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久野すすむの視点論を用いて「太郎は私から花子が来たことをきいた。」についての不自然さについて説明しなければなりません。これは受身文では自分より他人の視点を取ることができないからという仮説による理由なのか、もしくは別の解釈があるのか。。。正直理解できていません。簡潔な説明よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

言葉の最も大切な役割は、自分が言いたいことを相手に誤解なく伝えることですよね。

言葉の構造や規則がどうのこうのと言うことは、その最も重要なことを実現するために論じられるべきで、そのことが実現している文章に対して、規則通りであるのないのと言う論理を展開するのは、論理の意味をはき違えた所謂「屁理屈」と言うものだと思います。そう言う論理のいじくり回しは単なる頭の遊びであり、遊びたい方はどうぞご自由に、でもそれを学問などと言ってもらいたくないです。

「太郎は私から花子が来たことをきいた。」という文章の構成で、言いたいことは誰にでも正確に伝ります。ですから、この文の構成のどこにも不自然なところはないというのが私の結論です。もし、言いたいことを誤解なく相手に伝えるという言葉の最も重要な役割を無視して、この文章の構成が不自然だというなら、それを主張する「視点論」なるものの論理が不自然なのだと思いますが、どうでしょうか。

順序を変えて「太郎は花子が来たことを私からきいた。」と言うことも可能ですが、こちらの順序では「私から」に強調が置かれ、前の順序では「花子が来た」に強調が置かれているので、どちらが優れた順序かという問題でもないと思います。
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この回答へのお礼

早急の回答ありがとうございました、お礼のほう遅くなってすいません。わたしもNo.1さんがおっしゃるように屁理屈だと思いますが、私のほう、日本語教師になるための通信教育を学習中のため、こういった屁理屈を日々意義付けて学習しなければなりません。お返事ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

お礼日時:2008/05/03 20:18

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