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 質問としましては 題名とは少しちがって 次です。
 ○ ひとは なぜ すくわれているのに すくわれているとは言わないか?
 
 へりくだり・遠慮・はにかみなどの事由は 別としてください。
 民主主義の世界が 理論上 出来あがりました。
 人びとは 世界宗教のいくつかや世界の哲学思想のあれそれに 造詣を深くして来ています。
 それぞれ 人間と社会とについて 一家言を持つに到っています。
 これだけ おのおのが 共生のちからの素を培って来ています。
 ▲ (コリント前書4:7) ~~~~~~~~~~~~~~~
 あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。
 もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ でもありますから なぜ 救いを得たと言うのをためらうのでしょうか?
 この世間に生きるときには 何か そういうふつうの生活の確立を阻み また その確立を明らかに述べることが憚られるといった要素が 亡霊のごとく 飛び交っているのでしょうか?
 なぜ すなおでないのでしょう?

A 回答 (69件中51~60件)

>☆ から自由になるところの《すくわれている》宣言なんですけれど 伝わりませんか?



 伝わっているかどうかは解りません。
 とすると回答する資格がないのかもしれませんが、一般にそのように聞かれればすくわれていると
 宣言しますよ。

 しかし、自らがすなおになれないのは、
 恐怖と残酷を尻目に平穏な日々を貪る輩がいるように思うからですよ。

 自由、人権、平和、安全、安定という言語で取り仕切る・・・
 それでいいと思っている。それ以外はないとさえ思っている。
 自由は自由を破壊し、民主は民主を破壊する訳で、
 我々は何も知らされていません。
 そして、知ろうともしない責任は我々にあります。

 とはいえ、国(自らが属する集団)を守るために真に命を張って銃を持つ人がいれば、
 すなおだろうがそうでなかろうが感謝せざるを得ないでしょう。

 一方で、結局、持つ物が銃かどうかは、本来、関係のないことです。
 各自、自分の銃をもって戦っているわけで、そこが失楽園から見たまさに楽園でしょう。

 それ以外に、自分の愚かさを脇において
 すくわれているとすなおに宣言するには、いささか自分に対して疑問があります。
 つまり、平穏な日々を貪る輩を真に知らない責任ゆえでしょう。 
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この回答へのお礼

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。

 ううーむ。たしかに 政治家やあるいは外交官らは いわば待ったなしの情況にあって 仕事をしていますからね。われらが自衛隊にしても そうですね。イラクにも行っていましたし。
 二点 あると思います。やはり迂回生産としてのいとなみが ひとつ。これまでの国内政治や国際関係の場もしくは次元を 変えたいという方向が もうひとつです。

 ですから 次の文章をひとまとめに捉えると どう受け止めてよいやら 惑いますよ。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 一般にそのように聞かれればすくわれていると
 宣言しますよ。

 しかし、自らがすなおになれないのは、
 恐怖と残酷を尻目に平穏な日々を貪る輩がいるように思うからですよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 宣言するのなら 《平穏な日々をむさぼる》生活のあり方を変えて行こうと 少なくとも言論として 言っていくと思います。
 むろん そこから一変して
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 一方で、結局、持つ物が銃かどうかは、本来、関係のないことです。
 各自、自分の銃をもって戦っているわけで、そこが失楽園から見たまさに楽園でしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ と言って 互いに歩調を合わせることができるようです。しかも もとに戻って
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 それ以外に、自分の愚かさを脇において
 すくわれているとすなおに宣言するには、いささか自分に対して疑問があります。
 つまり、平穏な日々を貪る輩を真に知らない責任ゆえでしょう。 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《平穏な日々を貪る輩を真に知らない責任ゆえでしょう》の言わんとするところは 何ですか。もし 重大なことでしたら 質問として挙げてもよいのではないでしょうか。
 自分の生活空間の範囲内ででしょうが みな つとめて将来へ向けて あゆんでいると思うのですが。

お礼日時:2009/02/06 19:19

 回答番号:No.17


 謙虚であれ、と誰が他人に言う人がいますでしょう。
 民主主義理論も実態が出来上がっているという認識はできません。
 世界宗教というのはとてもおこがましいし、そういうしゅうきょうはとても危険です。害悪です。そんな造詣をどこの誰が深くしているのでしょう。気持ちの悪い話です。
 どこの誰も、何についても一家言を持つことはできないでいる、お互い様です。と私は思っていますが。
 共生思想も、ちからの素も誰もまだ培って来たとはいえないと存じます。
 まことに不可思議な章句ではないかと思われて、何もコメントは出来ません。
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この回答へのお礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。

 次の表現が 舌足らずだったようです。
 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ただの一点に 問題点が凝縮しているとも考えました。
 ○ 謙虚であれというとき 誰に対してなのか。
 ○ 他者ないし相手に対して ではないのか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 →○ わたしは 自分に謙虚であれというとき それは どこまでも自分自身に誠実であることにおいてであるのか。それとも 自分の誠実さを 多少は――あそび(自由度)の範囲内で――抑えたり曲げたりしてでも 相手に対して 謙虚であることのほうが よいのではないか。
 ○ それは 自分の訴えたいことを伝えるためにも 相手の意向に合わせて 謙虚であるとき 多少は 自分を高く持ち上げたり 自慢したり 悪役にまわったり いぢわるなことを言ったりしても それは 方便であるのではないか。
 ☆ こういう意味でした。うまく伝わらなくて 残念でした。
 よろしかったら あらためて どうぞ。

お礼日時:2009/02/06 19:06

 《なるほど。

これまでのご回答群とは違って おのれの内面に すくいを宣言することを躊躇する要因があるというところでしょうか。
 ○ 理解が とうてい 行き届かないと思えば 自信が出ない。
 ☆ というところでしょうか。
 でも こうは考えられませんか? 
 ○ ここまで来ることが出来た。ありがたい。この先にも おのれの無知を いやというほど 知らされる事態は どれだけでもあるだろう。それでいて ここまで来ることが出来た。これだけでも 自信になっている。ありがたいことだ。
 ☆ といった境地です。
 ★ そういうことを(* つまり 自信が出ないということを)、意識と観念、そしてあり方から取っ払ったら、多分みんな救われるも何も、創造者の、究極者の中にいるのだとわかるであろうし、そのいとしい大事なものだと理解できるのではないでしょうか?
 ☆ ここですが わたしの考えでは
 ○ 初めから 究極のすくいは 予感のうちにあると捉えていますから 現段階の境地とは 距離があるのは とうぜんだ。
 ☆ と思っているわけです。この前提の上では いまこの未完成の境地であっても すくわれていると思うし 宣言するという意味になります。》
 ○何かお応えしたいのですが、理解の外の事柄ばかりで、何もいえません。私は私の文章の中で、全てを申し上げておりますので。
 それ以上でもそれ以下でもないのです。
 ただ、宣言というのはいろんな段階で出来ますね。
 そして最終的で、完璧な宣言はやはり相当高度に進歩しないと不可能なのは当然だと思います。
 そして救われていると思うことも、いろんな次元、側面そして段階でありうることなのでしょうね。
 どれがどうという評論は違う意識同士という存在はできないことではないでしょうか。
 そして、いろんなことを高度に学び、精進し、出会うことのできることは相当恵まれているのだと存じますが。

 そういうわけで この質問に関しましては きわめて 単純に 然りか否か 二者択一になっております。そうしても ばちは当たらないと思うのです。そういったマイナスの側面よりも プラスの側面のほうが うんと 多く出てくると思っています。
 ○ すくわれていると公言したからには 自分の弱点もわかるし 出れば ただちに 直そうとします。

 ☆ そして もう一点は この自己宣言を阻むものが じつは 外面にもあるのではないか そういう問題も考えております。広く人心操縦術(マインドコントロール)の問題です。あるいは 道徳規範は愚の骨頂の問題です。
 謙虚が 人にとって すぐれて大切な徳であることに間違いないわけですが それを 利用しようとする魔の手も伸びているのではないでしょうか。ふつうの市民は 謙虚であれば 表も裏もありません。表も裏もあるえらい人びとの場合には 謙虚をおのれの地位の保守のために 利用している部分が 大きい。そういう問題があるように考えます。
 つまり 自分も〔表では〕謙虚でいるから きみたちも 謙虚でいなさいという暗黙の訴えが 妙に 市民一般には 効いているように思われます。その内容じたいは実践道徳であることに間違いありませんが それが 聞く者にとっては 上から降りて来たばあい 変に 誘導するちからを持った規範となっている情況を見ようと わたしは しています。

 このところ わたしのかかわる質疑応答において 退会やら わたしとの摩擦やらが 頻出しています。前者は 一たんのこととしては 二人ありました。後者は やはり 直近のこととして 三人です。後者は えらそうに述べるとしますと 見放しました。そんなところです。
 問題は 謙虚であるかないかという観点とは 微妙に ちがって わたしという存在が 触媒になるかどうかだと考えます。わたし自身には 何の変わりもないのです。そんな情況が 現われて来ております。


 《 * ★ これは単に私の考えであるに過ぎませんが。
 ☆ この種の発言には むろん じつは 表と裏が――意識するかどうかにかかわりなく―― あります。根掘り葉掘りになりますが 一般論として 言えることだと考えます。
 このように謙虚であろうとして 相手にも 謙虚でありなさいと言いつつ 行き着くところとしては わたし(つまり回答者)の回答に賛同しなさいという要求にまでなり得ます。そういう問題が すくわれていると言うか言わないかの分かれ目であるようにも思います。単刀直入は いつものことですので 断り書きすら述べませんでしたが。》

 ○あぁ、そういうご理解のしかたもあるのですか。全く私には無関係の世界です。そんな意識も意図もありません。
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この回答へのお礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。

 ただの一点に 問題点が凝縮しているとも考えました。
 ○ 謙虚であれというとき 誰に対してなのか。
 ○ 他者ないし相手に対して ではないのか。
 
 ☆ けっこう重い質問に対して 回答を寄せるときには 《すくわれていると宣言しています》と言って 始めたほうが よりいっそう謙虚であるように考えます。
 もし その宣言にまでは到らないというのであれば そのように その時の段階における境地であると表現すればよいわけです。
 でも 五割かた出来たとか いま七合目だとか あまりそういう言い方は しないのではないでしょうか。やはり 宣言するか否か 二つに一つであるように考えます。
 すなわち そうすれば 謙虚の裏側での訴えという側面が 消えます。
 相手のためになると考えます。どうでしょうか。

お礼日時:2009/02/06 12:31

 brageloneさんが、別のご質問でどなたかをお叱りになっておられましたが、この質問では、私も叱られそうですが、みなさんのご回答に目を通しておりません。


 “救われる”というのは、私の場合は根本的なことで判らなかったことや、誤解していたことについて、理解をさせてもらえた、そういう邂逅があった、あるということです。
 
 そのほかには、やはり、自分はこうでありたい、幸福とはこういうものだ、救いとはこういうものだ、というようにいろんな意見や見解とその理解が固定観念や先入観念になっていることもあるので、そのために、自分はそうなっていない、と思っていることがあるのではないでしょうか?
 そういうことを、意識と観念、そしてあり方から取っ払ったら、多分みんな救われるも何も、創造者の、究極者の中にいるのだとわかるであろうし、そのいとしい大事なものだと理解できるのではないでしょうか?
 これは単に私の考えであるに過ぎませんが。

この回答への補足

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。

 なるほど。これまでのご回答群とは違って おのれの内面に すくいを宣言することを躊躇する要因があるというところでしょうか。
 ○ 理解が とうてい 行き届かないと思えば 自信が出ない。
 ☆ というところでしょうか。
 でも こうは考えられませんか? 
 ○ ここまで来ることが出来た。ありがたい。この先にも おのれの無知を いやというほど 知らされる事態は どれだけでもあるだろう。それでいて ここまで来ることが出来た。これだけでも 自信になっている。ありがたいことだ。
 ☆ といった境地です。
 ★ そういうことを(* つまり 自信が出ないということを)、意識と観念、そしてあり方から取っ払ったら、多分みんな救われるも何も、創造者の、究極者の中にいるのだとわかるであろうし、そのいとしい大事なものだと理解できるのではないでしょうか?
 ☆ ここですが わたしの考えでは
 ○ 初めから 究極のすくいは 予感のうちにあると捉えていますから 現段階の境地とは 距離があるのは とうぜんだ。
 ☆ と思っているわけです。この前提の上では いまこの未完成の境地であっても すくわれていると思うし 宣言するという意味になります。

 そういうわけで この質問に関しましては きわめて 単純に 然りか否か 二者択一になっております。そうしても ばちは当たらないと思うのです。そういったマイナスの側面よりも プラスの側面のほうが うんと 多く出てくると思っています。
 ○ すくわれていると公言したからには 自分の弱点もわかるし 出れば ただちに 直そうとします。

 ☆ そして もう一点は この自己宣言を阻むものが じつは 外面にもあるのではないか そういう問題も考えております。広く人心操縦術(マインドコントロール)の問題です。あるいは 道徳規範は愚の骨頂の問題です。
 謙虚が 人にとって すぐれて大切な徳であることに間違いないわけですが それを 利用しようとする魔の手も伸びているのではないでしょうか。ふつうの市民は 謙虚であれば 表も裏もありません。表も裏もあるえらい人びとの場合には 謙虚をおのれの地位の保守のために 利用している部分が 大きい。そういう問題があるように考えます。
 つまり 自分も〔表では〕謙虚でいるから きみたちも 謙虚でいなさいという暗黙の訴えが 妙に 市民一般には 効いているように思われます。その内容じたいは実践道徳であることに間違いありませんが それが 聞く者にとっては 上から降りて来たばあい 変に 誘導するちからを持った規範となっている情況を見ようと わたしは しています。

 このところ わたしのかかわる質疑応答において 退会やら わたしとの摩擦やらが 頻出しています。前者は 一たんのこととしては 二人ありました。後者は やはり 直近のこととして 三人です。後者は えらそうに述べるとしますと 見放しました。そんなところです。
 問題は 謙虚であるかないかという観点とは 微妙に ちがって わたしという存在が 触媒になるかどうかだと考えます。わたし自身には 何の変わりもないのです。そんな情況が 現われて来ております。
 不一にて。

 * ★ これは単に私の考えであるに過ぎませんが。
 ☆ この種の発言には むろん じつは 表と裏が――意識するかどうかにかかわりなく―― あります。根掘り葉掘りになりますが 一般論として 言えることだと考えます。
 このように謙虚であろうとして 相手にも 謙虚でありなさいと言いつつ 行き着くところとしては わたし(つまり回答者)の回答に賛同しなさいという要求にまでなり得ます。そういう問題が すくわれていると言うか言わないかの分かれ目であるようにも思います。単刀直入は いつものことですので 断り書きすら述べませんでしたが。

補足日時:2009/02/06 11:37
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TENNTENNSEVENOKです


最近この名前長いので一回退会して別の名前にしようと思っているところです、それはさておき補足について

 >・・・・この世間に生きるときには 何か そういうふつうの生活の確立を阻み また その確立を明らかに述べることが憚られるといった要素が 亡霊のごとく 飛び交っているのでしょうか。
 ☆ になりますね。ずばり この日本社会のひとつの欠陥であるように考えるのですが どうでしょう? >

 まったくそうだと思います、欠陥として働く場合もあれば働かない場合もあるのが現状としてはありますが、>一つの欠陥として>現れてくることは否めないと思います

>・・・・・・ これは けっきょく ふつうの市民のあいだで 出る杭を打つように 誘導しているお二階の人びとの傲慢なる高ぶりかつその地位にしがみつく執念のなせるわざである部分が 大きいと思われます。>

 ご自身なにか統治者やお二階の人から不当な抑圧を掛けられた経験があるのでしょうか?まあいいんですけどwちょっと気になったもんで
 話を先に進めますとおそらくまともな人間つまり世間一般的な気遣いが基盤になっているように思います、おそらくそれはあった方がいいしないとおそらく野獣化してしまう可能性があります、しかしご自身が仰るように統治者がその空気を無意識に利用して高慢になるというのは大いに可能性があり、いわゆるパワハラやモラルハラスメントもしくは不当解雇などのお二階さんによって高慢化が起こっているという現実は否めないと思いますし非常に許し難いと感じる人も多々いるのではないかと思います、そうなるとおそらく統治者によってもしくはお二階さんによってその質が違うという現象が発生していると思います
 
 >ふつうの仲間のあいだでのごくふつうの嫉妬心も起きるのでしょうが 問題となるのは そういう横の嫉みではなく 縦の保守の精神――おれたちの統治する和が いちばんであると自慢するその体制の保守にいのちをかける――が もし 中身のない・ただのしがみつきであれば それは もはや 亡霊のごとくに その《歴史伝統的な人心操縦術(マインドコントロール)》の鬼火が 燃えているということではないでしょうか。>

 まったく同感です
 
>☆ なぜ すなおでないのでしょう?>

 なんというかわが身が大事ということが基盤になっているので、意を唱えるたくても唱えられないという現状がそうなるのでしょうね

この回答への補足

 TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。

 浮かれてはいけないでしょうが なかなか 質疑応答は 佳境に入って来まして 質問者冥利に尽きるというものです。
 ☆☆ お二階さんの話
 ☆ が通じたのは これで三人目の方になるでしょうか。昨年の秋から お一人 お二人と来て たのもしい限りです。(ちなみに 自慢すれば わたしの造語です。誰れも使っていないと思います。まだ聞いたことはありません)。
 さらに 造語があります。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >☆ なぜ すなおでないのでしょう?>

 なんというかわが身が大事ということが基盤になっているので、意(* また異)を唱えたくても唱えられないという現状がそうなるのでしょうね
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これはですね。わたしの見るところ まづ やはり そういうあたかも相互監視の目としての鬼火が そこここに 燃えているのだと思います。その中身はどうかと言いますと それは 人心操縦術の二つの類型になるのですが
 (1) アマアガリ症候群にかかった人たちの心理作用
 (2) アマテラス予備軍シンドロームに罹った人たちの心理作用
 ☆ これらになると思われます。同じようなものですが 後者は アマアガリ(公民への出世)をしない場合でも お上に従順であるという場合です。
 ★ ご自身なにか統治者やお二階の人から不当な抑圧を掛けられた経験があるのでしょうか?
 ☆ えらい人たちとは 特に 面識もつながりもありません。不当な抑圧を受けたのは これら両症候群に罹った人によって 食い下がられ 長いあいだ 不必要なおつきあいを続けなければならなかったということがあります。具体的には 意識の排泄を 受け続けたというようなところでしょうか。去って行かなかったというところでしょうか。
 昨今は 《お二階病》と言いますか アマテラス族症候群のその神話は 急速に 翳りを見せてまいりました。昔は おおやけの場では あるいは タテマエとしては ほとんど全員一致で お上に右へならえでしたから 多少とも反骨の波風を立たせようとしていたわたしは その主張が通らないどころか その主張する場さえ いっさい ありませんでした。
 それというのも わたしは いっさい 学生運動もせず 相手に対して 反抗もせず すべて 一たん 相手と相手の言うことを受け容れて それから 批判の話をするものですから その頃には もう 取り合わなくなっているのです。相手方は あさってや おとといの話で お茶を濁しにかかります。噛み合わないったら ありはしません。

 すみません。わたしのほうが 意識の排泄になってしまったなら ごめんなさいです。

 とにかく 鬼火が燃えています。排泄された意識が 亡霊となってのごとく そこら中を 網の目のように たむろしつつ徘徊しています。
 おそらく このような分析を みなの共同主観(コモンセンス)にすることができたなら この幽霊は そろそろ 成仏するようになるのではないでしょうか。つまり わたしたちは 《何もしないたたかい》で歩めば いいのだと思います。

 まぁ お二階さんの中でも ふつうに まともな人びともいることでしょうから くちさがないわたしとしては ひとこと しおらしいことも述べておかねばいけないでしょうね。
 出雲八重垣。

補足日時:2009/02/05 19:29
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maimai.susです。



いえいえ、真剣に考えての補足要求させてもらいました。

質問している事は、

>○ ひとは なぜ すくわれているのに すくわれているとは言わないか?

で、No.7の回答させてもらって、その回答へのお礼が、答えを求めていると言うより、「自分は正しんだ。自分の望む答えしろよ。」って感じに、受け取れるんですよね。
だから、何の為の質問か理解する為に、補足要求させてもらった訳です。
そう、より理解する為の努力ですね。
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この回答へのお礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 ★ 答えを求めていると言うより、「自分は正しんだ。自分の望む答えしろよ。」って感じに、受け取れるんですよね。
 ☆ この質問に その趣旨説明だけで 次のようなふたつの回答類型を寄せてもらえると思っていますという意味です。
 (1) わたし(回答者)は 《すくわれるかどうか》に かかわらない。 
 (2) すくわれているが これこれの理由で そうは言わない。(ここには 《すくわれていない》ゆえという場合も入ります)。

お礼日時:2009/02/05 14:16

maimai.susです。



????

救われていると言う事に納得しろと言う事ですか?

・・・・・何の為に?

救われていると言うと何かが解決するのですか?

えっ・・・・これはなんの為の質問何ですか?
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この回答へのお礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 そんなに めんどうな質問ですか。
 きわめて簡単な問いですから 
 ○ この問いには 自分の考えは なじまない。
 ☆ といったお答えと思い あきらめます。

お礼日時:2009/02/05 10:27

これね、結構難しいパラドックスだけど、おそらく以下の原理


・自分のことを自分で自負するシーンを他者に見せる
・そのシーンに対して劣等感が沸かない人と劣等感が沸く人との両面現れてくる
・劣等感が沸く人はおそらく制裁してくるだろうと思い込む
それが嫌なので自負をしたいが自負を避けるという現象
おそらくこれだと思う
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この回答へのお礼

 TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。

 気持ちのとおりに表現しますと はあーあっ そんなからくりがあったのですか。
 ★☆ (1)〔わたしは すくわれていると宣言すると それを聞いて〕劣等感が沸く人〔が いる〕。
 (2) 〔そのような人〕はおそらく制裁してくるだろうと〔わたしは〕思い込む
 ☆ (1)に対しては
 ○ 先の者があとになり あとの者が先になる。
 ☆ と言ってやるといいでしょうね。

 (2)については 再考・再々考すれば 趣旨説明に触れようとしたように 思い当たる節がないではありません。
 それは こうです。
 これは その相手の人の問題ではなく むしろ こちらの側 わたしの問題であるように思えます。と まづ 言っておいて やはり この問題は 飛躍しますが
 ☆☆ (趣旨説明) この世間に生きるときには 何か そういうふつうの生活の確立を阻み また その確立を明らかに述べることが憚られるといった要素が 亡霊のごとく 飛び交っているのでしょうか。
 ☆ になりますね。ずばり この日本社会のひとつの欠陥であるように考えるのですが どうでしょう? ほかの国については 知らないのですが 我が国では いわゆる足の引っ張り合いが起きるというそのことではないでしょうか。
 これは けっきょく ふつうの市民のあいだで 出る杭を打つように 誘導しているお二階の人びとの傲慢なる高ぶりかつその地位にしがみつく執念のなせるわざである部分が 大きいと思われます。
 ふつうの仲間のあいだでのごくふつうの嫉妬心も起きるのでしょうが 問題となるのは そういう横の嫉みではなく 縦の保守の精神――おれたちの統治する和が いちばんであると自慢するその体制の保守にいのちをかける――が もし 中身のない・ただのしがみつきであれば それは もはや 亡霊のごとくに その《歴史伝統的な人心操縦術(マインドコントロール)》の鬼火が 燃えているということではないでしょうか。
 ☆ なぜ すなおでないのでしょう?

お礼日時:2009/02/05 06:35

そういえば、最近、駅近くで


「あなたは神を信じますか。悩みはありませんか。あなたは救われてますか。」
と聞かれることが、とんとなくなりましたね。
そう聞かれれば「敬虔に神を信じ、救われ、悩みは一切ありません。」と答えます。

楽園なんて、失楽園からしか見えないのに、ここは楽園、エデンの園ってね。

救世主は、政治家(思想)か、医者(科学)か、弁護士(法)か、証券(経済)か、はたまた聖戦(軍事)か・・・
結果を予見できないまま危うい平衡状態から暴走する恐怖と残酷、そして平穏な日々の貪り。

ようこそ、極楽園へ。お代は見てのお帰りであ~る。
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この回答へのお礼

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 いえいえ そうではなくて ですね 
 ★ 救世主や楽園
 ☆ から自由になるところの《すくわれている》宣言なんですけれど 伝わりませんか?

 ○ 救い
 ☆ を もはや 脇に置いておいて 生活なり社会なりに向き合うことができる。という魂胆なんですけれど。そうはなりませんか?

 ☆ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この世間に生きるときには 何か そういうふつうの生活の確立を阻み また その確立を明らかに述べることが憚られるといった要素が 亡霊のごとく 飛び交っているのでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こちらのほうにも 焦点をあてています。

 どうも 心づもりが うまく行かなかったようですね。考えてみてください。どういう信仰かどうかをいっさい問わず すくわれていると宣言するのですよ。救いの内容すら おのおの主観にまかせて その宣言から出発しようという試みなのですが あきませんか?

お礼日時:2009/02/04 22:26

 ri-zyuです



 ○ 自覚の有無を別とすることができるなら みな すくわれている。
 ☆ というご回答になるぢゃないですか。そうですよね?

1、聴衆は救われたいから雲門の法話を聞きに来るのでしょうから、救われてないでしょ。しかし「雲門からすれば聴衆はすでに救われている」と諭したものだと思います。



>あとは どうなんでしょう? ひとから言われて はい 自覚しましたとも言えないというところでしょうか?

。。。

本人が救われた、或は自覚を得た、或は信仰を得てと思えば、別に言ってもいいのではないでしょうか?  本人が言ったからと言って他人がそれを聞いて救われる・自覚を得る・信仰を得るとは別ですよね。
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この回答へのお礼

 ri-zyuさん ご回答をありがとうございます。

 ★ 本人が救われた、或は自覚を得た、或は信仰を得てと思えば、別に言ってもいいのではないでしょうか?  
 ☆ 《言える》 つまり 自覚を得れば ただちに 《言える》というご回答で よろしいですよね。分かりました。ありがとうございます。つまり 何か その宣言を阻むものがありはしないか このほうにも 焦点があったわけです。

 ★ 本人が言ったからと言って他人がそれを聞いて救われる・自覚を得る・信仰を得るとは別ですよね。
 ☆ もちろん そういうことです。
 
 きわめて 単純な質問なんです。拍子ぬけになりましたか?
 でも ありがとうございました。《宣言しうる》に一票でした。

お礼日時:2009/02/04 20:02

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