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どうしたらいいのでしょう。
まぁ・・・答えはでない議題とは存じ上げておりますが、参考までに皆さんの御意見をお願いします。

高収入・高学歴や高い地位にある親を持つ子供は総じて質の良い教育・教養を受け、やがて同じ高学歴高収入の道へ進んでいく方向にあります。
勉学に限った話ではなく、例えば腹を満たすためだけに炭水化物を多くとれるメニューではなく、
健康的な食事を与えられることによって、身体的にも差が出てくると思います。
習い事に関しても様々なジャンルで一流のレッスンを受けられ、芸術・美術等の才能を開花させる割合も間違いなく多いでしょう。

このようにあらゆる面において貧困におけるハンデは大きいと思いますが、
よく言う「努力でその差を埋める」のようなこともどうかと思います。

限りなく差をなくし、みなほぼ平等に機会を与えられる世の中にするにはどうすれば良いと思いますか?

A 回答 (22件中1~10件)

①ポル・ポトが行なったように成人を全て殺害し、大人と言う既得権益を全て否定すれば限りなく貧富の差がなくなります。


②全員を家族にする。多重婚、近親婚を行うことで、家族を拡大させる。
③極限環境で生活する。極限環境で生活するようになれば、個々の資産とという概念が薄まり、人間も含めて全ては共同体を生かすための道具になります。資産が共有されるので、貧富の差は少なくなります。
④①に近く、戦災や天災によって家屋、衣服、等の財産を全て失う。

裕福の限界は無限大ですが、貧困の限界は野生状態と決まっているので、限界が決まっている状態に近づけた方が確実でしょう。
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どんな仕事をしても皆同じ給料、福利厚生、退職金、ボーナス皆同じ待遇だったら、無くなりそう♪かな?

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最終的には「金があることが幸せか?」という疑問に対する回答になるかと

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NO9です。

昔は私学助成などありませんでした。私学は寄付金でやり繰りするというのが一般的で、そのため私学に行くことの出来る人間はかなり余裕のある家庭だけでした。貧乏人というか普通の家庭は国公立を目指すのが当たり前で私学へ行くことが出来なければ就職して夜学に通うぐらいでした。

今は私学助成があり、そこそこの家庭なら私学に通わせることが出来るようになりました。ただその反面国公立の費用がものすごく高くなり旧帝大系の大学に進学するのに学力的には十分な子供が費用面のために進学を断念しなければならないという事態も生じています。もし私学助成がなく、そこに使う金を優秀な人材を育てるために使うことができれば貧しい家庭でもしっかりとした教育を受けさせることができます。貧の連鎖を断ち切るには思い切った改革が必要です。改革というより昔に戻すだけなんですがね。

口は悪いですが一言で言ってしまえば、ボンクラの大量生産より逸材の育成! です。日本沈没を免れるためにも優秀な人材の育成に金をどんどん使うべきです。これは貧の連鎖を断ち切るためという個人レベルでの解決策のみでなくもっと大きく国家百年の計です。
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もはや資本主義社会の国がやる対応ではなくなった。

ほぼ欧米若しくは北欧の社会主義国家を見習うには税収増に繋がるいっぽうのジレンマ有り
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基本的に私は「違いがあることは美しいことだ」と思っています。

人間はまったく平等ではありません。

「一流のレッスン」という考え方も注意が必要で、「追いつけ、追いこせ」の時代においてはムリヤリ一次元的な序列に押し込んでとらえるのもそれなりに有効だったりしますが、今の日本はそうではありません。沖縄もとっくに基地経済から脱却しています。

重要なのは、どんな長所も状況によっては短所になり、どんな短所も状況によっては長所になる、ということです。読字障害(ディスレクシア)という障害がありますが、読字障害の人は空間の認識に優れている場合が多いとされています。ある状況において「短所」だからといって、それを矯正するのが本当にいいかどうかはとてもむずかしい問題です。

美術では、狩野派による「質画」と「学画」の違いについての議論が有名です。才能にまかせて描く「質画」と、古典を丹念に学習し模倣する「学画」を分けて捉えていたわけです。「個性を尊重」というと西洋的な「個人主義」を輸入した結果生まれたように捉えられがちですが、江戸時代の日本でもこういう議論はあったわけです。ちなみにこれは江戸時代の日本が「追いつけ、追いこせ」の時代ではなかったということも大きいのではないかと思っています。

学画においても、明らかに学習の度合いに差があり、それもやはり「才能」のあり方だと考えることもできます。するとやはり、質画における才能と学画における才能はまったく異なるものだとも考えられます。

質画を重視する態度と学画を重視する態度は基本的に両立は不可能で、ここで教育の多様性が重要になってきます。「合わない」と思ったらすぐ辞められること、選択肢の豊富さ、といったことが大事になるわけです。

しかし貧困家庭ではその多様性を享受することができません。貧困層から才能を発掘することに失敗し続けるのは人類の損失だと考えています。では補助金でなんかやればいいのかというと、事業者に対する補助金というものは思考停止と腐敗をもたらします。また、補助金によってかえって多様性が消失する危険性もあります。

そこで、学習塾を含めたおけいこごとにバウチャー制度を導入するしかないのではないかと思っています。おけいこごと限定のクーポンを発行するわけです。貧困家庭の場合はなんとかして現金化しようとしてしまうかもしれませんが、そこはテクノロジーが解決すると思っています。

こども食堂についても、補助金漬けになる前にバウチャー制度が適用できないか検討したほうがいいのではないかと思っています。
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ディストピア的な世界が好みなのかと思ってしまう。



他の方も書いているけど、生まれて一年で国が管理する施設にいれてみな同じ教育を受けさせるのがいいんじゃない?
その施設からの帰省も、家に貧富の差があり帰省も悪影響のある家もあるからなしで。

まあ現実社会において、ありえない。
子供は親は選べない以上、生まれてからいきなりの運試しで良い家に生まれられたらそれは運がよかった。
これも平等に機会を与えられている。
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明治時代の頃まで「士農工商」と言われた格差がありましたが


勉強をして帝大(今の東大)などに入ると
例えば商人の子がいきなり「士」のくらいまでに上がれるという
そのくらいの偉業だったのですね

そのために勉強に励んだのですね

福沢諭吉の「学問のすすめ」は
みなさんお馴染みの、人の平等が書いてありますが
これは人は平等であるとは書いていなくて
本来平等であるはずなのに
実際は平等ではない
これはなぜかということが書いてあります

ここには
勉強をした人としなかった人との違いであると
書いてあるのですね
そこに不平等が生まれると書かれています

だから「学問のすすめ」なのです

人が平等であるためには
結局勉強をすることですね

東大に入れば平等になれるということではありません

普段の勉強が大切であるということなのですね
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>みなほぼ平等に機会を与えられる世の中にする



平等な機会にするには、与えられる機会のレベルを最も低くして
同一にする。

まず、小中学校、高校、大学も義務教育にする。
また、教育内容は全国、統一する。留年もなし。
教育についてこられなくても、フォロー禁止
もっと勉強したくても禁止。
私立、塾は禁止。参考書なども禁止。

こうすれば、貧乏な人も金持ちも、平等に機会が
あたえられると思います。

質問者様は、小さい頃からの高レベル平等の機会をイメージされてますが
では、いつから平等の機会を解禁するのですか。
そして、そこから別な道に歩むのは、なにをもって歩むのですが。

権利と義務。

平等な機会を与えられたら、義務も生じますよ。
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半端なのが1番貧困かもぷん


学歴とかだけでも無いかもぷん
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