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小学校はいいとして・・

中学校、高校は、
半年後とに自分の好きな教科を、選択できるんです。
時間的に可能なら、何教科でもOK。
体育だけでもいいし、全教科でもいい。

授業料の問題はここではおいといて。

私は、いくら体育が好きでも、
よほどの才能が無い限りは、(あっても?)
体育だけを選択するようなことは、だれもしないと思います。

なので、能力に著しい偏りが生じることは無い、
と、私は推測するのですが。

デメリットは、能力の偏り。
メリットは、勉強意欲の向上。など。

どう思いますか?

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3802893.html

A 回答 (14件中11~14件)

生徒が主体性を持てば効果を発揮すると思いますが…無理だと思います。


それは、大学入試で受ける学部(広い意味で言えば、文系理系とか)ですら得意教科で決めてる人が多いということを考えれば明白な気がします。絶対に偏ります。科目選択なんて、結局はその時の興味や自分の社会認識の反映にすぎない、いわば気まぐれなものになるというのは目に見えてますし。高校生がみんなその教科が持つ重要性について認識できているわけじゃないですから。というか、認識するのは不可能です。だから、認識が不足している状況で、ある意味感情的な選択によって可能性を狭めるのは良くないということになります。
僕も、「自業自得」論を推したいところではありますが、それはあなたがたまたま「自業自得」を主張できるほどの主体性が教育課程に於いて形成されたからであって、大部分の人はそこの段階に達していない気がします。まあ、そういう立場に立つと一概に肯定できません。
というか、主体性を形成するのも教育の重要な意義であって、その形成においてある種強制的な最低限の知識の詰め込みというのは、社会に関する認識を深めさせるという重大な意味を有すると思います。ということで、高校くらいまでは教養をつけさせるっていう意味で、「学校」においては一律の教育を行うべきなんじゃないでしょうか?
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この回答へのお礼

主体性が無いから、このシステムが不可能なのではなくて、
主体性を持たせるには、このシステムが必要なのでは?

与えられたものだけをこなすだけの、
そんな教育で主体性を生もうとすること自体、非効率的。
むしろ今の教育は、主体性を抑えるように仕組まれているように感じますけど。

そもそも、自分の好きなことに関してのみ造詣が深くなること、
能力に偏りがでること、
それ自体、問題かどうか疑問なんですよね。
社会のため、
なんて陳腐なうたい文句は、個をないがしろにする。
個の集合が社会なのだから、個の幸福こそが社会の幸福では?

>一律の教育を行うべきなんじゃないでしょうか

一律な教育と、主体性、
水と油のような関係に思いますが、気のせいですか?

共同体の中での連帯や、協調性、大事だと思います。
しかし、
主体性のない人間は、真の意味で協調などできないと思いませんか?
上辺だけのそれは、破綻するし、精神を疲れさせます。
主体を持って、
他人と自分とを、一定の距離で分けて、関係性を認識する。
そこで初めて、真の共同体たりえるのでは無いでしょうか?

それから、下にある折衷案に対する意見も聞かせていただけると助かります。

回答ありがとうございました。

(管理人さんへ。決して、一方的な主張ではなく、回答者様の、より深い意見を望むが故の文章となっています。消さないでください)

お礼日時:2008/02/27 09:52

学校というのは、「お国が国の戦力になる最低限の能力を持った人間を育てるための機関」と捉えると、義務教育である中学までは「広く浅く全般的な教養を身につける時期」といえるでしょう。



高校以降なら質問者様のいうようなカリキュラムもある程度は可能だと思います。
実際、商業科や体育科などは自分の好きな科目を重点的に勉強するための学科ですし、普通科でもある程度の科目の選択が学校によってはできます。

義務教育と高等教育の役割の違いや区別をはっきりさせた上で、もう少し案を練り直してみてはどうでしょうか??
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この回答へのお礼

>実際、商業科や体育科などは自分の好きな科目を重点的に勉強するための学科ですし、普通科でもある程度の科目の選択が学校によってはできます。

具体的な数を知らないので、推論になってしまいますが・・
私は、就職や仕事に必要な知識「だけ」学びたかったので、
商業科や、農業科・・普通科とは違う高校を探しましたよ。
けれど実際そんなに数もないし、
あったとしても、数学や国語などは必修。
商業や経済を学びたい人が、古文や三角定理を学ばなければいけないのです。
それは非効率的だと思いませんか?


>義務教育と高等教育の役割の違いや区別をはっきりさせた上で、もう少し案を練り直してみてはどうでしょうか

大事なことですからね。


回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/26 16:25

 授業料の問題を除外されているので、制度設計の為のコストの問題も除外してお答えします。


 必修教科を設定せず完全に自由な授業の履修を許可するのにはどうかと思います。それは質問者様の仰る“最低限の自由”の範囲を超えています。特に中学での実施は共同体の構成員に必要最低限の知識を提供すると言う義務教育の存在意義を損なってしまいます。

>私は学校が大嫌いで、不登校も経験しています。
>その中で、
>どうすれば学校が楽しくなるのか
 それは質問者様の個人的な意見です。学校が大好きで楽しいと持っている学生も大勢います。
 私は高校を中退し大検を経て大学に進学した口ですが、私のような立場の人間の救済制度を整備してほしいとは思っても私個人が学校を好きでない事を理由に制度全体の変革を求めたりはしません。


>なんでもかんでも、大人が子供に口出ししなければいけませんかね?
 いけない事はないです。ただそれは全く口出ししてはいけない事にはなりません。

>子供が一教科だけ選んで、未来に後悔するようなことがあっても、
>それは自業自得。
 私はつい最近まで中高生に接する仕事をしていましたが自身の将来を主体的に考えその責任を負える子供など殆どいませんでした。無論教育で彼らの主体性をある程度まで育てることは可能だと思いますが精神的にも不安定な思春期の人間にその後の人生に多大な影響をあたえる教育内容決定の全権限と全責任を負わせることはあまり理に適わないように思います。

>学校はあくまで、浅く広くを教える場。
 浅く広くすら学ばない子供も出てきますね。
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この回答へのお礼

>共同体の構成員に必要最低限の知識を提供すると

構成員全員に必要な知識など存在しません。
Aさんにとって必要最低限でも、Bさんにとってはそうではない。
Aさんは学校が楽しい。Bさんは、楽しくない。
そういう差が生まれます。
それを解消するために、「個人が選ぶ」というシステムを推奨しています。
しかしやはりネックなのは、「自分にとって何が必要で何が不必要なのかの判断能力が低い」ということ。

>精神的にも不安定な思春期の人間にその後の人生に多大な影響をあたえる教育内容決定の全権限と全責任を負わせることはあまり理に適わないように思います。

ということですね。
この意見に一理どころか何理もあるので、折衷案として、
中学一年時は、今と同じ必修科目を学ばせる。
中学二年もしくは中学三年からは、すべて選択性に移行する。
というのはどうでしょう?
高校から選択性に、という意見もありますが、
一年間の判断時間、猶予を与えれば子供たちは自分で有効な選択をできると思います。
少なくとも、その一年間、「今の中学一年生」とは全く違う視点で、勉強に臨むと思います。
自分の将来のために、科目の意義や意味を、今とは比較できないほど、真剣に考えることでしょう。

>浅く広くすら学ばない子供も出てきますね。
折衷案を使えば、この問題も解決ですね。

>それは質問者様の個人的な意見です。学校が大好きで楽しいと持っている学生も大勢います。

「好き、嫌い」で判断していないし、そのために変革を望んでいるわけでもありません。
選択性の授業のほうが、子供たちの未来のために有効だと思うから提案しているのです。
自分はもう教育の現場から離れた者ですから、第三者の目で判断しています。
学校は楽しくても、「勉強に疑問を抱く」生徒はいますよ。
学校が嫌いな者のための案ではなく、すべての子供たちの未来のための案です。

お礼日時:2008/02/26 12:00

まぁ、茶飲み話だと思いますので、気楽に答えますが駄目でしょうね。



>時間的に可能なら、何教科でもOK。
ここがまず問題。つまり、ということは、逆に「選ばなくても良い」ということになるでしょう。そうすると、一日1時間程度、好きな教科だけ受けて下校するやつが大量に出ますよね。

人間っていうのはそういうものです。楽な方へ逃げたがる。(少なくとも私はそうです)

そうかと言って、「最低○時間は教科を選ぶこと」と決めたら、好きな教科を選択できることになりませんよね。

それと、中高生の場合(特に女子にはこの傾向が強いのだけれど)「その先生(の教え方・人柄)が好きだから、その教科が好きになる」ということも普通にあるでしょう? 逆に、その先生が嫌いだから、今まで好きだった教科が嫌いになった、とかね。

昔の人は上手いことを言ったもので、「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」と言って、付き合って分かる事ってたくさあるじゃないですか。

あと、半年では体系的な学習はできないから、どうしてもユニット形式の内容(つまり大学みたいな感じ)になるわけだけど、数学や通史なんかはそれでは教えられないよね。そうすると、教科や教材が実質的にかなり偏って、例えば「日本の歴史を古代から近代まできちんと学びたい」なんていう希望には、そもそも応えようがなくなってくる。

そして最後に、中高校では行事が結構たくさんあって、これが学校生活を厚みのあるものにしているわけだけれど、これもたぶんできなくなるでしょう? だって、3時間で下校するやつ、午後から登校するやつなどが出てくることになるのだから。

ま、そんなわけで、デメリットの方が多いかな、と。
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この回答へのお礼

>人間っていうのはそういうものです。楽な方へ逃げたがる。

何が本当の「楽」なのか、
そんなことは、14~18歳の人間なら理解できると思ったのですが・・・
だから質問文に、
>私は、いくら体育が好きでも、
よほどの才能が無い限りは、(あっても?)
体育だけを選択するようなことは、だれもしないと思います。

と書いたのですが、そうではないと、あなたは言うのですね?

私は学校が大嫌いで、不登校も経験しています。
その中で、
どうすれば学校が楽しくなるのか、模索した結果、
生徒の自主性を尊重する、
という結論に至ります。
どんな結果であれ、責任は「己(おのれ)」にあるのだど知らしめ、
己にのみ依存し、それが真の自由であることを知ってもらう。
そのときに初めて、ヒトは一人では生きられない、
その事実を許容できるのです。

最低限の自由も与えないで、退屈な現実だけをつきつけるから、
いつの時代も、教育改正の声が絶たないのです。

なんでもかんでも、大人が子供に口出ししなければいけませんかね?
子供が一教科だけ選んで、未来に後悔するようなことがあっても、
それは自業自得。
それは、子供の将来を心配しないからではなく、
周りが決めたことをやって得た安寧に、
価値なんてないし、自分で考える力の無い人間が、今増えているからこそ、新しい教育が必要だと思いませんか。

>数学や通史なんかはそれでは教えられないよね

学校が教えないと、学ばないんでしょうか?
どうしても学びたいなら、自分で学べばいい。
学校はあくまで、浅く広くを教える場。
深く掘り下げたいのなら、自分でやればいい。
そう思うのですが。

学校は行事のためにあるものではないし。
一応、修学旅行はいけるし、
合唱だってできるし、運動会も、
全校生徒の投票で決めでもすればいい。

そんなものは微々たる問題。

お礼日時:2008/02/25 09:19

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