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どういういきさつで名前に「狂」という字をいれたのでしょうか?

それとも昔は「狂」の意味が現在とことなるのでしょうか

A 回答 (3件)

江戸時代と言わず、今の時代でも一芸についてトコトン究めようと努力している人間に取っては、「狂」は理想的な境地だと思います。

ただし、それがどうして一つの境地なのかを体得するには、自分自身がその一芸に命を捧げる経験をせずに如何に理屈をこねくり回しても分からないと思います。

現にこの概念は吉田松陰を俟たずに、すでに北斎が彼の号「画狂老人卍」として使っておりました。

下のURLを参考にして下さい。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Salted_salmond_and_mice.jpg
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この回答へのお礼

お礼が遅くてすいませんでした。

北斎の号は現在の「狂」と相通ずる感じがしますね。

ありがとうございました

お礼日時:2009/07/09 04:04

 漢字の泰斗、白川静先生(個人的には存じ上げません、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B7%9D% …)も狂の字についてのお話があります。
 それで私も質問を致しました。http://okwave.jp/qa4360534.html
 そこに、ご質問のこともご回答いただいております。
 どうぞご参照ください。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなり申し訳ありませんでした。

さらに深く理解ができました。

ありがとうございました

お礼日時:2009/07/09 04:03

・幼名は辰之助、通称は小助、のち小輔、さらに狂介と改名。

明治維新後は有朋の諱を称した。

 改名したのは、処刑された恩師吉田松陰の影響だそうです。

 ※江戸末期から明治の開国に至る時期に、吉田松陰が主宰した松下村塾では、画一教育を絶対にしませんでした。高杉晋作が「『孟子』が読みたい」と言えば「じゃあ、『孟子』を読みなさい」と言って読ませ、伊藤博文が「『論語』が読みたい」と言えば、彼には『論語』を読ませます。生徒は分からないことがあると「ハイ、先生」と手を挙げるので、松蔭先生は傍らへ行って「どこが分からないんだ?」と聞き、「それはこういう意味だ」と教えました。

 吉田松陰だって万巻の書を読んだわけではありませんから、分からないこともありますね。山縣有朋が「先生、ここが分からない」と言います。山縣有朋は漢詩や『墨子』など難しい作品を読む人でした。松蔭は「先生もよく分からないから、今晩家へ帰って勉強して、明日の朝教えてやる」と答えます。

 実際、松下村塾が終わると家へ帰って、生徒の質問箇所を徹夜で勉強したそうです。翌日、目を真っ赤にして出てきて「おい、山縣、お前の問うたのはこういうことだぞ」とちゃんと教えた。そのうち、生徒たちの間に「松蔭先生は、質問をして分からないことがあると一晩寝ずに考えてくださる方だ」という評価が浸透し、やがて「この先生のためだったら死のう」という気持ちに発展していきます。

 吉田松陰が彼らに教えたのは「狂」という字でした。狂うという字は、クレイジーという意味ではなく、本来は「自分でも持て余してしまうような情熱」を指します。松蔭は生徒に、「『狂』を持て」と言います。それで山縣有朋は自分の名前を変えて山縣狂介とするんですね。高杉晋作は東洋の一狂生(普通は一書生と言いますよね)と名乗ります。そうやって生徒たちは松蔭の言う「狂」という字を、心の底でトンと受け止めました。「先生も生徒も一緒に育つのが学習だ」という考えの実践を、松蔭の松下村塾だけでなく、広瀬淡窓の咸宜園もやっていた。つまり江戸時代の塾というのは、先生も生徒も一緒に燃えていたということですね。 



草柳大蔵著「午前8時のメッセージ99話」( H21年発行静新新書 )より

 
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この回答へのお礼

お礼が遅くなり申し訳ありませんでした。

松陰のお話は大変興味深く、勉強になりました。

ありがとうございました

お礼日時:2009/07/09 04:01

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