痔になりやすい生活習慣とは?

質問させて頂きます。
私は、この世界には「何が正しくて何が悪いか」なんていうものは存在しないと思うのです。
ひとつの行動をとってみても、誰々にとっては良かった、誰々にとっては悪かったという影響というものはあるのでしょうが、
やはりその行動自体には何もないと思うのです。ただ、その事実があるだけというのでしょうか。
例えば殺人の場合にも、その殺人に関係した人各々が正しいや悪いという感覚を持つのであって、殺人という行為そのものには正しいも悪いもないと思うのです。
こういう話を人としたときに「じゃあ人を殺してもいいと思っているの?」と言われたことがあるのですが、それはまた別で感情という部分で好き嫌い、許せる許せないというものが有り、別に誰かを殺したいと思っているわけでもありません。
ただ、なぜこんなにも殺人が絶対に悪であるかのように思っている人が
沢山いるのかわからなくなることがあるのです。
やはり、人に関わらず自分が愛着を持っている存在を失うことが大きな悲しみを生むからでしょうか。

それとも私のこういう考えかたがおかしいのでしょうか?

読んで頂きありがとうございます。ご回答頂けたら幸いです。
よろしくお願い致します。

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A 回答 (18件中1~10件)

質問者さまの考え方に全面的に賛同しますが、これは哲学の基礎中の基礎であって別に特異な考え方ではありません。



物事の善悪を決めるのは誰でしょうか。
人間は(生物は)皆、主観的な考えや感じ方しかできません。
誰ひとりとして客観的な判断をできると言い切れる人はいないでしょう。では善悪の判断は神が決めるとしても、神という概念もまた人間の主観が作り上げているものです。
だからあなたの神と私の神は違うわけです。
だから地球上には無数の宗教が存在し、殺人を禁じる宗教もあれば殺人をよしとする宗教もあります。
動物愛護の観点からのベジタリアンもいますが、植物に痛みや感情が存在しないという証拠はありません。

この世に「絶対」や「客観的真実」は存在しません。
存在しても、それを判定する人がいないのですから。
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この回答へのお礼

私の表現に至らなかった部分が多々あったと思いますが
私の言いたかったことを、とても柔軟に表現して頂いたように思います。

それは、宇宙の始まりなのか、地球の始まりなのか、動物の始まりなのかはわかりませんが、正しいや正しくないということは、はじめは何もなかったのではないかと思っています。
この世に悪とされていることには、それだけの理由があって歴史により築かれ必要であることは承知しています。
しかし、それが絶対的であるという考え方に疑問を抱かずにはいられなかったのです。
生きていく上では絶対的とする必要はあるのでしょうが、もっと根本的な部分では絶対的ではないと思っているわけです。
仰るとおり、判定する人はいませんから答えというのは自分の中の物としてでしか存在できませんし、その絶対的というのもまた私の中の絶対的という意味になりますね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/15 19:26

はっきりいって、悩むことでもないと思います。


この世に真の意味での善悪など「存在しません」。

あなたの考えているとおり。

>ただ、なぜこんなにも殺人が絶対に悪であるかのように思っている人が
沢山いるのかわからなくなることがあるのです。

これが質問の核ですよね?
そんなもの、「人はなぜ死を恐れるのか」と「セット」で、
謎なのですよ。

人が死を恐れるからこそ、殺人が罪に「成り」、
死刑が「刑罰」としての効力を「持つ」のです。


人がなぜ死を恐れるのか。
これがあなたの疑問の核です。

宗教では、それは、
「人は無限に死んできたから」、
「無限に別れや痛み」を繰り返してきた。
その経験が無意識に蓄積されているから、
「人は死を恐れる」
という考えもあります。

ま、別にどうでもいいんですけどね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

人がなぜ死を怖れるのか、それはわかりませんね。
知らないことだからか、それとも各々が自らの恐怖をそこに見出すからでしょうか。

>ま、別にどうでもいいんですけどね。
そうですね、100%ではありませんが私にもそう思う節があります。

お礼日時:2008/03/15 21:17

絶対悪、絶対善とは「客観的に言え、万人に平等に通用する悪、善」というような事ではないでしょうか。

つまり、恒久的法則性を帯びる、善悪と言い換えても良い。

たしかに、人の性質が千差万別である限りは、何を善悪というのかという事の感識の仕方もまた千差万別であり、定義された善悪など存在しないと考えられますね。

従って私たちは、自らの心の中に備わっている善悪の感識作用に頼って行動の基準にするしかない。

そこで殺人と自殺についてです。
これらを悪と感識しない者ははたして存在するんだろうか?
殺人者、自殺者が後を絶たないにせよ、彼らはそれを悪と感識しなかったんだろうか?そんな事は無い筈である。なぜなら、そうするまではそうしなかったのだから。
共感能力を持つという事は自殺、殺人の悪性を感識出来るという事である。感識出来るという事は程度の差こそあれ感識したという事である。
共感能力は程度の差こそあれ、一応万人に備わっている。だから万人は程度の差こそあれ自殺、殺人の悪性を感識したのである。
そこで、自殺、殺人の起こる仕組みであるが、感識された悪を抑制する苦痛を凌駕する別の苦痛を回避する為にそれは起こる。
従って自殺、殺人が起こったからといって、自殺、殺人が悪と感識されなかったのではない。万人は自殺、殺人が悪であると、程度の差こそあれ感識したのである。

そこで、万人が共通して感識している実際に従って、まるでそれが絶対悪であるかのように表現されているに過ぎないのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

殺人と自殺を悪と感じるかどうか、それはきっと環境によって備わるものだと思います。
殺人と自殺は世界の常識として悪であり、またその環境の中でしか生きたことがありませんから、そう感じずにはいられないのですが、この常識が全く逆の世界があったならば、それを全く悪と感じないこともあるのではないかと思います。
しかし、現在こうして多くの人類が存在しているわけですから、人の始まりはそれを環境以外のものから悪と捕らえていたのかなとも思えてきます。

>そこで、万人が共通して感識している実際に従って、まるでそれが絶対悪であるかのように表現されているに過ぎないのではないでしょうか。
なるほど、言われてみればそれだけのことだったのかもしれませんね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/15 21:08

取り立てて、おかしいと言うわけではないと思います。


「善悪」の問題を、哲学的に思考した場合、必ず通る道と言ったところでしょうか。
私も、その道を通って今は以下のような結論に至ってます。

この問題を本格的に学ばれる気があるなら、「倫理学・道徳学」をやってみてはいかがでしょうか?

「倫理学・道徳学」というと、宗教的なイメージがありますが、それ以上に「人間学」でもあります。
また、「善悪の問題」は人間に属する問題であることも分ります。(もちろん、動植物や自然が善悪概念お持ってるかは分りませんが)
宗教というのは、この「人間学」の表層にしかすぎません。(まぁ、深い表層ですが)

つまり、「善悪の価値判断問題」は「倫理・道徳」に繋がり、「倫理・道徳」は「人間はどうあるべきか」に繋がります。
人間は社会に生きる生き物ですし、その社会が上手く回らなければ個人もまた生きることが出来ません。
そして、個人が生きることは社会が生きる事になります。
ただ、人は時に個が全面に出過ぎるため、「社会を殺す行為(反社会行為)」を行います。
それを戒めるのが「法の支配」という概念です。
「法」は「社会が個を戒める」手段です。
しかし、その戒めが行きすぎると今度は「個」を殺すことになり、社会が死ぬことになります。
社会が死ねば、個は生きられません。
※一番近い概念としては、J.S.ミル『自由論』での「自由はまた他者の自由とも衝突する。故に、他者の自由を尊重せず勝手な振る舞いをしてはならない」というのがありますね。
私がモヤモヤして持っていた概念を、見事に言葉に表されてしまいました。

と、まぁ、「善悪問題」をやって「倫理学・道徳学」に入ると、必然的にに「社会と人間」の関係を考察せざるを得ず、結果、(大きな概念での)「政治と個人」という考察に至ります。
最近は倫理学も細切れの「みじん切り常態」(「環境倫理学」「医療倫理学」「経済倫理学」など)になりつつありますけど、、、。

でも、目的は一つですね。
「個と社会が共に生きるための方法を考える」事ですね。
で、「個と社会を生かす」のが「善」であり、「個と社会どちらか一方、もしくは両方を殺す」のが「悪」というのが、今のところ私の出した結論ですね。

ただ、一つ一つの行為がどちらに属するのかは難しいですけど。(というか、相対主義に陥ってます・汗)
例えば、「殺人」にしても「人を守るために、相手を殺さざるを得なかった」場合と、「自分の欲求を満たすために相手を殺した」場合とでは、「善悪判断」が変ってきますしね。
つまり、行為と動機の相対関係によって「善悪が逆転」してしまう。
まぁ、だからこそ「裁判」によって「量刑」を決めると言うことが行われているんだと思いますけど。

参考になりましたら、幸いです。
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この回答へのお礼

私のこの疑問というのは、きっと社会で生きていく上では必要でない考えなのだと思います。
とはいっても、必要だから、不要だからといって考える考えないを決めているわけではないのですが。
私は今までさほど読書をしたことがありませんでしたので、これを機に読んでみたいと思います。
tyr134様のように私の中のモヤモヤが無くなるような、形になるようなものが掴めたら嬉しいですね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/15 20:44

私は人間の中には絶対の価値を持つ善悪の区別をつける共通の道徳観があると思いますよ。



selphie716さんは、特殊な状況の殺人について疑問を持っているようですが、人を殺すということに対する善悪の感情は状況によらず人類共通だと思います。

たとえば、妻が、夫を殺してばらばらにした事件がありましたよね。あれは、妻が日ごろから暴力を受けて、殺される可能性さえ感じていて、しかも精神喪失状態。情状酌量も考えると、無罪になる可能性が取りざたされていますよね。

だけど、あの殺人を犯した女の人は、いざ殺すとき激しい良心の呵責を感じたと思いますよ。もうどうしようもない状況だったと思いますが、それでも開き直って楽しく殺したなどということは絶対にないと思います。

そして、この感情は人類共通だと思います。
たとえ戦場で殺さなければ殺される場面であっても、やはり殺すことに楽しさを見出す人は(正常な人には)いないでしょう。そして、もしどんな状況であっても、楽しく、良心の呵責なく人を殺した人を、私たちは快く思わないでしょう。

私たちは、共通の道徳観を全ての人が持っていると思います。殺人は、シチュエーションによってはとても同情できる場合があるのは間違いありません。ただし、人を殺すということを正しいことだとはやはり誰も思わないのではないでしょうか?

これが私の意見です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
私は人を殺すということが正しいとは決して思っていません。
ただ、根本的なところには善も悪もないのではないか、
善悪はその行為そのものにあるのではなく、その行為から一人一人が感じて決めているだけのことなのではないかということが言いたく、聞きたかったのです。
hhituji様の仰る共通の道徳観というものは私の中にもあります。
殺人以前に肉体的にも精神的にも相手を傷つけるという行為が大嫌いです。

お礼日時:2008/03/15 20:19

>私は、この世界には「何が正しくて何が悪いか」なんていうものは存在しないと思うのです。



ゴルゴ13の原作者も似た様な事を言っていましたが。
もともと人間には善悪の解釈が無いと思う。
今でもそうですが、奪い合ったわけでしょ?人を殺して奪った。戦争なんてその最たるものです。それを善として扱う事が多いですよね?
それは何故かというと、社会がそれを認めればそれは善になる。認めなければ悪になるだけのことで。

善とか悪というのは本来ないわけですよ。
ゴルゴ13にとっての善悪というのは彼の中で解釈する善悪であり、それで変えてきたから、その時代の善悪というのが全然ないんだそうですよ。
参考になれば。
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この回答へのお礼

その通りですね。対象を人間に絞らなければ戦争よりも、日々の食事がそれにあたるわけですし。
善悪の解釈がないと言い切ることはしませんが、自らの悪の部分に目を瞑りがちな気がします。
見ていないわけではありませんが、一日を平均してみると瞑りがちになります。私の場合はですが。
ゴルゴ13機会があったら是非読んでみたいと思います。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/15 19:45

補足させて頂きます。



勿論、絶対的な善であり、無尽蔵な愛そのものです。
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この回答へのお礼

No.12と合わせてこちらにお礼をさせて頂きます。
それと同じように私の中にあるものは私の中にしか有り得ないとしか言いようがないような気がします。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/15 19:37

この三次元に生まれてきたということは、多次元から生まれてきた人と、同じ時間を共有するということです。


三次元以上の世界では、在り得ないことです。
なぜそういうことが解るかというと、私自身見て知っているからと言うほかありません。
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何をいまさら・・・・

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人間は集団の生き物ですよね。



人というのは個体としては弱い存在で、もともとは肉食獣に狩られる側だった。
それが集団を形成することで、頂点に登り詰めたわけです。
だから、仲間を失わない、組織を崩さない、ということが本能としてすり込まれてきているのではないかと。
それが現代では、「悪を憎む気持ち」になっているのではないかと自分は思っています。

その気持ちが持てない人は、人間社会を脅かす存在であるがゆえに、皆から嫌われ、駆逐されるのでしょう。

もっともっと根源的なところまで登っていけば、正義も悪も、生存のために人間の決めた約束事ですから、自然界に存在するものではないと思います。
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この回答へのお礼

私が言いたかった、何が正しくて、何が悪いかなんて存在しないと思うというのは、
まさにsicco様の仰った自然界という位置での話なのです。
しかし、そこには絶対的な答えがあるわけではないので、自分がどう思うか、どう納得するかということなのでしょうね。
それはきっと、これからも時間や何かのきっかけで形を変えていくものなのだと思います。
わかりやすいご回答でした、ありがとうございます。

お礼日時:2008/03/15 19:10

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Q客観的?主観的?

良く客観的だとか、主観的だ。なんて使われますが客観的と主観的の意味をだれかわかりやすくおしえていただけないでしょうか??
電子辞書などでひいてもいまいち理解できません。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

はじめまして。

主観的=自分だけでそう思う態度(主観≠事実)
客観的=だれが見ても、もっともだと思われるような立場で、ものごとを考えるさま(客観≠事実)

「わたしはAが正しいと思う」(主観的意見)
「でもみんなはBが正しいと言っている」(客観的意見)
どちらも真実ではありません。ただ、お互いの立場でAまたはBが「正しい」という2つの意見に別れるのです。要は「立場」なのです。

「そこに幽霊が見える」(主観的事実)
「そこに幽霊なんて誰にも見えない」(客観的事実)
どちらも真実ではありません。ただ、どちらにとっても「事実」と思っているのです。立場によって「事実」は異なります。

「自分はエビちゃんに似ていると思う」(主観的事実)
「でも人からはよくシノラーに似ていると言われる」(客観的事実)
どちらも真実ではありません。BFはエビちゃんに似ていると思っているかも。

つまり、客観は「だれの目にみても」と多数派の意見・事実なので、客観的意見・事実は論理を唱える上では有利で優勢なのです。一方主観は自由に使うこのできる便利なしろものです。主観的意見・事実とは、要は自分勝手な思い込みですが、それは真実でないとは決して言い切れないのです。

以上ご参考までに。

はじめまして。

主観的=自分だけでそう思う態度(主観≠事実)
客観的=だれが見ても、もっともだと思われるような立場で、ものごとを考えるさま(客観≠事実)

「わたしはAが正しいと思う」(主観的意見)
「でもみんなはBが正しいと言っている」(客観的意見)
どちらも真実ではありません。ただ、お互いの立場でAまたはBが「正しい」という2つの意見に別れるのです。要は「立場」なのです。

「そこに幽霊が見える」(主観的事実)
「そこに幽霊なんて誰にも見えない」(客観的事実)
どちらも真...続きを読む

Q硬派な男性ってどんな感じの人?

硬派な男性というのは、性格・行動にどんな特徴があるものでしょうか?

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流行やファッションに敏感なのかとか。
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どういう男性を硬派と呼ぶのか?
(逆に何派な男性ってどういうのか??)

人それぞれ違いはあるでしょうが、『O型の人はこんな性格』というような大雑把なものでかまいません。

硬派な男性に興味があります。
どんなことでもよいので教えてください。

Aベストアンサー

お邪魔します。
軟派と硬派を単純にイメージとしてとらえると、
軟派は、服装バッチリ、機会があれば、女の子にすぐ声をかけたり・・、硬派は意思かたく、服装だらしなく髪も自然体(?)。それはあくまで見かけ上で、
軟派と硬派の違いは、日常社会生活に満足しているかどうかだと思います。軟派は日常生活をすこぶる快楽的に過ごされますが、硬派と言われる人は、日常社会生活の矛盾なんかを一身で受け止め、それを変えなければと、自分自身に信条ずけしているんですね。何事においてもそれが優先してきますので、どうしても日常のことはお留守になってきます。こういったことが、硬派は融通がきかない、女の人に興味が無い、自己中心的だと評価されるのではないですか。またそうした近寄りがたいものに魅力を感じる女性もいられるとおもいます。
 

軟派も硬派も大半はその人の人生の中の一過性のものだと思います。昔軟派が今しっかり父さん、昔硬派がいくつなっても女にだらしないなんてのは日常茶飯事ですよね。
余計な事かもしれませんが、
もし質問者さんが、硬派の方とお付き合いされるのでしたら、その方の信条的な面まで立ち入らず、日常生活面だけをサポートしてあげれば相手の方は喜ばれると思います。(今の若い人でこんな付き合い方で満足できるのか知らん?)

ところで、現代の日本で、俗に言う硬派の人ってはたして何人いるのでしょうか?

お邪魔します。
軟派と硬派を単純にイメージとしてとらえると、
軟派は、服装バッチリ、機会があれば、女の子にすぐ声をかけたり・・、硬派は意思かたく、服装だらしなく髪も自然体(?)。それはあくまで見かけ上で、
軟派と硬派の違いは、日常社会生活に満足しているかどうかだと思います。軟派は日常生活をすこぶる快楽的に過ごされますが、硬派と言われる人は、日常社会生活の矛盾なんかを一身で受け止め、それを変えなければと、自分自身に信条ずけしているんですね。何事においてもそれが優先してきます...続きを読む

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「失ってからわかる大切さ」なぜ人は失う前に気づくことが出来ないのでしょうか?
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30代既婚者男です。

失ってから気付くことは多いですね。
なぜ、人は失わないと気付くことができないのか?ですが、
これは、当たり前と思う傲慢さが原因だと思います。

今あるものが全て当たり前で、永遠に続くものだと勘違い
してしまいます。
恋人が隣にいるというのが当たり前になってしまい、
優しさや思いやりに欠ける言動や行動をしてしまうのです。
恋人であったり、家族であったり、友人であったり、
それぞれ大切だと思えるものは違うのでしょうが、

全ては、いつか言えばいい。いつか行動すればいい。
という思いが曲者なのです。
ありがとう、愛している、ごめんなさいを今言えるなら、
今言うべきです。
明日にしないで、今出来ることは今するべきなのです。
そうした先送りの癖をつけていると、いつか本当に後悔する
日がやってきます。

今を当たり前と思わないで、今日一日を、今を精一杯生きる
ことこそ大切なことなのです。
明日が来るのは当たり前ではなく、奇跡なのです。
でも、心から大切なものを失う前に気付くことはとても
難しいことです。
失って初めて見つめることのできる心のシステムのような
ものですからね。
だから人は、失恋や失敗、挫折から学ぶことが出来るのです。

でも、こうして普段から意識を集中させていれば、
いつか、今を感謝できるようになれるはずです。
後悔は悪いことではありません。後悔が心を育てるからです。
たくさんの後悔の経験から得るものはとても大きいのです。
でも、一つ気をつけなければならないのは、あなたが今
感じている失って初めて大切に思える事が、単なる寂しさと
依存から来るものではないか?ということです。
この依存から来る思いでは、本当に大切なものを見過ごして
しまうかもしれませんからね。

失えば得るのです。逆に得ることで、失うのです。
どちらも良い経験ですね(^.^)

30代既婚者男です。

失ってから気付くことは多いですね。
なぜ、人は失わないと気付くことができないのか?ですが、
これは、当たり前と思う傲慢さが原因だと思います。

今あるものが全て当たり前で、永遠に続くものだと勘違い
してしまいます。
恋人が隣にいるというのが当たり前になってしまい、
優しさや思いやりに欠ける言動や行動をしてしまうのです。
恋人であったり、家族であったり、友人であったり、
それぞれ大切だと思えるものは違うのでしょうが、

全ては、いつか言えばいい。いつか行動すればい...続きを読む

Qなぜ「どうせ死ぬのに」、頑張って生きるのですか?

20代半ば、会社員です。


最近、あらゆることに対してやる気や情熱が持てなくなってしまいました。
理由は、質問のタイトルにも書いた通り「どうせ死ぬから」というもの。


例えば・・・

自分が勉強して知識を付けても、その内のほとんどは自己満足。

仕事でその知識を使い社会に貢献できたとしても、社会全体から見たらほんの極わずか。

自分が痩せて「嬉しい!やった!」と思っても、ほとんどの他人にとってはどーでもいいこと。ましてや社会にとっては何の意味もありません。

僕本人にしか分からないレベルで小さな変化や成長を自分の中に感じても、他人にとってはどーでもいいこと。

何かの技術に習熟して、他の人ができないことができるようになったとしても、やっぱり社会全体から見たら取るに足らないこと。

僕が何かの資格を取ったりしても、やっぱりそれは地球全体で考えたら本当に些細なこと。


そしてそもそもの話。

どんな風に生きたとて、結局のところ人は死にます。
当たり前の話ですが。

じゃあなんでどうせ死ぬのに頑張って生きるのでしょうか。

しかも、上述したように、何か頑張って成し遂げたとしても、ほとんどが自己満足。
自己満足を超えて社会に幾ばくか貢献できたとしても、その影響は本当に小さい。。。


もしあなたがベートーベンやゴッホなどの世界クラスの才能をお持ちであるならば、その影響は大きいでしょう。
ですが、そんな人は本当に極一握り。

僕を含む、彼ら以外のその他大勢の"凡人"は、結局頑張ってもその努力の跡や功績は後世には伝わらないんです。

じゃあ、頑張っても無駄じゃないですか?


一生懸命、大変な思いをしながら生きるのって、必要なくないですか?


ただでさえ、あなたは日本や世界という基準で見たら、小さい存在で、正直いてもいなくてもいいんですよ。
あなたは後世に残る程の偉人にはならないだろうし、多くの人間に必要とされる人間にもならないでしょう。


その上、悪口を言われたり嫉妬されたり、潰されたり、精神的に辛い思いをさせられたり・・・と、色々な目に遭いながらも一生懸命生きたとして、残念ながら結局は死にます。


じゃあもう、どうせ死ぬなら生きなくてよくないですか?



・・・・っていうようなことを、ここ3ヶ月ぐらい前からずっと考えています。



自分は今20代半ばで、これまで色々とその場その場で頑張って来たつもりです。


高校受験の為に勉強して、部活では一生懸命走って、大学受験をして、そして就職活動をして・・・と、なんやかんや頑張って生きて来ました。


でもここまで生きて来て急に気付いたんですよね。


「俺、どうせ死ぬんじゃん」
「このまま生きてても、どうせ俺は後世に何年も残る偉大なものを作り上げることなどできない。つまり長い歴史で見ると俺の人生なんて何でもないんだ」


ってことを。


これまで本を読んだりして知識を付け、本人しか分からないレベルで成長したこと。
趣味を一生懸命やって、そのスキルを磨いて自己満足を得たこと。
ダイエットして痩せたこと。
何かに感動したこと。
新しい経験をし、新しいことを知って喜びを感じたこと。


これら全て、結局僕以外の人間にとってはどうでもいいことなんだなと。
そして、当たり前ですが、結局死んで無になるんだから全ては無意味なんだなと。


こんなことを最近強く思ってしまうようになったんです。


別に仕事で辛いことがある訳でも、プライベートで絶望的何かがあったとかでもありません。
恋愛で躓いているとか、他人が羨ましくて仕方ないとかでもありません。
特にサボリたいとか、その様な怠慢状態になっている訳でもありません。


単に、

「凡人が生き続けても何も残らないし、自分が何に感動し何に喜びを感じても他の人にはどうでもいいこと。 しかもいつか死ぬ。じゃあ生きてても意味なくね?」

という気持ちが急に湧いて来て、消えないだけです。


巷には

「人間関係を円滑にする方法!」
「コミュニケーションをスムーズにする為の〇〇ステップ!」
「資格試験取得への第一歩!」
「10年先を見据えた生き方をしよう!」


みたいな趣旨を唱う自己啓発本みたいなのが山のようにありますが、こんなのも正直無意味です。

結局あなたに、そして僕待っているのは「死」なんです。



・・・みたいな、「そもそも論」的な部分でしか物事を考えられなくなってしまっただけです。



こんな状態なため、ここ3ヶ月は本を読んで知識を付けようと思っても、

「どうせ俺がこうやって知識を付けて賢くなっても、結局は自己満足だ。 しかも俺より賢い人はゴマンといる。 じゃあやっても意味ないよな・・・」

って考えてしまったり、趣味に没頭しようと思っても、

「どうせ俺がこうやって趣味を楽しんでも、俺よりこの趣味に習熟している人なんて山程いる。。。 じゃあ意味ないんじゃないか・・・」

こんなことを思ってしまい、もう全てに対してやる気が失せ、情熱を燃やすことができないんですよ。



この気持ちが一向に消える気配がないので、思い切って仕事も辞めようかとも思い始めてます。
仕事を辞めて、一切の友人関係を絶ち、部屋に引きこもって餓死するまでずっと横になって生ける屍になろうかと。

冗談ではなく、本気で。


かなり前置きが長くなって申し訳ありませんが、以上を踏まえて質問です。


なぜあなたは「どうせ死ぬのに」生きるんですか?
あなたが幸せになろうが喜びを感じようが他の人にとってはどうでもいいのに、なぜそれらを追い求めて一生懸命生きるのですか?
それと(これはできればで結構です)、どうすれば僕はまた生きることを肯定的に捉えられるようになると思いますか?


これらのあなた自身の明確な意見をお聞きしたいと思います。

(回答する際はお手数ですが、年齢の方も最初に明記して下さい。 その方が回答者様の人生経験などを推測しやすいので)

20代半ば、会社員です。


最近、あらゆることに対してやる気や情熱が持てなくなってしまいました。
理由は、質問のタイトルにも書いた通り「どうせ死ぬから」というもの。


例えば・・・

自分が勉強して知識を付けても、その内のほとんどは自己満足。

仕事でその知識を使い社会に貢献できたとしても、社会全体から見たらほんの極わずか。

自分が痩せて「嬉しい!やった!」と思っても、ほとんどの他人にとってはどーでもいいこと。ましてや社会にとっては何の意味もありません。

僕本人にしか分からないレ...続きを読む

Aベストアンサー

19歳女性です。

生きる意味なんていうのは、私も分かりません。
でも、「なぜどうせ死ぬのに頑張って生きるのか」の答えは何となく分かる気がします。
あくまでも私の考えです。

私は、「どうせ死ぬから」こそ、頑張って生きているのではないか、と思うのです。
もし、いつか死ぬと分かっていなかったら、ここまで生きてこられなかったかもしれない。
「死」という人生のゴールがあるからこそ、そのゴールまでの道のりを全うしたい、と思えます。
さらにいえば、生きる意味が分からないのも当然のことだと思います。
「生きる意味を探す」「生きる意味をつくる」というのも、立派な「生きる原動力」です。

抽象的になってしまい、分かりにくくなってしまいました。
もう少し分かりやすく言うと、私は、いのちの期限が決まっているからこそ、可能な限り、自分に与えられた人生を全うしたいと思うのです。
「生きる意味」というのは、誰かに提示されるものではなく、自分で見つける、さらにいえば、自分でつくるものだと思うからです。
だから、簡単に見つかるものではないのは当然です。
一生をかけて、向き合っていかなければいけない問いなのです。

勉学に励むことも、恋することも、友達と過ごすことも、家族をつくることも、仕事をすることも、全て、無駄なことではないと私は思います。
それらは全て、自分の生きる意味を形成するための重要な材料になるからです。

19歳女性です。

生きる意味なんていうのは、私も分かりません。
でも、「なぜどうせ死ぬのに頑張って生きるのか」の答えは何となく分かる気がします。
あくまでも私の考えです。

私は、「どうせ死ぬから」こそ、頑張って生きているのではないか、と思うのです。
もし、いつか死ぬと分かっていなかったら、ここまで生きてこられなかったかもしれない。
「死」という人生のゴールがあるからこそ、そのゴールまでの道のりを全うしたい、と思えます。
さらにいえば、生きる意味が分からないのも当然のこと...続きを読む


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