旅先で恋に落ちたくなる?思わぬ運命の恋に巡り合う映画

鳴くよ鶯平安京、とばかり覚えて、肝心の「なぜ平安京に遷都したのか」をまったく覚えていません。なぜなのでしょうか、原因を教えてください。

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A 回答 (4件)

学校で習ったのは、奈良の仏教勢力から逃れるため、ということでした。



しかし最近では奈良の都が怨霊であふれてしまったために
平安京に遷都したという説が有力なようです。

奈良時代、729年には長屋王の変が起こりました。
長屋王は謀反を企てていると讒言されて服毒自殺しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B1%8B% …

また770年には女帝の称徳天皇が急病で死亡していますが
暗殺されたとの説があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E8%AC%99% …

772年には光仁天皇の皇后だった井上皇后が光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、
彼女の子であった他戸親王も廃太子となって幽閉されました。
ふたりは775年に幽閉先で逝去しました。
ふたりの死も陰謀によるもので、無実だったと考えられています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A% …

そのほか、私は志貴皇子も暗殺された可能性が高いと思います。

当時、このように政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人は
死後怨霊となって祟り、疫病の流行や風災害をもたらすと考えられていました。

そのため桓武天皇は784年に長岡京へ遷都したのですが

785年に藤原種継暗殺事件がおき、
桓武天皇の弟である早良親王がこれに関与したとされて
廃太子となり、淡路へ流罪となりました。
しかし早良親王は無実を訴えてハンガーストライキを決行し
淡路へ流罪となる船の上で憤死しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E9%81%93% …

また大伴家持も関与していたとされて、
このとき既に家持は死亡していたのですが
死体が掘り出されて流罪となっています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4% …

その後、桓武天皇の息子である安殿親王が皇太子となりましたが
病弱で、陰陽寮に占わせたところ、「病気の原因は早良親王の祟り」とされました。

せっかく造った長岡京も怨霊であふれてしまったために
794年、桓武天皇は平安京に遷都しました。

平安京は四神相応の地に造られました。
北-丘陵(船岡山)-玄武が棲む
南-湖沼(巨椋池:埋め立てられて現存しません)-朱雀が棲む
東-清流(鴨川)-青龍が棲む
西ー大道(山陰道)-白虎が棲む
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A5%9E% …

また京の四隅には大将軍社をつくるなど
呪術的バリアがほどこされました。

http://www.genbu.net/zatu/zatu002.htm
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こんにちは。

 

私は関西で学生時代を過ごしたので、奈良へは良く行きました。 いつ行っても町に活気がないと言うか、沈滞した雰囲気が感じられたのを良く覚えています。 

ひとつだけ思い当たることがあります。 これは中国の主に西域の都市で仏教が一時大変に栄え、その後急に滅亡してしまった町がいくつかあります。  

東大寺の大仏(盧舎那仏坐像)は、鍍金の溶剤として用いられた水銀の中毒により多くの人命が失われたとも言われています。 今も《澱んだ雰囲気》が感じられ、怨霊として言い伝えられた出来事の本質は水銀公害による滅亡だったと思っています。 

http://www.lbv.jp/mercury_story.htm
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簡単に言えば、仏教勢力が強く政治と結びつくようになっていた平城京から逃れるためです。


平城京→長岡京→平安京という順になりますが、長岡京からは10年で遷都されています。
当初、桓武天皇は仏教勢力から距離を置くため長岡に都を造営し心機一転を図ろうとするわけですが、その最中、都の造営責任者である藤原種継が暗殺されるという事件が起こります。これは遷都に反対する奈良の仏教勢力が首謀して行った事ですが、なんと、その反逆に桓武天皇の弟で皇太子でもある早良親王も加わっていたという事が明るみに出たのです。実は早良親王はまったくの無実だったのですが、島流しにされ、怨みを抱いたまま憤死。その後都では、飢饉、疫病、水害が相次ぎ、造営どころではなくなります。それが早良親王の怨霊の仕業だということがわかると、桓武天皇は親王の御霊を鎮める祭を行いますが、まったく効果はなく、さらに大雨が続き大きな被害を出します。そして天皇は、親王の怨霊から逃れるために、再び遷都を行い平安京へ都を移すことになるのです。
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いろいろ説はあるが魔除け怨霊対策と言われているな



俺の勝手な創造だが平安京に遷都したのは桓武天皇だよね
桓武天皇とそれ以前の家計図を見てくれば解ると思うが
平城京を造り支配していた系統と平安京を新たに造った系統は別物だという事(実際には桓武の父親から)
要は政権交代が有り有力者などを一掃する必要があったわけだ
桓武からしてみれば平城京の系統天武の家計は別物なんだよね

その証拠に平城京の系統と平安京の系統では菩提寺も違います

ちょっとわかりづらいかも知れんが理解してね☆

お大事に♪
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Q平城京から平安京に移ったのはなぜ?

なぜ、奈良から京都に移したのでしょうか?
また、小学6年生に、「平安京」とは、どういうこと?と聞かれています。
建物、遷都したこと、時代、どう答えていいかわかりません。今で言うと平成時代ということでしょうけど、ピンとくる説明はどうすれば良いでしょうか?

Aベストアンサー

奈良から京都に移ったのは首都です。

現在は(昔も)年号は「天皇」が変わったときに変わりますから、首都移転とは若干意味合いが異なります。

遷都の理由は、そのときの時代背景が関係しますので、参考URLをご参照ください。

参考URL:http://www.01.246.ne.jp/~reki127/index.rekitan-31.html

Qなぜ平安京で定まったのか?

794年に平安遷都するまで日本は何度と無く都が変わっていました
しかし平安遷都後は東京に首都が移るまで1200年近く遷都はありませんでした(清盛の福原遷都は都移しではありませんので)

コロコロと都が変わっていた奈良時代(長岡京まで)と
都が定まった平安時代(平安京以降)では前後で何が変わったのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。
平安京を造営し、遷都したのは桓武天皇ですが、鎌倉時代の鴨長明が書いた随筆の『方丈記』に、「大かたこの京のはじめを聞けば、嵯峨の天皇の御時、都とさだまりにけるより後、既に數百歳を經たり。」とあります。長明が桓武天皇の遷都を知らなかったのではなく、嵯峨天皇の時代に起こった薬子の変の結果、平安京が「万代(よろずよ)の宮」に定まったと認識していたとされています。
薬子の変は、退位した平城上皇が平城旧京に移り、そこから国政に関する命令を出し、平安京にある嵯峨天皇の朝廷と、平城京にある平城上皇の朝廷が並び立つ二所朝廷と呼ばれる状況となります。大同五年(810)には平城上皇は平城京への遷都命令を出しますが、嵯峨天皇は拒否します。平城天皇は挙兵するために東国へ向かいますが、途中で阻止され、平城京に帰り、事変は終結します。この経過から、平安京が「万代の宮」に定まったとする認識が広まったとされ、地政学上や経済的な理由もあるでしょうが、平安京が千年の齢を重ねた元であるとする有力な考え方があります。

薬子の変
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A4%89

以上、参考まで。

こんにちは。
平安京を造営し、遷都したのは桓武天皇ですが、鎌倉時代の鴨長明が書いた随筆の『方丈記』に、「大かたこの京のはじめを聞けば、嵯峨の天皇の御時、都とさだまりにけるより後、既に數百歳を經たり。」とあります。長明が桓武天皇の遷都を知らなかったのではなく、嵯峨天皇の時代に起こった薬子の変の結果、平安京が「万代(よろずよ)の宮」に定まったと認識していたとされています。
薬子の変は、退位した平城上皇が平城旧京に移り、そこから国政に関する命令を出し、平安京にある嵯峨天皇の朝廷と...続きを読む

Qなぜ京都?

素朴な疑問です。
なぜ山に囲まれた狭い京都が長らく日本の首都だったのでしょうか。
地形的に何か有利な点があったのでしょうか?
歴史には疎いので常識的な事なのかもしれませんが教えてください。
宜しくお願いいたします。

Aベストアンサー

京都・地形で必ず出てくる説明に「四神相応の地」であることが挙げられます。URLをご覧下さい。

更に日本全体においての京都の位置、ということに関しての私見です。
・それ以前の都が奈良にあり、ある程度近い場所への移転が自然
・大雑把に言って奈良時代や平安初期の朝廷の範囲は現在の関東くらいまで、関東以北はしっかりした支配が及ぼせない範囲であるので、全体のなかの中心としては近畿地方が適当だろうと思う。
・当時は文明の進んだ大陸からの文物・人材の受け入れに積極的であったので瀬戸内海・敦賀湾などの海路で大陸との交流がしやすい場所が良かった。
(しかし日本海に面していると来襲も心配なので、ある程度内陸部に引っ込むことも大事)
というような理由で京都だったのではないでしょうか。
狭いことは狭いですけれど、奈良の都はもっと狭いですし、遷都当時は十分な広さに見えたのでしょう。

「長らく」を江戸の終わりまでだとするとその間に政治の中心は福原にちょっとだけ移ったり、鎌倉に移ったり江戸に移ったりしていますが、政治を担うことになった武士階級は、朝廷と物理的な距離を置きたかったのではないですか。だからこそ都は京都から動かなかった。
また、全ての機能が京都に集中していたら、人口が増えすぎて収容しきれなくなっていたでしょうが、
政治の中心を別に構えたことと、経済の中心としての大阪が発展していったこと(これはひょっとしたら京都が手狭だからこそ大阪が発展した、という側面もあるかもしれません。まあ港があったということが大きいのでしょうが)でうまく分散されたので、あえて都を移す必要性がなかったのだと思います。

いろいろ書きましたが、ご質問はひょっとして「四神相応」だけで解決できましたか?そうであれば、残りの部分はおまけだと思ってお読み捨て下さい。私見ですし。
では失礼します。

参考URL:http://www.unki-up.com/i/shishin.html

京都・地形で必ず出てくる説明に「四神相応の地」であることが挙げられます。URLをご覧下さい。

更に日本全体においての京都の位置、ということに関しての私見です。
・それ以前の都が奈良にあり、ある程度近い場所への移転が自然
・大雑把に言って奈良時代や平安初期の朝廷の範囲は現在の関東くらいまで、関東以北はしっかりした支配が及ぼせない範囲であるので、全体のなかの中心としては近畿地方が適当だろうと思う。
・当時は文明の進んだ大陸からの文物・人材の受け入れに積極的であったので瀬戸内海・...続きを読む

Qこの世おばわがよとぞ思う望月の 歌の解釈 

「この世おば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしとおもえば」

この歌はたしか学生時代(小学校か中学校で)に習いましたが、
教師に教わった解釈は 満月のようになにも欠けた所がない、栄華を極めたワタシであることよ』というような自慢っぽいものでした。

しかし、ふと思ったのですが

『月が欠けることが無ければ、この世は自分のものだと思えるのに・・・』
という意味、とれるように思うのです。
満月を見て詠んだのではなく、ほんの少し欠けはじめた月をみて詠んだのではないかと。

作者の藤原道長は源氏物語のモデルと言われている人物でしたよね。
たしか光源氏は晩年、さみいしいというか、落ちぶれていくという結末ではなかったでしょうか。

栄華のなかにあって、ふと自分で何かを予感するような、そんな歌のような気がしたんですが・・。

今の国語の解釈ではどうなっていますか?宜しく御願いします。

Aベストアンサー

わたしも数年前に授業でならった時の解釈は、
「栄華を極めてこの世はわたしの世である まさに満月にかけた所がないように」
でした。
おそらく、現在の学校でも同じ様な解釈を教えていると思います。

ただ、わたしが調べた範囲では、こんなことがわかりました。
1)藤原道長は、30代くらいから病気を繰り返している。
2)「望月の歌」も晩年の病気と病気ので詠まれている。
3)「望月の歌」は、娘の威子が天皇の夫人となった時に読まれていて、
  同年に太政大臣を辞し、その前年に摂政を辞している。
4)「望月の歌」を詠んだ翌年には、出家している。

No3のkogotokaubeweさんの情報と以上の事を踏まえて、
質問者usiodonさんの解釈を敢えて採用するようにしてみるとこんな感じになります。
○病気が多くてそれは道長の悩みだったようで、
 病気がちの道長は晩年「糖尿病」だったそうです。
 自分個人の自信は失いかけていたかも知れません。
 また、「望月の歌」の前後で、役職を辞したり、出家してますから、
 自分の人生の事後処理モードに入っていた=欠けはじめた月の状態にあったとも
 取れます。
 「望月の歌」はそんな中で読まれているので、
 そんな本心の裏返し=強がりとして、酒の酔いにまかせて
 「いままさに栄華の絶頂にある」と詠んだ可能性はあると思います。

 それでも、出家後8年ほど生きていますので、役職は辞していても外戚政治で
 まだ権勢を奮っていたかも知れません。

質問者usiodonさんの解釈には共感できる点もありましたので
ちょっと余計な事まで回答してしまいました。

参考URLは、
「藤原道長の悩み」 http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub202.htm
です。

参考URL:http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub202.htm

わたしも数年前に授業でならった時の解釈は、
「栄華を極めてこの世はわたしの世である まさに満月にかけた所がないように」
でした。
おそらく、現在の学校でも同じ様な解釈を教えていると思います。

ただ、わたしが調べた範囲では、こんなことがわかりました。
1)藤原道長は、30代くらいから病気を繰り返している。
2)「望月の歌」も晩年の病気と病気ので詠まれている。
3)「望月の歌」は、娘の威子が天皇の夫人となった時に読まれていて、
  同年に太政大臣を辞し、その前年に摂政を辞し...続きを読む

Q江戸時代はなぜキリスト教はNGだったの?

日本は仏教が中心ですが、キリスト教信者もいます。キリスト教に篤い学校・老人施設・病院などもあります。
しかし、江戸時代はキリスト教は禁止されていました。キリスト教を信仰すると罰を受け、踏み絵などキリスト教信者を見つけては処罰という制度もありました。天草四郎を中心とした島原の乱も起きるなどしながらもキリスト教は禁止されましたが、隠れキリシタンも多数存在していました。
で、いったいなぜ江戸時代はキリスト教が禁止されていたのでしょうか???

Aベストアンサー

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観とは相容れなかった。欧州では支配者と創造主は同一であるという「神権政治」、そこから発展した、王の地位は創造主より授けられたものという「王権神授」という伝統的倫理観が土壌にあります。そのような倫理観がない世界(日本)に創造主の絶対性を重んじる思想は、主君・領主への忠誠より、創造主への忠誠を優先させます。このことが天下統一のさわりになると、豊臣秀吉は天正15年(1587)に禁教令を発します。

 さらには外交政策の面。徳川家康は和平外交を進めるため、当初は信仰を黙認していましたが、慶長5年、オランダ船リーフデ号漂着により、プロテスタントであるオランダ・イギリスと交渉開始。日本市場の拡大を図るため、ポルトガル・スペインの締め出しを計画。そこでカトリックへの不利な情報と中傷を行いました。つまりカトリック国の侵略的意図。信徒を利用した反乱計画などをは、当時の幕府としては「天下統一のさわりになると」いう危惧をより拡大させました。禁制により教会の破壊・宣教師の国外追放。信徒の東北・蝦夷地への放逐などが行われました。
 徳川家光はさらに厳しく禁制を行いますが、寛永14年(1637)の島原の乱による衝撃から、鎖国政策の徹底とキリシタン弾圧はより強固となります。
 カトリックの海外布教は、プロテスタントに対する対抗措置という面がありました。その点、海外布教を重視していないプロテスタント国とは幕府は貿易を行えたのでしょう。

参考
『国史大事典』(吉川弘文館)

 ただし、禁制も太平の世が長く続くことで形骸化していき、当初はキリシタン監視の意味でもうけられた寺請制度も、寺院側からすれば「檀家としての勤めを果たしていれば、裏でキリスト教を信仰していても黙認する」という事実もありました。領主も「良き領民としての勤め」を果たす限りは信仰も黙認状態でもありました。キリシタンであると暴露しても、領主の監督不行届と罰せられる危険性があったからです。
 現在でも「カクレキリシタン」の家では、寺院の檀家であり、神社の氏子であり、家には仏壇・神棚が祀られて、同時にカクレキリシタンである。その信仰体系は仏教・神道・民間信仰とキリスト教が混在した、いわゆるカトリック・プロテスタントとは異なる信仰形態ですが、キリスト教公認以後も、カトリック・プロテスタントに改宗せず、先祖が守ってきた信仰として「カクレキリシタン」として守り続ける家があります。

資料
『オラショ―魂の通奏低音 カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・長崎新聞社)
http://www.nagasaki-np.co.jp/jigyoubu/book/kakure_book.html

『カクレキリシタンの信仰世界』(宮崎賢太郎・東京大学出版会)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130104020/250-7207972-6663457

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む


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