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古代、海や陸のシルクロードを通じて、多くの商人が古代ローマ帝国と中国とを結んでいました。
ということは、西洋から来た人が長安の都で日本の遣隋使や遣唐使を見て、日本という国があるということを知っていたかも知れません。
あるいは、日本列島が描かれている、中国で作られた地図を見たかも知れません。

単なる想像を基にして質問して申し訳ないですが、
「日本」または「日本列島らしい島」が描かれている、西洋で作成された地図で、古い例を教えてください。
また、書物や日記に「日本」のことを記述している古い例を教えてください。
好奇心でお尋ねしていますので、推定でも自論でもかまいません。
よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

おそらくマルコ・ポーロの『東方見聞録』で"ジパング"として紹介されたのが初出と思います。


そのときの「ジパング」が変化して現在ヨーロッパ等の諸外国で日本をあらわす言葉になりました(英語でいう「ジャパン」など)。

ただ、マルコ・ポーロが紹介したそのときは荒唐無稽なおとぎ話としかみられておらず、ただしく日本という国が現実のものとして
知られるようになったのはもっと後の時代になってからだと思います。

日本に西欧人が来たのは鉄砲やキリスト教が伝来したときのポルトガル人からのようですが、これに先んじて
中国で船に乗り、たまたま日本に漂着したという報告がいくつかあるようです(1540年代ごろ?)。
おそらく本格的に日本が知られるようになったのはそのころではないでしょうか。

地図ということで見ると
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/asia2/
こちらにいくつか古地図が紹介されていますが、日本が載っているものは
すべて16世紀半ばを過ぎてからで、やはり前の鉄砲とキリスト教伝来の時期に重なります。

ネットで調べてみたら
著:岸野久『西欧人の日本発見―ザビエル来日前日本情報の研究』
という本がありました。もしかするとこちらに詳しく書いてあるかもしれません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
『西欧人の日本発見―ザビエル来日前日本情報の研究』は、幸いにもその一部をネットで読むことができました。
ザビエルが日本へ行く決心をしたとき、すでに日本へ行った経験のあるジョルジェ・アルヴァレスに日本に関する情報のまとめを依頼したそうです。
これは16世紀前半の話ですが、これ以上遡る記録はこの本にはないようです。
やはり、「東方見聞録」が最古の記録ということになるようですね。
古地図のサイトも大変参考になりました。

お礼日時:2010/03/11 14:40

 ここに西洋人が作った「日本地図」の一部が表になっています。



 http://www.flc.kyushu-u.ac.jp/~michel/serv/eujap …

 そのいくつかを見てみました。

 1。セバスティアン・ムンスター(Sebastian Munster 1489-1552)の地図には右上の隅に terra incognita(ちっとも分からん大陸)みたいなものがあって、これが「日本」なのだろう、というコメントがあります。

 2。ベネデット・ボルドーネ(Benedetto Bordone 1469-1531)この人は日本を初めて「島」として描いた地図作者と言われています。コロンブスが米大陸に行ったのは1492年ですから、この地図氏が23歳の時ですね。日本はなんだか「まとまりのいい島」に見えます。

 3。ピーター・ヴァン・デル・アー(Pieter van der Aa 1659-1733)ずっと時代が下がってオランダ人のもので、以前よりだいぶ目鼻がついて来た感じです。

 まあこういうことで、十五世紀でも終りになるまで、大きなアメリカ大陸が地図に無かったのですから。日本は西から見れば見える。東からでは行けども行けども、見えない(そりゃそうですよ、間に大陸があるんだから)不思議な(マルコポーロによると黄金の)国だったわけですね。コロンブスがジパングに行く、と張り切っていたのも無理無いです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
わざわざ多くの地図の中から質問に合致するものを選んで下さったのですね。
助かりました。
#2の地図では日本を「まとまりのいい島」に描いていますが、大きな示唆を受けました。
「島国」であることを、作成者は知っていたということですね。
見たこともない国を描くわけですから、瓢箪形や四角形にするわけにはいかず、適当な形にせざるを得ませんよね。
聞いた話を地図上に示すのはきわめて困難だということに、今ごろ気付きました。
ですからterra incognita(ちっとも分からん大陸)に納得しました。
#3の図ではWilliam Adamsが徳川将軍に謁見している図がありましたが、こんな風に謁見したのだろうと、オランダ人が想像したわけで、興味深いです。

お礼日時:2010/03/11 14:43

直接の回答ではありませんが、



私の小学校のときの担任の(社会が専門)先生が、「マルコポーロの東方見聞録には『日本の家は床も屋根も黄金からできている。』と書かれていて、それを読んだコロンブスはその黄金目当てに西回りでアジアに向い、たどり着いた大陸をインドと錯覚した。」と、話していた事を思い出しました。 
家とは中尊寺の事らしく、マルコポーロが中国に行ったと思われる頃、中国では「日本」=「黄金の国」というイメージがあったようです。 中国と言っても、マルコポーロが北京で会ったとされるのは、日本に二回も襲撃をかけた元寇(げんこう)で有名なフビライ・ハン(1215~1294)で、彼はヨーロッパ人達と交流をし、ある意味、彼は日本とヨーロッパとの要(かなめ)役になったと思います。
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この回答へのお礼

私も子どもの頃、そんな話を先生から聞いた覚えがあります。
「黄金の国ジパング」のような話が出てきますから、マルコポーロの話は荒唐無稽だと評されたそうですが、私は、中国のホラフキ役人が口から出まかせを言ったとしか思えません。
元寇の直前まで、日宋間には僧が頻繁に行き来していましたから、日本がどのような国であるかは、たとえ元に変わっていたとしても、よく知っていたはずです。
日本の金鉱山が開発され、大いに生産高が増加したのは戦国時代ですから。

しかし、「ある意味、フビライ・ハンは日本とヨーロッパとの要役になったと思います。」のご意見は、そのとおりだと思います。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/03/11 15:29

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