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2つほど全く別の質問があるのですが宜しくお願いします。

まずは仏教に関してなのですが
「仏の心(仏になるともいうのでしょうか?」
という言葉がありますが、仏の心とはどういう意味なのでしょうか?

阿弥陀如来の誓いなどを見ても分かる通り慈愛の心
を持つことが仏になるという事だと考えることも出来ると思いますが
元々の、お釈迦様も、やはり慈愛の心を持って人々に般若心経などを
説いたと考えれば良いのでしょうか?

ただ、お釈迦様の教えに比較的近いのではないかと思われる
禅宗などでは慈愛の心を得ることは目的にしていないと感じたのですが
禅宗では仏になるとは、どう言う事だと捉えてているのでしょうか?

また話は別になりますが
ユダヤ教→キリスト教→イスラム教の順で、これらの宗教は発生
したんですよね?
聞いた話だと、この順番が別になっていて驚いたので・・・

A 回答 (12件中11~12件)

>禅宗では仏になるとは、どう言う事だと捉えてているのでしょうか?



各宗派は知りません。
やり方、作法など、やり方が違うだけと思います。
言葉、言い方が違うだけ。

ただ、チベット仏教にしても、もともと、農耕民族だったから、平和に暮らしたい。
慈愛にみちた暮らしがしたいだけでしょう。
武装で脅かされるのは真っ平ごめんと言ってると思います。

>ユダヤ教→キリスト教→イスラム教の順で、これらの宗教は発生
は分かりません。
でも、聖地の奪い合いは永遠に続いてますね。
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この回答へのお礼

返事が遅れ大変申し訳ありませんでした

お礼日時:2008/07/29 22:57

ご質問の文章を読んでいて、ぱっと頭に浮かんだ言葉が「如来蔵」「仏性」という言葉です。

この言葉をキーワードに検索すれば、たくさんのサイトがヒットすると思いますし、これらに関する書物もたくさん出ています。

簡単に言えば、我々人間は、仏になれる素質を生まれながらに持っています。その素質は、様々な煩悩によって覆い隠されています。その煩悩を修行によって取り除いていき、本来生まれながらにして仏であるということを自覚していこう(=成仏しよう)というのが、本来の仏教であると思います。

禅宗は、このような教えに基づいて坐禅修行などを行なっていると言えるのではと思います。
おっしゃるように、禅宗では「慈悲の心を得るために修行すること」を第一義として説いてはいません。
慈悲の心を得るために修行するのではなく、「本来、我々は仏の心(仏になるための素質)を持っているのだから、その本来の姿に立ち帰ろう」と説いています。悟りが開けさえすれば慈悲の心はちゃんと現われているはずなので、慈悲の心を得ることを目的にしているのではないのです。

などと偉そうに書きましたが、「如来蔵」や「仏性」については様々な説があり、私の書いたこととは違う説も多々あると思います。また禅宗でも、実は「磨くべき仏性などはない」というのが本来の考え方です。このようなことを説明するには、ここのスペースでは書ききれませんし、もちろん、その説明をするだけの力量を私は持ち合わせていません。

これらのことについては、各々について詳しく説かれている書物を読んでいただければと思います。

あと、ユダヤ教→キリスト教→イスラム教の順番についてですが、全くの門外漢ですので最新の研究等がどうなってるのかは存じませんが、一般的には書かれている通りの順番で成立したと言われていると思うのですが……。
こちらに関しては全く自信はありません。
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この回答へのお礼

返事が遅れ大変申し訳ありませんでした

お礼日時:2008/07/29 22:56

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