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 安倍前首相が行った教育基本法の改正やゆとり教育の見直しなど教育に関する議論が行われる中、ひとつ疑問があるのですがなぜ授業カリキュラムの見直しは公であまり議論されないのでしょうか?
 私は現在学校で教えている事が、不特定多数の児童・生徒が多様な進路に進むに当たって学ぶべき事として最適であるとは思えません。科目はもちろんの事、科目の内容についても見直すべき点は多々あるのではないかと思います。このような議論が盛んにならない事になにかしらの理由があれば教えていただけると幸いです。

A 回答 (8件)

NO.1です。

べつに気にしてませんよ。いろんな意見を聞く場でもありますから。
 学校という場はやはりどんなことがあっても、コモンセンスつまり「教養」を学ぶところでしかないのではないでしょうか。そういう意識が教員にはあると思いますし、社会的にも何となく暗黙のうちにそう理解しているのではないでしょうか。ここからは私の経験の話ですから、一般的かもしれませんが、国語の時間にロジカルシンキングの授業をしたり、論文の書き方を一学期間行ったことがありましたが、そのときの保護者の反応はネガティブなものでした。校長にクレームが入りました。内容は、このようなことよりも、きちんと教科書を教えて欲しいというものでした。この経験から私は少し臆病な授業運営になりました。それでも授業ではやるようにはしていますが。結局はNo5さんと同じで、問題意識を持つ人が少ないということがおおきな理由だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>べつに気にしてませんよ。いろんな意見を聞く場でもありますから。
 恐縮です。

>ここからは私の経験の話ですから、一般的かもしれませんが、
>国語の時間にロジカルシンキングの授業をしたり、論文の書き方を一学期間行ったこと
>がありましたが、そのときの保護者の反応はネガティブなものでした。
>校長にクレームが入りました。内容は、このようなことよりも、
>きちんと教科書を教えて欲しいというものでした。
 保護者のクレームというのは仕方がない事なのかもしれません、学歴の様なわかり易い指標を人は求めるものでしょう。抜本的な改革は受験制度に手を加えなければ実行できないのだと思います。

お礼日時:2007/11/10 10:48

 私は、やぶにらみなので以下のように考えます。


理由1 百葉箱と同じ
 現在の都市部の気温は、実勢を把握しているとは言い難いです。それは、気温を測定する百葉箱が、都市部では一般的なアスファルトの上でなく、芝生などの上に設置されているからです。それなのに、何故未だに芝生の上で測定するのでしょうか?
 それは、今まで百年余りに渡って測定してきたデータとの比較が出来るように環境・条件を極力揃えるためです。
 学力も、その動向を過去のデータと比較するためには、あまり条件を変更できません。

理由2 有識者の基礎条件(土台)だから
 カリキュラムを検討する有識者は、なぜ有識者かと言えば、「優秀で頭がいい」からです。なぜ彼らが「優秀で頭がいい」かと言えば、東大・京大を始めとするいい大学に入ったからです。彼らは、既存カリキュラムが他者より得意だったので、そこから出題される入試問題を他者より上手に解答できた。それが彼らの今日の優秀さの土台であり根拠となっています。
 そこで、カリキュラムの内容を大幅に変えると、彼らの優秀さを支える土台が崩壊します。
 つまり、有識者が変更できる範囲は、自己の得意分野である既存カリキュラムの手の平の内に限られるのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/11/22 12:38

 私は教職の経験はなく、専門家ではない一般人として提起します。


学校-義務教育で教えるべきこととは知識・実学に主点があるのではなく、「心を耕す=Culutivate-Culuture」にあると理解してきました。
実学・知識は以降の高等・専門教育で学べばよいのです。
 義務教育での国語は、文章や言葉の読解・理解力を深めて物事を感覚的に掌握する能力を高めるために。数学は物事を解析的に考察し、論理的な理解を深めるために。美術や音楽・体育は安寧な情操・情緒の育成のために重要と考えます。運動会や文化祭、遠足などもこの目的に照らして重要でしょう。つまり語彙無教育では「知識」を社会で生かすために教えるのではなく、「教養」の醸成のためにこそ教えるべきものと考えます。もちろん、以降の高等・専門教育のための基礎的素養は養われらければなりませんが。
 また、義務教育では人格形成のために教師のそれに直接触れて、触発されることも重要です。
 ますます膨れ上がる現代社会、これに対応する「知識」の教え込みを目的としても所詮はかなわぬ幻想となるでしょう。
 教育の目指すべきところ、カリキュラムの作成は、このような観点からも議論願いたいと考える次第です。
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/11/10 11:26

回答としてはNo.2さんと同じになりますが、議論は盛んに行われています。

マスメディアでも数日前に指導要領改訂の方向について報道されましたし、文部科学省のホームページではちょうど8日から新指導要領に関するページが開設されたようです。それが一般のレベルで大きな議論にならないのは、単に質問者さんのような問題意識をもつ人がそれほど多くないためでしょう。
科目や内容についても見直しは行われていますから、一度ご確認ください(質問者さんの意向に沿っているかどうかはわかりませんが)。

なお、中教審の審議内容については、一般から意見募集を行ったうえで今年度中に最終的な指導要領の改訂が行われることになるようです。メールや郵送でも意見を受け付けていますので、具体的な提案・意見があるようなら送ってみるのもいいでしょう。

参考URL:http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/index …
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます、参考URL拝見しました。

お礼日時:2007/11/09 01:55

またNo1です。

質問者さんが、どのような学校体験をしたのかわかりませんが、飛鳥時代の美術品に出会うことでその後の人生が変わることも多々ありますよ。(遅れましたが私は私立の中高一貫校の教員です。)質問者さんのあげでいることは、「実学」で、それを中心に学校が運営されたならば、ものすごくカスカスの経験だけで、社会に出て行くことになりませんか。作文指導、小論文指導をしますが、スキルはすぐに身に付きます。しかし、各内容、中身を深めることはとても難しいことです。多様な価値観、知識の集積の中から、生徒自身が見つけていくしか方法はないと思います。そのベースをまなぶところが「学校」という機関だとおもいます。塾が学校の変わりなることがありえないことや、どんな進学校でも学校行事があることなどがそれを証明しているのではないでしょうか。少し論点がずれてしまいました。申し訳ありません。
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この回答へのお礼

 度々のご回答ありがとうございます。質問者様が教職で培った経験とは比べるべくもないのですが、私は学習塾で数年間講師としてアルバイトをしていた事があり、その経験を踏まえていくつか思った事を申し上げます。(この項は本来お礼であるべきです、不快に感じれば削除を依頼してください)

>飛鳥時代の美術品に出会うことでその後の人生が変わることも多々ありますよ。
 飛鳥時代の美術品自体をどうこう言うつもりはないのですが(そもそもよくわかりません)、無味乾燥な教科書の記述と資料集にのった写真のみでは(少なくとも私が教えていた生徒が通う公立学校では美術品に関して詳しい観察や解説はしていませんでした)人生が変わる事は余りないのではないのでしょうか?

>「実学」で、それを中心に学校が運営されたならば、
>ものすごくカスカスの経験だけで、社会に出て行くことになりませんか。
 まず私は解答者様がいうところの「実学」(法律は実学なのでしょうか?)中心の学校運営をしろと言うものではありません。ただ教養の学習に時間をとられるという事がそれらを無視する事のエクスキューズにはならないのではないか、と思うのです。
 またなぜ実学中心の学習が“カスカスの経験”なのかもしれないと考えられるのでしょうか?経験の尊さは学ぶものと教えるものの心掛け次第であり、現行の教養科目を学んだところでカスカスの経験になる事は充分にありえる事でしょう。

>しかし、各内容、中身を深めることはとても難しいことです。
>多様な価値観、知識の集積の中から、生徒自身が見つけていくしか方法はないと思います。
 私が論文云々をいうのは実際に接してみて物事を論理的に考えたり筋道立てて説明できる子供がとても少なかったからです。
 私は3年間ほどアメリカに留学していた事があります。あちらの学校では英語(要するに国語です)の授業以外でも論文の提出を要求されることが多くこれは論理的な思考の訓練に大変有用であると思いました。内容云々はともかくとして論文を書く過程でなされる論理力の訓練は教師が関われる範囲だと考えます。
 

お礼日時:2007/11/09 01:39

No1です。

申し訳ありません、わかりづらい文章で。いいたいことは、学校は、これから物事を判断するためのひとつの判断基準(好き、嫌いは関係なく)を生徒たちに示すことが一番の目的にあるということです。
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はじめまして。


カリキュラムの見直しについては公の場で盛んに議論が行われています。例えば、文部科学省の中央教育審議会などはカリキュラムについても多くの議論をし、膨大な資料や議事録がウェブで公開され、実際の行政施策に反映されているものもたくさんあります。教育再生会議もそうでしたよね。読まれましたか?
tooma37さんが「授業カリキュラム」というのを何を指しておっしゃっているのかわかりませんが、私も今のカリキュラムがベストだとは思いませんが、それならどう変えていけばいいのかという対案を持ちません。tooma37さんは「見直すべき点が多々ある」とおっしゃいますが、具体的にどこをどのように見直すべきだとお考えですか?どうすれば「多様な進路に進むに当たって最適」なカリキュラムになるとお考えですか?具体的な提案をお持ちなら、こういう場で主張しそれに対する意見を求めることでも議論は深まっていくと思いますよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>例えば、文部科学省の中央教育審議会などはカリキュラムについても多く
>の議論をし、膨大な資料や議事録がウェブで公開され、実際の行政施策に
>反映されているものもたくさんあります。教育再生会議もそうでしたよね。読まれましたか?
 マスメディアや一般大衆にまで充分に伝わっていないというニュアンスを表現する意図で“公であまり議論されない”と申し上げましたが巧くお伝えできませんでした、申し訳ありません。
 中央教育審議会や教育再生会議の議論に関しては不勉強でよく存じません、主な論点を、特に何が行政施策に反映されているのかを教えていただけると幸いです。

>具体的にどこをどのように見直すべきだとお考えですか?
(これは補足要求ということでしょうか?)あくまでも雑感の域を出ませんが、ざっと挙げると
・現在の学科の学習量を減らしてNo.1の回答に対してお礼に書いたような事を教える事はできないのか
・国語で作文・論文の書き方を細かく指導し、他の教科でもそれを実行する事はできないのか
・英語の授業でオーラルコミュニケーションやライティングの比重を増やせないのか
・勉強方法(スタディー・スキル)を学校の場で教授・訓練する事はできないのか

という所でしょうか。

お礼日時:2007/11/08 22:40

回答になるかどうか。


まず、現在の科目、教科、教科内容の大筋は、社会人としてのコモンセンスの意味合いがあり、それがある程度定着していること、また、授業カリキュラムについては、現行の指導要領改正の時、確か「学校設置科目」というのがあり、学校がある程度自由に設置できこと、あと生徒の実態は各自でいるいらないを決めている=自分にとって必要ではない教科は手を抜くで対応していること、でも一番大きな理由は、学校は多種多様の生徒の進路などを決める場所ではなく、自分で判断していくための一つの価値観、ものさしであることが、議論が盛んにならない理由ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます
>現在の科目、教科、教科内容の大筋は、社会人としてのコモンセンスの意味合いがあり、それがある程度定着していること
 コモンセンスとしての意味合いというのはある程度納得できるのですがこのコモンセンス習得の為に忙殺される時間が余りにも長すぎないでしょうか?例えば簡易的な法律やコミュニケーション・スキルのトレーニングなどは殆どの社会人に要求されるものと考えますが飛鳥時代の美術品がそれほど重要とは私には思えないのです(しかも私は覚えていません)。

>自分で判断していくための一つの価値観、ものさしであることが
 申し訳ありませんが、この部分が前後と関連して何を仰りたいのか良く理解できませんでした。

お礼日時:2007/11/08 22:20

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