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中学二年生です。

今、歴史で江戸時代についてやっています。そこで先生が鎖国の理由(3つ)を自分で調べなさいと言って教えてくれませんでした。

2つ(下参照)は分かりましたが後1つが分かりません。どなたか教えて下さい。

~分かった理由~
・キリスト教の禁止を強化する
・大名が貿易で力を付け、反乱するのを防ぐ

ちなみに、先生に聞くと、「銀の流出を防ぐ」と「海外に開かれた社会よりも、閉ざされた社会の方が管理しやすい」というのは小さな理由で、もっと大きな理由があるそうです。

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A 回答 (8件)

No.7の方の回答と少しかぶるのですが、


鎖国の理由の一つに、この時代の国際情勢として、ヨーロッパの国々のアジアでの勢力争いが理由の一つにあげられると思います。

日本には、まずポルトガル人がやってきて、
次いでスペイン人がやってくるようになり、
日本はこれらの南蛮人と貿易をするようになった、
ということは学校でも習ったことと思います。

その後ヨーロッパで、スペインから独立したオランダと、
このころ徐々に力をつけてきたイギリスが
アジアへの勢力争いに加わってきました。
この2カ国はお互いに争った結果、
日本への進出に関してはイギリスがオランダに敗れました。

オランダは更に、先行するスペインやポルトガルの足を引っ張るために、
「スペインやポルトガルは、キリスト教の布教をいいわけにして、
 やがて日本を植民地として支配しようと企んでいる」
と秀吉や家康に訴えます。

確かにスペインやポルトガルは、カトリック(宗教改革以前からのキリスト教)を信仰する国で、
アメリカやアジアにカトリックを広めようとしていたイエズス会を支援していました。
また、これらカトリックが布教された地域は、結局武力により多くの人々が殺害され、植民地にされてしまっていました。

しかし、オランダはこれらの国々と違って、プロテスタント(宗教改革によって成立した新たなキリスト教)を支持していて、キリスト教の布教にはあまりこだわっていませんでした。

したがって、江戸幕府がオランダとの交流を続けた背景には、
スペインやポルトガルの植民地となることを防ぐために両国を排除して、
また宗教の上で両国と対立する立場のオランダを味方につけることで、両国への押さえとしたということが考えられると思います。

他の回答者のみなさんがおっしゃっているように、
鎖国は上記のような単純な理由だけで行われたのではないのですが、
中学生の理解としては、
「江戸時代の日本は、外国との窓口を4つにしぼって制限しており、
 このことを後に『鎖国』と呼ぶようになった」
という程度で十分で、あとは4つの窓口と相手国を覚えれば万全でしょう。
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この回答へのお礼

有難うございました。そんなに考えないで単純に考えることにします。

お礼日時:2008/05/04 22:45

 当時、欧米列強の狙いはキリスト教布教で浸透し、州境対立などで内乱を起こさせてその隙に乗じて「植民地化する」ことにありました。

徳川幕府はこれを未然に防ぐことが最大の目的であったはずです。

 一歩踏み込んで、信長ー秀吉 の時代くらいにまでさかのぼって、日本の政治状況、対外関係などを勉強すると面白いですよ。信長や秀吉がもう少し長生きしていたら、世界の地図は大きく変わっていたかもしれません。ちまちまと不正確な表現の鎖国にだけこだわっていては、実のある歴史勉強にはならないでしょう。
 まだ中学2年生ですから、楽しみを先に繋ぐ程度の勉強でよいと思いますが。
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この回答へのお礼

分かりました。授業だけでなく、もっと踏み込んで勉強してみることにします。

お礼日時:2008/05/04 22:41

 No.5 でも述べられていますが、「鎖国」というのはあまり簡単に理解した気にならないほうが良い話です。


 そもそもこの「鎖国」という単語自体、ほぼ幕末に訳語として作られた言葉で、イスパニアとの交流を絶ったにせよ当時はその状態を「鎖国」と呼んではいませんでした。

 家光などは、本気で大陸侵攻を考えて計画を検討していましたし。
 結局無理と思って止めていますが。

 と、ここまでの解説でのキーワードは、外交です。
 いわゆる「鎖国」状態を考えるには、なんでそんな手法を考える必要があったのか。当たり前ですが、外国とどうやりあうか、戦うか和するか、etc. 付き合い方をどうすべきかということを当時の幕府は必死で考えたわけですよ。
 現代と違って、戦国時代が終わったばかり。国内での血脂のべとつくような和戦両面の外交を戦い抜いて勝ち残ったのが家康です。「相手の嫌がることはしません」なんて腑抜けたことを言う今の首相とは、格の違うリアリストです。相手の嫌がることをして自国の利益を引きずり出すのが外交なんですから。
 つまり、同じような、下手したら更にスケールアップした外交が、外国とも繰り広げられることは、家康やそのブレーンからしたら容易に予測が付く話です。
 その未来に対して、日本としてどう対処すべきか。

 幕末には、林子平が「海国兵談」という本で、「江戸の日本橋より唐・阿蘭陀まで境なしの水路也」と述べていますが、これは蒸気船が実用化された故のことで、家康の当時はそんなものはありません。帆船で可能な軍事活動は、高が知れています。

 そういう状況で、家康が、幕閣が考えた方向性はどういうものだったか。それを考えて見ましょう。
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この回答へのお礼

詳しい解説有難うございました。鎖国にあまりこだわらないでおきます。外交ってそんな嫌なものだったのですか。もっとお気楽なものだと思ってました。

お礼日時:2008/05/04 22:35

 鎖国をした理由というのは、幕府がそうしたのは


 なぜか というテーマなんでしょうが、
教科書的には、どういう整理がいいのでしょうね。
 教科書も単純な記述避ける というような記事もありました。

 最近は、
「幕府は最初から鎖国を意図していたわけでない。
その状態がたまたま200年ほど続いた『なんとなく鎖国』
だったと考えるほうが実態に近い」というような見解もあるようです。
 ひとまず現代中学生としては、試験にでそうな見解を考えておき、
 また、それとは別にいろいろ、「自分で」考えてみてはどうかな・・
 というのが先生の意図かもしれませんね。
 
 鎖国(さこく)を、江戸幕府が日本人の海外交通を禁止し、
外交・貿易を制限した政策と意味づけた上で、
「そういうこととしたとしたらなぜなんだろう」を考えると、
基本的には自己防衛(それをしないと政権がたおれる)
ということでいろいろな方針をとったということなの
かもしれませんね。
 
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この回答へのお礼

当時は「鎖国」をしているつもりはなかったのですね。それを、後の時代の人が勝手に鎖国だと言ってるだけなんですね。

お礼日時:2008/05/04 22:30

NO,3の方のいっている通り、この頃世界はスペインとポルトガルが世界を2分して領土を取り合っていた時代です。


15世紀から16世紀当時の最強国家スペインとポルトガルは1494年にトルデシャリス条約というのを結び、世界を2分することを決めましたが、
その後地球が球体であることが分かり、あらためて1543年にサラゴサ条約でアジアの領土分割がなされ、
その結果日本はポルトガルが領有して良い場所になりました。

そして1549年、ポルトガル人宣教師フランシスコ・ザビエルが日本に植民地化の調査のためにやってきます。
当時宣教師は皆植民地化の調査員です。
当初は日本を植民地化する予定であってポルトガルは、やがて日本の技術力、国力の高さを見て、貿易相手とみなして対応するようになります。
しかし、1580年にポルトガルがスペインに敗れ、スペインの全盛期に入ると、
スペイン王のフェリペ2世はポルトガルと違い、日本を植民地化しようと画策します。
それを知ったのは、秀吉の時代。秀吉は1587年に伴天連追放令を出して宣教師を追放しています。

家康以降もこの動き続いたのですが、スペイン国王フェリペ2世が健在のうちには、大胆な行動を控えていました。
1598年にフェリペ2世も亡くなり、スペインの力が弱まった段階で、
日本はスペインの植民地化への行動を次々と止めさせていくようになり、
鎖国という結果になったということです。

つまり、日本を植民地にされることを恐れたためではないでしょうか。
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この回答へのお礼

日本を植民地化しようとしていたのですか。知りませんでした。有難うございました。

お礼日時:2008/05/04 22:27

学校の調べ物なのですよね。

なら、せっかく連休も間近なので、図書室で調べ物などどうでしょう。というのではちょっと薄情ですよね。私もここで随分助けてもらっていますし。
それに、銀の流出防止と内政の優先が小さな問題と考えると、その上位に来る問題は、少し頭を使います。先生の質問の難度が高い気がします。私が中学の時には、銀なんて少しも思いつきませんでしたから。
私のすぐ思いつくところでは、いわゆるキリシタン大名の領国内にプロテスタント勢力の実効支配する土地が生まれ、国防上の危機感を抱いたため。これは1の禁令強化ですよね。
戦国の気風を残す諸藩の力を殺ぎ、同時に幕府が対外貿易を独占するととで利益を得るため。これは2の大名の反乱を防ぐためにあたりますよね。
後思いつくのは、当時の西洋の海洋覇権の争いに巻き込まれたくなかったというところでしょうか。鎖国の前後って海洋大国が覇を争っていた時期と重なるはずですから。うろ覚えですが、幕府は海外の日本人街を全て引き上げさせ、従わない者は以後、幕府として責任を負わないという触れを出しているはずです。

もし連休中に文献に当たる時間があるのなら、日本史の目線だけでなく世界史の目線から調べてみるのも面白いかもしれませんよ。
少し趣旨は違いますが、昔私がした質問を張っておきます。参考になるといいのですが。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa827327.html
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この回答へのお礼

有難うございます。西洋の海洋覇権の争いなんて全く知りませんでした。連休はひまなので調べに行くことにします。

お礼日時:2008/05/01 23:37

鎖国によって、病気感染が防げたことだと思います。



ヨーロッパの歴史の中で、14世紀にペストの大流行があり、その後も17~18世紀に何度か大流行がありました。(日本では、明治に初めてのペスト患者が出たそうです。)

例えば、船には病原菌を持ったねずみも乗って来ることもあったと思います。

一説によると、インカ帝国の滅亡原因はヨーロッパからもたらされた天然痘などの病気が原因と言われています。

今では検疫とか予防注射とか情報が発達して何とか防ぎようがありますが、科学の発達していなかった、その当時において伝染病のまん延は戦争と同じかそれより恐ろしいことだったと思います。(今日でも、鳥インフルエンザN5H1型等も心配ですが。)

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%82%B9% …
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この回答へのお礼

詳しい解説有難うございました。
ペスト病なら以前ならったことがあるのでそうかもしれません。明日、先生に聞いてみることにします。

お礼日時:2008/05/01 23:33

逆に質問です。


自分で調べなさいと言われたのですから、他人に教えてももらうのは良くないのではないでしょうか?

先生はなぜ3つと言ったのでしょうか。
小さな理由も大きな理由も、理由は理由ですよね。
どうやって、小さな理由と大きな理由に分けることができるのでしょうか?
理由と言っても、結局は後世の人間が解釈したものではないのでしょうか?
それとも当時の施政者が、鎖国の理由を記しているのでしょうか?
何にせよ、先生は何か本(教科書もしくは、先生用の答えが全部書かれた教科書)にそう書いてるんじゃないでしょうか?
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この回答へのお礼

すみません。でも、自分で考えたり、家にある本や、インターネットで調べたりしても上記の4つの理由しか浮かびませんでした。そこで、みなさんのちからをお借りしようと思ったのです。
今度、図書館で調べてみます。

お礼日時:2008/05/01 23:29

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Qオランダが鎖国中にも貿易ができた理由

鎖国中には清とオランダが出島に限って貿易を許されましたが(他に朝鮮通信使や琉球慶賀使などはありましたが…)オランダ船来航が禁止されなかったのはキリスト教布教に熱心ではなかったということを聞いたことがありますがこの理解で正しいでしょうか?

Aベストアンサー

キリスト教布教に熱心でなかった、なんてレベルじゃないです(^^;)。

キリスト教布教絶対絶対やりまっせん!!! 商売一筋!!!
だから我々オランダの船とだけ仲良くしてねっ♪♪♪

とゆー強烈アピールをしまくった結果です。
何しろ島原の乱の時、幕府に協力して、篭城中の日本人キリスト教徒たちに砲撃までしてますから。
(他の欧州キリスト教諸国からは「そこまでして金儲けしたいんか!?」と大顰蹙だったそうです)

当時のオランダにとって、対日本交易は結構な利益でした。
独占出来ればこんなにオイシイ話はないので、表から裏からアレコレと頑張っていたようです。
(以前NHKで見た歴史番組によれば、そもそも、ポルトガルとスペインは布教目的で来日するから追い出したほうがいい、と進言したのもオランダだった、という話です)

幕府としては、キリスト教に関係の無い国となら貿易しても構わなかったのですが、それぞれいろんな事情があって、「皆そろって長崎で交易」というわけではありませんでした。
逆に言えば、長崎を通して交易していなかったからと言って、日本と交流が全く無かったわけではない、ということです。
以下、知っている限りで並べておきます。

●朝鮮王国●琉球王国●アイヌ諸族●
>>>>>それぞれ対馬藩、薩摩藩、松前藩が専門に担当。
これらの藩は、江戸時代以前からの交易相手であり、財政も交易の上りで成り立っていました。
他藩に横入りされると死活問題なので、江戸幕府成立前後は硬軟様々な手段を講じ、「対XX交易のエキスパート」という地位を獲得しました。

これら3つについては、幕府直轄の長崎を通していなかった、というだけで、日本全体で見た場合は“交易があった”と言えます。
(通信使や慶賀使は国家同士の公式の使節のやりとり。
 商売はまた別に、各藩の港でやってます)

●明→清帝国●
正式の国交は無し。民間の貿易商のみ往来。

●東南アジア諸国●
実は江戸前期には数回来た記録が残っています。
しかし、遠い上に、対日交易を独占したいオランダが妨害工作することもあって、いつの間にか来なくなってしまいました。

東南アジア諸国の物産はオランダや清の民間商人が持ってきてくれるので、日本人は別に困ることもなく放っておいたと思われます。

キリスト教布教に熱心でなかった、なんてレベルじゃないです(^^;)。

キリスト教布教絶対絶対やりまっせん!!! 商売一筋!!!
だから我々オランダの船とだけ仲良くしてねっ♪♪♪

とゆー強烈アピールをしまくった結果です。
何しろ島原の乱の時、幕府に協力して、篭城中の日本人キリスト教徒たちに砲撃までしてますから。
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当時のオランダにとって、対日本交易は結構な利益でした。
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