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陸軍被服廠が作成した軍服、軍装には検定印が押されますが、
「本廠」「大支(大阪支廠)」「廣支(広島支廠)」の三つしか見たことがありません。
他にも支廠があったようですが、上記3つ以外の検印は存在しますか?

よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

 三つ以外の検印には「奉支検定」「札支検定」があります。



 陸軍被服廠の歴史から見ますと、明治時代に陸軍被服廠本廠が創設され、1927年(昭2)に支廠として「大阪陸軍被服支廠」と「広島陸軍被服支廠」が設置され、以後陸軍の被服をはじめ軍装品全般の生産は三箇所で行なわれました。したがって軍装品の殆どはこの三つであるわけです。太平洋戦争開始前後、旧満州の関東軍が増強されるにともない「奉天陸軍被服支廠」(のち関東軍被服廠)が設置され、軍服のほか防寒用特殊被服の生産に従事しました。関東軍の将兵の多くが「奉支検定」の軍服を着ていたと想像されますが、敗戦とともにシベリア送りとなったため、現在では希少品となっているそうです。また1944年(昭19)に「札幌陸軍被服支廠」設置され同廠においても生産が始まりましたが、「昭和二十年製 札支検定」の印が付いた軍服が少数残っている状態だそうです。「東京陸軍被服支廠」「仙台陸軍被服支廠」「名古屋陸軍被服支廠「福岡陸軍被服支廠」は終戦の年の4月に設置され、生産に入ると同時に敗戦となりました。

この回答への補足

詳細な回答ありがとうございます。
大変参考になりました。
「仙台陸軍被服支廠」「名古屋陸軍被服支廠「福岡陸軍被服支廠」などはどこにあったのでしょうか?
大工場だったはずですが、あまり聞きません。

補足日時:2009/06/25 23:04
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>「仙台陸軍被服支廠」「名古屋陸軍被服支廠「福岡陸軍被服支廠」などはどこにあったのでしょうか?



 支廠はそれぞれ、仙台、名古屋、久留米に本部を置き、各地上・飛行・船舶の部隊所在地に出張所・集積所が配置されました。しかし、戦争末期で山間部へ移動が始まるという状況のため、被服廠に関する一、二の研究はあるものの全体像の史料は刊行されていません。

 1945年(昭20)1月、本土決戦態勢の抜本強化への改編の一環として、内地兵站組織も平時編制から戦時編制つまり作戦部隊として生まれ変わることになりました。これにより陸軍被服廠も同年4月18日軍令陸甲第69号下令により、従来本廠、大阪、広島の出張所としてあったものを被服支廠と改めることとなりました。なお満洲の奉天支廠はさらに「関東軍被服廠」と改称されています。名称が変更されても実態はそれまでの出張所組織及び分遣所(派遣所)、集積所、倉庫などが主体で、戦争末期に大縫製工場を作る余裕はなく、被服学校や実業学校、民間縫製工場(こうば)を接収し学徒動員らによって生産を行なっていました。たとえば久留米においてはゴムを利用した製靴や防毒面(被甲・被乙)の生産などがおこなわれるなど地域により革や木材、毛などを利用した装具が生産されました。しかし、ほどなく都市部では空襲も始まりましたから、工場も疎開となりさらに生産は低下と思われます。これは被服に限らず当時の軍需生産全体の傾向でした。
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