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私は私の頭で考え、私の記憶をたどり、私の意志で行動します。それは私の脳の働きによるものです。他人にも同じように同じ仕組みの体や脳があります。
私が以前から疑問に思っているのは、人間はみんな同じ仕組みなのに、なぜ「私」は私であるか、ということなのです。
他人はこの世に大勢います。他人は「他人」が動かしています。
それならば、私も「他人」として生まれてきてもよかったはずです。私の体も脳も同じなら、考え方や感じ方も同じはずですから、この世に何の影響もないでしょう。
しかし、なぜ「私」は私の感覚を受け取れて、「私」が意志を決定できるのでしょう。
私の感覚を受け取っている「私」とは何なのでしょう。

うまく説明できていないかもしれません。伝わらなかったらごめんなさい。
このようなことは研究されたりしているのでしょうか? また関連する文献などはありますか?
もしご存知の方がいましたら教えてください。

A 回答 (23件中11~20件)

哲学中毒になって名づけるなら「自分不在の感覚」とでもいうべき感覚を実感したことがあります。


それでも究極的には自らの存在を打ち消すことは出来ませんでした。
だから「私」は存在します。
納得できなかったら質問者様ご自身でも試してください。
心のリミッターを外すことです。
ちなみに「でもどうやって」なんて悩むのがリミッターです。
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 天国では 皆が集まって 食事をするとき 中国でよくそうするように 互いに 隣り合った人に 箸で 皿から取ってあげながら いつも 食べているそうです。


 《わたしは 互いに わたしである》のでしょうか。

 この話は 回答内容ではありません。手がかりとしてのみです。

 もしわたしの理解が合っているとすれば
 ★ アイデンティティの問題ではなく、自分とは何か
 ☆ は 次のような意味でしょうか。
 ○ ひとに 《アイデンティティ》は 経験的に あるが そもそも ひとという存在としては 互いに 違いはないのではないか?

 ☆ あるいは 言いかえるなら
 ○ 《アイデンティティ(わたしが わたしであること)》には 後天的に つちかった内容として捉えられるもののほかに 《ひと》というアイデンティティも あるのではないか? つまりは
 ○ 《ひとは ひとであるというアイデンティティ》こそが 基本としての自然本性であり その基礎の上に 個々の何の何兵衛という個人としてのアイデンティティが さまざまに 作られていくのではないか?

 ☆ もしこうだとすれば この点 わたしも ふと 思い浮かんで 考えかけたことがあります。その後は 放っておきました。なぜかと言えば 後者の 個人ごとの《わたし》を確立することが 優先されるべきであり その作業過程において 前者の《ひとは 一人ひとりが 人類である》という命題は 光があてられるようになるのではないかと思ったからです。
 たぶん この方針は いくつか考えられる手法のうちの一つであるに過ぎないと思います。どちらが優先されるべきかは 決まっていないと言うべきでしょう。ということは いま現在ただちに 《類としての〈わたし〉が 先行して 存在するのではないか》という主題を問い求めるのも 一法かと存じます。初めて この種の問いに出会いました。

 と 能書きを書いた割りには――と言いますか 考えて来なかったわけですから―― 考えるところは じつは ないのです。はっきり言えば 白紙です。
 このままでは わたしも 恥をかくために投稿したようなものになってしまいますので 少しは白紙に書きなぐったことがらもありますから その点を述べてみます

 ▲ (出エジプト記3:6) ~~~~~~~~~~~~~~
 わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ アブラハムと子と孫とは それぞれ 人間として 別であると言っています。これは しかしながら 実存つまり現実存在つまり後天的な個人性のことではないかと疑われます。《人間存在》そのものが 父と子と孫とで 違うということではないでしょう。それとも これら両種の概念のあいだに 中間の概念があるというのでしょうか。
 
 この出エジプト記の 主(ヤハウェー)の言葉は イエスが引き合いに出して その議論をしています。
 ▲ (マタイ福音22:23~33) ~~~~~~~~~~
 ・・・復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。
  ――先生、モーセは言っています。
      『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚し
      て、兄の跡継ぎをもうけねばならない』(申命記25:5)
   と。 さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長
   男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟
   に残しました。 次男も三男も、ついに七人とも同じようになり
   ました。 最後にその女も死にました。
    すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでし
   ょうか。皆その女を妻にしたのです。

 イエスはお答えになった。
  ――あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしてい
   る。
    復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようにな
   るのだ。
    死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読ん
   だことがないのか。
     『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であ
     る』
   とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の
   神なのだ。

 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ じつは わたしは このイエスの言葉が まだ 理解できていません。《神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ》の部分だけは わかります。
 唐突に言って 先にも述べたように 《中間概念》があるのでしょうか。つまり 最大限の《類としてのわたし》は もはや 互いに 他者という概念を知らないでしょう。《個人としてのわたし》は 《種族だとか民族だとか またその共同体だとか はては 人類愛だとかと言って 集団性・共同性・連帯性をやかましく言うが 個は個ではないか。わが心に 勝手に手をつっこむな》と言っても 不思議ではないでしょう。
 これらの中間に 中間概念としての《ひと ないし わたし》が 存在するのでしょうか? どうなのでしょう?
 神から見たら 同じ人類の一員であるというよりは―― 一見 そのように 思えたりしますが そう言うよりは―― アブラハムなる人間はアブラハムなる人間であり イサクはイサクであり 同じ血筋・同じはらからであると言っても ヤコブはほかの誰でもないヤコブなのであるという違い(個性?)があるということなのでしょうか? どうなのでしょう?
 koneko200さんは どうお考えになるでしょう?
 
 お茶をにごしました。
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>なぜ私が他人として生まれてこず、私の体を動かす自由を与えられたかという答えは、私の脳に「私」が組み込まれていたからということなのでしょうか。



 「私」が組み込まれていた、のではなく、記憶が蓄積されていくことで今のあなたになっています。はじめから今のあなたが存在したのではありません。
 「私」という自意識は、脳のシミュレーションの結果であって、実体があるものではありません。
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>私の体が、他人と同じように「ほかの誰か」に動かされるのではなく、わざわざ「私」であるのはなぜなのか、不思議になるのです。



あなたの体が、ほかの誰でもなく、あなた自身によって動かされるのは保持しているのがあなただからです。あなたは他の誰の体でもなく、あなた自身の体だけを保持しています。だから自分の体だけを自由に動かせるのです。他の人はあなたの体をあなたの意思を介してでなければ動かすことが出来ません。あなたの体を保持しているのが、あなた自身だからです。
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なぜ質問者さんは「私」を名乗るのでしょう。



参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4006781.html
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>人間はみんな同じ仕組みなのに、なぜ「私」は私であるか、ということなのです。



その違いは、コンピューターを考えてみると判ると思います。コンピューターが機能するためには、ハードウエアとソフトウエアが両方とも必要です。完全に同じメーカの同じ機種でも、それを持っている人によって、コンピューターの振る舞いが全然違っていますね。ハードウエアが与えられると、当然その機能は限定されます。例えば、羽が生えていないので飛べないとか、DNAの中に書き込まれた本能のお陰で異姓に興味を持ってしまう等です。同じハードウエアを持って生まれてきた我々も、その後の経験の積み重ねで、その人の生まれて来た家庭環境や社会が長年築き上げて来た文化をソフトウエアをとして、脳味噌の中に書き込まれてきます。文化の違いとは価値観の違いであり、その価値観の違いが個性の違いを形作るのですから、その人がどういうソフトウエアを持っているかで、その人が他者ではなくその人自身であると言う、個性が決まって来るのです。

ところで、この自然界および人間社会で経験する事象とは本質的に確率的に起こる現象です。別な言い方をすると、全ての生物は、同じ経験をすることは2度とありません。一見同じ経験をしているように思えても、前の経験は昨日起こったのであり、今日ではないと言う等の違いがあります。ですから、たとえ完全に同じハードウエアを持って生まれて来ても、必ずソフトウエアは違っていますから、その二つの生き物は違った個性を持っているのです。だから、今後クローン技術が完璧に完成したとしても、そこで作られる貴方のクローンは、最早貴方でもなんでもなく、貴方の「私」とは全然性格の違った「私」になっているはずです。引っ込み思案と出しゃばりやの性格の違いだって、育った環境や偶然の経験の違いによって強く影響された結果ですから。

ですから「私」とは、貴方の偶然に埋め込まれた文化の持つ価値観と、貴方が偶然に経験したことによって貴方自身で形作って来た価値観の集大成としての「個性」のことです。したがって、人の数だけ、生物の数だけ、価値観が存在しているのです。ですから決して他人として生まれてくることは出来ません。その価値観の違いを尊重できるようになったときに、多様性を認識したと言うことができるのです。
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>私は私の頭で考え、私の記憶をたどり、私の意志で行動します。

それは私の脳の働きによるものです。

 脳の働きによって私が行動しているのではなくて、私が脳を使い、または脳の働きに助けられながら行動している、というのが適切だと思います。
 人間=肉体(脳を含む)+心(意思・思考・感情等を有した魂)だと私は思っています。
 脳はパソコンのようなものだと言えると思います。
 パソコンを放っておいただけでは勝手に稼動しません。
 電気を通しただけでも一定の所まで起動するだけです。
 パソコンを人間が使用することで様々な稼動を展開するわけです。
 また、肉体はテレビにも似ていると思います。
 テレビを放っておいただけでは勝手に稼動しません。
 電気を通しただけでも一定の所まで起動するだけです。
 電波映像を映して初めて意義がでるわけで、映像内容は心の様々な創造的働きにより作成されたものです。
 つまり、肉体、脳、パソコン、テレビ、といったものは物質であり、それだけ放っておいても勝手に稼動するわけではなく、そこに生命体である魂や電気電波といったものが宿って初めて様々な稼動を始めるわけです。
 ちなみに、同じパソコンを使用しても、使用形態は人によって様々です。
 つまり、仮に同じ肉体に宿ったとしても、人生模様は様々になるわけです。
 脳によって性格が決まってしまっているわけではなく、経験によって性格が決まってしまっているわけでもないと思います。
 親は同じように子供を育てようとしても、何の経験もない赤ちゃんからスタートしても、人生模様は様々に展開して行きます。
 同じ人間でも、ある時点から音楽に興味が出て練習して行けばその部分の脳が発達するように、思いによって脳を変えて行くことはできるのです。
 つまり、魂の方が主人であり、肉体や脳は主人に使われる方だと思います。
 もちろん、パソコン同様、脳は大変優秀な働きをすることは事実ですし、自動的に色々な調整をしてくれることも事実でしょうが、それはパソコン同様、一定の働きであり、それ以上の創造自由的な稼動は心が主体となって展開させて行っているわけです。
 ともかく、テレビに映る映らないに関わらず、目に見えようが見えまいが電気電波が存在し続けているように、肉体に宿ろうが宿るまいが魂も存続するわけで、この「魂」こそが「私」であり、それは意思・思考・感情等を有した、個性ある存在であると言えると私は思います。
 

この回答への補足

そうなんですか!
やはり魂というのは学術的に認められているんですか?
あとよろしかったら関連の文献を教えていただきたいです。

補足日時:2008/11/16 22:55
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ご質問のうち、「 このようなことは研究されたりしているのでしょうか?」に回答出来るのではと思います。

そのような事を考察したことがない者が、哲学者・宗教家を名乗る事はありえない!
仏教系の人たちから見ると、またかという方と、待ってましたという方に分かれるのではないですか。

質問内容で疑問なのですが、「人間はみんな同じ仕組み」は本当ですか。電車で隣り合ったその人型の動くものが、あなたと同じ人間であると何故解るのですか。宇宙人かも知れない、ロボットであるかも知れない、ではありませんか。奇抜な話をしようとしているのではありません。あなたの疑問の不徹底を指摘したいのです。あなたの前提としている常識は、問い直されるべきではないかと。
他者の存在が自明であるなら、「私」の存在も自明です。右手が左手に向かって、俺が何故右手なのか、左手だって良いではないか、と言ったとします。あなたはどう答えますか。
自我が成立するには、他者が不可欠です。ところが、哲学者廣松渉によると他我認識の問題は、近代西洋哲学にとって躓きの石だそうです。ロクな回答がないという事でしょう。
ちょうど関連する書を読んでいます。カール・レーヴィット『共同存在の現象学』(岩波文庫)。
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この回答へのお礼

なるほど、確かにそれはわかりませんね。
でもたとえば一度でもレントゲンを撮るなり、手術を受けるなりされた方々は少なくともほぼ同じ構造であると言えるのではないですか?

ともかく、そう考えると、私の考えでは他人も私もちっとも自明とは言えなくなってしまいます。。
そうなると、私の疑問は確かに今までに何度も考えられてきたようなものと同じものになりますね。

挙げられている本も読んでみたいと思います。もう少しゆっくり考えてみたいです。ありがとうございました。

お礼日時:2008/11/16 22:46

あなたを、あなたたらしめているものは、あなたの持っている記憶です。

あなたがこれまで経験してきたこと、本で見たり人から聞いたりして得た知識、いわゆるあなたの人生のデータベースが、あなたをあなたたらしめているのです。人(に限らず、高度な知能をもった動物)は、自分にとって最も都合のよい行動をとるために、その時の状況から予想されるさまざまな行動パターンをシミュレーションし、自分にとって最善の行動を決定します。この決定にあたって判断基準とされるのが人生のデータベースです。脳というハードウェアは人によって変わるものではありませんが、その人の持つデータベースの違いによってどの行動を選択するのかが変わってきます。それが性格、個性というものとして認識されます。そして、その総体があなたという人格を作り出しています。もしあなたのデータベースの一部が壊れることがあれば、あなたはそれまでのあなたではなくなります。データベースが分断された人は、多重人格となります。

この回答への補足

ということは、「私」というのは脳の記憶領域ということですか?
なぜ私が他人として生まれてこず、私の体を動かす自由を与えられたかという答えは、私の脳に「私」が組み込まれていたからということなのでしょうか。

というか、私を私たらしめるというのが少し違っているような気もします。。私らしくしているものということではなくて、記憶を引き出せる「私」そのものについてです。
もし私が記憶喪失になったとして、私は「私」が違うものになるとは思えません。(たとえ違うとしても違いが認識できるとは思いませんが…認識や思考はすべて「私」ではない私の脳の働きだと思いますから)

補足日時:2008/11/16 21:58
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同じ疑問なのだと思いますが、 私の脳の中からは、



もし、私の両親から私と同じ体つきの同じ性格の人間がこの同じ地球という珍しすぎる水のある星に生まれてきて、「私」自身が存在しなかったら? というふうに「私」について考えたことがあります。

私とは 《あきらかに存在しなかった(かもしれない)存在だ》と考えたら、この感受と記憶と意思決定の主体である「私」とは?   「謎」という存在であることがまず、はっきりしてきました。

私が 今立っている大地が何かこの主体の意思決定において謎の世界というのではなくて、あくまで大地は大地であるわけですが、

「存在全体の中で、謎の部分は謎のまま、」という感じです。

時間も空間も 同じ「謎」の地点に存在しています。

人間の脳には 永遠の時間も無限の空間も把握できないわけです。 そうするとその時間のいったいどこにブラックホールと位置づけられるのか? その空観のどこに宇宙の膨張の端を位置づけられるのか、 これもまったく把握不能のままだということになりますからね。

最近思うのですが、 哲学の歴史自体がこの「謎」の意味をとらえようとしてきた部分が大きいのかもしれないということです。

関連する文献は?とのことですが、 関連すると言えばすべての言葉と言う存在が、その疑問とまったく関連していないとは言えなくなってしまいそうです。

特に 関連思索ということであれば、 「個と関係の思索」とか、「神の存在の仮定」とか(私は 人間性とか感性が成長していけば、人間の良心が神を見つける、という考え方をして、神は実在すると思っているのですが、 あくまで理論的には仮定しかできないのではないかと思ってもいます。)が  理論的には近いかなと思います。

そのあたりの思索の世界から、その「謎」とさらに関わる関連視点という世界はさぐれると思います。



意思決定については、意思決定の経営論には生きる気合とかの面では学べても、 その生き物や人間としての全体像を探るのには、ややあらっぽすぎるかと思います。

記憶と意思決定論との間には、あらゆる意思決定論において重要な地点が隠されてると考えていますが、 たぶん、これは未来においてしかまとまったものは出てこないかと私は思っています。

その記憶と「私」という感覚との問題を扱ってるのは 心理学だと思います。

哲学でも扱ってきたのでしょうが、現代では 脳生理学が、そのへん一番実証的に研究されていて、その土台の上に心理学者がそのへんを扱っていると思えるからです。(すみません、私自身はかなり無学なもので、物事を深く考えたり推理したりするのは得意でも このへん大雑把です。)



そのへんの記憶と「私」と言う意識と言うことでしたら私自身の体験がおもしろそうです。

昔の解剖学とかでも、脳障害の事例で、脳の部位と障害の研究とかはなされていたようなのですが、それは記憶との全体的なかかわりを明らかにするようなものではなかったようです。  しかし、今の医学とか脳生理学でそのへんが実証的にきちっと明らかにされて無いとはとても考えられないです。

でも、これは、記憶障害とかを考えなくても、 私の場合は こんな感じでわかったことなのです。(子供の頃 めちゃくちゃ体を壊し、ちいさな記憶障害でしたら何度かあるのですが、 その体験からはそのへん何もわかりません。)

その出来事自体子供の頃のことですが、わたしの両親とわたしが3歳以前に暮らしていたという町に 両親に連れられていった時のことです。

(私という人間には 3歳の頃重病で死にかかったところをちょうどペニシリンがぎりぎりに日本にとどき助かったという経過があるようなのですが、 写真を見てもそれ以前は 太っていてまるで別人なのですが^^)

近所のおばさんが、私を見て(中学生ぐらいだったと思います。年齢のあたりの記憶がはっきりしないのです。)なつかしそうに「えっ あなたが〇ちゃん? 大きくなったわねえ。  まったく別の人みたい^^。  まあ あのころは おませというかなんというのか、 わたしんちに、いつも遊びにきて、 〇ちゃん(その家の女の子)の手にキスをして「キスしてあげたから、あがっていい?」といいながらよ。 かってにどんどんあがってきてね。」    

あの、私は晩生で、 あのキスも たしか30すぎてましたので^^  あのまさか  3歳以前に 初キスを、いや気軽の何度も何度もしていたなんて!!!!!♪

これはもう「私」ではない。 と思いました^-^・。

そこから、私は、「私」のことを「記憶体の主体」と認識するようになったしだいです。  でありつつ、生まれた時の「私」と同じ「私」でもあるということなのです。  少し解かりにくくなりましたか?


これは、意識はどこまで深く探索しても生物としてのこの体の仕組みと張りついて存在している という考えからくるものです。  このへんは生物学とかやはり哲学の世界だと思いますが、アカデミックな哲学の世界では無学なこともあり、推論からもどういった過去の哲学がそれをあつかっているのかは解かりません。  逆に 多くの西洋哲学がどうやら意識を肉体をは切り離して考えてきたようなのです。

神の存在を理論的に証明しようとしてそうなってしまったようなのです。



私は 死後肉体が土に帰ると同時に意識は消えてしまうと思っています。ということは「私」も消えてしまう、 ということです。

が、ここに神という仮定をおいた場合は、話は別なことになってきます。

キリスト教の「復活」の概念です。  

詳しくは 私の考えでよければ詳しくつづけますけど、  ともかく神と言う「謎」の存在とは明らかに関わる知性の存在(超自然の存在と言います。)は、 私という「謎」の存在と関わっている存在なのですから、

ブラックホールとどのように関わってるかも「謎」のままにても、(天地創造主というのが物語りにすぎなくてもということなのですが解かりますでしょうか) 私の存在に関しては創造主と等しい力があるという感じの推論がなり立つということです。

「私」という「主体」が 実際に永遠に存在するかはともかく、そういう仮定は、簡単になりたってしまうというわけです。



いずれにしても、この「謎」なる「私」とはなんなのか? ということなのですが、 それを社会的アイデンティテと別に考えたのはたぶん正しい哲学の道だと思います。

アイデンティティは 社会的なポジショニングによる心理的な安定感を意味しているものであり 言葉では「自己存在証明」となっていますが、「わたし」という存在の「謎」に迫るものとしては、むしろ話が逆だからです。

生産能力の無い人、 仕事をする頭も無い人、弱者が どこでどう泣いていようとも、存在すら無視される場合も社会ではあります。   

あくまで「私」と同じように、 その人たちも「私」を認識する同じ人間として生きているわけです。

そういう「私」という存在とはどういう存在なのかという問いでないと私は価値のある哲学とは思えないものです。

ですのでアイデンティティをうんぬんする学者とかのお話は、まがい物の個の確立の話か、どこか」中途半端なままの思索段階なのか?と疑ってかかってしまうのです。

もちろん、その中からも学ぶべきことは見つかるでしょうけど、それが「自己存在証明」ということならば、おかしいです。

何の地位も無しにも、「私」は、存在を与えられている存在である。 ということまでは確かに確かだと思うからです。


実は、
これらの「謎」にもっとも迫る回答としての 私自身のある答えを回答したくなる者です。

「私」のごく当たり前の感性の進歩と関わること、あるいは充実とか幸せと関わるアイデンティティとは別な世界のことです。

しかし、この回答を独り言にはしたくないです。

koneko200さんが どういうふうに生きてきた方なのかとか そこからどのようなことを考えてきた人なのかとか、 短い文でその何かが少しでもわかる超能力とかまったく持っていない凡人です。   

ここでいったん区切って、 そちらがもし 私の考え自体に興味がわきましたらということで、 それを補足要求質問と変えさせていただきたいと思います。

ここまでで 何か気がついたり、気になったり、 質問意図と違っていたりする点とか 感想でも疑問でも、なんでもいいですが、 何かコメントを  もしよろしければお願いいたしたいと思います。

よろしくお願いします。


 

この回答への補足

ええと、思考や意思決定のほうはあまり問題にしているわけではないんです。。説明がうまくなくてごめんなさい。
私も西洋哲学のように意識を切り離して考えていますが、どちらにしても不思議なことではないかと思います。(私の疑問についてはだいぶその内容が変わってくるとは思いますが)
しかし、何をもって私の意識というのか私にはよくわかりません。私は、「私自身」というものを意識とも切り離して考えています。意識も私の体の一部である脳の働きだと思うからです。
アイデンティティよりももっと根本的な自分の存在への疑問だと思うのですが…
でも、こういうことを神様に頼るならすぐ解決しそうですね。

補足日時:2008/11/16 21:18
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