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東大みたいに教養を重視する大学
京大みたいにいきなり専門を学ぶ大学

一概にどちらが良いとは言えませんが、幅広い知識や雑学なんかは社会に出たら必要だと思いますし、僕はもっと全国の大学が1年半ぐらい教養の勉強だけをすればいいと思うのですがいかがでしょうか?

理系でも経済や哲学、文学を学ぶ
文系でも数学や化学、科学を学ぶ

教養大好き人間の質問です。

A 回答 (16件中1~10件)

問題は、過去と違ってあまりに細分化してしまっていることですね。


例えば昔は「法学」だったのが今は「法学の何?」と言うところまで細分化されています。「知的財産です」で良かったのが、「知的財産のどのような事例を?」と言う風になって来ている。そういう意味では大学の3年でやっと専門に触れるようでは卒業までに殆どやりたい分野に関して触れられないことになりますね。そういう意味では「大学院で本格的に勉強」と言うことになるんでしょうけど、その頃までには好奇心が磨耗してしまってる可能性もあります。

そういう意味では大学が決めるのではなく、個人が決めればいいと思いますけど。最初から専門性の高いことをやりたい人はやればいいし、色んな科目を取って最終的に1つに絞るようなことでもいいと思います。
日本では「偏差値が高いから法学部、医学部」のような流れがあるし、中退して入り直すとか、仮面浪人などは手間ですから、大学にしても学部にしてももう少しフレシキブルにした方が社会は流動化、活性化すると思うんですけどね。
つまり官僚が天下りするような権威的・受動的なもので無ければ、本人の意志に基づいての変化は、個人と組織を良くするのでやった方がいい。ただし嫌々やって何とかなるものじゃないですから、選択の自由を与えるべき。
大学は面倒でしょうが、これが最もいいように思いますね。
アメリカの公立学校は酷いレベルですけど、私立大学のシステムは素晴らしいと思いますね。
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私が大学に入学した頃は、先ず2年間教養課程、後半の2年間専門課程 ときっちり分かれておりました。


私はある外国文学学科に入学したのですが、前半の2年間は、
世界史、日本文学、生物、化学、哲学、宗教学、体育、心理学、第1外国語、その他に選択外国語、日本国憲法、などなど。の講義を聴きました。化学では当時文系では珍しかった”電子顕微鏡”なども使ったし、結構面白かったですね。生物では”オパーリン”の本を中心に講義が行われ、興味津々でした。
後半の2年間は、専攻の外国語文学 の他に、西洋文化史等の選択科目、教職科目(当時は授業料の範囲内で有、別途費用は無かった)、などの授業を聴いたが、専門課程が2年間で充分なのか、本当は大学院まで行かないとダメなのかな、と今でも感じております。要するに、私の場合の専攻外国文学の言語は大学に入ってから”ABC"のところから始めるのですから、かなり一生懸命やらないと、本当のところ専門科目では苦労しますね。だけど、初年度から、入門段階でも”専門課程の授業”は無理だと思いますよ。”xxx文学史概説”とかをやるところが多くなってきたようですが、呼んでもいない”外国文学”の歴史なんてね。
現在の高校の授業を”科目の教科書の全ページ”使って、端折らずやれば、かなり、大学での”教養”科目の代わりになると思いますが、大学受験科目を重視する為、無理ですかね?
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教養はある程度必要と思いますが専門科目に入学当初から重点を置くべきだと思います。


私がいる大学は初年度は殆ど教養科目で、研究室に入るまでの専門の勉強が足りなくて今苦労しています。(要領がよい人は自分でどんどん学ぶのでしょうが私は要領が悪いので・・・)


全ての分野の人に専門外の分野を学ぶ道は開かれているべきだと思いますが、私は「専門バカ」がいてもいいと思います。
教養が負担になりすぎて専門分野に適性がある人の可能性が潰れてしまうとしたら勿体ないことだと思います。

勿論広い分野について知識があるに越したことはないと思います。
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すみません。

私、質問に回答していませんね。

国立大学について。
総合大学に教養課程は必要だと思います。興味・モチベーションが少しでも高い人材を専門に送り込めるわけですから、やらない理由はないでしょう。
専科大学は、専門に特化すべきだと思います。一歩でも早く遠くに行きたくて入学してくるわけですから、無理に総合教育をするのではなく、専門とその周辺を丁寧に教えていくべきかと。
(地方国立大の一部のように、数学部で構成されているところは部妙かもしれません)

私立大学について。
入試で5教科を課していない段階で、入学生に教養を求めていないと解釈すべきでしょう。学生の要望に大学ごとに個別に応えていくべきです。無理はしない方が良いかと。
初期教育は、どう見ても難関私大よりも短大の方がレベルが高いですし、教養を学びたい人は単位互換でもして得意な大学に任せた方が良いです、きっと。
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東大が「官僚養成所」である以上理系文系とも絶対に必要です。


また、東大を選ぶ受験生は自ら教養を必要としていると考えているとみるべきでしょう。

他の大学に必要かどうかはその大学の「教育哲学」に任されるべきでしょう。^^
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私の意見は、「不要」です。


申し訳ないが、専門バカの専門の入門講義なら要りません。
どうして教養の講義が教養のない専門バカにできるのか。
教養があれば愚者の楽園などとは呼ばれません。
そもそも、専門の入門ではない教養であれば、高校で身につければ良いだけのことです。
もっとも、ガリ勉君には足りていない、ということなら、「教員を見れば」判りますが。
足りていない奴には足りていないことをまず問題にすべきでしょう。

専攻によっても違うでしょうね。
何となく教養を身につけに来たような文系の連中なら、どうにかして色々幅広く、というのは必要かも知れません。
ところが、法律家になるために法学部に来ていたり、経済の専門家になるために経済学部に来ている者にはおそらく邪魔でしょうね。
理系は言うに及ばずで。
よく考えてみれば、専門バカのあ法律家の大抵は大卒でしょう。
教養の講義を受けているはずです。
ではあの無教養は一体どうしたことでしょうか。
現状の講義は意味がないし、やるのであればもっとマシなことをしなければならないということです。
何となく教養を身につけに来た文系にも、本当の教養が必要な法律家にも、もっとマシな内容が必要です。

ちなみに私は部活一色の高校生活を送りましたので、そういう意味ではガリ勉バカよりはナンボも教養があるんでしょう。
教養がもし必要であるのなら、そういう経験は単位にして欲しいものですね。
ところがやってない。
教養の意味が判ってない人がやっていることだ、というのは明らかです。
(広末涼子なんて陸上と芸能界で講義4つ分くらい自動的に単位が来て良いでしょう)

教養が必要だ、という意見は理解できます。
「そんなこと」に何年も費やしたい人はやれば良いんじゃないでしょうか。
でも、分野によっては「不要」ですし、少なくとも現状の教養の講義の「中身はありません」ので、やりたい人が選択制でやる、中身はもっとマシな物にする、必要があると思います。
私立の医学部に入ったとすると、今のくだらない教養に一年半分の学費、下手すると1000万円が消えているはずです。
薬学部もそう。
卒業を短くする方がベターです。
教養は選択制にする、ついでにアンポンタン大学は全部潰す、これで国と家計の支出が減ります。

なお、私はこの国を、低教育力国家だと思っています。
人に物を教える、という大事な教養を、大学で教えていないか教育学部等一部でしか教えていないからです。
どれだけのことを吸収しても、それは各受講者に貯まるだけで、出ていくことがないのです。
指導者としてどうすればいいかとか、指導的立場になったら何がどう見え何が聞こえ何が聞こえなくなるのか。これも教養でしょう。
そういう教養を、まず教員が受ければ良い。(笑)
いわゆる9教科かその派生を漫然とやっているようでは意味はないでしょう。
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 私も教養科目の充実には賛成で、立花隆氏が「知的亡国論」と言うように、自民党のようになった大学を再生する方法と思います。



 日本では専門教育の方が格上の学問で一般教養は学問以前のことと考えられがちですが欧米における大学の歴史においてはリベラル・アーツ教育こそがむしろ大学教育の本流です。「実利」から離れた幅広い「真理」を身につけていることが必要ということのようです。リベラル・アーツ教育の考え方として重要なのは将来どのような職業に付くにしても人文科学、自然科学、社会科学の三分野の知識を隔たりなく幅広く修得することが必要という前提に立っているとのことです。

 日本の教育システムにおいては、大学の入試科目が理系と文系に分かれ、それぞれに科目数が削減されて来た影響で大学入試に対応した高校のカリキュラム自体も、2年生頃から理系文系に分かれてしまい、結果として入試に必要のない科目は、全く、あるいは非常にいい加減にしか、学習しなくてもちゃんと高校を卒業してしまい、専門科目以外は中学レベルの知識しかない学生が多くなってきており、彼らが、将来、論文数と学位があれば教授になっていきます。もうすでに大学において兆候は現れています。

 また、学問も学際的になってきており、例えば、環境問題を解決する場合も、工学、医学、理学、気象学、法律学、経済学、社会教育学など、あらゆる関連学問が必要となります。一人の者がすべての専門知識を有するのは不可能ですが、プロジェクトのマネジメントが的確に出来るゼネラリストが必要となります。学生をどんどん専門課程に送り込んで狭い領域のことしかわからない専門バカ的スペシャリストは、中国やインドの成長期にある国では必要かも知れませんが、日本では見直す必要があると考えます。

 教養科目を重視する教育システムにするためには、入試制度、高校での教育システムなど変える必要があると思います。
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幅広い知識や雑学が必要、とも思いませんが、「あらゆる知に向かう姿勢」は


持つべきだと思うし、それは専門領域からだけでは培われにくいとも思います。

東大のやり続けていることは、「知的贅沢」であって、それをあらゆる大学で
「実現可能でありそのニーズもある」とは思いません。大学側にも学生側にも
それに耐えるだけの基盤や素地があるべきです。
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こんにちは



なるほど面白い問題提起ですね

あえてちょっと違う回答を

「大学では」教養は必要ないと思います。

たぶん質問者さんが考えているような教養って
中学、高校のときに身につけるべきのような範疇なのではないかと推測します

中学でもっと哲学とか宗教とか戦争とかタブーなしで論じてもいいと思うし
実社会に出て困らないため、犯罪、薬物問題、ギャンブル問題、暴力問題、金融知識なんかも学ばせてもいいと思います。

大学は本当に専門の勉強したい人だけの学府と位置づける

勉強に対する適性がない人は
情報処理、法律、経済、語学、社会マナー、雑学とか
そういうのだけ学べばいい
こういう後者だけを学ぶ教養学部重視ということであれば賛成します

ただし、もう「もっと全国の大学」というような一律で
決めてその方向に動くという時代でもないので
そう思う大学はそういう方向で生き延びるだろうし
個性でてくるんじゃないですかね。

個人的には偏差値60以下の私大文系に学部別があるのは
あんまり意味ないんじゃないかと思いますけどね
どうせ大した専門性なんて身につかないんだから
全部一緒にやちゃえばいい

ただしそれだと生徒集まらないですから
環境なんちゃら学部、国際あれこれ学部
○○システム学部とかにしないと商売成り立ちません。

例えば国際環境システム法学部
とかなら何がなんだかわからないけど、なんか凄そうです笑

さらに1年半ぐらいみっちり教養教えます
というより、1年次から専門科目が学べます
という方がお客様(受験生)のウケがいいというのは事実です
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教養大好き人間ですので、東大は非常に楽しかったわけなのですが、


専門分野もかねてから思い入れのある分野でしたので、3年からの1年半(実質)では到底足りない!というのが実感でした。結局もう1年余計に居てしまいましたからね(笑)

教養のすてきだったところは、社会に出てしまったら文系の自分にはもはや無縁となってしまうであろう宇宙科学とか生命科学とか教育心理などなどを、きちんとそれぞれの分野を専門としている先生から学べるところでした。

それは雑学というには専門的すぎ、ときにより基礎力が足りずについていけないジャンルもありましたが、世界の見方、切り口を多く与えてもらったと卒業後10年以上経ついまでも思っています。
一般教養の講義を通じて得られたものは、多くの知識それ自体ではありません。結局のところ、2年の教養課程で知れる範囲の事象なんてたかがしれています。むしろ、世の中には自分の知らなかった多くの学問分野があること、その目指す方向や多種多様なアプローチの方法論の一端を知ったことこそが本当に有用でした。

しかし、専門的なものにじっくりと時間をかけて取り組むという練習も大学でなければできませんし、そのための時間はやはり2年未満では少なかったと実感しています。

教養過程のあいだにも、専門の勉強はできます。
専門課程のあいだにも、他学部の授業をとれます。
結局は、教養課程の設置云々の仕組みの問題ではなく、各大学が学生の知力と興味関心に応じてどれだけの機会を提供し、機会を提供していることを学生に伝達できるか、一方で学生は学問とはなにかを貪欲に知りたがり、そのツールとして教養や専門の両方にどれだけ足をつっこめるかに尽きると考えます。

よって、本質的には、質問者さまの疑問とする内容は「教養過程を広く多くの大学に設置」という『きまった仕組み』で解決できる問題ではないのではないかな、と感じました。
直接的な回答になっていない部分もあるかもしれませんが、ご容赦ください。
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