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この度死刑制度の存廃問題についてプレゼンをやることになり、色々本をあさっている中で疑問に思ったことを質問させていただきたいと思います。
(死刑のある国ニッポン 森達也、藤井誠二 2009 金曜日)
で森氏が随所で言う
『論理だけなら存置の理由はほぼ論破される』
『死刑存置には論理的整合性がない』
などの死刑制度には存置されるべき合理的・論理的理由は見つからないという意見で、はっきりと断言しています。
本文中において彼(森氏)のこの断言する理由は、犯罪抑止、社会防衛に役に立っていない以上死刑を存置させる理由はないといっています。

でここで疑問なんですが、疑問は単純で本当に死刑存置というのは現状では論理的整合性はなく、遺族の応報感情といういわば感情論だけしかその存在理由はなくなっているのでしょうか?それはまた、彼らのような専門家(?)の間では一般的な常識となっているのでしょうか?
(付け加えると決して森氏を批判したいわけではなく、本当にそうなのか詳しい方の間での考えはそれで本当に一致しているのかが知りたいというこです。)

また自分は仮に死刑存置が森氏の言うように論理的整合性に欠いておりその根拠となっているのは遺族の応報感情という感情論のみだとしてもそれが一番重要だという藤井氏の立場に共感しましたし、藤井氏の『何人殺しても、いかなる非道なやり方で殺しても、その加害者の命は守られるということがどうしても納得できないからです』という一文がまさに自分の心に突き刺さりました。

このような立場で自分は存置派ですが、プレゼンを作る関係上、論理的整合性の有無という点にも触れなければならないのでそこがどうなのかということをはっきりと知りたいと思います。

また2番3番煎じの質問にはなってしまいますが回答者の方の死刑存廃に関する簡単でもいいので意見も同時に添えていただけると非常に参考になるのでよろしくお願いします。

A 回答 (5件)

存置する理由は結局感情論しか残らない、というのは全く同感です



因みに死刑を廃止すると殺人が減ります
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まず死刑の存廃を真剣にお考えの皆様に、敬意を表したいと思います。



なぜ今更このようなご挨拶から入るか、と言えば、生まれてからずっとこの日本という死刑存置国に生きてきたので、死刑はあって当然、というのが、いまだに日本国内では死刑制度賛成理由の筆頭だからです。

これは、考えたことが無いから現状維持でいいだろう、という極めて安易な消極的支持であり、質問者さんやNo.3の回答者さんのおっしゃる感情論よりも一層、レベルの低いものです。

ですから一応、考えた上で、感情論だと自覚しつつそれを展開するほうが、考えずに漠然と態度を決めるよりは、はるかに優るというものです。

このように消極的な盲従が大半を占める世論ですので、「国民の●●%が死刑制度賛成」などという統計を信じてみても実質的な意味があまり無いのです。

さて、ご質問で既に触れられている通り、死刑はなぜ必要か?という問いに直に答えるのは大変です。
むしろ可能性があるのは、世界の国々の4分の3が死刑廃止条約を批准し、そのうちの8割超、120余国が実際に死刑を廃止または執行停止している現状で、死刑廃止の論拠をどこまで論駁できるか、を考えるという方向ではないでしょうか?

丁度いいことに、私は死刑廃止論者ですので、以下に私の知る限りの死刑廃止論拠を挙げます。
これにどう反駁することができるか、死刑存置主義の皆さんもご一緒に考えてみて下さい。

(1) 犯罪抑止効果が統計的にも心理学的にも有意に認められない。
 生存権など個人の基本的人権は憲法上、「公共の福祉に反しない限り最大限の尊重を要する」ので、死刑に実体的公益が認められない限り、犯罪者個人の生存権を否定してはならない。

(2) 憲法36条で禁止された「残虐な刑罰」に当たらないか?
 最高裁判例では、同条は処刑方法を言うに過ぎない、となっている。しかし実際、例えば鞭打ちや危険労働などの刑はこの条文を根拠に退けられている。死刑囚にもし「死刑か、鞭打ちか」の選択を与えたら、鞭打ちを選択する者が多かろう事は想像に難くない。それでもなおかつ、鞭打ちは残虐刑で違憲だが死刑は残虐刑でなく合憲、と断言できるのか?
 ご参考までに、日本で採用されている絞首刑という処刑方法は、苦痛を最小化する方法ではないという理由で、死刑存置国の米国などからも人権批判されている。

(3) 冤罪の場合の賠償が不可能。
 憲法40条で刑事補償が規定されていることは、憲法精神として、司法とは人が人を裁くのだから、神ならぬ身、必ず誤りが起きる、その場合に補償せよ、という想定が背景にある証左だ。冤罪の場合の補償可能性を、その定義によって全否定するところの「死刑」は、この憲法40条に実質違反する。
 これは団藤重光先生の強調されている点です。

(4) 懲罰と更生は刑事、被害者への補償は民事、という棲み分けが近代法の大原則。
 遺族感情を刑事に持ち込むこと自体が間違い。刑事は犯人の更生を第一に考えるべきで、この意味からも更生と全く相容れない「死刑」という処置は、犯罪者の処遇として疑問。他方の遺族感情は基本的に民事で解決すべき。この区別を怠れば、前近代の「仇討ち」へと逆行してしまう。
 これらを総合的に扱ういわば行政的な措置として海外ではrestorative justiceというのがある。犯人に被害者やその遺族への償いを様々な形で行なわせ、それを通して犯罪への懺悔を促す、という新しい試みとして世界の刑法学関係者たちが注目している。

(5) 実は、終身刑や無期懲役などより格段に費用(税金)がかかる。
 刑場の維持管理や執行人の給料とメンタルケア費用(当然だがこれが膨大)、再審費用や拘置費用(死刑囚は懲役ではないので刑務所ではなく拘置所に抑留)などを含めると、アメリカの少し古いデータだが終身刑(high security prison、つまり独房)が一人60万ドル、死刑は一人300万ドルと約5倍もの税金を浪費する。

(6) 犯人を殺してしまうと、真相究明の妨げになる。
 裁判には「罪刑を決定する」他に「事実を解明する」というもう一つの役割があるが、この役割が往々にして過小に論ぜられる傾向にある。
 オウム裁判にしても、死刑になる教祖(麻原彰晃)は「どうせオレは死ぬんだから」と口をつぐんだままで真相究明には全く非協力だが、無期懲役の林医師は「一生かけて償う」と全てを語り、真実の究明に大きく貢献した。

さて皆さん、いかがでしょうか?
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質問者様もご自覚されていると思いますが、



>遺族の応報感情という感情論のみだとしてもそれが一番重要

気持ちはわかるんですけどね…。

これについては、「刑罰はもともと被害者に対する償いではない」という刑罰の本質にまでかかわる問題になってくるので、下手をすると底なし沼になりそうな気がします。
…内乱罪や外患誘致罪(実は現住建造物放火罪もそう)のような個人的法益の侵害でない罪で死刑を設定していることの説明がつかなくならないか?とか…

>『何人殺しても、いかなる非道なやり方で殺しても、その加害者の命は守られるということがどうしても納得できない』

私もこれに近い感覚を持っているので死刑廃止には消極的ですが、一方で、これらはどう考えたって感情論で、理論的なものではないですよね。
私自身、常々「死刑は廃止してほしくないけど、その理由は至って感情的で理のかけらもない」と開き直っていますので(笑)

理論的には、死刑については

>犯罪抑止、社会防衛に役に立っていない

についてはある程度研究も進んでいると思います(日本ですら団藤先生の時代にはいろいろ研究されていたので)。
比較的最近死刑を廃止したフランスとか、廃止していた死刑を復活させたけどすぐまた廃止したフィリピンあたり、データがあるかも…。

>遺族の応報感情といういわば感情論だけしかその存在理由はなくなっているのでしょうか?

それ以外には、なんとなく耳触りのいい同害報復思想とか。
でも同害報復自体、前時代的との批判は免れないでしょうね。

>回答者の方の死刑存廃に関する簡単でもいいので意見も

社会的理性的な観点で言えば、私は死刑は必要ないと思います。
現に犯罪抑止力については疑問視されています。
また、遺族の応報感情もケースバイケースです。特に家族殺しなんかだと、遺族は同時に犯人の家族だったりもするんで、応報感情自体画一的じゃない。そんなときでも「死刑!」って叫ぶ奴はいますが、結局「遺族の感情」なんてのは建前で、本当は自分の感情じゃないの?と…。

上にも書いたとおり「感情」が死刑廃止に「待った」をかけるんですけどね。

そして、個人的に思うことですが、これは「死刑があるかないか」という定常的状態の比較だけでなく、「現在ある死刑を廃止したらどうなるか」という「変化」も着目しないといけないのではないかな、と思います。そのときの大衆心理を考えると、廃止に踏み切るのは勇気の要ることだろうな、とは想像できます。
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なぜ世の中の誰もこのことに言及しないのかわかりませんが、私の考えでは、遺族の応報感情も理由とならないと思います。


なぜならば犯人を死刑にしてもらえる遺族はほんの一部だからです。
例えば平成19年度の殺人の認知件数は1199ですが、その年に死刑を宣告された人数は、殺人で10人、強盗致死で4人だけです。
動機、計画性、残虐さ、何人殺したかといった、かけがえのない命が失われたことに対する(個々の)遺族の応報感情とはあまり関係のない犯人の事情を考慮した今の死刑制度の運用状況は、遺族の応報感情と調和するものとは思えません。

森氏の著作は読んでませんが、死刑制度を擁護するには、犯人の事情を考慮する以上、特別予防の必要性(矯正不可能性)からやむおえないとか、あるともないともいえない抑止力に頼るとかしかない気がします。
個人的には、死刑が社会(国民)の応報感情(例えば、同じ人間として社会においとけないといった誰もが極端に残虐、卑劣な犯罪者に抱く感情)を満たしている面をはっきり認め、そこに議論の焦点を合わせていくべきだと思います。

この回答への補足

お礼が描き切れなかったので補足で続きを書くという無礼をお許しください。

後段に関しては
>>犯人の事情を考慮する以上、特別予防の必要性(矯正不可能性)からやむおえないとか、あるともないともいえない抑止力に頼るとかしかない気がします。
の部分は散々存置派、廃止派の間で論戦がなされてきたことですね。森氏もこの抑止力はないといっていますし、特別予防機能についてはもともと矯正不可能な悪人など存在しない。と言っています。
結局はこの部分の争いが論理的根拠という面でいえば存置派には分が悪いということになるのでしょうか

>>死刑が社会(国民)の応報感情(例えば、同じ人間として社会においとけないといった誰もが極端に残虐、卑劣な犯罪者に抱く感情)を満たしている面をはっきり認め、そこに議論の焦点を合わせていくべきだと思います。
なるほどここの部分は森氏も指摘しており、「悪者」を排除し溜飲を下げているだけではないのか?となかなか辛辣に批判していました。
重ね重ね回答ありがとうございました

ただ一つさらに質問が許されるのであれば、この文章ではmakabuさんの立場があまりはっきり見えてこないのですが、存置・廃止の2極論で語る必要はありませんが、遺族の応報感情が満たされてすらいない現行の死刑制度は廃止したほうがいいと考えておられるのか、死刑が一般大衆のいわばストレス発散という側面を持っていることを認識したうえで死刑制度をどうしていくのがいいと思っているのか。
もしそこら辺を難しいとは思いますが(自分も100%存置かといわれればそうではないので)言葉にあらわせるのであれば答えていただけたら嬉しいと思います

補足日時:2009/12/04 02:48
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この回答へのお礼

素早い回答ありがとうございます。

>>なぜ世の中の誰もこのことに言及しないのかわかりませんが、私の考えでは、遺族の応報感情も理由とならないと思います。
なぜならば犯人を死刑にしてもらえる遺族はほんの一部だからです。
から始まる前段の部分は、殺人の認知件数=死刑宣告、つまり1殺人1死刑という体制の下での死刑制度の運用なら遺族の応報感情と調和し理由になると考えてしまうのは私の邪推でしょうか?

また、話は変わりますが、ご存知かもしれませんが前述の藤井氏は他の代表作として『殺される側の論理』という本を執筆されています。詳細な経歴は省きますが、彼は元々いわゆるリベラリストであり死刑廃止論者でした、しかし上記の著書を執筆する過程で100以上の犯罪被害者遺族とコミュニケーションをとることで彼らの壮絶で、過酷で、悲惨な状況、感情を知るにつれ死刑存置論者になっていきます。
彼も、その著書の中でmakabuさんが言われた愛する人を不当に奪われた遺族の方々で今の死刑制度の状況で辛い現実を受け止めなければならない人たちがたくさんいたことを述べています。
しかし、だからこそ少なくとも現状で死刑になる要件を満たしている事件について遺族の応報感情で死刑があることはおかしいと思わないし、それを感情論として一蹴に附すのは間違っていると言っています。
大事なのは、犯罪被害者遺族の『被害後』に目が向けられない社会(この社会にはメディア、現行の死刑制度の不可視なども含まれています)を直すことでと言っています。

これでは私の意見を押し付けているようですが(笑)お許しください。

お礼日時:2009/12/04 02:48

当方司法書士有資格者です。


僭越ながら個人的見解を。

死刑制度は存続すべきだと思います。

ジュースを万引きした少年ならいつかそれが罪であることに気付く。
しかし死刑判決が出るような罪(酌量の余地もない)を犯した人間はもう生まれながら何か異常というか、更正など出来ないと思っています。
語弊を恐れずに言えば、生きるに値しない人間。
いえ、安楽な死にすら値しない。
世に放してはまた新たな被害者を生み出しかねない。

20年前の女子高生コンクリ事件が顕著な例です。
理屈抜きにして、もう死ぬしか償う方法はないと思っています。
ハムラビ法典的考えですね。
他人を傷付けた人間は相応の罰を受けるべき。
それが生きて償えないレベルであれば死をもってするのが当然ではないか。

何をもってレベルを判断するのかも曖昧ですがね。
もうしばらく司法に携わっていません。
考えることも少なくなり、すっかり錆びついてしまいました。
しかしあなたの質問を見て回答したくなり、まとまりのない愚かな文を書いてしまいました。
ご容赦くださいませ。

ロースクールの学生さんでしょうか。
今後益々の邁進を期待します。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます
まず
>ロースクールの学生さんでしょうか。
残念ながら違いますが、道は違えど国家権力に関わろうと志望している大学生です。

私の書き方が悪かったのかもしれませんがどちらかというと上段の方の質問に回答していただければもっとうれしかったです(笑)
私は感情論で死刑制度を存置することに関しては、大方同意していますので、質問にも書いたとおり、森氏の言うように存置には『論理的整合性』があるのかないのかということを稚拙な頭で考えたものの答えがでなかったので質問させていただいた次第でした。

でも死刑制度に対する真摯な意見を回答してくださったことはありがとうございます。
tamorist09さんが考える死刑に対する考え方はカントの主張した絶対的応報刑的な考え方なのですね。
そしてこれは被害を受けた側の処罰感情という激しい情緒に基づいているものだと思います。
まさに死をもって贖ってほしいという思いです。
ただ、それを第三者が判定しなければならない現代においてこの考えは被害者の応報感情の名を借りた第三者による優性主義につながる畏れがあることは否定できないと思います。
漫画であって申し訳ないのですが、『デスノート』にでてくる『キラ』はまさにその象徴でないかと思います。
若干話しがずれてしまいましたが、部分的な相違はあれど基本的には私はこの考え方には同意できますし、いくらでも同じような環境にいる人はいる中でAという人物が死刑に値するような事件を起こしたということはやはりAという人物に自身になにかしらの言い方は悪いですが『欠陥』があったと考えてしまいます。この考え方は悲しいことですが・・・

重ね重ね回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/12/04 02:19

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