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哲学者の皆様には失礼でしょうが哲学を学ぶ意味はあるのでしょうか?

A 回答 (22件中11~20件)

それが自分の悩み苦しみを減らし滅するもの。


それが他人の悩み苦しみを減らし滅するもの。
それが理性的な判断力を付けるのに役に立つ。
それは理性と逆の感情を煩悩をます性質はない。
それは慈悲喜捨・を賞賛するもの。
怒り害意貪り差別を賞賛するものではない。

しかもその方法を語り、その方法を試すと実際にそのようになる。

ならば役に立つでしょう。

仏教の大元であるパーリ語の仏典の哲学的な要素をまとめたサンガ出版の「仏法」はこの要素を満たし、精妙に語っていると思います。

このような哲学的見解もありますよ。

一度触れてみてください。「正見」の項目だけでも発見が多くあると思いますよ。
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 ご回答の通り蚊も知れませんね。

それにしても、そうですねたいせつなご質問ですね、というご回答がないようですね。
 1. どんな哲学をおおせられているのかしら。
 2. どのように取り組んでいる哲学のことなのでしょうね。
 どんなレベルでどんな段階、どんな位相での哲学とその探求なのでしょうね。
 3. どういう面の、何のための意味なのでしょうね。

 人生も、この世界も、創造もどんな意味があるのでしょうね。
 誰がどこの方角から、意味を言うのでしょう、つけるのでしょう、指示するのでしょう

 仮に創造という主体格、意識があり、その行為であったとしたら、創造、この世界、人生ってどんな意味があるのでしょうね。

 意味のない仕方の哲学、意味のない哲学というのもあると存じます。
 この世界、創造界、人生はどんなアプローチ、見方、扱いでも意味のないものはないのですが、確かに哲学は内容ややり方では意味のないものもあるかもしれませんね。

 この世界、創造界、人生、経験などは端末ディスプレー、現象でしかない私たちが主人公は、主格だという錯覚をもっていても、実はぜんぜん違う意識と存在が主格ですものね。
 意味を問題にされるご気持ちは理解すると同時に、否定します。
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先日どなたかの疑問に、現実と非現実の違いは何かというものがありました。


また、時間とは何か、というものもありました。
最新の難解な量子物理学は、重力の量子的解明によってこれらに光をあてようとしています。
プラトンもアリストテレスも老子もベルグソンも経ていなければ、わたしたちの科学はニュートンを脱ぎ棄ててこのような尖鋭な科学まで到達しませんでした。
科学も芸術も古くなります。哲学は古いものから新しいものを生み出す潤滑油です。
哲学はファンタジーではないのです。

ものごとの視点、着眼点、発想と道筋、方法論、そして横ひろがりの体系づけ、といったものは、
年齢経験を問わず、知識だけではない学問の素養がなければ身についていません。
これらは、どんな学問にも出発点として必要な原動力、飛翔力です。
だれがどのようにこれをおこなってきたかという通史的な知識だけに耽溺することが哲学を学ぶことではないです。
哲学において学ぶことのうちには、すでに体系づけられた、議論の場の強度を備えた、根を張り枝をひろげた、きらめくような思考があります。

場所となるほどの強度・広がりを備えた思考に、わたしたちはひとつひとつ触れていくことによって、
疑問をことばにとらえ、さまざまなダイナミクスから分析し、思考をよりあたらしくしていく、という営みを、研ぎ澄ましていくのです。

そうやって生きた思考をみずから持つことは、仕事や生活でも、暇つぶしでも、あたらしいものへと動いていく力になるのです。
哲学をファンタジーとして閉じたもののように眺めてしまえば、どのようなこころみも、科学であれ芸術であれ、思考は停滞し新しくなれないのです。
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>-唯我論を学ぶ意味はないと仮定します-


>と言う事は、一応唯我論も哲学に必要になってくることでしょうか?
>確かに意味を知ることができれば勉強しても損はないかと思います

質問プリオリティーからすると知るべきことは
1.「意味」の定義
2.「哲学」の定義
3.「論理学」の学習
4.「唯我論」の学習

「1.」は、必要でしょう。
それ以外は、興味の問題。質問者であるあなたが、直感的に推定したとおり、文脈的テーマとして、唯我論は、それほど重要ではないと思われます。

PS人生蹴球
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サッカーが好きな人はサッカーをするし、嫌いならサッカーを観もしません。



意味とは何か?を知らずに何故「哲学に意味があるのか?」と問うのでしょうか?

意味とは絶対な足場ではなく、雲のような存在。雲の上に、建築物は創設できません。要するに、質問として成り立っていないということです。何故なら、意味を見出だして、サッカーを始める人間は誰一人としていませんし、未来においてもないでしょう。
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哲学者自身でも、この問題に答えている人がいる。

中島義道というカントの研究者なんだが、海外にまで私費留学して研究するほどの熱心な哲学者だ。「戦う哲学者」と言われていた。ところが、『人生を半分降りる』という本を出して、半分隠遁生活のような状態になった。今でもそうじゃないかなと思う。私もこの本を読んだが、中島は、「哲学の世界などというのは俗物だらけだ。実際には、カント研究をしている日本の大御所でも、カントが分かっていない。分かってもいないのに、論文を書くことで、崇められている。その下にいる研究家も、哲学のことなど分かっていないのに、認められたいばかりに、大御所にゴマをすり、出世をめざしている。哲学とは、学んだことを実践に移さなければ、何の意味もない学問だ。だから、俺は人生を半分降りる」。記憶で書いているので、違うところがあるかもしれないが、こんな感じの本だった。ある意味、中島の言っていることも分かるような気がした。正しいか間違っているかは評価の分かれる哲学者だが。

学問の意義は、生きることそのものだと私は思っているが、それならば、生きることから学ぶことも哲学だ。本は読まなくとも、人生の中から哲学を学び取っていることも学問だと思わないか。

学ぶことが生きることなら、「本物」は案外、市井の中にいる哲学者達だったりする。背中を丸めて畑を耕す田舎の爺さんが、大学教授より哲学を知っていることだって十分ありえる。自分が哲学者だとも思っていないだろうが。

綺麗なべべ着て、ウマイものを毎日食べ、権力を持ち、品格と知性があるように見えるが、いざとなると鬼に変わるような人間がいる。一方で、何の事情があったのかは知らないが、住所を失って路傍に生活する者もいる。文句一つ言わずに、黙々と生きている。権力を振りかざす奴より、ずっと人間として品格がある人間が、以外とこういう所にいるような気がする。

おっと、悪い癖で、また長文になりそうだ。質問は、哲学を学ぶ意味はあるかどうかだった。哲学は生きることに反映されなければ意味がないと私は思う。哲学を学んでも、それを生きることに活かすことのできない人間もいれば、活かすことができる人間もいる。

だから、答えは、あるともないとも言える。人それぞれじゃないか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
なるほど、人それぞれですか。

お礼日時:2008/08/05 12:57

学ぶ人に、何らかの目的があれば意味があるのではないでしょうか。


意味がないと思っている人には、意味はなく、意味があると思っている人には意味がある。
生きることのみを追求しなくて良くなってから、人間は自分で自分の行動に意味を持たせています。

とはいえ、少なくとも、ギリシア時代から存在する思考の体系が、未だに存在しているのですから、それなりに意味があると考える人が多いのだろうと思いますよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
軽めの物から学んでいきたいと思います

お礼日時:2008/08/05 01:12

唯我論を学ぶ意味はないと仮定します。


哲学は、唯我論を含みます。
哲学の中には、学んで意味のあるものが、存在します。
たとえば、論理学(sylogism)。
それゆえ、哲学を学ぶ意味があります。

この文章は、哲学的に見て自明の真理です。
哲学を勉強していれば、
この事実は、計算可能です。

学んでいなければ、自分の意見を持ち続けるだけ。

どちらの方が、とくでしょうか?

更に
「意味」の定義ができれば、
勉強する意味がある事象を振るいにかけ、
それだけを勉強することができるのです。
(これまでの回答者の方に賛同します。)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
>唯我論を学ぶ意味はないと仮定します
と言う事は、一応唯我論も哲学に必要になってくることでしょうか?
確かに意味を知ることができれば勉強しても損はないかと思います

お礼日時:2008/08/05 00:39

唯我論(独我論:solipsism)にしても、前提と続きがあるのですよ。



世界で正しいものと間違ってるものを分けるにはどうしたらいいかな?

全てのものを疑って、間違っているものを排除してみたらいいんじゃない?

【排除していったら、世界で確かなのは疑ってる自分だけになっちゃったよ?】

だったら、人間ってどういうふうに行動すべきなのかな?

「自分で決めた道徳を守るのがいい。」「自分を高めるのがいい」etc...


つまり、【客観的事物の認識の不可能性】の是非だけを語るのはあまり意味が無い行為に思えます。
(もちろん、この次の段階に進むためには必要なステップなのですが)

文字通りの意味で逆説的ですが、この流れを逆から見ていけば、
「なぜ道徳を守らなければいけないの?」という疑問に対する
答えのひとつが用意できるわけです。
もちろんこの命題に到達するルートは、この形而学上のルートだけではないので答えはほかにも用意できますが。

全体を把握して、初めて個々の問題が意味を持つのです。
もちろん、これも哲学に限った話ではないでしょう。
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この回答へのお礼

返答ありがとうございます。
>【客観的事物の認識の不可能性】の是非だけを語るのはあまり意味が無い行為に思えます
なるほど、そこの部分だけしか考えてませんでした…
哲学はなかなか奥が深いようですね

お礼日時:2008/08/04 23:45

哲学は言い換えれば、すべての行動の規範です。


つまり、ある種の問題に対し「自分ならこう答える」という回答を
予め用意しておく学問であると言えるでしょう。
もし、あなたに絶対的な基準(それが家族でも宗教でもかまいません)
があるのならば、改めて哲学を学ぶ必要は無いと思われます。
あなたの哲学はすでに完成しているのですから。


以下は全ての学問に当てはまることなのですが、
特に哲学を「学ぶ」場合、それは「哲学の歴史を学ぶ」ことと
同義と言えます。では、歴史を学ぶことの意味は?ということになりますよね?

過去の人間たちがひとつの問題に対し、どのような議論を交わし、
そして新しい規範を生み出してきたのか。それを知ることは、
あなたの持つ「哲学」の利点、そして欠点を再発見することに
つながります。

つまり、「あなたの哲学」を補強し、より完璧なものへと昇華させる
助けとなることは間違いありません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
哲学は人生に役立つと聞いたことがありますが、哲学の中の心の哲学は役立たないと思います…
中でも唯我論?などは必要ないと思います
それほど詳しくないので間違えてることもあるかもしれませんが、大目にみてもらえれば幸いです。

お礼日時:2008/08/04 23:13

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