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何となくですが、
『数えることのできないものに「たくさん」という表現は使えない』
と私は思っていました。

しかし、考えてみると、
「たくさんお酒を飲んだ」
や、
「たくさん泣いてすっきりした」
などという表現を私(たち)は普通に使っています。
そうすると、「お酒」や「泣くという行為」は数えられませんから、この考え方は間違いなのでしょうか。
私としては以下のように考えますが確信が持てません。

-----------------------------------
「たくさんお酒を飲んだ」は、実は、
【数えることのできるもの】に対する表現である。
つまり、何度もグラスなどを口に運んだという「回数」を暗黙的に表現している。
ひといきにグウ~ッと大量の酒を飲んだような時には使わない表現ではないだろうか。

「たくさん泣いて」は、
「たくさん(の涙を流して)泣いて」の略で、やはり数えることのできる涙(の粒)についての表現である。
「たくさん嘆いて」とは(涙が必須条件ではないので)言わないだろう。

微妙に異なる状況においては、「いっぱい」「大量に」などという表現をすべきことも多いように思う。
-------------------------------------------
以上のような理由で、
『数えることのできないものに「たくさん」という表現は使えない』
という定義は正しいと考えるのですが、
みなさんのご見解を教えていただければありがたいと思います。
 

A 回答 (5件)

広辞苑を調べた限りではとくに数えられるものだけにしか使わないわけではなさそうですよ?


十分という意味もあるようです。
角川の類語新辞典ではおなかが満腹という意味のたくさんという言い方や、「今の地位でたくさん」という表現もあります。

もともとの『数えることのできないものに「たくさん」という表現は使えない』というのは何か根拠がありますか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>十分という意味もあるようです。
:そうですね。
その場合も、「数えることができるもの」が十分であれば「たくさん」は使えるが、そうでなければ使えないのではないか、と思いました。

その意味では、同じ十分という意味にしても、たとえば、
「気持ちがたくさん伝わった」とは表現しないように思います。
これは、「気持ち」というものがどうやっても数えることができないものだからではないか、と推測します。
しかし、
「お酒はもうたくさんです」
という表現はできるでしょう。
これは、「お酒を飲むという経験」または「杯を呷る動作」などを回数を暗黙的に意図しているからではないかと思うのです。
これに対して、お酒という液体そのものは数えられませんから、大きな樽に入っているお酒を見て、「お酒がたくさん入っている」と表現すると不自然になるような気がします。(お酒がいっぱい入っている、などは自然でしょうが)

満腹で、「もうたくさん」と言う場合、
これ以上たくさんの数の料理はもう要らない、などというニュアンスがあるように思います。
それに対して、お腹自体が膨れたことを意図するときは「おなかがいっぱい」と言うのでしょう。

「多い・少ない」の意味にせよ、「十分」の意味にせよ、「たくさん」と表現するのが不自然な場合があるわけですが、
その場合は何故不自然になるのか?
ということを説明したい、というのが本質門の眼目です。
お気づきの点がございましたら、さらにご見解をお知らせください。

>もともとの『数えることのできないものに「たくさん」という表現は使えない』というのは何か根拠がありますか?
:根拠は特にないのですが、many と much の違いのように、
「たくさん(多くの)」と「いっぱい(大量の)」というような使い分けを私たちは無意識的に行っているのではないか、という気がします。
そういった感覚から、上のような定義があると思うようになったのかもしれません。
  

お礼日時:2009/05/19 03:04

日本語には欧州系の言語のような可算名詞、不可算名詞といった区別はありません。

つまり数えられるかそうでないかの区別をほとんどしない言語ですから「数えることのできないものに「たくさん」という表現は使えない」という定義には無理があると思います。
「たくさんお酒を飲んだ」や、「たくさん泣いてすっきりした」も間違っていませんし、hakobuluさまには違和感のある「気持ちがたくさん伝わった」も、あまり使わないけれど、口語文としておかしくはないと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>つまり数えられるかそうでないかの区別をほとんどしない言語ですから
:無意識に使い分けしてるような気がするんですが、そんなことはないでしょうか・・・。
たとえば、井戸の中を覗きながら
「水がいっぱいある」とは言うでしょうが、
「水がたくさんある」とは言わないような気がします。
これはなぜなのでしょうね?
井戸の水は一塊になっているので数えようがないために、(無意識にですが)そう表現しているように思うのです。
他の理由があるとすれば何だと思われますか?

>「たくさんお酒を飲んだ」や、「たくさん泣いてすっきりした」も間違っていませんし、
:そうですね。私もそう思っています。
私の書き方が悪かったと思うのですが、
『「お酒」や「泣くという行為」は数えられませんから、この考え方は間違いなのでしょうか。』
という箇所の「この考え」とは、
『数えることのできないものに「たくさん」という表現は使えない』
を指しています。
構文が下手だったと思います。

>「気持ちがたくさん伝わった」も、あまり使わないけれど、口語文としておかしくはないと思います。
:そうですか・・・。
では、「>あまり使われない」理由は何だとお考えになりますか?
推測でも結構ですので、よろしければお聞かせください。
 

お礼日時:2009/05/19 15:01

merlionXXです。



> 井戸の水は一塊になっているので数えようがないために

物質名詞という概念も日本語にはありません。
概念がないものはたとえ無意識にも区別しないと思います。
「海には水がたくさんあります」も「海には水がいっぱいあります」も口語文としてどちらも使えます。

> では、「>あまり使われない」理由は何だとお考えになりますか?

「気持ちがたくさん伝わった」にかぎらず「「気持ちがいっぱい伝わった」も、子供以外はあまり使わないでしょう?
「あなたのお気持ちは痛いほどよくわかります」、「お気持ちは十分に理解できます」等、もっと適切な表現があるからでしょう。

この回答への補足

merlionXX さん、申し訳ありませんが補足欄お借りします。
(以下は、#4さんの補足欄からの続きです)

>ここでは「部屋」のキャパシティが問題になる場面なので、単なる数量の大小だけでなく容量ぎりぎりに満ちているというニュアンスをもつ「いっぱい」を使ったほうが、文脈に沿ったより自然な表現になるのだと考えられます。
:全くおっしゃるとおりなんです!(思わず強調します。^^;)
「>単なる数量の大小だけでなく容量ぎりぎりに満ちている」
という(部屋の)状況というものは不可算なので「たくさん」を使うと不自然になる。
と私は考えるわけです。

くりかえしになるかもしれませんが、
「人がたくさん」は、【人の数(=人数)】が多いことに着目している。
「人がいっぱい」は、[部屋の容量がいっぱい、という状況]自体に着目している。
ということだと思います。

電話での遣り取りを想定してみてください。
「どうしてその部屋に入れないんだ?」

a:「だって、部屋が人でいっぱいなんです」
b:「だって、部屋に人がたくさんいるんです」

どちらが自然でしょうか。
質問に対して的確に説明しているのは a ではないでしょうか。
「部屋に人がたくさんいる」と可算的説明よりも、
「部屋が人でいっぱいだ」という不可算的説明のほうが、
[(不可算的)部屋の状況]を直接的に表現しているからではないか、と思うのです。
 

補足日時:2009/05/20 20:09
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
大変参考になります。

>「海には水がたくさんあります」も「海には水がいっぱいあります」も口語文としてどちらも使えます。
:感覚の違いなのでしょうから、それはそれでわかりました。

ただ、もう少しこだわってみたいのですが・・・。
おっしゃるとおり、
「気持ちがたくさん伝わった」とはあまり言いませんね。
「気持ちが十分伝わった」と表現すると思います。
ただ、後者が
>適切な表現
:だから、という理由ではなく、前者が不自然な表現なのであまり使われないのだと思うのですけどね・・・。

>子供以外はあまり使わない
:のは、そのこと(数えられないものに「たくさん」を使うのは不自然だ、ということ)を私たちが感覚として知っているからではないでしょうか。

可算名詞としての「人」などの場合であれば、
「たくさんの人がいます」
「大勢の人がいます」
はどちらも良く使われているように思います。
 

お礼日時:2009/05/19 17:07

「たくさん」の語源ははっきりしませんが、文字どおり「沢(さわ)、山(やま)」に関係するという説もあるらしく、だとすれば、そもそもこの言葉の基本的な意味において「数」との密接な関係があるのかもしれないと考えることは、一概に否定できないようにも思えます。



ただし、現代日本語においては、多くの辞書で「数」とともに「量」についても使えると説明されており、『数えることのできないものに「たくさん」という表現は使えない』とまで定義してしまうのはやはり無理があると私も思います。

「感覚の違い」と言われないように、一般的な大人がごく普通に使っていると思われる表現のなるべく客観的で手軽な用例ということでネット検索を活用してみました(Googleを利用)。
以下はいずれも5万件から60万件ほどヒットした用例のバリエーションですが、これらもすべて「本質的には数えられる」あるいは「どれもまともな日本語ではない」とお考えでしょうか?

 ・汗をたくさんかく/汗がたくさん出る
 ・たくさん寝ると疲れがとれる
 ・練習をたくさんすればできる
 ・たくさん勉強していい大学に入る
 ・○○についてたくさん話そう
 ・たくさんの感動(愛/元気/幸せ/気持ち)をもらう
 ・雨がたくさん降る

ちなみに、
>「水がいっぱいある」とは言うでしょうが、
>「水がたくさんある」とは言わないような気がします。
とのことですが、検索では前者:後者の比は約6:4です。「たくさん」のほうが若干少ないとはいえ、ほぼ同程度に使われているといっても間違いではないでしょう。

>「多い・少ない」の意味にせよ、「十分」の意味にせよ、「たくさん」と表現するのが不自然な場合があるわけですが、
>その場合は何故不自然になるのか?
>ということを説明したい、というのが本質門の眼目です。

もちろん「たくさん」が不自然になる場合も“たくさん”あり、可算・不可算で説明できそうな例も多いのかもしれませんが、それよりも、「たくさん」とそれが形容する語との熟合度(慣習)や、語のもつ微妙な語感・ニュアンスによると考えたほうがより幅広く適切に説明できると私は考えています。

たとえば、「たくさん嘆く」はたしかに不自然な表現ですが、では「いっぱい嘆く」「大量に嘆く」なら自然か? というと、どちらも同じくらい不自然な表現であることはネット検索でも確かめられます。
この場合、「嘆き」は可算だからとか不可算だからと考えるよりも、「嘆き」の大小を形容する語としては、上記のような「数量」を評価する言葉よりも「程度」を評価する言葉(「深く嘆く」など)のほうがよく使われるから、と考えたほうが合理的でしょう。

また、「人」は可算だから「たくさん」を使っても自然とのことですが、以下のような場合はどうでしょうか。
 (a) 人がたくさんで部屋に入れない。
 (b) 人がいっぱいで部屋に入れない。
おそらく(b)のほうが自然で(a)は若干こなれない感じがするでしょう。これまたネット検索でも、(b)のほうが(a)の5倍以上優勢です。
これも可算・不可算の考え方だけでは説明できません。
ここでは「部屋」のキャパシティが問題になる場面なので、単なる数量の大小だけでなく容量ぎりぎりに満ちているというニュアンスをもつ「いっぱい」を使ったほうが、文脈に沿ったより自然な表現になるのだと考えられます。

この回答への補足

(お礼欄からの続きです)
【練習の回数・時間】を暗黙的に意図していると思います。
[長い時間練習した]という意味の場合は、
「今日はよく練習したね」
などの表現が適切のように思います。
ここで「たくさん」を使うと微妙に意味が違ってくるのではないでしょうか。

4、たくさん勉強していい大学に入る
【勉強する回数・日数】が意図されていると思います。
入学を果たした後の感想として勉強の回数よりも[勉強の中身]を振り返る場合は、おそらく、
「よく勉強したなあ」
「いっぱい勉強したなあ」
などという表現が似合うのではないでしょうか。

5、《○○についてたくさん話そう》
これは、【色々なこと】をたくさん話そう、という暗黙の意図があるように思われます。
旅行に行ってきた人が旅先での【感動したこと】や【出会い】や【おいしかった食べ物】などに付いて語る、というニュアンス。
話したあとで、最初は A について、次は B について、その次には C について、と列挙しようと思えばできるような形で話すことを想定した表現のように思うわけです。

これに対して、その旅行で得たものに焦点を絞って話をしたい時には、
「○○についてじっくり話そう」
「○○についてたっぷり話そう」
などと表現するような気がします。

6、《たくさんの感動(愛/元気/幸せ/気持ち)をもらう》
「どんなときに、または、どんなことに感動しましたか?」
と聞かれて
【あのとき得た(あの)感動】【あの場で得た(あの)感動】【あの一言で得た(あの)感動】
などと数え上げることも可能であるような内容を想定した表現のように思われます。

ysk26さんの表現を一部お借りすれば、
感動の「>大小」を形容する場合には、[深い感動][大きな感動]という言葉が使われるでしょうし、おそらく「たくさん」という言葉よりも遥かに優先されるような気がします。

7、《雨がたくさん降る》
【雨の粒】が数多く落ちてくる、というニュアンスを無意識に感じているように思います。
では、雨の降った後のダムを想像してみます。
「ダムは[大量の雨水]で満たされている」と表現するのが自然で、おそらく、
「ダムはたくさんの雨水で満たされている」という表現にはなりづらいような気がします。
水の例に関して感覚の違いということに収束させたくないので、もうひとつ例をあげてみます。

小さい子供に、
「海ってどんな所?」
と聞かれた場合の答えとして思わず言ってしまう表現は以下のうちのどちらだと思われますか?
「お水がたくさんある所だよ」
「お水がいっぱいある所だよ」
私は後者を言う人が多いと思うのですけどね・・・。
 
>可算・不可算で説明できそうな例も多いのかもしれませんが、それよりも、「たくさん」とそれが形容する語との熟合度(慣習)や、語のもつ微妙な語感・ニュアンスによると考えたほうがより幅広く適切に説明できると私は考えています。
:大変貴重なご見解と感じました。
ただ、どうしても全て(または殆んど)が「>可算・不可算で説明できそうな」気がするんですよ。
諦めが悪いでしょうか・・・。^^;
また、「>語のもつ微妙な語感・ニュアンスによる」
と規定してしまうと、外国の方への説明が難しくなりますしね。
どうしてもそう考えるしかないと納得できるまで、もう少し検証してみたいのです。

>「数量」を評価する言葉よりも「程度」を評価する言葉(「深く嘆く」など)のほうがよく使われるから、と考えたほうが合理的でしょう。
:なぜ「>よく使われる」のかと言えば、適しているからで、それには適するだけの理由があるのではないかと考えてしまうわけです。

> (a) 人がたくさんで部屋に入れない。
 (b) 人がいっぱいで部屋に入れない。
>ネット検索でも、(b)のほうが(a)の5倍以上優勢です。
:それを聞いて安心しました。
私もそう思います。
しかし、
「>これも可算・不可算の考え方だけで」
説明できる、と思うのです。
aは【個別の人】を意図しているはずです。
「数えられる存在としての人間」が集まっている、というニュアンス。それで「たくさん」なのではないかと思います。

bの場合は、個別の人ではなく「部屋の状態」に着目しているように思います。
「人でいっぱいな部屋の状態」に重点が置かれている。
つまり、「いっぱいの人」が一塊として認識されている(=不可算)、とでも言えばよいでしょうか。
私たちは無意識にこの感覚的違いによって表現を変えているような気がします。
(#3さんの補足欄へと続きます)

補足日時:2009/05/20 20:08
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
興味深く拝見しました。

>『数えることのできないものに「たくさん」という表現は使えない』とまで定義してしまうのはやはり無理がある
:そうかもしれませんね。
ただ、「数えることができるかどうか」という判断を、私たちは無意識的に行っているのではないか、という推測をどうしても捨てきれない、という感覚があるようです。

無意識的ですから気づきにくいですし、表面上は「数えることができないようなもの・こと」に見えることも、実際には「数えることができるもの・こと」と(無意識的に)判断しているため「たくさん」を使うのではないかと思うわけです。
お示しいただいた次の例は殆んど自然で「>まともな日本語」でしょう。
その意味で異議があるわけではないのですが、ただ、「本質的には数えられるもの・こと」だから(自然)、という判断です。
その点に関して所見を述べてみます。
数えられると判断したものを【】で、
数えられないと判断したものを[]で囲んで表示します。

 1、《汗をたくさんかく/汗がたくさん出る》
これは汗が滴り落ちるイメージで、【汗の粒】を想定した表現と思います。
流れ落ちて[床に溜まっている汗]ような場合は、
「大量の(相当の)汗が溜まっている」などとするはずで、
「たくさんの汗が溜まっている」は、その場の適切な状況表現とは言えないように思います。

汗をかいた後の状態を示したい場合は、[汗をかいたという全身状況]を示す意図が無意識に働くために、
「汗をいっぱいかいた後のビールはうまい」
「大量の汗が全身を覆っている」
などのような表現のほうが自然だと考えます。
この「いっぱい」を「たくさん」に置き換えた場合が全く不自然とは言いませんが、微妙に「いっぱい」のほうが自然に感じられないでしょうか。

2、《たくさん寝ると疲れがとれる》
【寝る時間】が意図されているように思います。
[睡眠の質]に言及したい場合は、
「[熟睡]すると~」などの表現が優先されるのでしょう。
この意図があるときには、「たくさん」は使われにくいのではないでしょうか。

お礼日時:2009/05/20 20:05

No.4です。


なるほど、すごいですね。
お考えの内容には納得しかねる部分もありますが、たとえば外国の方に説明する場合、私なら参考程度に「たくさん≒many、いっぱい≒much、のように使い分ける場合も多いような気がするけど、それほど厳密じゃないし例外もあるから、とにかく覚えて慣れるしかないね」というくらいにしておくと思います。
言葉はそれほど単純に型にはめることなどできないファジーなものですからね。

真剣に追究されているようで私も興味をもちましたので、ほんの少しでも「検証」のお役に立てばと思い、もう少し考えてみました。
「程度」の問題が入ってくると話がややこしくなるので、今回は純粋に「量」だけを問題にしている(しかも数えあげることができない気体・液体についての)表現を考え、「たくさん」と「いっぱい」の使われる割合を例によってネット検索で調べてみました。
例文はすべて、基本的な用例のパターンを用いた私の作文です。動詞の活用の問題なども一応配慮しましたが、そんなに厳密なものではないのであくまでも目安としてご覧ください。
また、用例によっては「大量に/大量の」やその他の表現のほうが多く用いられている場合もありましたが、単純化のため、より話し言葉的な「たくさん←→いっぱい」の対比のみに絞りました。気になる点があればぜひご自分で追試してみてください。

(1)
 (a) 二酸化炭素(CO2)をたくさん出す(排出する)製品  65%
 (b) 二酸化炭素(CO2)をいっぱい出す(排出する)製品  35%

(2)
 (a) 湿度が低いほど水はたくさん蒸発する  58%
 (b) 湿度が低いほど水はいっぱい蒸発する  42%

(3)
 (a) パン生地の中に空気がたくさん含まれている  52%
 (b) パン生地の中に空気がいっぱい含まれている  48%

(4)
 (a) 誤って薬品を飲みこんだ場合は、水をたくさん飲んでください  79%
 (b) 誤って薬品を飲みこんだ場合は、水をいっぱい飲んでください  21%

(5)
 (a) 途上国も石油をたくさん消費している  99%
 (b) 途上国も石油をいっぱい消費している  1%

(6)
 (a) 麺類のコツは、なるべくたくさんのお湯でゆでること  82%
 (b) 麺類のコツは、なるべくいっぱいのお湯でゆでること  18%

もちろん、どの例も体積や重さ、はたまた分子の数などで「数えあげ」ようと思えばできないことはないのでしょうが、おそらくご質問の趣旨からすればいずれも「一塊として認識されている」「数えることのできないもの」にもかかわらず「たくさん」を使うことが不自然ではない(少なくとも「いっぱい」よりは一般的によく使われている)例となりうると思うのですが、いかがでしょうか。

この回答への補足

(お礼欄からの続きです)

(4)
 (a) 誤って薬品を飲みこんだ場合は、水をたくさん飲んでください  79%
コップに一杯だけではなく、【何杯も】飲んでください、というイメージでした表現。

 (b) 誤って薬品を飲みこんだ場合は、水をいっぱい飲んでください  21%
[大量の水]を飲んでください、というイメージ。

(5)
 (a) 途上国も石油をたくさん消費している  99%
工場でも家庭でも、車でもプラスチック製品でも、などのように、
【それぞれの場所】【それぞれの製品】を思い浮かべた表現。

 (b) 途上国も石油をいっぱい消費している  1%
消費している[石油の全体量]が多い、という意図なのでしょうが、「消費」という言葉が「消費者」という【個別の消費者】を想起させる言葉なので、どうしても「可算的表現」をしたくなるのではないでしょうか。

不可算の状況としては、たとえば以下のような例が可能かと思われます。
「一台のタンカーが石油をいっぱい運んできた」
この場合、
「一台のタンカーが石油をたくさん運んできた」
と比べてどうでしょうか。

文意からすれば、
「一台のタンカーが大量の石油を運んできた」
が最も適切だろうと思われるので、
「いっぱい」という表現が妥当か否かは別にして、このような場合においては(無意識的にでしょうが)不可算のイメージが湧き起こり、結果として「たくさん」という表現は使いづらくなるような気もするわけです。

(6)
 (a) 麺類のコツは、なるべくたくさんのお湯でゆでること  82%
 (b) 麺類のコツは、なるべくいっぱいのお湯でゆでること  18%
ここの例は「の」が付いています。
 (a) ダムには水がたくさんある。
 (b) ダムには水がいっぱいある。
などであれば逆転?するかもですね。^^;

>どの例も体積や重さ、はたまた分子の数などで「数えあげ」ようと思えばできないことはないのでしょうが、
:こじつけにならないようにとお気遣いいただき、ありがとうございます。
たしかに、そういった印象を与えかねない内容になっているかもしれません。

ただ、私たちネイティブは、日本語の用法を理屈ではなく感覚として、無意識的に使用しているのでしょう。
外国の方と同じような視点で、その用法を最初から解釈し直してみることは、私たちが普段何気なく使っている言葉の奥深さを知る意味でも有意義なことであるように思っています。
 

補足日時:2009/05/21 16:59
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
幾分、こじ付け的な印象も持たれたと思いますが、好意的に解釈していただき感謝いたします。
ネット検索による比較まで行っていただきお手数をおかけしました。

>「たくさん←→いっぱい」の対比
:となるとやはり、こういった結果になるのでしょうかね。
「いっぱい」が「量」の表現として常に適当ではない、ということは言えそうです。
ただ、だからといって「たくさん」が不可算対象に対して用いられる場合も多い、ということではなくて、今回あげていただいた例でも、私見ですが「可算対象」になるように思われます。
「一塊として認識されていないのではないか」という疑念?を覚えるということです。
前回と同じく「可算=【】」「不可算=[]」で表示します。

(1)
(a)二酸化炭素(CO2)をたくさん出す(排出する)製品 65%
これは「排出する」という動的な作用に着目している表現のように思います。
【エネルギーを消費する(たとえば燃焼する)毎】に排出するというイメージを(無意識的に)頭に描いての表現。
掃除機であれば、【「ガーッ」と一押し】する毎に排出する、というイメージ。

(b) 二酸化炭素(CO2)をいっぱい出す(排出する)製品 35%
は、[排出するという性質]を(無意識的に)意図した表現。

(2)
 (a) 湿度が低いほど水はたくさん蒸発する  58%
これも蒸発するという動的作用が頭にあり、話者は、【次々と気化する頻度】をイメージしたような気がします。

 (b) 湿度が低いほど水はいっぱい蒸発する  42%
こちらのほうが[水というものの性質]として、そういうものだ、という意図なのではないでしょうか。

(3)
 (a) パン生地の中に空気がたくさん含まれている  52%
【パン生地の中にある空洞】をイメージした。
「風船の中に空気がたくさん入っている」とは言わないような気がするわけです。

 (b) パン生地の中に空気がいっぱい含まれている  48%
パン生地の中にある空洞をイメージせずに、[パン生地全体の中]という感覚で表現している。
(補足欄へと続きます) 

お礼日時:2009/05/21 16:57

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