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ジャック・ラカンの精神分析が、哲学として読まれるとき、そこには記号論と個体の発達段階論、あるいは自己同一性に関する独自の工夫を読み取ることが出来る。そこで問題になるのが、これが科学のテキストとして読まれるときに、説明能力の高い理論であるという風に誤解されているということである。実際には、子供や学生にしか適用できない。つまり、ラカンやラカン派の人々に与している人々によってしか、そしてその人たちが子供や学生を注意したり罵倒したり、批判したりする限りにおいて、説明能力を持ち、反対にこの種の能力が発揮されない学校や家族や大学の学部や大学院でしか、通用しないということである。このことは、臨床心理学の修士号を取得している臨床心理士達によってよく知られている。しかしながら、相変わらずよき教育者であたったり、教育評論家で会ったりする人たちはこの種の実務能力を持った人々と同等の知識を持たない。そして、依然としてラカンの提示した概念とその構成法に従って、まったく独創性も、対人的な影響力もない言動をして、教育関係者たちの間であまり意味のない説明や解釈を繰り返しているというわけだ。このことによって、ラカンの不毛性は証明されたと、私は考えるのである。

A 回答 (2件)

難しいなあ。


とりあえず、ラカンが生きている分野は、絶滅の危機に瀕している精神分析と、ポストモダン美術批評だけだろうなあ。
教育者と心理学者がずれていることは何の理論に関してもだろうしなあ。

この回答への補足

デュルケムやブルデューなどの主に20世紀フランスで活躍した社会学者たちなら、精神分析家としてのラカンをそんな風に読むと思います。それから、ポストモダン美術批評も、80年代は永遠であるという立場の人たちだけが維持発展を目論んでいるでしょうね。ポストモダンの建築が大衆に公開された85年のつくば万博は、日本がこの種の立場を永遠化するきっかけになった象徴的な催しだったと思います。

補足日時:2009/02/27 06:02
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 J.ラカンについては つねづね 解明を期待して来ました。

むしろご教授を乞いたい そのための投稿です。
 
 《表象しえないもの》を表象しようとしているのではないですか ラカンは? 臨床の仕事については 分かりませんが 文章表現についてみるときには 何を言っているのか 理解を超えていると やはり 言わざるを得ないのではないでしょうか?

 具体論で考えてみます。ただし ラカンは 無理です。J.クリステワ゛を持って来ます。
 まづパウロの言葉に 《文字は殺しますが 霊は生かします》(コリント後書3:6)があります。いま きわめて端折った言い方で クリステヴァの見解をめぐって
 ○ 《記号象徴態 le symbolique 》
を この《文字》に当てはめますと おそらく
 ○ この文字=記号象徴態は 《霊》=《原記号態 le semiotique 》の代理表現なのだ
と思われます。
 これら霊(ル・セミオチック)と文字(ル・サンボリック)を全体として捉えたかたち あるいはまた そこに 人間の思想一般を容れて 全体として捉えたかたち このような構造が動態的にして 意味生成の過程を形成していると言っているのではないかという推測です。

 もしこの想定で考えうるところを述べよと言われたなら こうなるのではないでしょうか。クリステヴァの理論はすでに 哲学を超えている。つまり 霊ないし神の力を 原記号態(ル・セミオチック)が 自由自在に 発揮して 記号象徴態ないしテクストの上に 作用させその跡を残していると言っているのではないでしょうか。

 すなわち――かんたんな推論にとどまりましたが―― 表象しえぬものを あたかもニュートリーノがとおった跡を観察するのに似て 表象しうる経験事物において 捉えようとしていないでしょうか。
 例のE.A.ポーの《隠された手紙》をめぐって 評論風に展開するラカンの議論は あたかも そのような神探しに似ています。もちろん そうは言っていません。

 たとえばちなみに パウロを出した関係ででも 神なる三位一体( 父‐子‐聖霊 )はそれに 人間の三行為能力( 記憶‐知解‐意志 )の時間的な齟齬を伴なった一体が いくらかは 似ているという理論のようにです。それゆえ 順に 《司法‐立法‐行政》の三権分立(=社会全体の協業としては回りまわって一体)なる慣習があるという見方です。表象しえぬものの通った跡であるかのようにです。

 クリステヴァの場合も いわばこの超経験と経験とのあたかも交流があるとまで言おうとしているのではないでしょうか。
 少しなじって言ってみれば 公理だとか先験的であるとか言う場合には 表象しえぬものを すでに前提しているようにも考えられます。

 いづれにせよ クリステワ゛そしてラカンは けっきょく 神学の焼き直しであるように その思想の核の部分では 思われます。
 もし 構造主義が その基礎に横たわっているとすれば それは いわゆる《無主体》の思想となって現われていると見てよいのではないでしょうか。およそ 構造主義的に推移する社会は 根本的には 無主体の過程であると言おうとしていないでしょうか?

 もしそうだとして そのときには 《ひとは 主体ではない。すなわち 自由意志を持ち合わせていない》 こういう主題と議論の問題であるように考えます。自由意志説に立てば ラカニアンらは 不毛の議論をしていることになります。
 しかも 複雑であります。もし無主体として ラカン派が その主張を展開しているとすれば その意志は どこから来るのか。すべて受け身にて あらゆる人間と社会の事象を捉えていると言うとすれば どこへ向かうのか どこへわれわれをみちびこうとしているのか これを 明らかにして欲しいと思います。もし 成るように成ると言おうとしているのなら ほうっといてくれ わたしは わたしの自由にするからと答えるでしょう。

この回答への補足

私と同じようなフランス的伝統に立とうとするご回答だと思います。振り返ってみれば、デカルトやマールブランシュの時代から、哲学は専門分化した科学と、古代ギリシャの伝統の上に立つことで、神と人とを切り離そうとすると同時に、神と人とを結び付けてきたようです。構造主義もまた、あえて主体を捨てようとすることで、交換要素としての人というものを立てて、広義の関数概念によって結合して、それによって説明可能なものだけが未開社会であるということと同時に、社会というものが、元来そのようなものだという含意もあります。ですから、言わば、ラカンは社会学者に対して捧げものをしていると、そのようなタイプの学者であると、少なくともフランスではそうでしょう。そして、日本が、そうしたタイプの学問を受け入れやすかったということも無視できない。志賀直哉のようにフランス語を国語にしろなどと叫ぶことはなくても、やはり、フランスの文物に対して憧れ、同化しようとする人々が一定の人口を維持しているということが、本邦にとっての一つの問題なのではないかと思われます。

補足日時:2009/02/27 12:51
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