アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

 あらためて問いたいと思います。
 【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。
  * (わざと この舌足らずのまま・あいまいなままとします)。

 【問い1】 ブッダは 神か?

 【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か?

 【問い3】 ブッダがもし神であり人間の境地であると捉えられたとすれば それは――表現の問題を問わないとして―― ブラフマン(梵)でありアートマン(我)であるということではないのか?
 
 【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか?
 
 【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。つまりは 神ではなくその神のもとなる人間の境地でもないとすれば ブッダは いったいどういう現実なのか?

A 回答 (60件中31~40件)

bragelonneさん、どうも。



ウパニシャツドの梵我一如の梵とは超越的絶対者ではなく、内在的絶対者だと思います。
この点で超越的な絶対者を措定する有神論に対立してスピノザの汎神論に近いと思います。
しかし仏教は諸法無我を主張し実体を認めないですから、梵我一如という思想は持たないです。
一如というならば仏教は物我一如という思想ですよね。

次は神の概念のカテゴリーについて書き込んでみます。

この回答への補足

 gotab55 さん こんばんは。No.4につづくご回答ですね。ありがとうございます。

 ★ ウパニシャツドの梵我一如の梵とは超越的絶対者ではなく、内在的絶対者だと思います。
 ☆ どうもわたしの印象〔ではいけませんが〕では 両方に当てはまるように思えるのですが? 特に《内在的》という場合には 《我=アートマン》のほうに重きを置いていると思いますが。
 
 ▲ (ヰキぺ:ブラフマン) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9% …
 ブラフマン (Brahman) は、ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根本原理。自己の中心であるアートマンは、ブラフマンと同一(等価)であるとされる(梵我一如)。

 サンスクリットの「力」を意味する単語からきている。特に、物質世界を変える儀式や犠牲(生贄)の力を意味する。そこから、単語の2つ目の意味が出てくる。2つ目の意味はヒンドゥー教の最高のカースト、ブラフミン (en:Brahmins) であり、彼らは上述のような力を持っているとされる。

 神聖な書物であるウパニシャッドにあるように、ヒンドゥー教のヴェーダーンタ学派 (Vedantic) の思想によれば、この単語が指しているのは、外界に存在する全ての物と全ての活動の背後にあって、究極で不変の現実である。それは純粋な存在と意識そのものであり、ある意味では「世界の魂」とも呼べるものである。

 ブラフマンは宇宙の源である。神聖な知性として見なされ、個々人の魂を含む全ての存在に浸透している。それゆえに、多くのヒンドゥーの神々は1つのブラフマンの現われである。初期の宗教的な文書、ヴェーダ群の中では、全ての神々は、ブラフマンから発生したと見なされる。

  Great indeed are the Gods who have sprung out of Brahman.
  ( Atharva Veda)
  偉大な事実は、ブラフマンの中から湧き出て来た神々である。
  (アタルヴァ・ヴェーダ)

 ウパニシャッドの哲学者は、ブラフマン = 「世界の魂」は、アートマン(atman、真我) = 「人類の内なるエッセンス」と同一であるとする。ヒンドゥーの神々の体系では、ブラフマンはブラフマーと同一のものと見なされる。ブラフマー(創造者)は三神一体(Trimurti)の神々の1つであり、ヴィシュヌ(保持者)と、シヴァ(破壊者)とは本来同一とされている。

 ブラフマンは物質的宇宙の全体の背後にあるため、理性により提供される道具だけを使ってそれを説明しようとすると、人間の精神はすくんでしまう。ブラフマンは感覚を超えており、精神を超えており、知恵と知性を超えており、想像を超えている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ 一如というならば仏教は物我一如という思想ですよね。
 ☆ これは 唯物論という無神論に近いと思いますが つぎのように把握してみます。質料主義といえばいいでしょうか。
 《相対としての経験世界が 世界のすべてであり そういうかたちで絶対である》というのだと捉えます。
 《物》とは 質料とそれらの関係であり そのすべてであり そういうモノ相互の関係が 《我――これは 意識のことでしょうか――》とも関係しあっていると。

 物言いです。
 もし物我一如だとした場合 それでも 諸法無我なる原則がありますから 世界をこの《物我一如》として見ている人の意識も 移りゆくものであり 仮りにそのように世界が意識に映っているのみだということになりませんか?
 《一如》として意識している――《空観》でしょうか――と言っても そしてそれが《法》だと言っても これらの《法=諸法 を意識したもの》が《無我》である。つまり根拠のあるものごとではなく 移ろい行く仮りの現象である。となるのならば すべては まぼろしだと言っていることになりませんか? ブッダたちは そんなことを真剣に考えていたのでしょうか?

 でも 《仏性》の問題があります。これを持ち出すと
 ★ スピノザの汎神論
 ☆ にこちらも 近いということになりませんか? 仏説かどうか疑う場合もありますが 山川草木悉皆仏性というなら そうなると思われます。
 結着はつかないですかね。

補足日時:2009/11/14 00:10
    • good
    • 0

オコリザルです。


A44の続きです。
慈悲は信仰の歴史に現れているので実現可能なんでしょうよ。
私は直感的に「そんな必要はない」と受け取ります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ★ 慈悲は信仰の歴史に現れているので実現可能なんでしょうよ。
 ☆ ということになるとは思います。それは 《誰もがブッダである》という命題から出てくると思いますから。
 ただ どういう現実であるか。となると 不確かなのでしょうね。どうなのでしょう?

 ★ 私は直感的に「そんな必要はない」と受け取ります。
 ☆ 現実可能性をうたがう必要はない。そして 不確かだが それでも うたがい続ける必要はない。ということでしょうか?
 ま これも 《直観的かつ直感的に》そのように導かれるかとは思います。
 ううーん。そうなると これからは 哲学的な人間学ないし人間関係論が必要になるでしょうね。
 こころの表面での動きとしての心理を扱う心理学ではなく さりとて そのような心理を無意識なる領域を想定したあとその無意識とのつながりにおいて分析し説明する精神分析でもなく 哲学的な慈悲の実践にかんする分析と思惟が 要請されるように思います。
 ふつうに人間と人間関係のありさまについて 思索しつつ大きくこころを捉える。その動機やこころづもりが 相手との関係で如何に振る舞われることになるか。それが慈悲にまで到るかどうか。双方はどう捉えたか。うんぬんです。

お礼日時:2009/11/14 00:26

No.8回答欄(そのまま掲載)~~~~~~~~~~~~



b:神の定義は 絶対 ということです。
 この経験世界を超えている という意味です。
 ひとり満ち足りているなら、何ものかとの関係が要らないということです。
 相対的な相互関係としての存在ではない と自己を指し示すことになると思われます。
 要するに 非思考・なぞ・無根拠・表象し得ぬもの 等々 です。

◇なぜ、こう思ったのか?誰かの文章を読んでか?それとも経験と思考によるものか?



No.8お礼欄(そのまま掲載)~~~~~~~~

 ◇ なぜ、こう思ったのか? 
 ◆ これは異なことを! 表現が必ずしもどこででも見かけるのではないとしても ふつうの内容であると考えられます。

 ◇ 誰かの文章を読んでか? 
 ◆ 影響を受けていると言えば アウグスティヌスでしょう。
 そうですね。字句どおりとしては 《ひとり満ち足りている》が かれの神を形容することばにあったはずです。ほかは 字句じたいとしては 類推によるものでしょう。
 ◇ それとも経験と思考によるものか?
 ◆ つまり このとおりです。

 こんなことがかかわってくるのですか?

**********************************

◇「なぜ、こう思ったのか?」という問いに対して、それを認めて答えてますよね。。。
    • good
    • 0

b:ありません。

あり得ません。ただし――ただしです ただし―― その《予感》はあります。あるいは《あたかも部分的な経験》ということです。
 直前の二つの回答でのやり取りでわたしは こころの明け もしくは 伸びについて書いています。あたかも窓が開いたかのように 《ひとり満ち足りている存在》があるかのように予感した。 というものです。そしてそれだけです。
 どういう情況かと言えば これは詳しく述べてもあまり役に立たないと思われます。ただ 大事なことと思うのは 相手がいたということです。互いにこころをあたかも照らし合わせているかのような状態になっていたという意味です。
 ただしわたしは相手にそのことを問い質したりしなかったので そしてその相手は初対面の人でその後会ったこともないので もうそれ以上は 知るよしもなくなっているというものです。

b:ありません。あり得ません。ただし その 予感 はあります。あるいは あたかも部分的な経験 ということです。
 どういう情況かと言えば これは詳しく述べてもあまり役に立たないと思われます。ただ 大事なことと思うのは 相手がいたということです。互いにこころをあたかも照らし合わせているかのような状態になっていたという意味です。ただしわたしは相手にそのことを問い質したりしなかったので そしてその相手は初対面の人でその後会ったこともないので もうそれ以上は 知るよしもなくなっているというものです。
    • good
    • 0

龍とはまた龍樹


生命の木

知恵の木の実を蛇にそそのかされて食べ生命の木と切り離されたアダムとイブが
生命の木の意味を知る時

ユダヤの神
キリストの主
とは何かを知る
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ke-two くん お早う。投稿に余念がないね。あぁ わが蒙を啓くのだったか。

 それはそうと
 ★ 生命の木
 ☆ は通史的ゆえ それでいいだろうけれど
 ★ 善と悪を知る木 知恵の木は――科学による開発の問題にそのまま絡まるとは言うものの―― 原罪の問題としては もうすでにぜんぶ解決されていると捉えなきゃならんと思うのだが? 
 →【Q:われわれは原罪を犯せしや?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5059303.html

 いまそういう主題でキの字だけでも出そうものなら かえって神は いぢが悪いということにならないとも限らない。つまり アダムらにへそを曲げさせておいて 独り子のイエスを送ってやっとそのへそ曲がりを元に戻すちからを与えたという話になってしまう。うんぬん。

 まぁだいたい真夜中の声を聞くと眠りに就くのだが そしてきのうもそうしたのだが 朝が明けてみると 今回の質問はえらく繁盛しておりますな。あぁ 寝坊 寝坊。

 * 現代人にとっては もう原罪は問わずして 《自然本性》という出発点でよいと思うのだが? しかもこの質問のごとく そこに《仏性》が宿るのか? の問題がある。

お礼日時:2009/11/14 09:27

知恵の木の実を食べるものはラーフ


生命の木を知る者はケートゥ

二人は元一体だった。

エデンの園へ
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 あははは。
 まぁ 梵我一如――あるいは 物我一如もあると聞いたわけだけれど――ならば すべての存在は互いに 《不二》だろうよ。
 つまり不二にして 不可分離ではない。ないどころか 区分・区別はされていると言う。

 だから
 ★ エデンの園
 ☆ はもうふるいと思うよ。

 ★ 生命の木
 ☆ はさすがに通史的だろうけれど。

お礼日時:2009/11/14 09:32

わたしは削除後に登録だけしておくんです。


幽霊会員をきめこむはずなのですがつい手がのびますねぇ。

水の洗礼のほうに書くべきとも思いましたが、あれは低空飛行の与太話ではすまないのですね。
といっても意見は前と変わりありませんが、
洗礼が先立つのではなくて洗礼が先立つように仕向けた組織が先立つということが、やはりややこしい問題で整頓しにくいところでしょう。
意味解釈する視座においては組織が先立っていて、歴史においては洗礼が先立っているというような難しさですね。
歴史学の陥る視点のパラドクスみたいなものかなと思います。

ひとりきりではないもののひとり満ち足りている存在
ということでよいのなら、ブッダはそのようにあるとしてよろしいのではないでしょうか。
ブッダはあらゆるもののうちに、実体ではなくて息をふきかける法身との力として存在していると考えるのではないですか。
仏性を境地と表現することはできないでしょう。場所や実在として無ですが前記のようにして備わるというふうに考えるところですね。
そこで世界を実体とはとらえないけれども、世界はそのように備わるとするものでしょう。
だから神でもブッダでもみなのうちにおいて力であるし、
あるか?と問えばアプリオリには無で、意識できてからなんて説明になるんでしょうかね、西洋人向きには。

ところでケトゥですかぁ。あっはは。ケツだとおもうなあ。
青天の地べたにぺったんとつけて
おむすびを食べるのに便利でキュートな。

この回答への補足

 amaguappa さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。二つの問いともまだ説得されません。その疑問をつづります。
 ★ 意味解釈する視座においては組織が先立っていて、歴史においては洗礼が先立っているというような難しさですね。
 ☆ これは おっしゃるように歴史学としてなら それでよいのかも分かりませんが 信仰という現象をあつかう哲学としては 肝心の中身がはっきりしない憾みがあります。
 というのも 《すべてにおいて信仰が先立つものであった》と――たとえばアブラハムの事例を思い浮かべているのですが――捉えるのでなければ 話は始まらないと考えるからです。言いかえると 《歴史においては洗礼が先立っている》の《洗礼》の中身を明らかにする必要があります。つまりは 聖霊による洗礼が先立つという基本命題です。(時間的にというよりは 考え方においてです)。
 ところが 実際は 《意味解釈する視座においては(――* そして現実の人間関係においても――)組織が先立ってい》るというのは 根本的なあやまちです。この組織があるかぎり 修復することも復元することも出来ないという判断が 一般になると考えます。

 ★ ひとりきりではないもののひとり満ち足りている存在 / ということでよいのなら、
 ☆ これは よくないですね。定義の問題として それでは《神》にはなりません。《絶対》ではありません。
 《神は〈ひとりきり〉であるかどうか これが人間には分からない。分かるか分からないかが分からない》と言わねばならないからです。
 あるいはまた
 ★ 法身
 ☆ は 《実体》ですよ。
 ▲ (ヰキぺ:三身) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ○ 法身(ほっしん):宇宙の真理・真如そのもの、仏性。
 ○ 報身(ほうじん):仏性のもつ属性、はたらき。あるいは修行して成仏する姿。
 ○ 応身(おうじん):この世において悟り、人々の前に現れる釈迦の姿。
 ■ (法身)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 真理(法)の身体の意味で 永遠不変の真理(真如)の当体をさ〔す〕
 (中村元ほか編集:岩波仏教辞典)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ 仏性を境地と表現することはできないでしょう。
 ☆ これにつきましては 次の見方などを参照していただきたいところです。あたかも仏性にもとづきと言い得るほどのかたちでひとは 信仰を得 それとしての境地に到るというものです。
 ☆☆ (【Q:水による洗礼は要らないのではないか? ――サクラメントについて――】No.9補足欄から書きなおしたもの) ~~~~~~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5406034.html

  或る晴れた日わがこころにおとづれた何ものか その何ものかにわたしはふと さとることがあって なおなぞであるそのものの方へとわがこころを回(めぐ)らす。
 こころを回らしたあと 《なぞを受けとめこれをこころに受け容れた》という受領証を発行します。このわたしの経験的な意志行為によって《信仰》が成り立ちます。
 つまりその証書にわがこころのハンコを押すことが 《信じる》という行為です。つまりなぜなら その署名捺印が こころの明け もしくは 伸びとして《信じる》という行為になります。要するに《そのなぞを受け容れる》ことです。
 受け取りに先立つところはすべて 向こうからやって来る現象です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 揚げ足取りですが げんみつさが必要です。
 ★ あるか?と問えばアプリオリには無で
 ☆ ここは 《アプリオリには 有か無かが分からないし 分かるか分からないかが分からない》と規定するべきだと考えます。

補足日時:2009/11/14 09:44
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ですから 信仰の――その言葉化は おのおの主観においてあり得ますし 自由ですが―― その表現を教義化すること およびその教義にもとづき組織化をおこなうこと これらの人間の行為は先立つものではない。こう分かっていると考えます。

 信仰の言葉化とそして教義化とのあいだに きわめて重い違いを表わす断層が横たわるという認識です。なぞとなぞのままの受け取りから 有ないし無というどちらか一つの極みに固めてしまう人間の決めつけへと移るからです。組織はこれをさらに固定させます。
 (個人の内面における言葉化にあっても 有神論か無神論かいづれか一つに決めるのがふつうですから そういう意味での決めつけはあります。でも それはすべて 表現の問題なのです。《神よ》と呼びかけるか それとも《無い神よ / もしくは 神は無いのだ》と声を発するかの違いは なぞを一極のほうに固定するものではありません。
 いわゆる偶像崇拝として――観念の偶像の崇拝として――どこを見てもそういう固定が 実際には まかり通っているようではありますが。もともとは 固定するものではありません。信教・良心の自由の範囲だという意味です)。

 これらの認識は 《ひとり満ち足りている存在》と《わたし》との関係から得られるものです。ブッダはどこに位置するか? こういう問いになります。
 つまり憶測で言えば こうです。もし《信仰を得た者をブッダである》と言うとすれば 《だれもがブッダである》となります。
 いやいや目覚めている人は稀れだと言っても それは まだ眠っているのではなく すでに目覚めたあと眠りに入ったというふうに採ります。ゆえに《だれもがブッダである》。ならば ゴータマ・ブッダは われわれの内のひとりであり ふつうに互いに自由かつ対等であるとなります。このことを問うています。どうでしょう?

お礼日時:2009/11/14 10:58

No.7の回答欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。

 神とは?

No.7のお礼欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 b:神の定義は 絶対 ということです。この経験世界を超えている という意味です。ひとり満ち足りているなら、何ものかとの関係が要らないということです。相対的な相互関係としての存在ではない と自己を指し示すことになると思われます。
 要するに 非思考・なぞ・無根拠・表象し得ぬもの 等々 です。

No.8の回答欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ◇なぜ、こう(No.7のお礼のような考え)思ったのか?誰かの文章を読んでか?それとも経験と思考によるものか?

No.8のお礼欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ◇なぜ、こう思ったのか?
 
 b:表現が必ずしもどこででも見かけるのではないとしても ふつうの内容であると考えられます。

 ◇誰かの文章を読んでか?
 
 b:影響を受けていると言えば アウグスティヌスでしょう。そうですね。字句どおりとしては「ひとり満ち足りている」が かれの神を形容することばにあったはずです。ほかは 字句じたいとしては 類推によるものでしょう。

 ◇それとも経験と思考によるものか?

 b:つまり このとおりです。

No.11の解答欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 b: 経験世界を超えている

 ◇とは、どういう意味か?
  
No.11のお礼欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 b:この四次元の時空間から自由である。 という意味です。因果関係から自由な特異点である。という言い方でもよいのではないでしょうか?相対の世界によってまったく影響を受けない。つまり 絶対 であり それは 無限という概念でも説明できますね。

No.11の解答欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 b:ひとり満ち足りているなら、何ものかとの関係が要らないということです。

 ◇ひとり満ち足りている状態を経験したことがあるのか? あるとすればそれは いつ、どこで、どういう時に?

No.11のお礼欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 b:ありません。あり得ません。ただし その 予感 はあります。あるいは あたかも部分的な経験 ということです。
 どういう情況かと言えば これは詳しく述べてもあまり役に立たないと思われます。ただ 大事なことと思うのは 相手がいたということです。互いにこころをあたかも照らし合わせているかのような状態になっていたという意味です。ただしわたしは相手にそのことを問い質したりしなかったので そしてその相手は初対面の人でその後会ったこともないので もうそれ以上は 知るよしもなくなっているというものです。
    • good
    • 0

No.26の回答で



天界とは文字通り太陽、月といった天体
根源神であるヴィシュヌ神とは地球
悪魔のドラゴンとは地球上生物群

ある時
地球に異変があった
彗星の衝突のような天体現象のような
それをきっかけに他の生物群と違い人間は知性をもった。

それが生命の木と知恵の木の意味
であったり
龍が頭と胴体を切断されたという表現になったのでしょうかね。
得られた情報を集積して科学的に判断するかぎりでは。

人間は知性を持つことによって融合する生命体から切り離されたけれども
心を通して生命体とどこかでつながっている

自分という意識はしっかり持っとけよ

自らを点とする
私という点は存在する
部分を持たない点としての素粒子

考えない
考えれば点ではない
心という場を自分一人が占拠するラーフ

ただ観る

心は空
外界を反映する
自然の中
生起する思考は雲のよう
眺め
ただ行き過ぎるのを


  観る




                             `

この回答への補足

 ならば ふつうの経験思想である。分かった。

 ただし
 ★ 生命の木
 ☆ は どうもこの地球上の人間や生物の《生命》に限るというのは 狭いように感じられます。
 それは 何も地球外生物の問題ではまったくなく――それについては 無記です―― やはり超自然・超経験の領域というものの想定が かかわってくると思われます。
 つまり 嫌がられる《絶対》のことですが これは 《〈経験科学の及び得る経験世界〉に われわれの存在の世界を限るかたちで決めつけない》ということをのみ意味する。こう採ってもらってかまいません。窓を明けておきたい ただこのひとことのみです。
 少なくとも聖書の《生命の木》は そう解釈しなければならないでしょう。ユグドラシルの木だとか神話のそれだったら 経験世界に閉じ込めてもかまいません。神話の神々というのは そういうものです。(すべて人間の想像の産物であるという意味です。聖書のは この想像力を超えているところを わざわざ想定しようとしている。そう読まなければ きわめてくだらん物語りです)。

 ○ 《自我》の説に物言いがあります。

 ▲ 自我( das Ich )・超自我( Ueber-ich )・エス( Es / id )――英語では 順に the I // Over-I ( Super-I / Super-ego ) // it

 ☆ 欧語の自称は イッヒもアイも イーヨ・ヨ・ジュ・ヤーも すべて エゴー(ギリシャ・ラテン)が崩れたかたちです。いわゆる《エゴ》です。
  * ego の -g- は 容易に -ch- (つまり -k- の音)と交替します。またこの -g- は しばしば -w- とも交替します。
    ・ go - went - gone
    ・ William ∽ Guillaume
    ・ がいがいわやわや←がやがやわやわや
  * そのあと この -w- がそのまま落ちます。対格活用のヲ→オ(発
  音上)。そのあと -y- が イの音に釣られて出て来ます。
    ・ ego > ewo > eo > io > iyo > yo > jo / je
    ・ ego > eko > ek > ekh > ikh = ich
  * イの音が現われるのは たとえば ヨシ>ヨキ>ヨイ>ヨェ>
     >エェ / ィエィ>イイ 〔cf. ヨネ(米)∽イネ(稲)〕

 これをわざわざ《自我》という別の語で言い表わさなければならない理由は何もない。かえって混乱するか それとも 阿呆と見られるだけである。
 《エス》なんかは 《それ もしくは あれ》と言っているに過ぎぬ。鬼か何かに出遭ったときに 《あれぇーっ》という《あれ》である。にやにやして《あれ》とか《あっち方面》とか言ったりする。

 《超自我》も《理性》も何もかも この《わたし》の行為能力であり そもそも自然本性の一部である。超自我・自我・エスのすべてをまとめて 《わたし もしくは われ》である。
 わざわざ《自我》という言葉を使うのは また使いたくなるというのは よほど《わたしがわたしでない》状態にあるとしか考えられない。

 《わたしはわたしである。 / わたしがわたしする》 これでおしまいである。

 《われあやまつならわれあり。 / われあざむかれるならわれあり》――あやまちに気づき《われにかえる》なら われあり。あざむかれるとしても 欺かれることを欲していないわれにかえるなら われあり。
 ちなみに 《われ考えるゆえにわれあり》は 《あやまつ / 欺かれる》そのあと《われ考える》というその段階のみを捉えて言ったものである。
 ⇒【Q:フーコーの『監獄の誕生』と中世の修道院】わたしの回答No.6
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4858613.html

 《ひとり満ち足りているあいつ(エス とはひょっとして 仏性?)》に見倣おう。――これは 半分ふざけて言っています。

補足日時:2009/11/15 12:55
    • good
    • 0

オコリザルです。


いろいろな回答が挟まって進展がないのでアドバイスです。
私はかつて神について「それは神と言う言葉すらも似合わない純粋な光」と、表現した事がありますが、そんな真面目さはどこかに吹っ飛んでしまって、今では「アマテラスさんとデートしたことがある」などと吹聴しています。痴漢騒ぎが今回の応酬に含まれていますが、私に至っては要するに神様に痴漢を働いた痴れ者です。
神とは表現しようがないんですよ。
その点、
>神とは ひとり満ち足りている存在を言う。
これは良く表現してあります。
かろうじて表現又は描写で来たこの見解をさらに突き詰めようとするのは得策ではありません。
下手にそれを行うと、形にはまって当たり障りのないきれいごとのみで内容の薄い回答になりかねません。
マジギレ意見をどう思いますか?
元気なマジギレ意見と言うのもあります。
かろうじて表現することでもあるし、奔放で伸びのある意見でもあります。
感性。心の所在が、眉唾ものの第六感や霊感の話になる哲学の現状では私の意見は全てマジギレです。

>神とは ひとり満ち足りている存在を言う。
これに関して私から意見するなら、人間の身で絶対を理解したものはブッダなのか?そしてその内容は自らを絶対とする事なのか?
そのような謎を思い起こしたうえで、何らかの見解を表明するならけんか腰にはなりません。

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。

 進展と言えるものを得たとも思います。
 ただし それはまだまだ 定まりません。
 それをかいつまんで言えば こうです。
 (1) 誰もが一人ひとりブッダである。
 (2) ゴータマ・ブッダは その内のひとりである。

 たぶん オコリザルさんは (2)では シャカムニ・ブッダを人一倍は高く捉えようというところでしょうか。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >神とは ひとり満ち足りている存在を言う。
 これに関して私から意見するなら、(α) 人間の身で絶対を理解したものはブッダなのか? (β) そしてその内容は自らを絶対とする事なのか?
 (γ) そのような謎を思い起こしたうえで、何らかの見解を表明するならけんか腰にはなりません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (γ)は そのとおりだと思いました。ただし《そのような謎》について (α)や(β)では すでにわたし自身は憶測を持ちつつあります。
 (α):ブッダは どうもパリパリの無神論者なのではないか。諸法無我ということなのですが 諸行無常とも言います。どうも徹底的なかつ積極的な《悲観論者》であるのではないか。
 世界には 何も信じるべきものはない。信頼すべきものとてない。みな移ろいゆくものなり。そのような《無常》の上に 人びとよ なおも立てという言葉を伝えようとしている。
 ですから ブッダは 《絶対》をゼッタイに理解しようとしなかった。そこにおいて あたかも《絶対者》との関係が――つまりかれから言わせれば 絶対なる無関係が――生じたと捉えられる結果を持った。
 したがって (β)では 《〈絶対〉が無い》という絶対を貫こうとした。そのすがたが あたかも《みづからが絶対者である》ように見えた。


 ★ マジギレ意見をどう思いますか?
 ☆ わたしは文章をどんなものでも 第一次的には 意味があるか無いかで仕分けします。
 意味があれば マジギレであるかどうかにかかわらず それ相応に対処します。なければ キレていなくとも 応答は無理です。《意味がないですよ》と返答します。だいたいこうだと思います。

補足日時:2009/11/15 22:49
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!