はかな知識の意見です。
前に朝まで生テレビを見た時に憲法9条の話で、穀田さんが出てた時に「自衛隊は何があろうと絶対に無くすべきだ」との意見に他の出演者から「アメリカにも守ってもらわず自衛隊も無くして、じゃあ万が一他の国が攻めて来たらどうするの?」との質問に「いや・・それは警察が、、」って。
こりゃダメだと思いました^^;

お礼日時:2008/02/19 10:02

「京都のことなら、まかせなさい」と謳っている「おのぞみドットコム」と言うサイトによると、京都で共産党が強いのは、以下のような理由によるとのことです。



蜷川府知事の支持団体で、特に選挙に強かったのが、府職員労働組合、教職員組合、医師会です。 当時の都道府県の職員労働組合と教職員組合は社会党支持が多く、医師会は大部分、自民党支持団体でした。 しかし、京都では共産党がその三つを押さえ、それらの団体が共産党支持に回ったことが、この政党が強くなった大きな要因と言えます。

さらに、「天皇陛下は東京に仮住まいしている」かのように言う、京都人気質があげられます。 保守的であるが、反中央気質。「我々は長年、日本の都を担ってきた、中央政府の思い通りに動かない」というプライドが自民党政府の対極にある、共産党を支持し、大きく育てたとも言えるでしょう。

そして、京都が「学生のまち」だったことも要因として忘れてはなりません。 蜷川府政時代の学生は反権力の気質が強く、学生の考えと共産との思想や行動がマッチし、学生が共産党の選挙活動などを下支えしたのが、インテリ層や若い年代の支持をひろげ、京都の共産党を強力にしました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
おのぞみドットコムなんてサイトあったんですね。

支持団体の事、反中央気質の事、学生の件、すごくよくわかりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2008/02/18 15:22

はじめまして。


これは「組織票」があるためです。

いわゆる、創価です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
公明党は門川さん支持ですよね??

お礼日時:2008/02/18 15:20

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