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宗教の成立要件について1つ確認しておきたいのですが、この公式あっているでしょうか
つまり、右辺の3つが揃わないと宗教は成り立たないと。

※添付画像が削除されました。

A 回答 (36件中21~30件)

まず人の救済という目的が必要で、その地域の文化に即した形で本質を見極める必要があり、それが時流に沿った形としてのみ民に受け入れられる。


これが構成要件じゃなくて何なのですか?

>宗教 = 天国 + 地獄 + 神
の方がむしろ「宗教とは何か」を短絡的に表現しようとした式のように思えますが。全く構成要件ではない。
それにこの式が正しいのであれば、天国も地獄も神も存在しなかった初期の仏教は宗教では無いのですか?

あなたの回答を拝見させて頂いた限り、主張にしっかりと土台と確信が無いままに発言されている印象を受けます。
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この回答へのお礼

ボランティア=人の救済(目的)×地域文化(考察)×時流(手段)

どうです、これなら文句ないでしょう
メデタシ、メデタシ

お礼日時:2010/01/11 20:04

全く合っていません。



あえて言うなら、
宗教=人の救済(目的)×地域文化(考察)×時流(手段)
でしょう。

※ちなみにburahuman氏は宗教的な質問と見るやいなや侮蔑的・攻撃的な回答をあちこちでしている人物なのでお気をつけ下さい。
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この回答へのお礼

この質問は「宗教の構成要件は何か」と問うているのであり、「宗教とは何か」と問うているのではない

burahumanは良い人です

お礼日時:2010/01/11 15:14

.


#1です。
私は、g3452sgp さんの思考回路が分かりません。
宗教 = 天国 + 地獄 + 神 右辺の3つが揃わないと宗教は成り立たない。  と、質問を立てながら、

私が、wiki 神 ​http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E の抜粋
>仏教
>仏教は本来は神のような信仰対象を持たない宗教であった。
>原始仏教は煩悩から解放された涅槃の境地に至るための実践の道であり、超越的な存在を信仰するものではなかった。

>宗教は、複雑で難しいよ。

と、答えると、あなたの「回答へのお礼」では

>>宗教は、複雑で難しいよ。
>真理は常に単純明快なものであるはず。
>別に難しく考える必要はないはずです。
>もし宗教が複雑で難解なものであれば、そこに真理はないのだと直感しますがどうでしょう

と、書いています。質問の主題の神について答えた部分には、一切触れず、ついでに、つぶやきの様な
>宗教は、複雑で難しいよ。
だけに、触れています。・・・・何故?

しかも、いきなり質問になかった「真理」を持ち出しています。
なぜ、つぶやきに触れ、「真理」を持ち出す理由は、あるのでしょうか?
しかも、「真理は常に単純明快なものであるはず。」「別に難しく考える必要はないはずです。」
と、「はず」としています。
これは、宗教と同じではないですか?
「こうこう言う理由で、真理は常に単純明快です。」と根拠を示して言わないのでしょうか?
「はず」とか、「直感」を持ち出せば、何でも言えます。
ということは、何の、根拠ある主張はしていないことになるのです。

例えば、数学で考えれば、
ユークリッド幾何学では、「三角形の内角の和は、180度である。」という定理(つまり真理)がありますが、
円、円錐、とか、形が複雑になれば、それを示す定理(真理)は複雑になります。

と言う形で、論理的に示せばいいのです。

#11の回答お礼で
「宗教 = 天国 + 地獄 + 神  は間違いなく成立する、と結論します。」

と書いています。
私の、回答は、無視されるのでしょうか?

仏陀は、「天国、地獄、神、霊」について、は一切語っていません。
禅宗 でも、「天国」などは、語っていないはずです。

あなたの、思考回路はどうなっているのですか?
※仏陀が、「天国、地獄、神、霊」について一切語っていない事実にはどう思いますか?

最後の、質問だけでも、回答下さい。
.
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この回答へのお礼

#1さんはマジメに宗教している方なのでしょう、それで私の意見が生半可に思えたのかもしれない。

宗教はまともに数え上げると山の数ほど(何万、何十万、...)でてきます。ですので一々この場合、あの場合とやってはいられません。
また元々はどうであった、本来はこうであったなどともやってもいられません。
今現にある宗教について考えるだけで十分です。
それでさえ山の数ほどあるので、日本の原始宗教はどうだった、神道の場合はどうかなどは割愛せざるを得ないとあいなったわけです。
やはりここは人類の半数以上が考えている5大宗教程度に絞らないとまとめようがない、というのがあります。
しかしはたして禅宗は「天国」など語っていないといいきれますか。「天国」という言葉は使っていないが、六道の中に天国、地獄の概念はないといいきれますか。八大地獄、十六小地獄そして十界はどこで始まりどこで消えたというのか

”真理”について言えばマジメな宗教ならその目的は「真理の探究」の枠内にあるはずと思ったので、”真理”を使ったのです。
真理、真理の探究は哲学者の表現ですが、宗教家も良く使う言葉なので、特に問題はないと思ったのですが。
私は宗教であれ、哲学であれ”真理は常に単純明快なもの”と信じています。もし複雑怪奇な形をしていればまだまだ真理に到達していない証拠であると

「宗教 = 天国 + 地獄 + 神  は間違いなく成立する」

この結論は変わりません

お礼日時:2010/01/11 14:45

 神は必要かなと思いますが、あとは自由だと思いますよ。


私は、日本人にありがちな、正月の参拝もクリスマスも祝います。
 スコットランドやドイツの人に お前の宗教は何だ?
 と聞かれて(日本人はあまり聞きませんね)考えて
 私の宗教はビートルズだと答えたらスンナリ納得してました。
 たぶん、日本人に同じこと言ったら変に思う人も多いでしょう。
 でも今ロシアとかではメジャーな宗教らしいです。

 で、私の宗教では死んじゃった神様そのものが、天国も地獄も無いって
歌ってましたから、信者としては それどころか神すら信じないって
感じです。
 でも信じる気持ちは信仰です。

 信じるものは救われる = 宗教です。
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この回答へのお礼

「信じるものは救われる」であってもらいたいものです
「信じるものは最後に泣きをみる」は困るが

お礼日時:2010/01/11 15:05

その公式が正しいと言うよりも人々を目的の宗教に誘導する為には便利な経験則だと思います。


宗教に特徴的な物は
1、今の生き方、世の中の状態を殊更“悪”と捉えてこれを否定しこのままでは大変な事になると人々の不安を増幅させる。
2、しかしリーダーである神の言うとおりに行動すれば結果はhappy、天国が待っていると。
 
ですから人心が荒廃し不安が募れば募るほど宗教指導者は嬉々として生きがいを感じるでしょうし逆に人々が現在に満足していれば「全ての人は罪びとです」と強引に不安を掻き立てるのです。
これ実は洗脳のテクニックにそっくりで相手の心を乱し不安の絶頂を迎えた頃救いの方法を教える、これでコロッとなりますね。

その公式はとても便利なツールでそれを使わないで宗教を人工的に作る事は難しいと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
なるほど、素晴らしく分かりやすい説明をしていただきました。

宗教 = 天国 + 地獄 + 神 ⇒ 「洗脳のテクニック」 となるわけですか。
そういえば保険会社の営業広告も似たような方法を取っていますね、人の不安を煽るという。
ますます見えてきましたよ。
ただこの図式は世の統治者の思惑とも一致していないといけないという条件がでてきますがね。
いづれにしても、本物の宗教は稀有ないしは皆無であるということですね。

お礼日時:2010/01/11 01:34

自律した形で、感性を高めそこに充足と人への愛を感じるのでなければ、道徳はいつまでも上の権威の想定による押し付けを必要としてしまいます。



昔、言葉が生まれ 私たちの脳が複雑になり、感性の部分が軟弱になった頃(ここでは詳しくは略していますので、理論的、歴史的、考古学的な考察のあたりが希薄である点を ご理解ご了承ください)、

社会の維持に強力な道徳の必要性が起こり、そこから世界中に そちらの質問にあるような形態の神話や宗教の 上からの権威の世界がうまれました。

だから、世界中に そちらの質問のような形の 地獄の幻想を道徳の権威化として語ったような物語的な宗教、あるいは善いことをすれば天国に神が入れてくれますよというような宗教が生まれたわけです。

死後の世界だけでない形でその天国と地獄を語ろうとも、それは同じ道徳の権威化の必要から宗教の場合は物語られてきたことが多いと思います。 自律した人間の道徳の世界とかそのための教育法とかいう面では希薄であったのです。



そこをキリストのような人は 直接反逆したわけです。

道徳が悪いわけではないけど、愛がなければそれは完成しない(成熟した自律した人間のもものとしての道徳とはならない) と説いたわけですけど、

すぐにそれは 自律の道ではなく、 キリストを神として信じること(そこにへりくだることで、愛もえられ、救われる)という昔からの盲目的な宗教に摩り替わってしまいました。


仏陀と自律の世界というお話になると、これは難しい話となってしまうと思いますが、

十界互具のお話を知っておられるようですので、日蓮の場合はどうだったのか?について簡単にですが触れてみたいと思います。 

日蓮論ではありません、奥が深すぎてここでは説明のしようがないからです。

十界という区分け自体は、心を対象にしたのか現象を対象にしたのか、まるで、これも昔物語みたいなでたらめな分析にも思えるような描写ですが、 であるほどに、じつはリアルな昔の、時としてわれわれの想像を絶するような厳しい生活を反映した何かでもある点を謙虚に受け取ることもできる区分けともいえます。

でも、肝腎なのは その思想が仏とはどういう存在なのかを示す手段として使われている点です。

それが十界互具で表わされている世界です。

二乗という学者とかの世界を、かなり批判的にとらえていたりしますが、 もちろん そこにも仏界はあるわけです。 そのかわり、餓鬼の目的で自分が餓鬼にならないための画策のための術としての知識階級の術とかいうのもあったりするわけです(手短に書いているので皮肉っぽくなりますが)。

では、四聖のうち、仏界の次の菩薩(善いことを実行する心の世界、としておきます)の世界は 善人の世界なのに、なんで六道輪廻がそこにありえるのでしょう。

それどころか 十界互具論では その菩薩界こそ、迷いの海となると説かれていたりします。

これこそ、 道徳(上からの道徳)としての善と、真心との闘いの世界として、そのへんをちゃんととらえていた証拠だということが 解かります。

では十界互具の最後の仏界における六道輪廻はというと、 じつはもはや、畜生とか餓鬼とか言っても、 そこになんのいやらしさも醜さも無い、自律した迷いの無い愛の世界を意味するものとなります。

日蓮も地獄についてや罰について語っているように思えますよね。 でも 例えば鎌倉の刑場にて光物が空に現れた話などは、どこの日蓮系統の教えでも聖典のように扱っていますが、現代ではおそらくどこの宗派でも それが日蓮の御真筆(日蓮が実際に書いたもの)ではないことを知っているはずなのです。

本物の宗教家たちは自律を説いていると思います。

でも、いまだに 宗教界は そのへんを脱していないのだと思います。

がゆえの 宗教=天国+地獄+神 という図式があてはまってしまうところの、これは現代ならなおのこと変革すべき現象だと 私は憂えている人間の一人です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

私も、宗教=天国+地獄+神 なる式はできれば成り立ってほしくないのです。
しかしながら、現実はそうではありません。
宗教をやろうとすると、必ずこの図式が出てきて前に立ちふさがるわけです。
このため、最初は仏教で2週間、次はキリスト教で1ヶ月ともたづ終わりとなりました。
ただこれで終わったのでは面白くないのでそれ以降は、宗教を俯瞰する立場にあいなったわけであります。
それでこのような質問し自分なりに納得するところまで何とかまとめ上げようとしているわけです。
そして分かったことは、仏教、キリスト教に限らずイスラム教、ヒンズー教、ユダヤ教においても予想通りこの状況は同じであるということです。
これで大分スッキリしたわけです。

お礼日時:2010/01/11 01:12

 哲学向きでない私には、とても興味深いご返事です。



 良く分からないけれど、何か掴み取らねばならない事があるようで。

 また、この質疑応答は、理性と感性の“角力”のようにも思えました。

 感性人間である私は言葉の扱いに疎いので、議論では負けてしまうのでしょうが。

 第三者の見方も知りたいものです。

この回答への補足

このQ&Aは質問者が回答者から頂いた結果その他を総括しようにも
その場所がない、というところが使いづらいですね。
仕方がないので、この解答欄にてまとめたいと思います。

補足日時:2010/01/10 18:33
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この回答へのお礼

                      総括

宗教とは何かとの問いに対する答えは100以上も出てくるとのことなので、それについて考えるのは諦めることとし、では宗教の成立要件は何かに的をしぼり質問しました。
そこで最低限必要な構成要件として{天国、地獄、神}の3つをあげ(なぜならばこれらはいづれも宗教の中心テーマだからです)、
これらが構成要件であろうという仮定のもとで質問したわけです。
これに対しては否定的な回答が多かったのですが、世界で代表的なもの5つ(仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、ユダヤ教)
について私なりに調査したところ、これら全てにおいて{天国、地獄、神}は間違いなくその中心テーマであることが確認できました。
そこで質問の冒頭で掲げた式

           宗教 = 天国 + 地獄 + 神

は間違いなく成立する、と結論します。

お礼日時:2010/01/10 18:43

 仏教の限界・・・・・



 仏教に限界があるのではなく、
 それを知るために、
 理性のみに頼る事、
 理でのみ解釈しようとする事、

 これが“限界”を感じる原因かと思います。

 “感性”も重要です。

 天国とか地獄とかは、理性より感性に訴える“教え”だと思いませんか。
 

この回答への補足

この回答を読んだ後、ヒンズーのことを調べて分かったのですが、やはり仏教の方がまだましです。ヒンズーは恐ろしい。人を人とも思っていない、まるで化け物の世界だ~。

補足日時:2010/01/10 20:57
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この回答へのお礼

全てのものは進歩、発展していかなければならない
仏教とて例外ではないのです。
ただ解釈のしかたで乗り切れ、ということでは仏教は発展しない。これでは単に詭弁の世界になってしまう。これではダメなんです、これではアカンのです。
これだと単に思い入れの世界になってしまう。これではダメだ、これではアカンのだ。
この世に永久不変なるものなどなく、全ては弁証法的に進歩、発展しなければならない、これが哲学の基本です。これには例外などないのです。

お礼日時:2010/01/10 14:22

 こんにちは。



 たぶん成立要件としてなら 《ともかく〈神〉というたぐいの超越的存在》が何らかのかたちで《規範的な〈おしえ〉》に組み込まれていて それを言い広める人間たちがいるなら 集団としての宗教は成り立つでしょうね。《天国と地獄》は その教義の中に含まれます。《規範》というのはそのように褒美や罰が含まれるということでしょうから。


 いかにして宗教が発生するかについて考えるところをしるします。


 人間は 広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき人と人との関係性を この宇宙の中で 持っていると考えられる現象が見受けられます。
 その昔 アイヌの間で こういうことが起こったそうです。

  一人のアイヌの男が 山で遭難した。戻って来ない。
  巫女が占なった。この山のどこそこあたりに倒れていると言う。果た
 してその通りであったが そのわけは こうだと説明した。

   ――わたしが からだ全体で 山になる。その山の全体に わたし
    の体を重ねてみる。
     そうすると 体の一部が 痛くなる。その部分が 山のどこに
    あたるかを考えてみれば そこに男は遭難しているはずだ。

 おそらくこの現象は 非科学的であっても 反科学的ではないのでしょう。
 神体山(かむなびやま)であるとか神木とよばれた樹木そしてそれらの依り代としての神籬(ひもろぎ)などなど これらに身心ともに寄り憑くというのは ふつうに素朴に 原始心性だと捉えます。人間の自然本性にそのような《交感 correspondance 》のはたらく余地があったのだと思います。アニミスムともよびます。

 これをいいことに そこからは 自分でこの現象を操作しようとする動きが出ます。シャーマンです。
 何か身のまわりのことでも或るいは広く共同体全体のことでも 揉め事があったり衝突なり戦争があったりすると もはや初めのアニミストたちの素朴な対処法ではなくて そうではなく このシャーマンの出番となる場合があったようです。
 何が何でも 自己の努力によって 自己の意識を突き抜けて(身心をい離脱してと言うのでしょうか) 何ものかの世界に行ってしまい さらにそこから 何らかの答えを得て戻って来るというのが シャーマニスムです。

 さらに時を飛びます。
 やがて あたかも初源のアニミスムの自然性を取り戻してのように しかも 新たな心性を 人は獲得したと思われます。単純に それは 時間の獲得によるものでしょう。
 農耕をとおして つまり麦なり稲なりの栽培の過程をとおして つまりその種まきから取り入れまでの時間の経過をとおして 自己も 時間的な存在であることを知ります。
 要するに 自分たちは老いると ただ倒れるのではなく 死ぬのだという認識がからんでいるようです。時間的存在であることは 心性を高めて その精神および身体において 歴史知性を獲得したと考えられます。世界へ その時間的存在なる自覚において 入った。
 ここまでの経過とその後の転回をも交えて 整理すると 次のようです。
 
 -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム
 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界への入り
 +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 
     社会力学上(政治的に) 寄せる。

 ヨリ→イリ→ヨセの順序を想定したのですが では なぜ 最後にヨセが 出て来たのか。ここでは これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言ったりします)。そして これが 宗教の始まりです。

 言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる原始心性におけるアニミスム自然本性のほうを備えているでしょうから(むやみに捨て去ることはないでしょうから) その非科学的な心性として いわゆる信仰をも持っています。単純に 超自然のちからを かみと呼んだことでしょう。
 さて ここから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》なる人間類型が出ました。
 単純に言えば ヨリ・アニミスムを備えたイリ歴史知性は その信仰において 神との共生をふつうの生としており 実際に或る種の儀式として 神との共食を持ちます。つまり 食物の収穫に感謝し供え物をして 共に味わうわけです。つまり《まつり(奉り・祀り・祭り)》です。
 ヨセは このムラムラのマツリを 一段高いところから(ふつうの歴史知性を超えたところの精神において)束ね《マツリゴト》として 社会制度化したというものです。マツリゴトとは 個人の信仰を束ねる宗教であり政治です。
 古事記には こうあります。

   その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナガタラシヒメのミ
  コトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき。
  
 四百年ごろのことだと推測されますが 具体的には 九州のクマソもしくは半島の新羅を討つというくだりで出て来ます。
 これは あたかも その昔のシャーマンを思い起こさせます。そして 違いは すでに 人びとは一般に イリ歴史知性なる有限な存在としての自覚を持ったあとだということです。かくて ヨリ・シャーマニスム+イリ歴史知性で ヨセなるスーパー歴史知性の誕生というわけです。鬼っ子かも知れません。

 つまりは その昔のシャーマ二ストは まだ 人びとと同じ地平に立っていたところがありますが このヨセなる超歴史知性は この同じ水平を嫌ったようです。
 嫌ったので 強引に 社会のいわば第二階に みづから上がって行ったのか それとも 人びとが その新型シャーマンに辟易して これを敬遠し 人びとの合意で これを社会の神棚に据えてまつろうということにしたか いづれとも推し測られます。(国譲り説は 後者です。社会が 二階建てになりました)。
 要するに ここに 神の代理が 出現しました。見えない神との共食(供え物をしてのまつり)が 見える神との共食(貢税を伴なうまつりごと)になったという話です。これが 宗教の始まりを説き明かす一つの歴史事例(そのたとえ話)だと考えます。
 
 * ニーチェは 話になりません。神の代理とその権威の下に作られた宗教つまり 宗教の教義の神(つまり これは 観念です)に対して 必要のないけんかをふっかけているだけです。そのような神は 観念の神として はじめから死んでいます。

 * 愛とは 社会における人びとのあいだの ふつうの共生のことであるでしょう。神との共生も 個人にあっては信教・良心の自由において 伴なわれることでしょう。《神の代理》〔と自称する者〕との共食つまりマツリゴトはやがて歴史的に しかるべく揚棄されていくことでしょう。
 《まつり》と《まつりごと》から成る社会の二階建ての構造が しかるべく再編成されていくでしょう。わたしたちは 人がいいから永く 働き蜂に甘んじていたというわけです。イリ歴史知性の回復 万葉集いや億葉集のルネサンスということではないでしょうか。
 いやいや 《ヨセ》としてのスーパー歴史知性が指導したがゆえに 経済も社会もスーパー高度成長を成し遂げることが出来たのだと 反論してくるかも知れません。人間のこころの真実は いったいどういったところにあるでしょうか? いかがでしょう?
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 大上段?に十界論を説くのはなぜか。



 仏教では人間の心の境地を十段階に分類できるとして、地獄界・餓鬼界・畜生界・・・・というように分けてます。
 このように名称をつけて心のレベルを表わしたのは分かりやすいから。一合目、二合目、三合目なんて表示するより。

 宗教は、信仰は、こんな事知らなくても不都合ということはないと思います。
 神や仏の世界に近づきたい、安らぎの世界に入りたい、といったゆがみのない正しい信仰心をもてるならば。

 でもそれが難しいので、地獄とか天国という世界を作り出して、衆生を仏の世界へ導こうとしたのではないでしょうか。

 そう解釈すれば、正しく導こうとするための方便(付随するもの)との受け止め方が出来ると思うのです。

 十界はあると思っています。だから“姿勢”が悪ければこれじゃあ地獄行きだなぁ、なんて思うことはあります。
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この回答へのお礼

>そう解釈すれば、正しく導こうとするための方便(付随するもの)との受け止め方...
う~ん、この説明は極めてアジア的というか、日本的なものの考え方ですね
すべて方便なのだから仕方ないでしょうという
どうやらこのあたりが仏教の限界のような気がしてきました
分かりました

お礼日時:2010/01/10 02:27

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