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仏教などでもそうだと思いますし
私の好きな歌手も同じような事をいっているのですが
「せっかく生まれたんだから今を大切にして悔いのない様に一生懸命生きましょう」
などと言われるのですが私も楽しく人生を
過ごしたいと思うのは共通するのですが
「どうせ死んだら全部が無になってしまうし、一生懸命生きたって何
にもならない」
と凄く悲観的なのですが皆様はどう思いますか??

また、これに関係してか分かりませんが私は未来に全く希望が
持てません。
「私はどうせ幸せになれない」「もっと楽しく生きたいけど私には無
理だろうな」って思ってしまうんですが、これは精神病の1種だったり
するのでしょうか?

宜しくお願いします

A 回答 (22件中1~10件)

貴殿の好きな歌手は、誰だか分からないが、私は、まず石原裕次郎をあげてみる。

彼は、わずか52年の人生で5万という映画、テレビドラマに出演した。そして、彼は、我が人生に悔いは、無しと歌って、黄泉の国へと旅だったよ。わずか52年だったが、裕次郎にしてみれば、100年分の人生だったわけだ。全力で駆け抜けた人生だったのだよ。私も、彼の歌を聴くたびに、涙腺がゆるみ、涙が止まらないよ!そしてまた、長渕剛という歌手は、まだ現役ばりばりだが、彼は、苦労人で、ヤジが飛び交う中必死に歌い続けて今日がある。実に30年以上にわたり歌い続けている。彼の歌は、アグレッシブで、感動的で、といったらきりがないほどいい歌ばかりだ。事に、「青春」という歌を聴けば分かるが、「泣くも笑うもどうせ最後は、自分なんだ!」といっている。悔いの無いようにということだろう。それとは逆に、尾崎豊という歌手もいた。彼は、26歳でこの世を去ってしまった。彼は、貴殿のように、人生に対して、厭世的だったよ。「卒業」という歌にも出てくるが、「先生貴方は、か弱き大人の代弁者なのか?」という下りがある。尾崎豊は、高校を卒業間近にして中退してしまった。彼もまた、人生に対して悲観していたのであろう。だが、良く聞いて欲しい。どんな境遇にあったにせよ、彼らは、彼らの熱いメッセージを我々に、残してくれている。それは、つまり、「生きることに不器用だが、自分の意見を聞いてくれる人がいるから、戦えるのだ」ということである。貴殿のように、厭世的になるのもやむなしといいたいが、もっと真剣に人生を考えて欲しいものである。長生きしても、無駄に生きている人、短くても懸命に生きた人、貴殿は、どちらを評価するかね?ほかの人生相談でもあるが、一流大学を出たいとか、医者になればいい人生が送れるとか、異口同音に、言っているよ。そんな人生を誰が、用意していると思うのかね?貴殿は、まだ年若いと思われるが、もう少し、頼りになる人を、探して、相談したらどうかね?100人馬鹿を集めても、1人の賢人には、勝てないのだよ。友人というのも、選ばないとね!バカと、友人になれば、地獄行きだよ!精神病じゃないね!貴殿自身が、くだらない連中とつるんでいるか、もしくは、くだらないドラマの見過ぎかも知れない。40を過ぎて、韓流スターを、追いかけるご婦人方は、哀れとしか言いようがない!青春時代が、どうであれ、常軌を逸脱している。不遇の幼少期を過ごした偉人は、それをバネに人生を駆け抜けていったよ。マーチンルーサーキング牧師、マルコムx、映画俳優チャールズブロンソンなど、みなそうだよ。人生の意味はだ、貴殿が死んでから、残された者によって、評価されるよ。生きている内に、人生の意味を分かるのは、お釈迦様でもない限り、誰でも無理さ。努力しかないよ。限りなき前進あるのみだ!考えるな!感じ取れ!頑張って、人生を全うし、永遠の楽園にたどりついたときこそ、人生の意味が分かるときであろう。以上です。お元気で!!
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○人生の意味とは。



幾度と無く見舞われる困難との対峙です。

○では困難とは。

自らを成長促進させるための手段です。

○ではなぜ成長しなければならないのか。

それは前を向いて歩いているからです。
足元の草花をそれに例えてよくご覧になってみることです。

そしてここが大切です。

○そんな努力をしても死んだら無になってしまうのだから意味が無いのではないか?

死んで終わりなのでしょうか?
無からは何も生まれないのと同じで、私たちはもともと無だったのでしょうか
どこかに在ったからこそ、この世界へ生まれ落ちたのではないでしょうか
人間いくら技術が進歩したとて、木の葉一枚無から作ることができないではありませんか。

○その世界は架空の産物に過ぎないのでは。

あったらなにか不都合があるのでしょうか。
死んだら無になると嘆いていたではありませんか。

○では、それはそれとして「私はどうせ幸せになれない」「もっと楽しく生きたいけど私には無
理だろうな」って思ってしまうんですが、これは精神病の1種だったり
するのでしょうか?

精神病ではありません。
ただ前に進もうとしている自分と、行動を起こそうとしない怠惰な気持ちが葛藤しているだけのことです。
ですが自然は常に前に向かって進んでいます。時計の針が逆戻りしないように。川の流れに逆らって其処にとどまろうとしているのですから大変なのは当たり前のことで、それが普通なのです。

○では、どうしたら幸せになれるのでしょうか、どうしたら楽しく生きれるのでしょうか

幸せとか、楽しくとは、つまり充実感、達成感がそれです。
難しいことはありません。
今、目の前にあることをひとつずつ片付けていくことです。
テーブルが汚いなら、整理整頓をしましょう。
綺麗になればすっきりしますし、どんな小さな課題でも片付けばそれに比例した達成感を味わえます。

身なりを整えましょう。
朝は決まった時間に起きて朝食をとりましょう。
挨拶をしましょう。
当たり前のことですが、身辺すっきりすると行動するための身が軽くなります。

大きな事を始めようとしても、まず身の回りからひとつずつやっていくことで次第に自分の欲求が高くなっていきます。
人間には欲があります。
次第に小さな達成感は習慣となり、より高次の達成感を求める欲求が自信とともに沸いてくるのです。

ですが、ここに落とし穴もあります。
家族などの身近な人を幸せにすることを疎かにして、世界平和を声高々に言っても足元がふらふらなのです。
まずは自分を大切にできること、そして一番身近な人を大切にできること。これだけだって一生かけても有り余るくらいの課題で満載です

矛盾するようですが、結局のところ自分の人生は人のために役立たせるということが根底にある満足感、達成感なのです。
なぜなら自分という存在は自分以外の誰かがいて認識できるものですから。
自分を大切にするように人も大切に思うこと。
そのためには人の苦痛を感知できる心が無くてはなりません。
その感性は、自ら困難に直面して経験しなくてはなりません。

身近な日常に真理は宿されています。
目を見開き、前を向いて歩いてください。
日常に散在するいろんな出来事からそれを感じ取ってください。

すべてが無駄ではなかったことが時がたち後ろを振り返った時、自身の経験からそれを感じることができるでしょう。

必ずです。
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 考えるのが好きなのであって、病気ではないでしょう。



 確かに、幸せになれない人も一定数量必ずいます。でも、多くの人は幸せになりたいと思っていると思います。いくら真剣に考えても、人生の意味とか、生きる意味とかの答えは、自分が決めるしかないのです。一生懸命生きる必要があるのかどうか、これにも明確な答えがあるようで、ありません。損得で説明できないからだと思います。

 一生懸命生きてださい。そのほうがやっぱりイイと思います。

 

 
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一生懸命生きたとしても、ひとりよがりだと、意味なし。


あなたの言うように 他人のために生きたいですね。
いかにも人のために一生懸命ですよというのは男の美学に反してます。
誰にも気づかれず、さりげなく、馬鹿呼ばわりされても、
人のために生きられたらかっこいいですよね。愚直と言う言葉がいいですね。

私は男はつらいよの 寅さんにあこがれます。
お金がないけど、自由があって、学はないけど、徳がある
なんかほっとしますね そういう人は
愚かな人がいいですよ 理屈はこざかしすぎますわ

仏教でも同じ、理屈ばかりの人は成仏できませんからねぇ
愚直で あなたのように 他人のために生きたいというのが
慈悲の心 菩薩です  それだけで素晴らしいですよね

適当で いい加減が いいかげんですがな
あなたは いい人です  
根拠はありませんが
そう思えます

 
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なるほど 


仏教では いまの世界は 仮の世界
いまが全てではない。

という考え方は 確かにありますね。

ただ 般若心経にしても 説かれる年代によって受け止め方って違うのですよ。

若いころは 全うな欲望は生きる力にもなります。
しっかり働いて家族を楽させたい・・・とか 勉強して スキルアップを図るとか・・・
欲望が希望にもなるわけです。

お年寄りに 欲を捨てなさい・・・と言うのは 物欲ばかりだと ろくな人間しか近寄ってこないし 冥土にも持っていけない、相続で揉め事の
原因になりますよ。

という事でしょう。

つまり いまを大切に生きるという事は未来の為なのです。
決していまがよければいいという意味ではありません。

たとえば いま男の子と遊ぶのが楽しいから 
やりたいほうだい 自分の身体のことなんてお構いなし・・・
という 生き方している女の子は 将来
本当に好きな人の子供がほしいと思ったときにできなかった。

ということもあったりするわけで・・・

そういう意味も含めて
いまを大切に・・・だと思います。

楽しい=幸せ
とは限らない
不幸せに見えても本人は光り輝いて幸せかもしれませんよ。

幸せの定義は 人それぞれで
年代や経験によっても変わります。

ただ 不毛な人生だと
おもっていても 必ず
日の当たる時期がやってきます。

そのチャンスを生かせないのは勿体無いですね。

人生100としたら5くらいしかない
日の当たる時期の為に95苦労していると思います。
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こんばんは。


どうせ、死んでしまうのだからこそ、適当に楽しく、やりたい放題に生きるのです。病気だって、治らない治らないと焦って治そうとするより、もう治らないんだからいいや、とあきらめたほうが気がラクに生きられるでしょう!
病気でもないのに、自分で病気をわざわざつくることもありませんよ!
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質問のような状態に陥るのは、心の中の思いに『因果倶時(いんがぐじ)』という原則があることをわきまえていないので、そのようになるかと思われます。

因果倶時とは原因と結果が倶時(=同時)、つまり、「原因=結果」ということで、この二つは一体であるということなのです。
早い話が、良く思えば良い結果が、悪く思えば悪い結果が現れるということで、つまり、その時の思いが、そのまま未来の結果を表しているのです。ですから、「どうせ~だろう」とか「~は無理だろう」という思いは、そのまま未来の結果として確定してもたらされてしまうのです。
ですから、楽しく人生を送りたいと望むのであれば、常に自分にとって得な、好ましい、価値あることばかりを思い浮かべるのです。損な、嫌な、不安な思いは、取り合わないのです。ここで「取り合わない」という表現をしたのは、実は、誰もが心の中に『己心の魔(こしんのま)』というものを抱えていて、これが我々の心の中で悪しき干渉をして、人々を不幸な方向へと引っ張ろうとして、様々な悪しき思いを投げかけてくるので、それを取り合わないようにすべき、という意味なのです。つまり、思いというものはすべて我々自身の為すものでなく、そのような悪しき存在があって、いろいろと干渉してくるのです。よく『魔が差す』という言葉を聞きますが、その元凶なのです。魔というものは、人々を不幸に、苦悩の状態に陥らせることに喜びを見出すのです。それで当然、魔も因果倶時の原則をわきまえているので、悪しき思いを投げかけて人々を不幸な方へと追いやろうとするのです。
ですから、このことを知る者は、いくら悪しき思いを投げかけられてもはねのけ、取り合わず、常に自分にとってプラスとなる思いで、心の中を満たし、素晴らしい人生を送っていくことができるのです。いわゆる『楽観主義』であり、逆に魔に屈した状態が『悲観主義』ということになるかと思われます。「魔を見ぬけば、魔に負けず」という言葉がありますので、今後は自身の心の中の思いを自分のものか、魔のものかを峻別するようにして、いわゆる「心の葛藤」をされて、今述べたことを認識されていってはどうでしょうか。
ともかく、因果倶時の原則と自分自身の思いと魔による悪しき思いによる心の中の奪い合いという構図を理解され、常にプラス思考を堅持されるように習慣付けられれば、その未来は希望に満ちたものとなるでしょう。
得な思いは得な結果をもたらし、損な思いは損な結果をもたらす、であるなら、いつも得な思いでいるべし、でしょう。
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国を動かす政治家も


宗教も
オウムなどのカルト宗教は言うに及ばず
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夢遊病者は精神病ではないのでしょうか?


今の世の中のほとんどの人間が夢遊病者みたいなもの
世の中精神異常者だらけ
繁殖しすぎたネズミが狂気のうちに水の中に身を投ずる姿と今の人類の有り様がラップする
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>どうせ死んだら全部が無になってしまうし、一生懸命生きたって何


にもならない

一生懸命生きたって何にもならないなんてどうして言えるのだろう
だいたい一生懸命生きた人間はこんな質問の立て方はしないだろう
必死こいて一生懸命生きてみたらどうだろう
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