プロが教えるわが家の防犯対策術!

古事記やギリシャ神話のような神話に関する質問です。
「見るな」と言われているものを見て、異世界との関係が壊れてしまう話が神話には多いです。
また「絶対に後ろを振り返るな」と言われるという話も神話には多いです。
どういったことを意味しているのでしょうか?

A 回答 (10件)

好奇心に負けると良くないことが待っているという戒めを表現してると思います。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/12 15:38

>見るな


神話や昔話で「見てはいけない物」とは?
それは往々にして、かつては美しい存在であったり、愛すべき存在であったりした物が。何らかの罪を犯した事によって、罰として不浄な存在になった物である事が多いです。

不浄なる物、恐ろしい物、それらは即ち“穢れた物”です。
“穢れ”を見てしまったら、それは見た者の魂を乗っ取り、その者自身も不浄の存在に引きずり込んでしまう。昔から人間は“穢れ”を遠ざけるために、昔話や祭りを通して様々な知恵を子孫に伝承して来たとも考えられます。

母親が交通事故の現場などで、咄嗟に我が子の目を隠して見せない様にする。
これらの行動は「不浄なる物に魂を汚させない」と言う心理の現れと解釈する事も可能だそうです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/12 15:42

ひょっとして記号論で言う恣意性に関係しているのではないかと愚考いたします。

つまり本来全く関係がない異世界をあたかも関係があるように見なすことを禁止するという意味です。犬を英語ではドッグと言いい、ドイツ語ではフントと言い、というように、もともと意味のない音のつながりに犬というイメージを与えて言語が成立していますが、一つの言語を使っている限りこの恣意性には気がつきません。別の言語に接して始めて気がつきますが、この恣意性に気がつくということは実はそれまで培ってきた自分のイメージが崩壊することにもつながるからだと思います。一つ考えらえることとして支配者の絶対的権威が崩壊することだったかもしれません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/12 15:44

 「日本人の原罪」という本が講談社新書から発売されています。


著者はこのことを「見るなの禁止」と表現していますよ。
質問者様の疑問に対しての答えの一つになっていると思います。

参考URL:http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
教えていただいた書籍を読んでみます。

お礼日時:2009/05/12 15:45

知らなければその情報に一致する事を連想する事は不可能です。

見る・聞く・読むなどして知ってしまった情報が記憶に刻み付けられる事によって変わる何かが世の中にはあるよという暗喩では?それが記憶の一端にあるによって、物事の見え方が変わり、一定の方向への行動に変化が生じ、結果、あなたに不幸が訪れるのかもしれない。それとも、その変化が発言者に都合が悪いものなのかもしれない。

“見るな”という発言が“あなた”を守る為のものか“発言者”を守る為のものかは自分で見抜かないといけないのでしょうけど・・・。

神話・昔話の類は、そういった“言いつけ”を守らない場合にはこういうことになるよという刷り込みを幼少期に行う為に作られた話なのではないかな~と、思います。
「神話・昔話の「見るな」「振り返るな」の意」の回答画像5
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/12 15:46

 こういうタイトルではありませんが、私も類似質問をしております。


 http://okwave.jp/qa3502205.html
 
仰せの事のほか、水を飲んではいけないとか、食してはいけないとかありますよね。
 これはその界(ヒンドゥの勉強ではスローカとか呼んでいますが)の住人になるからだとのことですね。
 
 その他、振り返るな、見るな、などなどありますよね。

 私は、比較的法規類、規範に関心を寄せてきました。
 規範の中にはその界の維持のための当為がありますよね。
 振り返ったり、見たり、分析したりする、思い出す、或いは手箱を開けると、その界が破砕、消滅するからでしょうか?
 正体とか、気づいたり、分かったりされると、その界としては、或いはその界の存続やイメージ思わせを破砕するのではないでしょうか。
 その他、まずいことになるのではないでしょうか?
 判られては困るのですよ。界側からは。と思いますよ。
 塩になったのは、実際を見てびっくりして動けなくなったのですよ。
 或いは見たものと同じになってしまうのですよ。
 と私は思っています。

参考URL:http://okwave.jp/qa3502205.html
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
非常に参考になりました。

お礼日時:2009/05/12 15:47

例えば、逆の例を考えてみましょう。


「これは是非見ろ」
「私がはたおりをしているところを、是非見なくてはならない、そうしないと私はもう織ってあげないよ」
という話しだったとする。
そうすると、いわれたほうは、「ほうそうか、じゃあ思い立ったら見てみるか」くらいの気持ちにしかならず、しまいには、鶴の姿をした機織娘が発見を待ちわびているのに、ついに見物人が現れないということにもなりかねません。また、見たら見たで「おお、これが見せたかったのか!」とひどく納得して話が終了ということになり、それで何も教訓もありません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/12 15:48

鶴の恩返し とか イザナギとイザナミ神話とか 見たために関係が崩壊するって内容ですよね。



映画に<赤い航路>ってのがあります。

フェリーには2組のカップルが乗っている。
大学教授と女子学生だった女のカップルと、極上の幸せではないが、平凡な幸せのカップル。

そしてこの平凡なカップルの夫に、大学教授は過去を話し始めるわけです。


大学教授と女子学生が恋に落ちる。
年の差というハンディをもろともせず、社会通念を無視し、二人はプレイを通して強い絆で結ばれる。

最初は娘ほど年の離れた美しい性的魅力満載の女を妻にして、ほんといいなぁ と思って話を聞いていた平凡なカップルの方の夫。

ところが、だんだん吐き気を催すような夫婦のプレイを語られだす。
「もう結構 聞きたくない」と思っていたが、やはり続きを聞いてしまう。


社会通念や常識を超えた行為を大学教授と妻はすることで、相手を唯一無二の存在と感じ、かけがえの無い相手だと思えることができた。

そこまではよかったのですが、大学教授はプレイに飽きてしまったんです。
女子学生は情熱で、もっと もっと もっと もっと と相手にしがみつくのですが、大学教授は自分にしがみついて離れない妻がうとましくてしょうがなくて、プレイ終了として、置き去りにした。

女子学生は、「ゲームは終っていない。一生続くの。あなたは一生私のものよ」として、二度と自分から逃げられないように、怪我を負わせて車椅子生活をさせる。
自分から逃げようとした夫に残虐な行為をして復讐しだす。
車椅子で動けない夫の前で他の男と性行為をしてみせびらかしたりして、「あんたは私の奴隷なの 私がいなければあんたは生存できないの わかった? じゃあ あたしが何を言っても文句はいうな 私が神だ」って感じなんですね。


平凡なカップルの夫の方は、その女の本性を知り恐ろしいと感じるのですが、とても魅了されてしまうんです。
平凡だがほんわかした妻がいながら、魔性の女に引かれてしまったわけです。

よせばいいのに、寝てしまう。
実はこれは大学教授が平凡な夫に自分の妻を殺させるために、真実の話を聞かせて、妻の魔性にひかれるように仕組んだわけです。

そうとは知らず、平凡な夫は魔性の女にひかれるが、魔性の女はなんと、平凡な夫の平凡な妻と寝ていた。
それを目撃したとき、夫は魔性の女を殺した(だったと思います。)


大学教授の計画通りで、大学賞ジュは不自由な体では魔性の女から逃げられないが、他人を使って殺してもらうことで、やっと魔性の女から逃げることができた。
何故物語を聞けと執拗にまとわりつかれたのか、わかったってわけです。

小説と映画ではラストが違ったかもしれませんが・・・。



で、平凡な夫は、平凡な妻の本性を知ってしまったわけです。

「世の中には知らないほうがいいことがあり、知らないほうが幸せなことがある。相手の全部を知ろうとしてはいけない。」

これがこの小説(映画)の言いたいことだったと思えます。

相手の全部を知ることは、友好だった関係に破滅をもたらす。
だから真実を知ろうとしてはいけない という教訓なのかも。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/12 15:49

 回答番号:No.5さん、私もワンちゃんの気持ちがわかります。

それはそれとして:
 きぐるみさんご回答の内容を誤解しているかも知りませんが:
 連想したことを書きます:
 神話ですから、そういう思考働きも許されるかも知れませんので:

  私たちは、相対的相関的でしかない存在です。
  ですから私たちの存在形式と境域限界に相応して、当然に踏み入ってはいけない界域があります。
  太陽が真理だとしても、許されている真理アクセスの次元と側面があります。
  我々の分と際を越えて、絶対存在や、その存在に我々よりもも近い(ニヤなる)存在の真似をしたり、企図すれば、
  彼らになんでもないことでも、我々には苦痛となります。
  禁断やタブーは彼らには無用かもしれなくても、我らには境界壁でありましょう。
  その境界壁の向こうは次の存在の世界となっているのでしょう。
  我々がその次の存在に進むかどうか、これは別の話であり、私には信仰と修行の世界のことですが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/12 15:50

過去を振り返るな。

歩み出したら足を止めるな。後悔するな。
一度決意を決めたら理由も何も要らない、ただその道のみ歩め。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/12 15:55

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