初めて自分の家と他人の家が違う、と意識した時

日本軍が中国戦線で毒ガス弾を使ったという証言が複数あります。
毒ガスを扱うには、ほどほどの専門知識が必要ではないでしょうか。
どの部隊にも、毒ガスを扱うことのできる部隊なり「職人」が配置されていたのでしょうか。
師団とか旅団とか、編成についてもあまりわかってはいないのですが、どのくらいの規模であればそうした部隊が含まれることになる、というような概況を知りたいのです。
よろしくお願いいたします。

A 回答 (5件)

 旧陸軍のいわゆる毒ガスに関する部隊は、化学戦部隊と総称していました。



 ところで毒ガス兵器というのは、単に窒息死させるものだけではなく、皮膚や喉の粘膜がただれるもの、くしゃみから涙がでる催涙性のガスまで幅広いものの総称です。それら化学兵器は、広島県忠海町(現:竹原市)にあった東京第二陸軍造兵廠忠海製造所において製造されていました。

 化学戦部隊は、これ等の兵器を散布する任務と、逆に毒ガスに対する消毒業務に任じた部隊のことを指します。

 化学戦の要員の教育に関しては、陸軍習志野学校、関東軍化学部、支那派遣軍化学部などの機関・部隊がありました。習志野学校は化学戦教育の総本山、化学部は化学戦の情報収集ならびに研究を行い、練習隊において教育・実験を実施しました。

 つぎに化学戦部隊ですが、まず独立部隊では支那事変中に編成された迫撃連隊、迫撃大隊、野戦瓦斯中(小)隊、または独立瓦斯中隊、特種自動車第一連隊(瓦斯大隊)、野戦化学実験部、野戦瓦斯廠などがあります。

 迫撃連隊は、迫撃砲を以てガス弾を発射する部隊で、それぞれ編制が異なっていましたが、第一連隊の編成当初をみると連隊本部、迫撃中隊、瓦斯中隊、材料廠からなり、全員車輌で機動し九四式軽迫撃砲36門を装備していました。

 迫撃大隊は支那事変から太平洋戦争にかけて幅広く活躍した部隊で一般には砲兵に属すると思われていますが、本来は化学戦部隊で任務は迫撃連隊と同様でしたが違いは駄馬を使用する点でした。基本編制は大隊本部、迫撃中隊(3)、大隊段列からなり軽迫撃砲36門、馬匹429となっていました。太平洋戦争末期に編成された迫撃砲大隊とはその起源が異なります。

 野戦瓦斯中(小)隊は、おもに制毒任務に従事する部隊で、甲・乙編制に分かれ甲は車輌編制で中隊本部、小隊(3)、段列からなり九四式甲撤車、物料検知器、斥候検知器、九五式消函を装備しました。この種の部隊で終戦時まであったのは中国大陸の野戦瓦斯第8小隊(長:阿部大尉)でした。

 独立瓦斯中隊は野戦瓦斯中隊の乙編制に準じ、馬匹編制で、検知器、消函、手撤散布器を装備していました。

 特種自動車第一連隊は1940年(昭和15)満洲において編成された部隊で、編制は連隊本部、瓦斯大隊、材料廠からなる陸軍初の常設化学戦の連隊でしたが、翌年8月のいわゆる関特演の際に改編され瓦斯第3大隊となりました。さらに同大隊はのち関東軍化学部練習隊へ改編されました。

 野戦化学実験部とは、支那事変中に中国軍が使用した化学兵器を回収分析してその対策を講じるための部隊で、全部で四個が編成されました。編制は部長(大・中佐)以下105名。班(2)からなり構成は軍医・獣医・薬剤官からなり各種試料採取用具及び分析器具を有し、車輌編制となっていました。

 野戦瓦斯廠は化学戦の資材を貯蔵、補給、整備するするための部隊で、廠長(中・少佐)以下約45名で廠員は瓦斯取扱修業者からなっていました。


 つぎに、師団の編合内の部隊についてですが、第○○師団制毒隊という部隊がありました。これは40年以降、内地・満洲の師団に制毒訓練所を設け、化学戦教育を修業した将校を長として師団内において化学戦教育を実施し、師団が動員されて戦地に赴くときには戦時編制に変わって、師団制毒隊となりました。なお師団制毒隊は甲・乙編制にわかれ、甲は車輌編制、乙は駄馬編制をとりました。甲の基本編制は隊本部、制毒小隊(3)で、二個小隊は道路・地域徐毒。一個小隊は衣服徐毒に従事しました。制毒隊を有したのは主に南方派遣あるいは満洲駐屯の師団でした。

 旅団或いは独立した連隊には、必要におうじて司令部や本部にガス要員の将校が置かれ、瓦斯掛将校と称しましたが、どれほど機能したかは不明です。
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この多くは「冬季山西粛清作戦戦闘詳報」を指していると考えます。



大陸指第四五二号の解釈では、

通り使用した。
考慮したのみ。
の2通りが考えられ、結論には至りません。

また、陸軍習志野学校での使用例は
そのまま史実に沿うと断定出来ない。

「あか」なのか?
「みどり」なのか?
「きい」なのか?

これも当事者の知る所です。

少なくとも、
資料が残っている。
政府は公式には認めていない。

これが現状です。
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 旧陸軍の化学戦では、基本的に化学兵器をは砲撃によって使用するか、或いはガス筒という器具による散布を行うことになります。



どこまで信用できるかは不明ですが昭和12年の戦闘序列に於いては
http://www36.atwiki.jp/nankinjiken/?cmd=word&wor …
軍隷下に瓦斯関連部隊が置かれている感じ。
http://www36.atwiki.jp
/nankinjiken/pages/22.html
同列の上海派遣軍隷下には7個瓦斯中隊が置かれています。

また、戦訓集http://www.geocities.jp/yu77799/dokugas/reishous …
によれば、
「歩兵は発射(小)「あか」筒同発煙筒中「あか」筒等を随時携行し又各大(中)隊には「あか」筒投射機を装備す」(前後が不明なので、専門部隊の歩兵なのか、一般的な歩兵なのかが判らないが)
とあるので、嘔吐剤は小隊レベルでも携行していたようです。

 一方、同じページでも、師団隷下に化学戦部隊を作って、連隊に随伴させ運用を行わせたケースや、より小規模部隊で遅滞行動に使っている例もあります。
 ケースバイケースといったところでしょうか。

運用側は、当然の事ながら専門の教育を受ける必要があり、
「陸軍習志野学校」http://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/kangun/sch …
がその任に当たっていたようです。

ただ、挙げたURLは色つきな感じがしなくもないので留意。
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陸軍が用いた化学兵器の中で、取り扱いを誤ると死に至る危険がある、きい一号(イペリット)ときい二号(ルイサイト)は素人では扱えませんが、敵を嘔吐させる程度の、あか一号(ジフェニルシアンアルシン)は一般の部隊でも使用可能でした。

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回答いたします。



1982年、森村誠一著「悪魔の飽食」という本がベストセラーになりました。一部写真などに間違いがあったようですが、とりあえず中身を信じるとすれば、陸軍の特殊部隊が存在しており、その中に「細菌戦専門部隊」と「毒ガス専門部隊」が存在したということです。

毒ガスを製造し取り扱うためには、高度な技術が必要で、なおかつ、製造技術が必要ということは、その影響を排除するために使われている技術を思えば分かると思います。

思い出したくもないのですが、「地下鉄サリン事件」の際には、防護服抜きでは患者を助けることも困難であり、多くの地下鉄職員も犠牲になっています。

さて、どのくらいの規模になるのかは・・分かりません。米国の公文書館での調査や部隊に関わった人の証言を集めない限りは不可能でしょう。実際に、どちらの部隊に関わった人も、戦後は多くの人がそれについて語っていません。それほど、恐ろしい経験をしたのだろうと思いますし、被害者の方には哀悼の意を捧げます。

では。
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