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講談社学術文庫 立川武蔵著「空の思想史」
~イエスの十字架上の犠牲は自己否定そのものだ。自己を犠(いけにえ)にして人々の罪を贖(あがな)ったと考えられてきたのである。~

イエスの磔刑は自己否定ですか。聖書だけを資料とすれば強烈な自己肯定そのものに思えますが、どんなものでしょうか。
仮に自己否定でないとしても、筆が滑ることはありがちなので著者の鑑識眼を云々するものではありません。必要ならば自己肯定と読んでいる私の認識を改めなくてはならないとの動機で質問します。

よろしくお願いします。

A 回答 (11件中1~10件)

当時の彼の判断で、そうすべきと決定をして概ねの状況や、それをすることによる先行きの見通しや必要性が加味されたことと思いますので、肯定的に捉えた方が正解と思います。



広義に於いて正解でない事柄でも、ある目的が本人の魂の命ずる処であるならば全ての観念は凌駕される内容と結果をもたらすでしょう。

人のために命を捧げる行為は短期的には当人や周囲に影を落としたり、葛藤を生み出す側面を持ちますが、長期的には多くの人に良い影響や指針の柱となりうるモチベーションとして残ります。

志というものが、秩序を守り続けた事例として大切に思えればいいですね(^-^)
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この回答へのお礼

著者は儒教、キリスト教、イスラム教、仏教のいずれもが自己否定を迫るとの見解をもっていて、キリスト教が自己否定を迫る端的な例としてイエスの磔刑を挙げた模様です。私自身は引っかかりを感じて読み飛ばせませんでした。いずれにしても著者の真意を確かめられない場所での話題ですから深入りするつもりはありません。
私自身はキリスト教が自己否定を迫る例としてイエスの磔刑を挙げるのには賛同しないので、皆さんの見解をお聞きしたかった訳です。
ご回答は私の見解と同方向にあるのかなと読みました。
有り難うございました。

お礼日時:2009/07/25 22:12

掲げられたテクストの見解は、あまりに偏狭で幼稚にすぎると思います。

なぜ、いけにえが自己否定なのでしょうか?イエス自身が、生存こそ自己肯定であると措定していて、筆者がそれに追従しないかぎりは、ありえない見解であると考えます。

 そもそも、イエスが神であるならば、自己を肯定も否定もする必要がありません。人の子も感情は持ちますが、われわれのように、自己の正しさを懐疑しては、もはや神とはいえないのです。神は絶対なので、自己を懐疑する必要もありません。十字架と復活は、子なる神の証明としての予定調和ですから、父なる神の意志を受け入れた、主体的な行動です。

 ちなみに、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は、神意への懐疑ではなく、イエス自身が、まさにわれわれと同じく、痛覚を有したことの暗喩であると考えます。自己肯定も自己否定も、人間の証明であり、どちらかに当て嵌まるなら、イエスは神とはいえません。自己を超越している者が神なのです。子なる神の臨在は、肉によらず、霊によります。神には自己がありません。
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この回答へのお礼

著者は儒教、キリスト教、イスラム教、仏教のいずれもが自己否定を迫るとの見解をもっていて、キリスト教が自己否定を迫る端的な例としてイエスの磔刑を挙げた模様です。著者の真意を確かめられない場所での話題ですから深入りするつもりはありません。
何はともあれpokoperopoさんがイエスの磔刑を自己否定とは認めていないことが分かりました。これで十分です。
有り難うございました。

お礼日時:2009/07/25 22:14

君のいう自己否定か否かよりも前に、一体イエス・キリストという人物は実在していたのかどうかという問題が、等閑にされている。


キリストが言ったといわれことは全部後世の作り話だ。
当時の資料ではローマの資料が一番信用できるがキリストらしき人物(キリストと断定している訳ではない)が磔刑に処せられたという資料があるだけなんだ。
キリスト教関係者にとって実在を疑うなどトンデモナイと考えているだろうが、
実際はキリストのことはサッパリ分かっていないというのが実情なんだよ。
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磔刑されて全ての人間の原罪を消したとほざいたのは、、、誰が言いだしっぺでしたっけ?


アウグスティヌスあたりかなぁ?


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E3%81%A8% …


『イエスは歴史的に実在した人物というよりも、このカテゴリを「原型」とした統合的発展ではないかと推測する人々がいる。また、イエス自身は実在の人物で、復活に関わる部分が後にその種の秘教の影響下に加わったと考える人々もいる。C・S・ルイスは後者に改宗した後、次のように語った。「もし神が『神話生成の神』であることを選ばれ、そして空(そら)がそれ自体は神話でないなら、私達は『神話病の患者』であることをやめてはどうだろう。」 』

うむ。
確かにオシリスの神話あたりが元で、同じ神話が続々作られていって、イエスバージョンが今のところ最終。

空がそれ自体神話ではないなら。。。空というより確かに太陽は神話ではなく46億歳くらいと推測される。
随分長生きしたせいで、イエスって名前まで改名された太陽さん。

太陽が南十字星にかかったように見えたのは、北半球のある地点から観察したから。

他の地域だと12月24日あたりに太陽が南十字星に重なって、まるで太陽が磔刑されたかのように見えない。

ましてや地球の外から観察していたら、そうは見えなかった。


で、その部分的に見える現象が何故普遍になるのか。
普遍とは条件によって違うってのは普遍とは呼ばないんですね。

普遍じゃないものを普遍で、原罪が消えたってのはかなり無理があるし、第一ユダヤ教は「原罪がある 改心しろ」とか つっつかなかった。
あまり気にしなかったのに、アウグスティヌスになってから、自分のエロさに罪悪感を持ち、それで原罪があってもイエスが消したってしたかったんじゃないかと。

動物学的に自分を犠牲にして、自分の所属する集団を助けるってのは、家族限定。
血のつながりが無い人を救うために死のうとする特徴を持つ種は絶滅する。

言っていることはわかりますよね?
そういう人は子孫を残せても、その子孫もまたその特徴をひきついでいれば、やはり死にやすく、死ぬ前に子孫残していても、そのこも自己犠牲を払うのなら、当然やがて絶滅するしかないわけです。

自然淘汰はそんな種を生かしておかない。

ただし、ミツバチとかアリの世界は違う。
必死になって働き蜂は自己犠牲を払い女王蜂の娘を守るよう遺伝子がプログラムされている。
何故かというと、女王蜂の娘は女王蜂の遺伝子を75%ひきつぐ。
対する働き蜂は50%。
だから自分より濃い女王蜂に娘を守るために、自己犠牲を払って死ぬ。


という現実の出来事。
他人のために自己犠牲を払うって 美しいようですが、実際そんな種が突然変異でできたとしても、子孫は絶えるしかないわけです。

他人を騙しても、生き残ろうとする生命力がある者の子孫しか、自然は存在を許さない。

人間の理想や希望など、自然は理解しないし、交渉に応じない。
シビアなんですね。

従って不自然な理想論をいくら考えても、現実じゃないので、考えるだけ無駄なわけです。

フレミングが群れが増えすぎてエサがたらなくなったために、集団自殺したってのは、研究がずさんだったから。
実際は、たまたま群れが行った先に崖があって、おすなー とまれーー ってのが通用しなくて、崖から転落しちゃっただけ。
そっちの方向に移動しなかった群れは、ちゃっかり生きている。
だから、フレミングは自己犠牲を払って自殺などしない。

人間もそう。息子とか血のつながりが濃い者の命を自らの命と引き換えにすることはありえても、赤の他人のために死ぬってことは無い。
例があるというのなら、それは実際は別な理由だっただけだと思います。
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この回答へのお礼

kigurumiさんには随分お世話になってきました。
質問文に対して必要にして十分なご回答、質問内容から少し食み出したご回答、大量に食み出したご回答、色々頂きました。しかし、いずれの場合も質問を外したご回答はありませんでした。
さて、今回は如何でしょう。質問の答えとして深く関わってはいるのでしょうが、何処がどう質問の回答に結びつくのか、私には見出せませんでした。キリスト教を客観視できる立場の方にはイエスの磔刑が自己否定と映っているのか自己肯定と映っているのか、それを識別できる文言がはいっていないと困ります。読み落としを少しだけ心配していますが……。この質問は神の有無を問うてはいません。
あるいは、この後に第2弾があって、その前段が前もって届いたのかなと思ったりしています。これが素直な読後感です。

お礼日時:2009/07/26 09:20

#2、ぽこぺろぽです。

ご返礼をいただきありがとうございます。自己否定を迫るのは、中世の教会でしょう。自己に対する、神意ならびに教義の優越性を確立したのです。ある種の絶対王政です。

 イエスの十字架は、イエス自身の望みでもあり、イエスは十字架に斃れ、復活を果たすために、この世に送られたと預言しているのだから、自己否定のはずがありません。自己の価値を信じ切っているという意味では、自己肯定に思えますが、イエスの肉は象徴であり、子なる神は地上に留まらないので、現世的に自己肯定をしているわけではありません。

 とはいえ、救世主が自己否定するというトンデモ解釈とは、比較にならないほど真っ当なご考察だと思います。
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この回答へのお礼

ぽこぺろぽさんの主張は深い所では兎も角として表面的には分かったつもりです。No.2の時点で自己否定でも自己肯定でもないし、神には自己がないとの言辞が確かにありました。
難しいことは一朝一夕には分かりませんが、「イエスの十字架上の犠牲は自己否定そのものだ。」という表現が異物として引っ掛かる感覚は私特有のものではないのが分かりました。
再度のお答え、有り難うございました。

お礼日時:2009/07/26 18:55

kigirumiです。




>質問の答えとして深く関わってはいるのでしょうが
>この質問は神の有無を問うてはいません。

つまりありえないことも哲学ではオッケーってことですか?

「1+1はどうして5なのでしょうか?」

「サンタクロースは煙突が無い家には、どうやって入っているのか教えてください」

「ミステリーサークルを作った宇宙人は、一体なにを人間に言いたいのでしょうか?」

「火星に人間の顔をした岩があるが、宇宙人は人間にどんなメッセージを発信しているのでしょうか」



実際このサイトで、最後の質問と似たような投降がされたことがあります。

その人はネットで見た内容をそのまま信じた。

で、結局 角度の問題で人の顔に見えたってだけだって既に解明されているって、他の人が返信に書いたんです。


あなたがその回答者だったと仮定します。
真相を回答したら、質問者からこう返信があなたにあったとします。

「私は宇宙人はこの岩を使ってどんなメッセージを人類に発信しているのかって聞いているんですよ。よく質問を読んで、質問に沿って答えてください」


言葉を失いませんか?


イエスが実在するかどうか関係なく、自己犠牲についての質問だと読んでわかったので、空想じゃなくてリアルをもって、私は自己犠牲の可能性を前回説明しました。


それでも不満というのなら、一体あなたは何をしたいんでしょうか?
宇宙人が人面岩を作り、ミステリーサークルを作ったと信じろ?
それ 宗教です・・・・。


2000年ほど前は、いろんなイエス物語があったんですね。
オシリス物語のいろんなスピンアウトしたバージョンがあり、その中で今のキリスト教が主張する物語が生き残った。

似たような内容を持つほかの集団を制して独占権を持つに至った理由はいくつかあります。

いずれにせよ 200以上のバージョンの中から、4つだけが選ばれたわけです。

異端として今のキリスト教のつながる集団から迫害を受けたのがグノーシス系のキリスト教団。

トマスの福音書はグノーシス系。
その内容は、鞭打たれているのはイエスの身代わりってなっています。
イエスは身代わりを自分だと思って鞭打つ人々を、あざ笑っている描写があります。

肉体という殻から抜け出し、精神世界の住民となったイエスが、肉体という牢獄を本体だと思って鞭打つ人々をあざ笑う。


トマスの福音書のトマスっというのは、バビロニアのタンムズのギリシャ語。


で、結局、、、私がうまく説明できないから悪いんでしょうね。
つまり、1+1=5じゃないって言いたいんです。
1+1はどうして5になるのか みたいな質問そのものに問題があるって言いたかったんです。

それも「質問に沿った答えじゃない」って言われたら、もうお手上げです。

私はあなたと会話する術を残念ながら持ち合わせていない。
申し訳ない 役にたてなくって。
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この回答へのお礼

No.6を拝見しました。No.4はNo.4で完結していることが分かりましたので、先ずNo.4を私流に読み、お礼を記し直します。
私の感覚では「自己犠牲」には「自己肯定」の要素はあっても「自己否定」の要素はありません。No.4ではイエスの磔刑を自己犠牲と認識していると読み、よって自己否定の要素はないとのご回答と読みました。

続いてNo.6へのお礼です。
「1+1=5」の話の趣旨を掴みきれませんでしたが、多分、論理学なり数学でいう「仮定」や「公準」の話だろうと思いました。イエスの存在が偽なので、ここから帰結される全ての結論は真で、よって著者がいう「自己否定そのものだ」という言い方も成立するとのお説だと読みました。

以上で直接のお礼は終わりで、以下余談です。
文意が伝わらないとき、原因が書き手にあるか読み手にあるかなんて軽々には言えないのだと思います。私の文章力も読解力も酷いものです。大半の人が作家にも詩人にもなれない要因の一つは多分、自分の書いたものを他人の目で読む能力がないからだと思います。
回答が役に立つか立たないかは、これはもう質問する側が決めるより仕方ないのだと思います。分かっていない者が分かっている可能性の有る者を評価する不合理を許容しないと、このシステムは利用できないのだと思います。
有り難うございました。

お礼日時:2009/07/27 21:52

イエスの磔刑が自己否定か自己肯定かという考えが、まずナンセンスだと思います。


他人がどうこう言っても、約2千年前のイエス・キリストのことなんか分かりようもありません。
イエスは神なので、自分を肯定するとか否定するとかという考えもなかったんじゃないですか?

確かに誰も磔にされたいと思いません。イエス・キリスト本人もそうだったかと思います。
でも、イエスは自らの意思で磔になりました。

そして私たち罪人のための贖いとなって、私たちの代わりに十字架につけられました。
大事なのは、それを信じることだけです。

聖書に肯定したと否定したとかいう記述もないので、本の著者が自己否定だと言うのは別にかまわないし、あなたが自己肯定だと言うのなら自由です。
百歩譲って自己否定だったとしても、それでもイエス・キリストは私たちを愛してくれています。

明確な回答なんてありません。質問者様もそんなことで悩まずに、神様からの愛を大いに受け取ってください。
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この回答へのお礼

>>イエスの磔刑が自己否定か自己肯定かという考えが、まずナンセンスだと思います。<<
omenapuuさんの考えは判りました。

>>質問者様もそんなことで悩まずに、神様からの愛を大いに受け取ってください。<<
冗談言ってはいけません。寝言は寝てから言って下さい。神の存在なんぞ21世紀に生きる私が信じている道理がありません。私自身は何も考えちゃいませんが、一般に無心論者はそれなりに真剣に考えた末に無心論者でいるのです。見縊らない方がいいです。キリスト教徒がキリスト教徒でいるのと同等の真剣さで無心論者は無心論者でいるのです。私が否定しているものを無理やり私におっ被せないで下さい。信徒であろうとなかろうと信仰に理解を示そうという人は、こういうことにもっと敏感になった方がよいです。
ユダヤ教徒にイエスの愛を受け取れというのと同じだし、イスラム教徒にイエスの愛を受け取れというのと同じです。もっとも、それを承知の上で仰っている可能性もあるのでしょうが、その場合には何をかいわんやです。

お礼日時:2009/07/27 22:03

>>イエスの磔刑は自己否定ですか。

聖書だけを資料とすれば強烈な自己肯定そのものに思えます。

どちらも正しいと思いますよ。イエス自身が逃げもせず処刑を望んだのですから「肉体のイエス」としては自己否定してますね。死の直前にエリアを迎えに呼んでますから霊的なイエスは自己否定はしていないですね。むしろ肯定してますね。その証拠に霊的に再生してふがいない弟子を叱咤激励してますからね。このように肉体のイエスと霊的なイエスの両面があるので混乱するのでしょうね。
つまり霊的なイエスが主で肉体的なイエスが副であるから、霊的な部分を肯定するために副の部分など否定してもよかったのでしょうね。
肉体のイエスは気性の激しい人だったのでしょうね。
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この回答へのお礼

>>どちらも正しいと思いますよ。<<
これで十分です。mmkyさんの見解は判りました。ありがとうございました。

お礼日時:2009/07/27 22:05

 イエスにまつわる話をどのように捉え、解釈するか ――どんな解釈に共鳴するか―― で、今の自分の世界観とそこから派生する思考、振る舞いがどういったものか把握できる



 イエスの行為が生贄とか、自己肯定もしくは自己否定 などとは考えたこともなかったですね。

 さて、何をあてはめ、どんな世界を目の当たりにしていくか。
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この回答へのお礼

この質問は神についてもイエスについても考えてはいないのです。「空」について論じた書籍を寝ぼけ眼で読んでいるうちに、引っかかる文言に出合ったために生じた、序でのような質問です。
自己否定とは読まないのが大方の総意らしく、この質問は締め切りに向かいつつあるところです。
有り難うございました。

お礼日時:2009/07/29 23:19

kigurumiです。



>文意が伝わらないとき、原因が書き手にあるか読み手にあるかなんて軽々には言えないのだと思います。

いえ、、、なんと言いましょうか。
私はあなたの質問している内容はわかっているです。
ただ、その方向性 あるいは延長することに意義があるのか、甚だ疑問に思っているんです。

その方向性の具体的な内容。 以下に書きます。


プラトンはイデアについて語っています。
英語だとアイデア。 <思いつき>とか<発想>って意味。
その語源と思われるイデアは、プラトンが言い出した。


プラトンは、人間はもともと完璧な世界にいたと考えた。
永遠者で全くの善だったが、肉体という有限を持ったために、苦しみが生まれたと考えた。
(雛形があり、それが元もとの本体だって考え)


ソクラテスがぼんやり思っていたものを、プラトンはイデアってしたんですね。
で、元いたイデア界に戻るには、徳を得ることだってしたわけです。
では その徳とはどういうことか と うんたらかんたらって彼は考えたわけです。
イデア界を知る人の言う通りにしていればいい と考えた。
キリスト教も聖職者に言うことさえ聞いていればいいってしたでしょ?



で、プラトンの一部の人だけがイデア界を知りうるってのを批判したのがアリストテレス。
一部の人のみじゃなく、誰でも可能だって言ったわけです。
で、その可能な方法として中庸を説いたわけです。


ソクラテス⇒プラトン⇒アリストテレスと展開していったわけです。

そのうちのプラトン論を、同じギリシャ地方で生まれたキリスト教がひきついだ。


で、キリスト教では、その全くの善、永遠の場所を天国ってしたわけです。
父の元に戻るとか うんたらかんたら。


で、トマスの福音書は、人間は肉体と魂でできていて、肉体は悪 または不純であり、肉体という牢獄から抜け出すことが、元の姿というか元に戻って、全くの善で永遠者になるという考えがある。

だから、イエスは穢れた肉体という牢獄から抜け出したとして、自分の肉体を鞭うつ人々をケタケタケタとあざ笑ったという物語になっているわけです。


ユダの福音書では、イエスは真理を知る唯一のユダに頼んで、自分が磔刑になるよう計画したと書かれています。
目的は穢れた肉体から抜け出る為。
ユダが唯一その考えを理解し協力したとなっている。


トマスの福音書もユダの福音書もグノーシス思想とされ、正統派と自称する集団から異端宣告を受けた。
主な理由はグノーシス思想では、人々が崇拝している神は下級の神であり、本当の神は別にいるとしたから。
どうしてそういう考えをしたのかというと、全くの善の神なら、肉体という有限に魂を閉じ込めたりしないから。 と考えたから。


で、どっちにせよ、グノーシス思想も、キリスト教思想も肉体と魂の二元論で、元はソクラテスから始まったイデア。アイデア。



こういう流れになっており、イエスの磔刑について、ああだろう こうだったんだろう と憶測が飛び交ったわけです。

で、前に言いましたが、太陽の擬人化がイエス物語。
冬至に一旦太陽が死んで、その後復活するわけですが、冬至は北半球では冬ですから、地上の緑は無いわけですが、春になると大地が緑に覆われるので、「太陽さまさまだぁ」って古代の人はお天道様に感謝した。

ただ それだけのことなのに、なんで「イエスが自ら磔刑にのぞんでくれたことで、原罪が消えた」とか「イエスを殺したのはユダヤ人だから」って殺さなければならないのか。

はたまた、<イエスの磔刑は自己肯定だ>、<いや自己否定だ>って延長して議論しなければならないのか。
(イエスの話じゃないのに・・・。)



ピサの斜塔ってありますよね。
土台が歪んでいたが、最初気づかなかったわけです。
高くなっていくにしたがって、土台が歪んでいるとわかった。

その歪んだ土台の上にさらに石を積み上げていこうとする。
普通は気づいた時点で、基盤が粗悪だって気づいて、工事を中止しません?

ペトロが礎になる?
ぺトロなんて人物実在していない。
空想の歪んだ礎に上に、さらに空想を積み上げていって、果たしてそれって。。。



私思うんですね。
キリスト教が西洋の文明を停滞させたと言われる理由。
西欧では支配者つまり聖職者は市民が学問を得るのを妨害したんです。
図書館を閉鎖して、聖書だけ読んでいればよろしいって。

そうしているうち、聖職者も妄想物語を真実だと思うようになったと思えるんですね。
ギリシャで哲学の学校において討論で負けたことが無い聖職者フロイス(日本史を書いた人)が、日本にやってきて武将を自慢の詭弁で説き伏せようとしたが果たせず、一般庶民と議論して、コテンパンに一般の日本人に論破されてしまった。


フロイスのいた世界は情報操作で限られた知識しか得られず、その世界ではお山の大将でいられたとしても、日本のように一般人も教育を行けている土地に来てしまえば、赤ちゃんでしかなかったわけです。

その狭くレベルの低い現実に即していない思想を、いくら積み上げたとしても、結局は何も建築されない。

誰が悪いと言い切れないのですが、プラトンの思想がキリスト教であり、プラトンの執筆した国家って内容に磔刑場面は出てきます。
全くの善人なのかどうか確かめるには、善い評判を奪い(紫に衣をはがし)、鞭打ち、槍で突いてみればわかる って書いています。

イエスの磔刑の元ネタを書いたプラトンは、キリスト教ができるより何百年も前にいた人。
しかも、プラトンはソクラテスのことを言っている。


ソクラテスは脱獄が容易にできたのに、あえてそうせず、自ら毒ニンジンジュースを飲んで死んだ。
何故彼は逃げずに自ら死刑に望んだのか。
ソクラテスの最後の弁明にその答えが書いてあります。


ってことで、、、、これでどうでしょうか?
こっちであれば、現実に起こったことですので、このことについて話しあってもいいと思います。
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この回答へのお礼

この質問は神についてもイエスについても考えてはいないのです。「空」について論じた書籍を寝ぼけ眼で読んでいるうちに、引っかかる文言に出合ったために生じた、序でのような質問です。
これまでのご回答によって自己否定とは捉えないのが大方の見方らしいと判断できました。

この質問に答えるには、ここまで多角的に考えるべきなのかもしれませんし、このご回答は示唆に富んでいるのかもしれませんが、何せ「空」の方に意識があるので、今すぐキリスト教やギリシャ哲学の方には気持ちが向かいません。このカテをウロチョロして質問しているのは、元はといえば「軸の時代」が到来した必然性は何だったのか知りたいことにあるので、儒教、ギリシャ哲学、仏教、一神教、歴史、民俗学等、何れ疑問が生じるかもしれません。その節にはお世話になるかもしれません。
有り難うございました。

今後、数日置いて、どなた様からも特段の寄稿がなければ締め切ります。

お礼日時:2009/07/29 23:26

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