

No.2ベストアンサー
- 回答日時:
推測ですが、家庭環境に理由の一端があったのでは。
徳川秀忠の正室は、淀君(ご存知とは思いますが、豊臣秀吉の側室で、豊臣秀頼の母)の妹です。また、娘の千姫は豊臣秀頼に嫁いでいます。
徳川秀忠は、一種の恐妻家だったようですから、正室の意向はそれなりの影響力があったでしょう。
ちなみに二度の大阪の陣は、徳川家康の意向であったと考えています。徳川秀忠も、家康の意向には逆らえなかったのでは。
回答ありがとうございます。
豊臣家の処遇について家康と秀忠では考えを異にしていた可能性は十分あると思います。ただ、家康亡き後の福島正則に対する厳し過ぎる処分の例などを見ると、豊臣の権威を殺ぐ(それを支える勢力も排除)ことについては二人の間に異論はなかっただろうと思います。
> 家庭環境に理由の一端があったのでは。
そうですね。公儀として政治秩序を乱すものの存在を認めるわけには行かなかったけれど、豊臣と徳川はあくまで親戚ですものね。
だから秀吉との個人関係まで否定する考えはなかった・・・
そんな気もします。
No.3
- 回答日時:
徳川家康は大坂の陣で豊臣家が滅亡するまで五大老の一人でした。
つまりは元和元(1615)年までは徳川家は豊臣家の家臣だったと言う事です。
なので秀忠がいくら将軍とは言え、主家である豊臣秀吉から頂いた「秀忠」の名前を改名すると言う事は、建前として出来なかったと言う事だと思います。
豊国神社破却は家康の命で行われましたが、秀忠は家康ほど豊臣家に対して憎しみのような感情は無かかったのではないでしょうか。
と言うのも、秀忠は人質時代は秀吉からとても可愛がられ、秀吉に親近感を持っていたと言う説もあり、豊臣家滅亡後も敢えて改名しなかったと言う可能性もあります。
回答ありがとうございます。
家康が形式的にであれ1615年まで豊臣家に臣下の立場にあったということには疑問を感じます。
と言うのは、1603年2月8日、家康は大坂城で秀頼に年賀の挨拶を述べていますが、彼が自分の方から秀頼の許に足を運んだのはこれが最後だったようです。また、1611年3月28日には逆に秀頼が二条城に出向き、その翌年の1月2日に秀頼は駿府城の家康に年賀の使者を遣わしているそうですから、豊臣家側でも最早「自分の方が上」という意識は捨てていたのではないでしょうか。
> 豊国神社破却は家康の命で行われましたが、秀忠は家康ほど豊臣家に対て
> 憎しみのような感情は無かかったのではないでしょうか。
兄の秀康と違い秀忠が秀吉の許にいた期間は短かったようですから、秀吉に対して身内の情を抱くまでだったかどうかは分かりませんが、丁重に扱われたはずですから多分悪い感情はなかったでしょうね。
豊国神社の破壊が憎しみによる処置だったかどうかはともかく、秀忠ならばそこまでは命じなかったかもしれないと私も思います。
ただ、おっしゃるように豊国社の破壊は家康の命によって実行されました。そこまでやる家康ならきっと秀忠に改名を迫っただろう。そうしたら源氏長者である父に、いかに将軍とは言え逆らえなかったのではないだろうか‥。
ということで今回の質問となったわけなのですが、家康もそこまで鬼ではなかったということですかね?
No.1
- 回答日時:
私も疑問に思っていますが、すでに秀忠の名で将軍宣下を受けているから改名しにくかったのだと思っています。
再任の時の改名は前例があるけど在任中の改名は前例がありません。もし無理にするなら、将軍宣下を再度もらう?改名するとしたら、関ヶ原以降で将軍宣下まででしょうけど、公然と豊臣否定の表明になるので難しかったのかと。
回答ありがとうございます。
> 再任の時の改名は前例があるけど在任中の改名は前例がありません。
この線を少し当たってみたのですが、足利将軍家では在任中の改名が少なくないようです。特に目立つのは第10代足利義稙の例で、彼は2度将軍宣下されていますが、最初の在任中に義材→義尹、2度目の在任中に更に義稙に改名しています。
ですから、秀忠の場合も変えようと思えば変えることは可能だったのではないでしょうか。
> 公然と豊臣否定の表明になるので難しかったのかと。
その当時は豊臣家も健在ならば豊臣恩顧の有力大名も大勢いましたからね。彼等がどう反応するかを考えたら、改名は危険だったと思います。
秀頼と秀忠の官位暦を調べてみましたら、秀忠が従一位右大臣となって秀頼(正二位)より上位になったのは1614年でした。それまでは将軍宣下は別として、昇進面で秀忠が秀頼を追い越さないよう配慮されていたようですね。
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