限定しりとり

人は何のために生きているのでしょうか?
誰もが1度は考えたことのある悩みを抱いている大学生です。このことを考えていると、他のことなどどうでもよくなり、こんなことをして何の意味があるのか?とすぐ考えてしまいます。何か打ち込める趣味でもあればいいのですが、こんなものにハマっても仕方がない、と考えてしまい、自分でも何がしたいのかよく分からなくなります。この悩みの答えを見つけ、この状態から早く抜け出して昔の様に楽しく1日1日を過ごしたいです。
このことを考え始めてから自分では相当勉強(特に物理学)し、考えたつもりです。
まず、現在の僕の考えを箇条書きで書かせていただきます。
・やはり答えというものは普遍的で誰もが納得するものであるべきで、自分が納得できる答えもそういうものだと信じています。
・科学的根拠のない神や死後の世界、魂が出てくるような仮想的な話は馬鹿らしいです。
・宗教的な話も全く納得できません。
・答えなどない。人は悩むために生きている。といった回答は答えになっていません。
他の同じような質問も見たのですが、上のような回答が多いと感じます。

ここでこの悩みの答えが見つかることは思っていませんが、答えに近づけると考えています。
みなさんの考え、この悩みのヒントになると思われる本や思想を教えてください。

A 回答 (107件中21~30件)

 しゃしゃり出るくせがついてしまいました。


 幕間の狂言という手もあります。

 まづ モノ(質料)のエネルギー・力・運動と 人間の社会的な力・運動とは ちがうと思われる。前者の自然〔科学〕的な運動そのものが そのまま(あるいは勝手に)後者・人間社会における自然史過程的な運動となるわけではない。

 もし仮りに 物体の運動と人間の運動とが 同じであったとしても 物体はこれを運動と認識しないばかりか 運動の主体であるとも自己認識しないのであるから 他の物体あるいは人間の 支配者であると考えるわけでもない。

 人間の運動・生活が すべて物体の自然運動から成っていると見る場合でも 人間はこれらを選択し加工したり排除したりする。言いかえると 物質の自己運動が そのものとして 人間の手に負えるものだとは考えられないが この運動を人間は 人間的なものとして・社会的なものとして 方向づけないわけではない。

 このような社会主体としての人間の 殊に《自己》の力を想定し さらに四つの力を仮想してみる。

  1.重力 :《 〈自己〉 の社会的な力》( la puissance du moi )
  2.電磁相互作用 :《 〈自己〉 の超現実》
     ないし《〔個体の〕 幻想 〔という意識〕》( l'irrealite du moi )
  3.強い相互作用 :《根源的な 〈自己〉 》( l'inepuisable moi )
  4.弱い相互作用 :《とにかく 〈自己〉 というもの》( le moi quoi que ce soit )


 これらの人間の力 つまり 自己の基体である物質の運動についての意識としての人間の力は 物質としては広い意味の《光》が媒介するものである。

 いまわかりやすいように そして基本的にもそうであるように 男と女に対する関係を例にとって考えるのがよい。第二の《〈自己〉の超現実》というのは いわゆる光が 視覚などによって起こす電磁相互作用としての力である。男と女のあいだに 電磁場が形成されるのである。これは 《幻想》的であり 幻想としての現実である。

 幻想というのは 相互作用がはたらいても それはまだむしろ 場の成立であって 何も起こっていないのに 何か起こったと錯覚したり さらに何か確かに作用が起こったとき それは 自分に都合のよいように 別の作用が起こったのだと錯覚するか もしくは 何もまだ起こっていないのだと強引に主張するか そのような場合が 多いからである。

 このとき これらは 特に意識しなくとも 第四の《とにかく〈自己〉というもの》をとおして そしてそれは 光の仲間としてのウィークボソンによって媒介されるところの弱い相互作用となって まづは始められていたものであろう。つまり 後でそのような結果として捉えられるものであろう。(何でもないことのほうが 印象や影響が強かったりする場合がある)。

 これら二つないし三つの力を要約すると 男と女とは それぞれ《とにかく〈自己〉というもの》をとおして 接触し 何らかのかたちで 《根源的な〈自己〉》を意識し始め それぞれが《自己の超現実》という場を夢見始めるに到る。

 《弱い相互作用――自由な電子が飛び廻ってのように――》において 互いに接触し 《強い相互作用》を働かせる。(ただしまだ 事の始まりとして 互いの紹介までである)。そして次に《電磁相互作用》がはたらいたなら 相互認識の場なり つき合いの形なりが 成立する。

 第三の《根源的な〈自己〉》というのは 自己の同一性にとどまろうとする――言いかえると この場合 相手を選ぼうとする――力であり いわば自己の凝縮というような自己の確認の作用である。

 これは 《糊の粒子(グルーオン)》とよばれるものによって媒介される強い相互作用に属する。もちろん 人それぞれにであり 単純に人それぞれにである限りにおいて 人は 独立主観である。この意味で 根源的なと名づける。

 以上これらの三つが 大きくは同じ場で むしろ同じ力の三態としてはたらいているのである。独立主観が 孤立しているわけではなく 他の独立主観と 接触したり 相互依存的であって 不都合はない。この力は 三態という範囲において もしくは 正負の向きなどを含めたいろんな関係のあり方として それを愛(つまり 愛情と嫌悪)とよぶのにも 不都合はない。それが 正でも負でもなく ゼロの場合は 無関心であり 死である。

 最後に 第一の《〈自己〉の社会的な――もしくは公共的な――力》が 重力であり 表現として 万有引力(?)である。

 主体の社会的な意味での重さとは 意志のことであり これを同じく 愛(自治・自己経営)と呼ぶのに不都合はないであろう。

 男女の関係としては その夫婦一組としての社会的な職務(社会生活というほどの意)にかかわった力の問題にあたっている。婚姻は 第二の電磁相互作用の場 これが 婚姻関係〔の場〕として改めて確立したときの力の過程である。それは 重力の作用つまり自由意志によるかと思われる。

 婚姻に限らず 一般的に人びとの連帯が成立するのは やはり 万有引力に比されるべき人間の意志によるのであって そのような協働として 或る主題の科学的知解や 或る問題の解決へ向けての運動として考えられる。

 時に これを階級的な連帯と 唯物史観がみたのは この力を基軸とするというわけだ。ただし 階級としての重力の集合が 特別にあるわけではない。民族としてのまとまりは 微妙であるが それが すでに 国家としての統合であるとき それはまさに国家的な電磁場の〔幻想的な〕確立を 一つの経験現実としているのであろう。(していたのであろう)。

 けれども 個人である。個人どうしの・独立主観どうしの関係が 大事である。そして 特には 個人の二角関係のうちの 男女の対(つい)関係における結婚という結びつきは 四つの力が統一的にはたらいているかも知れない。接触(弱い相互作用)・自己確認と相手の選択(強い相互作用)・そして意志(重力)にもとづく愛の関係(電磁相互作用)。そうして 私的にして公共的な職務(社会生活)にあたる(重力)。・・・・・・
 おあとがよろしいようで。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

何度も回答ありがとうございます。
思うことがあれば何度でも回答ください。
ただ、4つの力の話はよく分かりませんでした。すいません。

お礼日時:2008/09/14 08:30

『人生を導く5つの目的』(リック・ウォレン、PDJ)をお勧めします。


http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%82 …

原書のタイトルは"Purpose Driven Life"。
直訳すれば「目的主導の人生」ですが、この本の中で人生の目的を5つにしぼって紹介しているので、大変わかりやすくためになります。

ご一読をお勧めします。

参考URL:http://www.pdjapan.com
    • good
    • 0

思想:別段、誰もが、あれこれのために生きている訳ではないですよ。

おおざっぱにいえば、生きるしか能がないために生きているんです。
世のため人のためと目標を掲げて生きている方も大勢いらっしゃいますが、これといって目的がないまま、生きている方も多いと思います。
だからといって大方が、目星を捨てたわけではありません。人は生き物であり、もしも死ぬ能力を覚えたなら、生き物として破綻しています。
つまり、生きる能力を覚えたものだけが、どうしても多勢となるのです。あれこれ見当つけながら、時に過ちをしつつも生きる、それが生物。
でも、そのうち生きるのが困難になって、生きていられなくなりますが。
    • good
    • 0

symmetry5さんは、ミスチル好きなのかなぁって感じたのと、生きるという形ないものを言葉で表現しようとするからきっと納得できる答えにならないのだと思いました。


正直自分のほうが、symmetry5さん以上に今生きる意味を感じていませんが、
愛してるって思えた人と抱き合ってるときに楽しく過ごす答えじゃないけどそんな感じのものを感じれました。

今は、将来またそんな時間を過ごしたいっていう希望を抱いてるから自分は今生きてるのだと思います。

わからないものを神にすりかえたり、気持ちのような自分から生まれてくるものを科学で証明してもつまらないだけだと思うので「何のために生きているのか」と考えることこそどうでもよかったりして。

結構難しい問題って、いんちきなトンチだったりするかも。
同じ考えを持っていたので考えるよいきっかけになりました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
特別ミスチルが好きなわけではありませんが、新曲の「HANABI」はい曲ですね。歌詞が今考えているようなことと似ていて驚きました。

お礼日時:2008/09/13 13:57

ヒント:物理学を特に勉強しても、悩みの答えは見つけられないかもしれません。


・普遍的で誰もが納得するものであるべきなら、些細な答えから自分も納得されてみては。
・神や死後の世界、魂は、科学的に馬鹿らしいとはいえ、概念なら心理学で認知済みです。
・宗教的な話も全く納得できないのなら、哲学的な話も全く納得できないかもしれません。
・回答は答えになっていません――ならば、回答と解答、答えと正答とを区別なされては。
    • good
    • 0

どうでしょうね、私にも解りません。



私は何の為に生きているのか。

辛い事があるのに。

死んだ愛する人に会いたいのに。

どうしてこの世界で生きているのか…。

私にも解りませんが、生きているのは死なないからだと思います。

死にたくないとか、そうもんじゃなくて、私は今、死んでないんです。

だから生きているんです。

そして、死の後になにがあるのか解らないから。

自殺しようにも痛みを伴う。

自殺して何があるか解らない。

この2つの不安がどうしようもなく付いて来るんです。

それが、生きている原因だと私は思います。

symmetry5さんが欲しがるような回答じゃなかったでしょうけど…。

理屈抜きに、私はいつもそう思います。
    • good
    • 0

熱力学第二法則によると、宇宙はいずれ熱的死を迎えます。


あらゆる自然現象は最適な形態をとるものです
人間に限らず生命とは熱的死へ向かうための最適な機構なのだという説を何かで見ました。

質問者様の質問に一言で答えるとすると、
人間は宇宙を熱的死へ向かうためのエンジンとして生きている
でしょうか。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
>生命とは熱的死へ向かうための最適な機構なのだという説を何かで見ました
その何かって覚えてないですか?

補足日時:2008/09/13 09:25
    • good
    • 0

 No.8&32&43&76&78です。


 すでに 《もう安心》の宣言を出して さよならのごあいさつを済ませているのに その舌の根も乾かないうちに しゃしゃり出て来ました。
 ANo.79さんのご見解との関連で ひとこと 言いたくてです。

 じつは 関係をすべて断っても 生きていることは出来ます。
 それは 言いかえると 関係が 負の内容を持つ場合です。
 嫌われたり ばかにされたり 見下してこき使われたり 食い物にされたり巻きあげられたり 横柄な態度に出られたりしても 関係は つづいているわけです。

 ところが 《無関心というやつ》があります。つまり 関係が ゼロだという意味です。マイナスでもプラスでもないと 人は アップアップして 酸素不足になるようなのです。つまり 無関心は 死なのです。

 ですが この死なる無関心という関係にある場合でも 人は 生きています。堂々と生きています。不思議ですか?
 ここまでです。
 
 ★ 人は何のために生きているのか?
 ☆ に答えるための糸口になるかと思って 出しゃばり投稿しました。


 
    • good
    • 0

こんにちは。



ANo.78さんが別にたてた質問への回答を通じて
(ANo.78さんとの対話を通じて)
自分の考えをまとめたのでこちらにも書かせて頂きます。

●存在は「現象」か「目的」か?
存在そのものは単なる現象であり
存在それ自体には「存在すべき根拠がない」と思います。
ご質問者さまが
> 生きたいとは別に思っていません。
> だからといって死にたいわけでもないです。
と仰っているのも存在それ自体は無根拠であるからでしょう。
それに対して神や宇宙意思など外部から根拠づけようとする人が少なくありませんが
少なくとも現段階では神や宇宙意思はフィクションの域を超えないと見ます。

ただし存在は、存在を維持しないと、存在でなくなってしまいます。
存在を問う以上、存在が前提です。
存在が前提となれば、存在は目的化します。
私がANo.27で
> 死にたくないから生きている
と回答したのはそのようなニュアンスを込めています。
生きる意味を問うとき、生きることは目的化しています。
ここに寄せられた多くの回答はこれを言っていると思います。

さて、もう少し思考を続けてみましょう。
存在が無根拠であったとして(それが正しかったとして)も
存在はそれ単独で存在することは出来ません。
つまり、存在があれば、必ず関係があります。
関係は意味を生みます。
例えば、子を産めば親になる、ということです。
無根拠であった筈の存在も、子と関係すれば親になるということです。
もちろん、親を拒否することも可能でしょう。
つまり、意味を拒否することは出来ます。
意味の拒否は関係の拒否です。
関係を数多く持つモノは、多少の関係を失ったり拒否したりしても
まだ関係が残ります。
しかし、全ての関係を失えば、存在は不可能になります。
(存在する以上、必ず何かに依存します。)

神や宇宙意思などは存在に対する外部からの根拠づけです。
物理学によって得られるモノが何であるかよく分かりませんが
恐らくこれも外部からの根拠づけです。
関係が生む意味も、これまた外部からの根拠づけです。
この中で私に真に迫ってくる外部は「関係」です。
(「縁」が私に意味を与えているという感じでしょうか。)
残りは(少なくとも今は)フィクションの域を超えません。

それに対して、内部からの根拠づけがあります。
これを私たちは意志(自由意志)と呼ぶのだと思います。
(ご質問者さまにおいては「人が生きる意味を知りたい」という意志が
現在の存在に対する最も強い根拠になっているのかも知れません。)
関係を拒否するのも自由意志です。
しかし全ての関係を拒否すると存在が不可能になります。

生きるとは、関係と意志のバランスづくりなのかも知れません。

生きる意味が見えない、というのは
関係が希薄なのだと思います。
何との関係?
様々な関係です。
例えば恋愛は濃厚な関係です。
子育ては濃厚な関係です。
他にも濃厚な関係は数多くあるでしょう。
関係は育てないと、意味も希薄になります。
関係を閉ざせば閉ざすほど、存在は無根拠に近づき
即ち、生きる意味が見えなくなります。
例えば、この世との関係を絶った人は、この世から消えてしまいます。
意志のみでは存在することは出来ません。
(あの世と関係したい人はご自由にどうぞとしか言えません。)

多分、そういうことだと思うのです。
    • good
    • 0

 No.8&32&43&76です。



 コメントをいただきました。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・そして全ての回答にコメントしようとは思っているのですが、見解がちがうとかお礼だけでは失礼だと思い、自分なりに考えて、まとめるようにしています。それができた回答にはコメントできていますが、いいコメントを思いついていない回答にはまだコメントできていません。コメントを考えるのですが、うまくできずに後回しにすることも多々あります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たとえば 自らの成果を発表する初舞台というほどのことでもなく あるいは 担当大臣としての国会答弁でもないでしょうから もっと気軽に考えて行かれてよいと思いますが その足元では しっかりと考えておられるということですから 《分かりました。思う存分 思惟や想像力をめぐらせて行ってください》とお伝えしておきます。
 ほかのみなさんも 安堵し 安心して行方を見守っていかれることでしょう。 
 それでは。
    • good
    • 0
←前の回答 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10 次の回答→

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す