
西郷隆盛をはじめとして、幕末の頃は薩摩や長州出身者が活躍したようです。
ちょっと不思議に感じたのですが、他の地方の人にとって薩摩弁を聞き取るのは難しいですよね。 薩摩弁以外でも、会津藩の方言も難しかったと思います。
数年前、両方の町を旅行した事があるのですが、年配の人たちの会話はまるで外国語のようでした。 ただ若い人たちはテレビの影響で標準語を話していたので、私たちとの会話は問題なかったです。
考えると幕末の頃はまだ 「標準語」 というものが存在しなかった時代ですし、自分が話している言葉しか聞き取れなかったのではと思うのですが、例えば薩摩と会津の人が二人だけで会話をする時、どうやっていたのでしょうか?
やっぱり通訳がいたのでしょうか? あるいは何らかの方法で意思の疎通を図れる事が出来たのでしょうか?
今でも薩摩の高齢者と会津の高齢者が直接会話するのは難しいと思うのですが ・・・
調べてみると、西郷さんは一時江戸に勤務していた事があったようですが、そこで何らかの標準語(?) と言うか、例えば東北出身の武士と会話できる術を会得したのでしょうか?
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
なまりはあったはずですが、所詮は日本語です。
手間をかければ通じたはずです。
明治政府が推進した標準語は、江戸城中や江戸の武家言葉を基礎にしたとのことです。
(いわゆる江戸町民の江戸弁とは似てはいますが、違います)
江戸勤番の武士同士で会話できないのでは仕事になりませんからね・・・
そんなことを300年も続けてきたのですから、実質的な標準語(江戸の武家言葉)はあったはずですね。
西郷クラスの武士ならば、当然、なまりがあっても会話ができる程度の言葉づかいはできたはずです。
まあ、当時は意思疎通が大変だったのでしょうね・・・
有難うございました。
あまり聞いた事が無いのですが、おっしゃるように江戸勤番の武士の間で使われていた共通語のようなものがあったのでしょうね。
たしかに強い方言といっても所詮は日本語だと思うのですが、鹿児島や福島で聞いた方言はまるで外国語のようだと思いました。
今と違って、東京を中心とした標準語の無かった江戸時代の方言は、今よりも難易度が遥かに高かったのではないでしょうか。
たとえば薩摩弁もテレビのドラマなどで時々耳にするので、ある程度は理解できるように思います。
たしか鹿児島の事を「カゴンマ」とか、「~です」を「~でゴワンド」とか。
この辺までなら江戸時代の人でも聞き取れたかも知れませんが、もしその地方独特の物の名称・言い方を使われたら、お手上げ状態になっていたかなと感じています。
それを考えると、今の私たちにとっては鹿児島や東北の純粋の方言より英語の方がまだ分かりやすいのではないでしょうか。
No.6
- 回答日時:
#5です。
補足です。>>方言で言えば、明治天皇は成人されるまで京都御所にお住まいだったので、、、
という言葉で思い出しましたが、日本語の標準は奈良、平安、と関西にあった訳です、1604年のロドリゲスの『日本大文典』(土井忠生訳)の p.612には、当時の方言(Miyaco = 京都以外)の記述の中に Qvanto(関東)Bando(坂東)の項に、「三河から日本の涯にいたるまでの「東」(Figaxi)の地方では、一般に物言いが荒く、鋭くて、多くの音節を呑み込んで発音しない。又これらの地方の人々相互の間でなければ理解されない、この地方独特で粗野な語が沢山ある」とあります。今の僕らが見た薩摩弁に似ていますね。
幕末は、明治天皇とともに標準語が、京都語から坂東方言に移った時ですが、政権は変わっても言葉はそう速くは変りません。西郷の時はまだ関東方言の中に京都式の言語島があった時で、日本語の標準は現在よりも西にあったと考えられます。
僕の考えでは権力の中心では母語一つで足りるので、それ以外の多重言語能力の必要がない(韓国ではソウル方言、日本では東京方言、世界では英語)と考えみんなそうだと投影しがちですが、結構幕末明治の人達は、言葉の幅があったのではないかと思います。
No.5
- 回答日時:
僕は学生時代、鹿児島も含めて日本各地の出身者と何年か寝食をともにしたことがあります。
標準語を話す人は、それしか日本語を知らないので、地方の人が何重もの日本語を操れることを忘れがちです。鹿児島の級友が同郷の旧友と話すのと、異郷の我々と話す場合の豹変ぶりは驚くばかりでした。僕は、甥が4歳の頃、遊び友達と「何とかマン」ごっこをしている時はテレビで覚えた標準語、北九州の従兄弟とは福岡弁、父親の親戚とはそこの長崎弁、母に甘える時は生まれた場所の長崎弁、と4種の日本語を使い分けるのに感心したことがあります。
だから半ば無意識に、我々はたくさんの言語を操る能力を潜在的に持っていて、学校でしか外国語が勉強できない今より、昔はもっと融通が利いたのではないかと思います。
遊牧や狩猟であちこち動いた人達は、農耕文化で定住を始めた我々に比べて、遥かに多重言語能力が必要だったし、又その能力が今もあると思います。
有難うございました。
へー、甥ごさんは4種類の方言を操れたのですね。
日本人の言語能力には凄いものがありそうです。
西郷さんが東北の武士と会話する時、どんな言葉を話していたのかなと凄く興味があります。
でも、話言葉は文書に残らないのが残念です。
方言で言えば、明治天皇は成人されるまで京都御所にお住まいだったので、遷都してからでも京都弁というか都(みやこ)言葉で話していたのかなと考えています。
「〇〇でおじゃるなあ」 という優雅でノンビリとした言葉ですね。
そうなると、御前会議では都言葉の陛下と薩摩弁や長州弁の政府首脳が方言丸出しで喧々諤々の議論 ・・・ 考えただけで面白いですね。
No.4
- 回答日時:
A2です。
現代標準語が薩長訛りの影響にあるという事です。
江戸時代は武士言葉の「~候」とか「かたじけない」みたいなのは、文語が書面でやりとりできるように共通化されていて、口語としても江戸城内での武士標準語になっていたのです。
なので政治を行う武士には、バイリンガル、ときには領地替えまであったのでトライリンガルの必要があったし、それなりに通訳できる人間もいて、
現代標準語の策定には政治力の強い国の言葉が強く反映されています。
戦国時代は、家柄も教養のない成り上がりが沢山いたので、もっと大変だったと思います。
そこで礼儀作法に言葉のいらない、茶道と千利休が必要だったのです。
有難うございました。
お礼が遅くなり、すみません。
「~候」というのは単なる書き言葉だと思っていたのですが、城中では武士が普通に使っていたんですねえ。
勉強になりました。
No.2
- 回答日時:
標準語自体がかなり薩長方言でできています。
軍事関係は特に。江戸は江戸弁で標準語とはほど遠いですし。
全国から参勤交代を300年近く続けている過程で、武士は武士言葉とし文語ベースの標準語があったのです。
ですので江戸勤めの人間が通訳してたんじゃないですかね?
有難うございました。
すみません、幕末の当時、既に薩長方言を基本にした標準語というものが存在していたのでしょうか?
イメージでは何となく自分の故郷の方言しか話せなったような感じがしているのですが・・・
もし存在していたとすれば、薩長の人はそのまま話せるから良いものの、たとえば東北の武士は理解するのが難しかったでしょうね。
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