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宗教に関してはあまり詳しくなく、また、西洋に行ったことも、その知人もいませんので質問させてください。

「魔女」と言うものに興味があり、何冊か本を読んだのですが、その中でキリスト教は大きな役割を果たしています。悪い意味でですけど。
新興宗教であるキリスト教が、土着の宗教を淘汰し、妥協して取り込み、頑張ったかいあって、西洋諸国は宗教分布図では大きく見てキリスト教となっていますが、実際のところ、どこまで人々の心に普及しているのでしょうか?
私が感じたことは、どれだけキリスト教社会と言われる西洋であったとしても、キリスト教は、牛乳を温めたときに出来る薄い膜としか思えないのです。表面を漂っているだけの宗教。(日本で言えば、仏教が表面をかすっているように見えるけど、実はいろんな宗教があるよと言うことです。宗教批判はいっさいしていません。)
けれど、多くの地域において、どれだけキリスト教の力が強くなろうとも、土着の宗教(多神教)は確実に淘汰されなかった。出来なかったと言った方が正しいかと思いますが。ルネサンス期に限らないと思うのですが、ギリシャの神々を絵にすることだってありました。
それとも、そう感じるのは、現在のようになっておおっぴろけに魔女だ、魔法使いだ、精霊だなどと言えるようになり、多神教が復活したにすぎないのですか?(もちろん、根底に多神教を完全に否定する心がなかった=
育てきれなかったこともあるとは思うのですが)

そこで私が思っているのが、西洋人は、唯一絶対神のみを信じ、多神教は毛嫌いするなんて勝手に思っていたのですが、大きな目で見てキリスト教と言われている地域の人達は、日本が宗教分布図で仏教と言われている(その実、様々な宗教がごっちゃまぜ)のと同じなのですか?
人々の心に、一神教はどこまで根付いているのでしょうか?

A 回答 (4件)

日本にはもともと多神教の素地があるから、と私は思いますが、西洋のキリストの国とはちょっと事情が違います。


キリスト教の国では(仏教やイスラム教の国だってそうでしょうが)、日本のように、初詣に神社に行き、お墓参りにお寺に行き、結婚式を教会であげる、という具合にはなりません。

だからといって、
>西洋人は、唯一絶対神のみを信じ、多神教は毛嫌いする
ということでもないのです。
前のローマ法王は他の宗教との交流に非常に積極的で、今のベネディクト16世もその路線を踏襲しています。カソリックの最高位の聖職者もこのように多様な価値観を積極的にあらわしているくらいですから、一般信者はなおさらです。

そう言っても、やはりあくまで、キリスト教は一神教で、一般信者にとっても神様といえばキリストのみです
ただ、それは、私の感じでは、そう考えることがキリスト教の"ご作法"になっているからです。
例えば、日本では受験の時にはみんな天神様にいくでしょう?水天宮に行く人はいないのです。そういう意味での"ご作法"です。

カソリックの、西洋人の知り合いがこんなことを言っていたことがあります。
「仏教でもやっぱり週に一回お寺に行ったりするの?あ、行かないの。それはいいわね。私だって行くことになっていなければ、教会なんか行かないわ」
ですから、
>表面を漂っているだけの宗教
といっても、まあ、必ずしも間違いとはいえませんね。

ただ、習慣やしきたりが、ほとんどキリスト教がもとになっていますので、日本人から見ると「キリスト教社会」という言い方が必ずしも大げさには感じられないと思います。
例えば、ほとんどの祝日はキリスト教に関係あるものです。先日の21日も昇天祭で、キリスト教の国では休日のところがおおかったはずです。次の休みは、多分6月11日の聖体祭でしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ご作法と言う言葉がすごく面白いな、と思いました。

>「仏教でもやっぱり週に一回お寺に行ったりするの?……
面白い表現ですね。決まっているから行く。

>例えば、ほとんどの祝日はキリスト教に関係あるものです。
これに関してはちょっと私は否定的になりますが(土着の人を納得させるために、元からあった祭日をキリスト教的に組み替えたものも多いので。そうじゃない祭日も多いでしょうが)、今、この祭日はどれくらい元の形を保っているのでしょうか。

お礼日時:2009/05/24 00:11

>土着の宗教(多神教)は確実に淘汰されなかった。


 天使や悪魔には土着の神が元に成っていると指摘されているものも多いですよ…。例えば、
   メタトロン(七大天使の1人) ペルシャの東方神「ミトラ」
   ベルゼブブ(魔界の王子と呼ばれる悪魔) シリアの嵐と慈雨の神「バアル」
   アスタロト(地獄の大公爵と呼ばれる悪魔) 地中海世界各地で広く崇められたセム系の豊穣多産の女神「アスタルト」

 キリスト教圏でも天使崇拝や聖人崇拝が大々的に流行った事が何度も有りましたし…。
 (行き過ぎると邪教徒として処罰されますが…。)

 神道の神社(実在の人物である菅原道真を祭る天満宮の様)の近い感覚(聖人の名を冠し、その偉業を敬い、後世へ伝承していく事を目的にする)で建てられた教会が結構有りますし…。
 傍目から見ると多神教の様に見えます。

 あと、キリスト教と認識される物の内でも、物凄い数の宗派が有りますし…。
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA% …

 まあ、唯一絶対という解釈を日本人が間違えているだけかもしれませんが…。モーセの十戒の出だしが

  「わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」
   http://homepage2.nifty.com/room30th/gesewa/gonly …

 端的に言うと、他にも神は沢山いるけどモーセを助けたのはヤハウェだけだから、モーセとその末裔達はヤハウェだけを信じつづけると契約したのです。
 (ちなみにヤハウェは契約を司る神様)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>天使や悪魔には土着の神が元に成っていると……
天使にも、元になったものがあると聞いてすごく新鮮で驚いています。
なにせ、「魔女」と言うキリスト教から見て「悪」の方向からしか見てなかったので、サタンがヤギの姿をしているのは豊穣の神の象徴=異端=土着の宗教は「悪」にしかならない。と思っていました。でも考えてみれば、キリストの祭日(一番はクリスマス)だって、その他神聖な木とされるものだって異教の文化ですものね。
「悪魔を信じないのは神を信じないことと同じ」は、確かに異教があることを認めているのと同じことですか。でもだからといって排他的に変わりはないのかな?

>唯一絶対という解釈を日本人が間違えているだけかもしれませんが…。
聖書は断片的にしか読んだことありませんが、確かに創世記には、「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』」明らかに、多神ですよね、われわれって。
元になる、ユダヤ教ももとは多神教だったと読んだことがあります。
リンクのページも面白かったです。違う方面からもキリスト教を見てみたいです。

けれども、一応キリスト教は「唯一絶対神」をかかげ、他の宗教を拒んできた、と言う歴史は結構大きいのではないでしょうか?いわゆる「刷り込み」ってやっぱりあったと思います。
そういう環境で育った場合、キリスト教はどのくらい人々の心の中に浸透したのか、と思ったのですが……。

ただ単に「そうだよ、別に完全にキリスト教だけ信じてないよ」とか「過激派みたいに盲目的だよ」とかそれだけの答えを求めていたのですが、ちょっと深いところでいろいろと納得できました。
お答えいただきました皆様、どうもありがとうございました。

お礼日時:2009/05/24 13:42

確かに西洋でも宗教離れが進んでいると言われていますし、若い世代ほど信心深い人が少ないでしょう。



でも、文化や思想という意味では、日本人にしろ西洋人にしろ、
牛乳の膜の薄さどころか逆に、もっと骨身に深く染み付いたものではないかと感じます。
そりゃモーゼの十戒を守っているキリスト教徒なんてほとんどいないでしょうけれど、バックグランドとしては、何かあるんだと思いますよ。
少なくとも、日本人とはカルチャーが違います。いろいろな意味で。

以前新聞に宗教学者の山折哲雄先生が書いていたのですが、「西洋の宗教は信じる宗教、日本の宗教は感じる宗教」だと。
日本は仏教だけではないですよ。土着の神道もあります。
木や岩に注連縄(しめなわ)張っちゃうでしょう、あれです。

御父と御子と聖霊に向かって祈るのですから、そこに信仰が集中するんでしょうね。
キリスト教の場合、人格のある神様という感じです。
これは西洋人自身が批判することもありますが、「白い髭を生やしたおじいさん」のイメージ。
昔の画家達がそういう絵を描いたからそのイメージで。

ただ、西洋と言っても色々です。
精霊とか妖精とかだと、イギリスでしょう。ケルトとか。
スペイン、フランスなんかだとカトリックという感じがするし。
ロシアやギリシャは「正教」でまたちょっと違うし。
欧米と言いますが、欧と米は結構違うし、欧州でも違いがあると思います。

カトリックの国は聖母マリア信仰があるし(バチカンは正式にはマリア信仰を認めていないらしいが)、聖人がたくさんいます。
この点、ちょっと多神教に近い感じと言われることもあります。
自分としては、カトリックの古い教会は仏教寺院に近い雰囲気があるし、プロテスタントよりは馴染みやすいような気が。
観光旅行中に見学していて、の話ですが(^^;

カナダは知らないんですが、
米国の場合の話を本で読むと、教会に行かない人も多いが、逆に熱心に教会に集まる人々もいますし、進化論を学校で教えない先生もいます。
(ちなみに「原理主義」という言葉はもともとキリスト教の中の主義のことで、イスラム原理主義は後から出来た呼び名)
それと社会的な意味では「どこの教会に属しているか」なんてことが意味を成す場合もあるらしく、信仰そのものとは違うのでしょうが、社会的(政治的)には、教会が全然意味を成さないわけではないようです。

No.1の方がおっしゃっているような社会貢献活動にはキリスト教の
charity精神の影響があるのだろうと思います。
感覚的には日本の慈善や奉仕とは何かが違う感じがします。
あとですね、マザー・テレサ。
彼女は修道女でしたから一般人とは全然違いますが、あれこそイエスへの信仰無しには成り立たない思想です。
マザーの言葉を集めた本を読んでみると、私には理解できない部分があります。
(仏様のとか阿弥陀様のとか観音様のとか考えるんだったらどうなんだろう??)

精霊、交霊会、魔術などはイギリスの19世紀~20世紀前半(スピリチュアリズムに通じる)。
いわゆるスピリチュアルな考え方は、1960年代~のニューエイジなどでしょうか。
精霊だとか霊だとかはキリスト教的ではなく異教的と感じますが、
ニューエイジはキリスト教の影響を感じます。
考え方は従来のキリスト教ではないが、キリスト教文化の人たちから出た運動だな、と。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5% …

ニーチェの『ツァラトストラはこう言った』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』など読むと、キリスト教圏の人って大変だったんなあと思います。
ニーチェはちゃんと読んでないし理解できてませんけれど、わざわざ「神は死んだ」と言わなければならなかったなんて・・・。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2821689

パウロ・コエーリョというブラジルの作家がいます。
『ピエドラ川のほとりでわたしは泣いた』という小説はスペインが舞台で、伝統的カトリック信仰と、信仰には興味のない現代の20代女性(聖母マリアのお祭りがあれば行ったりする程度)の精神的葛藤が描かれています。
作家本人の世界観は一般的とは言えないだろうと思いますが、ヒロインの考え方は普通の人なのだろうし、何か参考になるかもしれません。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83 …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>牛乳の膜の薄さどころか逆に、……
私の質問の仕方が悪かったとしか言いようがないのですが、どれだけ、「一神教」を信じているのか、と言った方がよかったですね。
「多神教」の許容度はいかほど?というのが本当のところです。
「人の生き方を教える宗教」であり一神教であるキリスト教と、土着の宗教(ここでは教えを説かない宗教とします。ex.豊穣の神。多くは役割が分かれており多神です)の中にはキリスト教から見れば神の創造物を崇め奉ることは多い(天照大神とか)。それを一般信者がどこまで何も感じずに受け止めているのか、と。

>精霊とか妖精とかだと、イギリスでしょう。
確かに有名どころですが、他のヨーロッパの地域にもいますよ?
実際イギリスはどうなんでしょう?イギリスは元々辺境の国だし、そんなにキリスト教に縛られてなかったように思うのですが。イングランド国教会(この辺の知識はありませんが)と言ったところで、シェイクスピアの劇には普通に妖精や女神が登場してますし……。
とりあえず、大きく見て、と言うことでお願いします。

>「西洋の宗教は信じる宗教、日本の宗教は感じる宗教」
「神を感じる」と聞いたことがありますが、また違うのでしょうか?私が感じる「何か」と「キリスト教の神」は表現を変えただけで「違う何かを感じる」心は同じで結局宗教って同じよねなんて思ったことがあります^^;。

>バチカンは正式にはマリア信仰を認めていないらしいが
私は「高まるマリア熱のせいで、キリスト教発生400年後(200年だったか?)にマリア信仰を認めた」と読んだのですが、バチカンじゃなきゃ、どこが認めた?!正式ではないと言うこと?ノートルダム寺院の位置づけは?

>進化論を学校で教えない先生もいます。
これは聞きますね。バチカンが「進化論」認めちゃいましたけど、この場合は個人の思想に教育をゆだねるになっちゃうんでしょうか?

>考え方は従来のキリスト教ではないが、……
ざっとリンク読ませていただきました。
なんだか、キリスト教に限界を感じた、と言う気がしました。
キリスト教は大事だけど、それだけではもう限界なんだ、と。

>ニーチェの『ツァラトストラはこう言った』
これはこれで面白い内容ですね。
>『ピエドラ川のほとりでわたしは泣いた』
面白そうなので、一度読んでみます。

お礼日時:2009/05/24 01:33

西欧においても、既に形骸化しています。

夏樹静子氏が書かれた小説「ドーム1.2」(角川文庫)において、主人公の恋人の父親が言います。
「すでに、キリスト教も日曜礼拝などの儀式を除き、生活習慣に根ざしているのみ」と・・・。

一神教の最大の問題は、「カルト化」する傾向が強いことです。これまでに、多くの信者が亡くなりました。終末を叫ぶ教団での「大量自殺(一説には、日本赤軍のように内ゲバの結果だとする説もある)」など・・枚挙に暇がありません。

日本では、「自治会」などの制度によって近隣の人々との接点が存在しますが、欧米では「キリスト教会」がその役目を担っているといっても過言ではありません。
つまり、「自治会の集会場」が「キリスト教会」であるという感じですね。

ただし、生活習慣の中に「キリスト教」の様々な習慣が息づいており。例えば、「大富豪」になったら「基金」などを作って支援をしたり、せっかくの高い学歴を生かして、「弱いもの」のために「弁護士」や「医師」活動をするなどの領域では息づいており。その延長線上に、例えば「アムネスティ」、「国教無き医師団」、「世界の医師団」、「足ながさん」、「ナショナルジオグラフィックス協会」・・・などのNGOやNPO活動が存在しています。

今では、儀式的には一神教のようですが・・・「どこまで心に根付いているのか?」までは分かりません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「すでに、キリスト教も日曜礼拝などの儀式を除き、生活習慣に根ざしているのみ」
著者をよく知らないので何とも言えませんが、日本人が書いた小説でこの言葉はどれだけの重みがあるのでしょうか……。私の心にはすとんと落ちてしまいましたが……。

>日本では、「自治会」などの制度によって……
>ただし、生活習慣の中に「キリスト教」の様々な習慣が息づいており……
確かに、それはあると思います。
日本では、例えば、いわゆるホームレスと呼ばれる人々を助けるために動く宗教は、日本になじみ深い仏教ではなく、キリスト教です。
教えを説く宗教としては同じなのに、日本の仏教は何をしているのかと思います。そういう点で、日本には仏教思想が生活に根付いていないのでしょう。
キリスト教は「宗教」としてではなく、既に「考え方」として生活に確実に根付いているということですね。それは教えを説く宗教としては「成功」していると言うことですね。

お礼日時:2009/05/23 23:59

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