歴史小説 ※西郷隆盛又は薩摩藩を中心に描かれたもの

幕末の良い歴史小説を探しています。
西郷を中心に書かれているものか又は薩摩藩を中心に描かれているものでお薦めなものはないでしょうか?

薩摩藩が大好きな方。是非、紹介してください。

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A 回答 (2件)

1.「西郷と大久保」  海音寺潮五郎著   新潮文庫 昭和48年6月発行


2.「兵児一代記」 (へこいちだいき)  海音寺潮五郎著  講談社 昭和51年2月発行
海音寺潮五郎は「わたくしは、1901(明治34)年に薩摩の山村に生まれました。先祖代々の薩摩人です。明治34年と申せば、西南戦争から24年目です。当時の薩摩には西南戦争に出たおじさん達が多数いました。ですから、その頃の薩摩の少年らは、その人々から西南戦争の話を聞き、西郷の話を聞いて育ちました。聞かされても、そう感銘を受けない人もいたでしょうが、わたくしは最も強烈深刻な感銘を受けつづけたようです」
と書いていますように、実際に体験者から自らが聞いた事をもとに小説にしています。

3.「人斬り半次郎 幕末編」 「人斬り半次郎 賊将編」  池波正太郎著 新潮文庫 平成11年8月発行
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この回答へのお礼

早速、海音寺潮五郎の本を買いに行ってきました。

ただ、古本で買おうとしたため
3件古本屋を回りましたが見つかりませんでした。

おそらく、僕が探していたイメージの本だと思います。
ありがとうございました。

今日は本屋へ行って買います。

お礼日時:2009/10/22 18:28

馬遼太郎『翔ぶが如く』


池波正太郎『西郷隆盛』(角川文庫)

あたりは読みやすくとっつきやすいです。

ちょっと視点が変わるものとしては
NHK大河にもなった

宮尾 登美子『篤姫』も面白いです。

三好徹『桐野利秋-青雲を行く』はちょっとお求めのものとはずれますが、
お勧めの一冊です。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

『翔ぶが如く』は読みたい本ではありますが、
(※司馬遼太郎が好きで幕末では『竜馬がゆく』『最後の将軍』『世に棲む日々』読みました。)
少し時代が読みたい時代(1853年~1868年あたり)からずれているように感じます。

池波正太郎の『西郷隆盛』を古本屋で探しましたが見つかりませんでした。
見つかれば買って読もうと思います。
ありがとうございました。

補足日時:2009/10/22 18:34
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Q西郷隆盛は、薩摩に偏愛があったり、他人に担がれやす

先日,このカテの質問で、“西郷隆盛とかいうクズ”を興味深く読みました。
その中の回答で、気になったところがあります。
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お二人の方から、次の回答がありました。
<そもそも挙兵したのは西郷の意思によるものではありません。自分の作った私学校の学生たちの決起に対して、自分は知らぬ顔は出来なかったのでしょう>
<彼を信奉する若者達に担ぎ出されて、やむなく戦陣に臨んで破れたのです。>
質問したいことは、以下の3項です。
1.彼は、薩摩への思い入れ(悪く言うと、偏愛)があったのですか?
2、彼は、他人に担がれやすい(良く言うと、他人のことをよく聞く)人でしたか?
3、上の2項は、たまたま西南の役のみのことですか?あるいは、彼の一生に付いて回った(人柄)のですか?

Aベストアンサー

今日は。

60代の歴史好きの主婦です。

西郷隆盛ですが、私はあまり好きではありません。

15代将軍 慶喜も「長州は、最初から反幕だったから恨みはないが

薩摩(西郷隆盛)は、最初、味方だったのに、途中で掌を返して裏切った、、

だから、薩摩は、絶対に許せない、、」と常々、語っていたそうです。


平成の世に生きてる私達の感覚で140年以上も前の人の考えは

理解の範囲を超えてる、、、ということです。

西郷にとって、国(この場合、日本ではなくて薩摩)は、絶対のものだった、、。

だから、自分が育てた私学校の若者のことは放っておけなかったのだと思います。

担がれた、、ということではないでしょう。

表面的にはそのように見えても、「わが子」とも思える にせどん(好青年)の

決起は、自分の思いと同じだったのだろうと思います。

Q薩摩藩ってすごい藩?

「ドイツってすごい国?」をみて薩摩もすごいと思ったので質問します。

島津家は日本で(おそらく)唯一、鎌倉時代の守護大名からの歴史をもつ大名で、室町・戦国時代は九州最強を誇り、豊臣秀吉に逆らい、関が原では西軍につき戦闘をおこなうなど時の権力者に逆らいつつも領地を減らされることなく、江戸時代は参勤交代で全大名中最も長距離で負担の重い旅行を強いられ、徳川家は更に島津家を恐れ江戸防衛のため間に親藩・譜代大名を置き、名古屋城などの城を築いて万全の体制を敷いたにもかかわらず幕末には薩摩藩主力の新政府軍に倒されてしまいます。

このように、九州のはずれにある薩摩藩がこれだけ長い間、強大な武力とバイタリティーを持ち続けた理由は何でしょうか?鎌倉時代から明治時代初めまで(幕府を除けば)最強、悪くてもベスト3には入っていたと思うのですが、いかがでしょうか。

Aベストアンサー

 九州のはずれにある薩摩藩がこれだけ長い間、領土を守り続けられた理由は非常に保守的なお国柄でよそ者を受け入れない鎖国主義的な部分が有る反面、いいものなら新しいものを受け入れられる柔軟性を併せ持っていたことかと思います。
 例えば鹿児島の種子島に伝来した火縄銃を受け入れ、さらに信長の鉄砲使用法に近い乱射法で一時九州を制圧したり、薩英戦争での敗北後、一転攘夷論から開国論に切り替え英国の支援を受け、倒幕したことなどがその例です。
 あとはNo.4おっしゃるような交渉力や外交力でしょうか。
 関が原の戦いでは負けた西軍にいながらまったく唯一お咎めも無く60万石の石高もそのままでした。2度の朝鮮出兵で、三十倍の敵を殲滅し、鬼石曼子(おにしまず)とも呼ばれた武力もその外交力の裏づけにあったと思います。
 しかし鎌倉時代から明治時代初めまでベスト3には入っていたというのは買いかぶりすぎだと思います。
 最近の研究ではNo.9さんのおっしゃる程の搾取は無かったとされていますがそれでもまったく裕福とはいえず琉球に対するの清国との2重支配による密貿易や幕末の藩債踏み倒しなどでなんとかやりくりしていたのが実情ですから。
 
 
 

 九州のはずれにある薩摩藩がこれだけ長い間、領土を守り続けられた理由は非常に保守的なお国柄でよそ者を受け入れない鎖国主義的な部分が有る反面、いいものなら新しいものを受け入れられる柔軟性を併せ持っていたことかと思います。
 例えば鹿児島の種子島に伝来した火縄銃を受け入れ、さらに信長の鉄砲使用法に近い乱射法で一時九州を制圧したり、薩英戦争での敗北後、一転攘夷論から開国論に切り替え英国の支援を受け、倒幕したことなどがその例です。
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Q西郷隆盛の銅像

上野の西郷隆盛の銅像についてお聞きします。
テレビなんかでもよく言われていますが、あの銅像って、できた当時、西郷の奥さんが「うちの人と全然似てません」みたいなことを言ったそうです。
そこで疑問なんですが、奥さんが「全然似てない」と言った時に、
「じゃあ、どんな顔だったんですか?」とか聞かなかったんですか?
聞いておけば良かったんじゃないんですか?

Aベストアンサー

>「じゃあ、どんな顔だったんですか?」とか聞かなかったんですか?
>聞いておけば良かったんじゃないんですか?

 一説によると あの像を見た奥さんは、
かなり、「取り乱した」という話もあります。

 アナタは、そんな取り乱した女性に対して
「どんな顔だったんですか?」と平然と聞けますか?
http://pleasure-bit.com/1048.html

 仮に取り乱していなくても
<除幕式>の祭典の際中に「どんな顔だったんですか?」なんて
まともな、人間なら聞かないわな~

 聞いたところで どうするの?
似顔絵でも書いて銅像を作り直すの?

 あの銅像が作られた経緯を考えたら
作り直しなんて余程バカか、責任感のある奴しかやらんだろ

 大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって
西郷の「逆徒」の汚名が解かれたのをきっかけに、
吉井友実ら薩摩出身者が中心となって建設計画が立てられ

・宮内省より500円を下賜
・全国2万5千人余の有志の寄付金で建立

 この金額と善意が無駄になりますがな~

Q 薩摩藩・薩摩の国

 薩摩藩・薩摩の国

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 すみません。よろしくお願い申しあげます。

Aベストアンサー

2.についてですが、「西街道」ではなく「西海道」です。
いわゆる「官道」自体を指すこともありますが、北海道とか東海(道)とか地方名、行政区画に対して言われることが多いです。「西海道」は今の九州地方を指す言葉ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%95%BF%E4%B8%83%E9%81%93

これに対して、江戸時代の「五街道」は、江戸幕府が整備した街道自体を指す言葉といえます。
日本橋を起点とする「東海道」「中山道」「甲州街道」「奥州街道」「日光街道」の五つです。
したがって、九州薩摩の国には五街道は通っていないというのが正解です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A1%97%E9%81%93

Q明石藩の中の薩摩藩の飛び地

 明石藩の中に薩摩藩の飛び地があったと聞いた事があります。それは事実でしょうか?またあったとすれば、現在の明石市のどのあたりになるのでしょうか?

Aベストアンサー

江戸時代より前の豊臣政権下のことなので、
薩摩藩の飛び地というより、島津家の化粧領地ということですが、ありました。
 豊臣政権下で姫路城には豊臣一門の木下家定が入り、姫路周辺には太閤蔵入地と称される、伏見の秀吉直轄領の村が多数ありました。
 文禄の役の最中に秀吉は島津領の検地」を石田三成・細川幽斎を派遣して実行します。朝鮮にある島津義弘に対して秀吉は「虎狩り」を行なって後、伏見に赴くように命令しています。
 この文禄4年(1595)に伏見に於いて朱印状を与えられ島津大守の地位を保証されていますが、この時に秀吉は、姫路の太閤蔵入地のうちから庄屋井上惣兵衛茂一の管理する一郷村百町歩千石を島津義弘に与えたと伝えられます。伏見に置かれている島津家の京都人質(1587年の島津征伐後より、義久三女亀寿以下、北郷・伊集院・新納の実子など)の生活費用として使用するように秀吉が与えたものではないかと言われています。
 残念ながら大坂城陥落の際の火事で、多くの古文書が失われ、現在のどこかは、定かではないですが、関が原までは伏見の島津屋敷に年貢が、納められていたようです。なお井上惣兵衛茂一は、善政をしき伏見の島津家中にも親切に尽くしたので、義弘より、島津姓・家紋旗指し・脇差を、与えられたそうで、その子孫が島津製作所創設者・島津源蔵氏です。

 

江戸時代より前の豊臣政権下のことなので、
薩摩藩の飛び地というより、島津家の化粧領地ということですが、ありました。
 豊臣政権下で姫路城には豊臣一門の木下家定が入り、姫路周辺には太閤蔵入地と称される、伏見の秀吉直轄領の村が多数ありました。
 文禄の役の最中に秀吉は島津領の検地」を石田三成・細川幽斎を派遣して実行します。朝鮮にある島津義弘に対して秀吉は「虎狩り」を行なって後、伏見に赴くように命令しています。
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