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鎖国中には清とオランダが出島に限って貿易を許されましたが(他に朝鮮通信使や琉球慶賀使などはありましたが…)オランダ船来航が禁止されなかったのはキリスト教布教に熱心ではなかったということを聞いたことがありますがこの理解で正しいでしょうか?

A 回答 (9件)

キリスト教布教に熱心でなかった、なんてレベルじゃないです(^^;)。



キリスト教布教絶対絶対やりまっせん!!! 商売一筋!!!
だから我々オランダの船とだけ仲良くしてねっ♪♪♪

とゆー強烈アピールをしまくった結果です。
何しろ島原の乱の時、幕府に協力して、篭城中の日本人キリスト教徒たちに砲撃までしてますから。
(他の欧州キリスト教諸国からは「そこまでして金儲けしたいんか!?」と大顰蹙だったそうです)

当時のオランダにとって、対日本交易は結構な利益でした。
独占出来ればこんなにオイシイ話はないので、表から裏からアレコレと頑張っていたようです。
(以前NHKで見た歴史番組によれば、そもそも、ポルトガルとスペインは布教目的で来日するから追い出したほうがいい、と進言したのもオランダだった、という話です)

幕府としては、キリスト教に関係の無い国となら貿易しても構わなかったのですが、それぞれいろんな事情があって、「皆そろって長崎で交易」というわけではありませんでした。
逆に言えば、長崎を通して交易していなかったからと言って、日本と交流が全く無かったわけではない、ということです。
以下、知っている限りで並べておきます。

●朝鮮王国●琉球王国●アイヌ諸族●
>>>>>それぞれ対馬藩、薩摩藩、松前藩が専門に担当。
これらの藩は、江戸時代以前からの交易相手であり、財政も交易の上りで成り立っていました。
他藩に横入りされると死活問題なので、江戸幕府成立前後は硬軟様々な手段を講じ、「対XX交易のエキスパート」という地位を獲得しました。

これら3つについては、幕府直轄の長崎を通していなかった、というだけで、日本全体で見た場合は“交易があった”と言えます。
(通信使や慶賀使は国家同士の公式の使節のやりとり。
 商売はまた別に、各藩の港でやってます)

●明→清帝国●
正式の国交は無し。民間の貿易商のみ往来。

●東南アジア諸国●
実は江戸前期には数回来た記録が残っています。
しかし、遠い上に、対日交易を独占したいオランダが妨害工作することもあって、いつの間にか来なくなってしまいました。

東南アジア諸国の物産はオランダや清の民間商人が持ってきてくれるので、日本人は別に困ることもなく放っておいたと思われます。
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この回答へのお礼

詳しい回答をありがとうございます。オランダのちょっとした裏話も分かって勉強になりました!

お礼日時:2003/02/27 10:01

「オランダ 出島 貿易」を入れると下記の参考サイトがあります。

徳川幕府が、オランダと中国に貿易の独占を許可した理由と歴史を紹介しています。

参考URL:http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2765/decima/ …
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この回答へのお礼

参考URLありがとうございます!

お礼日時:2003/02/27 09:50

みなさん、この点には触れられていないようなので、一言だけ言わせて頂きますと、


ポルトガルが布教に熱心であり、オランダが布教をせずに、貿易だけに興味を示したのは、
両者のキリスト教に差があったからです。
つまり、ポルトガルはカトリックであり、オランダはプロテスタントでした。
カトリックは布教活動をする宗教ですが、プロテスタントは布教を行わない宗教です。
・・・という話を聞いたことがあります。
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この回答へのお礼

カトリックとプロテスタントの違いですかぁ…新たな視点が出てきました。ありがとうございます!

お礼日時:2003/02/27 10:06

その前に


1543年、ポルトガルが種子島に上陸、鉄砲を伝える。
1549年、スペインのフランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝える。


俗に言う「鎖国令」は
第一次が1633年(寛永10年)
第二次が1639年(寛永16年)
第三次が1641年(寛永18年)でこの時、海外渡航の禁止、
帰国も禁止され「鎖国体制」が完成しました。

当初、徳川家康は宣教師を利用して、南蛮貿易を大いに奨励しました。
特に関が原の戦いで破れた西軍の浪人たちの海外移住を積極的に
すすめました。--->関が原敗残兵や浪人武士の復讐を恐れた
家康と徳川幕府の政略でもありました。

(山田長政が活躍したのもこの頃です。鎖国令が出されるまでの
約30年間、日本も東南アジアへ出かけ日本の「大航海時代」が
ありました。東南アジアの各地に「日本町」が作られました。
「日本町」は鎖国令により衰退して自然消滅していきます。)


家康が天下人になった頃、キリスト教の教えは九州から始まり
仙台近くまで広がりました。幕府としてはその教えは「封建制度とは
相反するもの」「日本古来の宗教が失われる」「宗教一騎が起こる」
「その裏にポルトガル、スペインの領土的野心がある」などを理由として
キリスト教禁止令を1613年に出しました。


鉄砲伝導から約100年後、オランダは日本との関係を始めました。
当時、後発とはいえ、オランダは本国領土の40倍もの面積を持つ
インドネシアを手中に収め、その巨大な富の収穫に手一杯でした。

オランダはポルトガル、スペインの「領土的野心」を幕府に忠告して
ヨーロッパ列強にあって唯一貿易の機会を得ました。
幕府はオランダが「商業主義の国」で政治的・領土的野心がないことに
安心しました。これにより西洋の情報がオランダからもたらされることに
なっていきます。幕府とオランダの利害関係が一致しました。
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この回答へのお礼

大変詳しくしかも分かりやすい回答ありがとうございます。オランダの領土的野心がなかったことははじめて知りました。勉強になりました。

お礼日時:2003/02/27 10:04

#3です。

鎖国の言葉の由来を言い出したら誤解を招くので、補足させてください。

後年ペリー来航とそれにつづいて米国からの特使が来て政府に交渉した記録がアメリカに残っているのをNHKでつい最近もやっていましたが、国を開くとか開国という表現はそこに残っています。

また、貿易が出島に移った当時、乱後の統治の意味で政府が一箇所にまとめ、そこから出島から日本内に足を踏み入れることを禁止した事実もあわせて考えると、外から見れば国を閉じた、以前より大きな制限を加えられた、という意味で、鎖国という状況があったのは事実といっていいと思います。
事実それ以前のイギリスには、浦賀を開いてはどうかという助言をした時代と比べると、当時であっても出島に集められたのは、大きな規制でした。

鎖国=全く開いていない、という意味ではありません。
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この回答へのお礼

再度,回答ありがとうございます。「鎖国」の概念についても少し調べてみようと思います!

お礼日時:2003/02/27 09:59

鎖国に関して少し誤解があるようですが、江戸時代、鎖国を行ったという事実はありません。


実際には海外渡航禁止令を発令したに過ぎません。
人の出入りを制限しただけで情報の出入りまでは禁止していませんでした。
むしろ、いわゆる”鎖国時代”には積極的に情報を収集していましたし、その当時の最先端が蘭学だったためにオランダと貿易を行っていたわけです。
ですからオランダを通じて最先端情報を収集するために貿易を許可していたということでしょう。

ちなみに”鎖国”という言葉は後になって作られた用語で、当然、当時は使われていませんでした。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。鎖国という概念は当時はなかったのでしょうね。現に他国との交易はあったわけですしね。

お礼日時:2003/02/27 09:57

蘭学というのが最新最先端の風潮の時代があって、鎖国という表向きの顔とは別に、海外の情報がほしかったという本音があったと読んだことはあります。


ただだいぶあとにペリーが来たとき、世界がもっと進んでいたことに気づくわけですが。
あと、#2の方の指摘のように薩摩は独自に海外交易ルートを開拓していましたし、九州は独自の文化圏のような雰囲気もあったようです。
後の19世紀半ばのパリの万国博覧会には、日本政府とは別に薩摩藩が独自に展示区を設けて、あたかも独立国が出展しているように見えたらしいです(佐賀藩も出展していた)。
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この回答へのお礼

蘭学との関連でオランダとは気付きませんでしたね。なるほど,表向きは鎖国でも海外の進んだ学問は取り入れたかったのでしょうね。回答ありがとうございました。

お礼日時:2003/02/27 09:55

以前、そのことを不思議に思って調べたことがありました。


鎖国しているのにも関わらず「貿易」している・・・。
「薩摩」などは幕府のことをハナクソにも思っていないらしく、ぜんぜん恐れていませんでした。独立国のていをなしていたようです。そのため、薩摩が交易したければ「できた」ということだと思います。
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この回答へのお礼

なるほど。薩摩藩はそんなに力をもっていたのですね。確かに琉球と清との朝貢貿易の利益を得ていましたからね。

お礼日時:2003/02/27 09:53

スペイン・ポルトガルが布教に熱心であったのに対し、


オランダ・イギリスは貿易にしか関心を示さなかった(そのように装った?)
ため江戸幕府に取り入ることができたのでは。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。やはりその説が有力なのでしょうか?

お礼日時:2003/02/27 09:51

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