チョコミントアイス

日本軍のしくみや、その歴史に詳しい方がいらっしゃったら教えて下さい。

私の祖父は神奈川出身で、もうすぐ戦争も終わろうという昭和20年1月の終わりか2月の初めに召集され、「中支」で相手方の爆撃にあい、物資輸送のトラックごと吹き飛ばされてしまったと聞いています。

最近になって「中支」というのは「中シナ」、上海・南京を含めた地区だと知ったのですが、上記の時期に神奈川あたり(横浜?)から中国へ向けて出発した、もしくはそのために編成された隊は第何隊かなど、わかりませんでしょうか?特殊技術があったわけでもないですし、薬局を営んでいた人なので歩兵なんだと思うのですが・・・。
自分でも色々ネットで調べようと試みたのですが、あまりにも多くの隊があって、何をどう調べたら良いのか分かりませんでした;

祖母は現在、少々惚けが入った状態ですので60年以上も昔の事を詳しく話せる状況ではありません。また、終戦後に戦友が2月に祖父が知らせに来てくれたと聞いていますが、隊名が分かるものも残っておらず、もちろん遺骨も帰ってきていません。

伯父がかなり前に遺族会として中国を訪問したそうですが、亡くなった場所も「あの辺り」という程度で詳しくはわからなかったそうです。
でも軍のことなのですから、「何年何月何日に第○○隊が、○○で攻撃を受ける」とかそういう記録ってないのでしょうか?

今更と言っては今更ですが、血縁関係にある者が戦争体験者というのも私の世代で最後なんじゃないかと思うと、祖父の歩んだ道をはっきりと知っておきたいのです。もう、無理な希望でしょうか・・・?

A 回答 (5件)

>中支那派遣 登 第八六三六部隊



 「登」とは中国華中地区にあった第13軍の兵団文字符です。「八六三六」は部隊の通称番号で正式名は、「自動車第三十八聯隊」です。

 同聯隊は、1942年(昭和17年)に軍令陸甲第49号という軍命により中国広東省広東において臨時編成された部隊です。その後中支へ派遣され第11軍(兵団文字符:呂)隷下の直属兵站部隊として輸送任務に従事しました。そして第13軍隷下に編入され主に蘇州地区において任務中に終戦を迎えました。聯隊長:初代 袖山悦雄中佐 二代 梅津寛少佐

 同聯隊の補充担任は千葉の津田沼でしたから、神奈川から応召していたとすれば前にも書いたように薬剤官の身分であった可能性があります。

 なお同部隊の戦友会により『自動車第三十八聯隊回想録』 西湖会 という書籍が非売品として刊行されています。

 
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この回答へのお礼

yatiyochanさん、連日ありがとうございます。
詳しくご説明頂いて、本当に感謝しています。
生まれてから一度も会ったことのない祖父が、これだけの情報でも、今までよりとても身近に、「生きていた人なんだ」って感じられるような気がしています。

>『自動車第三十八聯隊回想録』
おそらく入手は難しいのでしょうが、こういったものがあるという情報も大変ありがたいです。

2日間にわたっての情報提供、本当にありがとうございました! 

お礼日時:2008/10/07 23:27

靖国神社の遊就館に英霊の名簿があったと思います


もし、見つかれば何らかの手がかりになるかと思います
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この回答へのお礼

opechorseさん、ありがとうございました。
靖国神社にはそんなものがあるんですか。
これまたはじめて知りました;
情報ありがとうございました!

お礼日時:2008/10/07 16:48

 はっきり言って、その程度の情報で、所属部隊を特定することは不可能です。

既回答者の方々が書いておられるように恩給関係の資料によって調べるのが最も確実でしょう。まだ御祖母さまの記憶が確かなうちに少しでも当時の状況を記録されていたら、お爺様のかなり確実な軌跡がつかめた、と思いますが。

> 神奈川県出身で~昭和20年1月の終わりか2月の初めに召集され、「中支」で相手方の爆撃にあい、物資輸送のトラックごと吹き飛ばされてしまったと聞いています。

 もし、本籍地で召集されていたとすれば、溝ノ口の東部第六二部隊に応召されたのかもしれません。

 45年の2月ごろ、支那派遣軍において同月1日付軍令陸甲第18号によって多数の部隊が臨時編成されていますから、その際に召集された可能性があります。このとき中支江西省九江において編成された独立混成第84旅団(至勇)、または江蘇省南京にて編成された第1独立警備隊(矢石)に溝ノ口から補充要員が送られています。

 もしかすると、内地から上海を経て同地へ向かう途中に空爆にあったのかもしれません。

> 薬局を営んでいた人なので歩兵なんだと思うのですが・・・。

 ということは、単なる歩兵などではなく、あなたのお爺様は薬剤将校だった可能性があります。もし、薬剤将校であったなら軍司令部の軍医部、師団軍医部、兵站病院、患者輸送部、衛生材料廠などなどに所属されていたかもしれません。当時薬剤師というのは特殊技能者だったのですから。

> 自分でも色々ネットで調べようと試みたのですが~

 これもはっきりいって無理です。ウィキをはじめとして旧陸軍関係の情報はあまりにも貧弱ですから。

> 祖母は現在、少々惚けが入っ隊名が分かるものも残っておらず、もちろん遺骨も帰ってきていません。

 隊名はともかく、通称号たとえば「東部六二部隊」とか「矢石二三一一六部隊」などの番号が判ればもう一度質問してください。通称号さえ分ればかなり詳しく説明が出来ます。

この回答への補足

yatiyochanさん、ありがとうございます。
やはりこの程度の情報だと無謀なようですね;
既回答者さんのご指摘に従って、伯父に恩給手帳、または軍隊手帳の有無とそこに記載されているであろう隊名を確認してもらおうと思っています。

>もしかすると、内地から上海を経て同地へ向かう途中に空爆にあったのかもしれません。
「上海」という言葉もこの話にからんで聞いた記憶があるので、仰るとおり、上海を経由していたのかもしれません。

もし隊名等が分かれば詳細をご説明頂けるかもしれないとのこと、伯父に確認がとれましたら「お礼」欄にその旨書き込みますので、再度ご意見いただければ幸いです。よろしくお願いします。

補足日時:2008/10/07 09:25
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この回答へのお礼

yatiyochanさん、度々申し訳ありません。
母経由で伯父に確認してもらったところ、どうやら恩給手帳や軍隊手帳なるものは手元にないようで(紛失?)、何かそういった事が書いてある紙(それが何なのかは不明です;)から情報をくれました。

記載されていたのは・・・

中支那派遣 登 第八六三六部隊

だそうです。
なお、伯父が遺族会で中国に慰霊墓参に行った当時も、これ以上の情報は何も得られなかったそうです。

(^▽^;)・・・登?なんのこっちゃ?と思うのですが、お分かりになられますでしょうか?

お礼日時:2008/10/07 16:57

祖母が遺族恩給の手帳を持っているはずです。


また戦死公報が届いていて、何処で死んだか書いてあります。
軍隊手帳があれば所属部隊もわかります。
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この回答へのお礼

PENPENMAKKYさん、ありがとうございました。
遺族恩給の手帳ですね。多分伯父が保管していると思います。
戦死公報・・・。必ず来るものなんでしょうか?
祖母の話だと戦友の方が知らせに来てくれたそうなんですが・・・。
もし来ていたとしても、祖父の死後、戦後のどさくさにお店を店員にのっとられ、半ば追い出された感じだったそうなので、そういう書類が祖母の持ち物にあるのかどうか・・・。
でも伯父に確認してみます。ありがとうございました。

お礼日時:2008/10/07 09:11

分からないかも 分かりませんが


神奈川県庁の 厚生援護課へ出かけて尋ねて見たら
もしかしたら 課の名前が変わっている可能性も有ります
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この回答へのお礼

himechandesuさん、ありがとうございました。
なるほど、県庁にそういう部署があるのですね。
情報ありがとうございました!

お礼日時:2008/10/07 09:07

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