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普通、大人になるとはどういことかと質問すると、
たとえば、自分の行動に責任を持つとか、自立するとかというような答えが返ってくるのですけれども、
そういうことがここで聞きたいのではありません。

<子供>として生まれてきた私たちがそれと異なる<大人>に<なる>とはいかなることでしょうか。

一般に彼は大人になったというとき、彼の人相や振舞い方が社会に適応するように変化したことをいうようですけれど、それによって彼が別の人間に変わったことではないようなのです。

いわば実体として自然に存在する彼と社会の中で認められた彼という存在との対立を窺わせているのです。
<大人>とはいったいどこに存在するのか、という問いでも構いません。

私たちは彼は変わったとみなし得たとき、
懸命にまだ変わっていないところを探し出し、発見すると安心するではありませんか。
絶対に彼が変わることはないと保障されているならば、このようなことはありません。
では、彼は変わったというときに私たちが混乱してしまうところの彼という存在とはいかなるものなのか。
それを踏まえたうえで大人になるとはどいうことか、ということを考察しなければ納得がいかないのです。

A 回答 (13件中1~10件)

オトナになることも大切だと思いますが、それよりも文字通り大きな人になることが、本当の大人の有り方ではないかと思います。



オトナにこだわる人は多いですが、大きな人というのは実際世の中にはあまりいないように思えます。

しかし実際にいないわけではなく、自分が大きくなれば、身近にいるそういう人やそういう部分に気付くことができ、それは得がたい経験を得ることに繋がります。

世の中の有用性でも、オトナよりも大きな人のほうが段違いに良いように思えます。

が、自分には質問自体とても難しい話に思えます。
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質問をしっぱなしにしない時。



回答してくれた方たちへの対応がしっかりできる時。
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わかりやすい判断基準は、「社会的な役割が担えるかどうか」、もっとくだけた表現なら、「ひとの面倒が見れるかどうか」だと思います。



なぜかというと、個人的なことなら、その良否は「自分で判断」するわけですから、甘えが入る余地があります。しかし、「社会的な役割を担うことができているかどうかは」は、自分ではなく、他人が判断するわけですから、甘えが許されないわけです。

あとは、個人の考え方の問題です。甘えていても気軽に子供心のまま生きるのがわが人生と考えてもいいし、厳しいけれど、社会に積極的に関わりたいと考えるのも人生です。
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>普通、大人になるとはどういことかと質問すると、


たとえば、自分の行動に責任を持つとか、自立するとかというような答えが返ってくるのですけれども、

 それは社会における行動だけを言っていると思います。
働いてお金を稼いで、ご飯作ってとか、そういった
社会の決まりが覚えられれば、誰でも自立して行動
できるようにはなりますが、それでは大人とは言えません。

 大人になるというのは、自分が属している集団、社会から
完全に独立したものの考え方ができるということで、
他人の評価など気にならなくなる心理状態に達することです。

 
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><子供>として生まれてきた私たちがそれと異なる<大人>に<なる>とはいかなることでしょうか。


自分以外の人の気持ちを推し量って、利他的な行動がとれるようになること。
一方、こどもの心とは、自己中心的ながらまっしぐらに目的を追求して止まない探究心といった
ように、よい面を兼ね備えています。
子供っぽさとは、周囲を慮る配慮のなさを指すことが多いですが、ある種の女性には
そういう我がまま勝手さが純粋さとして魅力に思えるようです。

逆に思慮深くなることで、まっしぐらに目的を追求するようなパワーは衰えます。
無理なことをしない分別がつくようになると、「彼もずいぶん大人になったねぇ」などと
言われます。

>いわば実体として自然に存在する彼と社会の中で認められた彼という存在との対立を窺わせているのです。
><大人>とはいったいどこに存在するのか、という問いでも構いません。

大人とは、そういう彼の思慮の部分を指すのです。

>では、彼は変わったというときに私たちが混乱してしまうところの彼という存在とはいかなるものなのか。
映画スタンドバイミーのように少年が大人になる過程を描いた物語が数多くあります。
何かを獲得したりして人は大人になるのではなく、人は無限の夢や可能性に対して熱い思いを持って
生きているのですね。そしていつしか、熱が冷めて、世間のしがらみの中で周囲への配慮などに気付き
大人しくなっていく。
本当の自分らしさというなかに実は、子供独特の夢や探究心や限りない欲求とかいろいろあるわけです。
けれど、社会の他人が決めた価値観とか世間体みたいなものに目をむけて、自分の中でしか成り立たない
美意識や価値観(これこそが子供らしさの本質ですが)を捨てていくのです。

>それを踏まえたうえで大人になるとはどいうことか、ということを考察しなければ納得がいかないのです。
童貞も処女も「喪失」であるように、大人になるということは、子供の極めてオリジナリティの高い自分らしい
価値観の喪失にほかなりません。
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 定番のこたえがあります。


 《悪事に対しては 子どもであってよいが 考え方においては 大人になりなさい》。
 なぜ どういう事由で どんな情況にあって そうしたか これが分かる・また知ろうとする こうであれば 大人だと言っていいでしょう。自分がその当事者であったなら 《どうして そうしたか》についての答責性を持ち これを果たすなら 大人だとなります。

 どう変わるか あるいはさらにどのように努力するか これは あまり関係ないと考えます。関係は大いにあるのでしょうが そのときいわゆる大人がおしえるところの手段によって 大人になるとは 限りません。悪事を突出させて極論しますと 悪事にかんする専門家になることと 大人になることとは 微妙にちがうとも思われます。(その微妙さについては 長い論議が必要かも知れません)。
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科学の進歩はしばしば思索に新しい視点を提供するものです。

貴方の質問を最近の物理学の進歩に絡めて考えてみましょう。

物理学では「エントロピー増大の法則」と言う熱力学の経験則があります。それを粗っぽく表現すると、物理系の秩序は時間とともに壊れて行く、と言うものです。熱力学は自然の記述ばかりではなく、あらゆる工学に応用されて人類に膨大な利益を与えて来ています。

ところが、生物や人間の歴史や社会を見てみると、秩序や構造が時間とともに自然に出来上がって来て、一見エントロピー増大の法則に反しているように見えます。これは物理学者にとって、深刻な問題です。これだけ物質界で役に立ち、今までそれに反する現象を一度も確認されていない法則が、何故、生物や人間界に適応できないように見えるのか。生命現象は物理学では原理的に理解できないのかどうか、という問題です。

実は、それに対する回答が前世紀の後半に出されました。非平衡熱力学の「散逸構造の理論」というものです。それに依ると、熱平衡状態に居ない系が外界に開かれている場合には、それを含んだもっと大きな系に対してエントロピー増大の法則が成り立つとすると、その部分系に限って見ると、物理学の法則に従って新しい構造が自発的に生まれてくることができると言うことが判るようになったのです。ですから、生命現象といえども物理学で理解が可能であるということになりました。エントロピー増大の法則があるから構造が出来るという意味で、今までの認識とは正反対な帰結が判るようになったのです。この散逸構造の理論は現在、工学ばかりでなく生物学や社会学に応用されて、莫大な成果を上げています。

その散逸構造の理論によると、今までに考えても見なかった驚くべきことがいろいろ判ってきました。その中で、貴方の質問に関係するのは、新しい構造が自発的に出来る場合には、その系は必ず、不安定点を通過しなくてはならない、と言うことです。今まで、安定だった古い構造からもっと複雑な新しい安定した構造が出来る過程で、今までの構造をいったん壊す現象が必ず伴うのです。一つの古い安定状態から、新しい構造が出来る場合、一般には方向は一つだけではなく、いくつもの新しい構造に分岐できます。そして、その分岐のどれが実現するかは、この不安定点を通過するときに、確率的に大きく揺らぎ、最終的に一つの分岐が選ばれると言うことが判るようになりました。この部分を明確にした理論を「分岐の理論」と言っています。

さて、この事実を踏まえて我々の成長を考えてみましょう。人間には誰でも思春期というのがあります。これを散逸構造の理論から見てみると、この時期はまさに「子供」という古い安定状態から「大人」という新しい安定状態が自発的に出現してくる途中の、不安定状態なのです。その時期にはどんなにわずかな外界の影響でも、若者の心は確率的に大きく揺らぎ、結局大人としての新しい安定状態のどれが実現するかについて、偶然が圧倒的に大きな影響を与えます。

散逸構造の理論によると、不安定期なしでは、前より複雑な安定構造は自発的には絶対に出来ないのです。我々は皆反抗期を経験しています。ですから物理学者の目から見ると、大人になるとは、この不安定期を通過した後の、子供のときより遥かに複雑な新しい安定構造が、自分の心の中に生まれて来たと言うことなのです。
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いろんな視点がありますから、気づいたことからですが・・・



><子供>として生まれてきた私たちがそれと異なる<大人>に<なる>とはいかなることでしょうか。
>私たちは彼は変わったとみなし得たとき、

この二つは別のことでしょう。
大人になることと、彼を大人とみなすことは別ですね。
まず、後者ですが、実質的に想定しているのは一定の社会システムの中で、その現システムが維持されるに必要な構成員になったということでしょうね。

前者は、私という個が社会との関係性の中にこそ大人であるか否かの違いがあるのであって、法的な話や生物学的成熟度を除けば、個単体で子供であるとか、大人だという判断はできないのです。
その個が大人であるかどうかは、その対象とする社会に依存していることだ(その社会側によって決まること)と思うんですね。友人間での大人。地域社会での大人。社会人としての大人。国際社会での大人。全然違います。
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 自慢ではないが、古希過ぎ。

わがままや自分のことしか見ない、考えないのは感心しないが、この〔大人になる〕ということばくらいこの十二、三歳から、この60年間きらいなことばはありませんでした。
 そういうことで、つらい、いたい思いを自分でし、他人には迷惑を掛け、顰蹙を買ってきて、後悔することが多く、消しゴムで消したい。削除したいことが山ほどあります。
 そしていまも未完、未熟のままで日日の生活に努力しております。
 この〔大人になる〕というフレーズには、人により場により、いろんな意味になるものです。小才が利くようになり、世の中のやりかたになれることもそのひとつでしょう。
 いつまでもとっちゃん坊やじゃ仕方ないものだが、小さく小才で悟ってしまうのもどうかと存じます。
 人それぞれの人生哲学でしょう。
 結局意味を固有していないフレーズではないですか。代名詞みたいなものですよ。あれとか、これというような。
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個人的見解




義務を全うし、権利を正しく主張して得る事ができる ようになった者



だから、大人と成人は 別物。
って事なんじゃないかな。
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