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宗教の価値・魅力って何ですか?

世には様々な宗教がありますが、一体、信者は何を根拠に教義を信じているのでしょうか?宗教に何を期待しているのでしょうか?また、信者を夢中にさせる魅力って何なのでしょうか?うまみは何なのでしょうか?
 それぞれの教義には「最後の審判」「輪廻転生」「後生の一大事」とかいろんな思想・教義がありますが、長い歴史にそれを裏付けるような事実とか予兆とかがあったのでしょうか?宗教についてはほとんど勉強したことも無いのではっきりしたことはわかりませんが、その教義は、仮説や希望的観測・憶測に過ぎない教えが多いと思うのですが…。
 しかしながら、キリスト教、イスラム教、仏教などメジャーとされる宗教は長い歴史にわたり、多くのファンを抱え、圧倒的人気を博しています…。

数学上ルール化され、1の次が2、2の次が3だと、あるいは、犯罪が悪いことだと我々が疑いなく思い込んでいるように、信者の宗教に対する信心・忠誠は、それと同じようなものなのでしょうか?どういう心理なのでしょうか?

宗教の本質は、「疑ってはならない」という暗黙の了解がある新たな(伝統的な?)ビジネス?エンターテイメント?ゲームですか?どのように捉えてよいのか、以前から距離の置き方がよくわかりません…。

宗教って何!?正体は!?

詳しい方、教えてください!

教えて!goo グレード

A 回答 (20件中1~10件)

 こんにちは。

逐一お答えしていますと一本論文が書けてしまいますので、主要と思えるいくつかのご質問だけお答えしようと思います。(文字制限なければいいんですが)
>>世には様々な宗教がありますが、一体、信者は何を根拠に教義を信じているのでしょうか
>>(中略)その教義は、仮説や希望的観測・憶測に過ぎない教えが多いと思うのですが…。
 なぜ人は宗教を信じるのか??しかし、「信じる」ということに関して考えれば、宗教以外でなくても同じことが言えます。私達、人という生き物は何かを信じるのにさほど根拠必要としないのかもしれません。
 例えば、数字をランダムにコンピューターが選び出すタイプのロトくじを1ドル買ったとします。買った直後に、2ドルはらうからそのくじを売ってくれないかと、頼むとほとんどの人が躊躇して、手放さないと言います。20ドルまで行かないと手放さないケースも多いといいます。
 また、サイコロを振って6が出たら、一万円くれる賭け事をするときに、「サイコロは何度振ってもかまいません。しかし、賭ける時はサイコロを振る前に千円をかけてください。」と言われたとします。すると、6が出る確立はサイコロですから何度投げても6分の1の確立で、最初だろうと2回目だろうと、37回目だろうと、確率が変化するなんてことはありえないのに、人間は「今だ!」と賭ける。
 これ等の事例を見ても、人は根拠があるから信じると言うような単純な生き物でないことが分かります。しばらく前の話ですが、ジョン・ブロックマンと言う方がウェブサイトで「何の根拠や証明もなく信じているものってありますか??」って質問したら、宗教者に限らず無神論者科学者合理主義者もそういったものがあると答えられたそうです。つまり、信じると言うことに根拠がないのは宗教に限ったことではなく、人間そのものが持っている特性であることがいえます。

 次に  
>>宗教の本質は、「疑ってはならない」という暗黙の了解がある新たな(伝統的な?)ビジネス?エンターテイメント?ゲームですか?どのように捉えてよいのか、以前から距離の置き方がよくわかりません…。
 宗教の本質を「疑ってはならない」としていらっしゃいますが、これには私は「異議あり!」です。ただ、文字数のことを考え、この質問のテーマは「距離のおき方」にあると思いますので、こちらのほうのお話をさせていただきます。
 果たして私達は宗教と距離が置けているのでしょうか??これは、認知科学の実験です。どうぞ、karamuchoさんも想像してみてください。
「風船が宙をふわふわ浮いています。その風船があるところまで行くと、移動する速度が速くなった。さて、これはなぜでしょう??」
なぜだと思いますか??
「風が吹いた(上昇気流に乗った。気圧が変わった。等も含まれる)」と考えませんでしたか??(もちろん違っていてもいいのですが)この答えは、東洋人(ここでは、中国・韓国・日本人が中心)に多く見られる答えだそうです。しかし、西洋人(ここではイギリス・カナダ・アメリカ人が中心)は「風船の空気が抜けてスピードを上げた」と答える方のほうが比率として多くなるそうです。
 このような違いは一体何なのか??
 東洋人は関係性を重んじる民族です。家族、友人、会社。若い世代の「ky」と言う言葉でさえ関係性が読めてないと言う意味です。こういった国で信仰される宗教を見ると、儒教では孝や忠、仏教では縁起や空、神道では一人のカミではなく八百万の神が存在し、「関係性」を重視する宗教が信仰されている。
 対して西洋人は「個人主義」という言葉があるように、有る意味関係性より個を重視する傾向にあります。そんな国で信仰されている宗教は、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教といった、一人の神の「個性」を重視する宗教が中心と言えます。
 私達は、常識と思っている判断も宗教の影響を受けていないとはいえません。子供に物を擬人化して教える事も、付喪神への信仰から来ていると言うこともできる。(西洋ではこういった教え方はあまりしないそうです)例は他にも枚挙にいとまがありません。
 もう文化とか習慣に馴染みすぎちゃって宗教かどうか分からなくなっちゃった宗教的要素を社会学の言葉で「市民宗教」と呼びますが、先ほどの認知科学の実験の結果を見ても私達は市民宗教の信者です。まず、自分自身の立ち位置を知ることが「距離を置く」第一歩です。
 
>>宗教って何!?正体は!?
 最後の質問ですが、一番厄介ですね。私に言わせれば「いろいろ」です。どれか一つであると断定するのは簡単ですが、どれもがその説明としては不充分です。

 さて、読み直してみますと答えになってませんね。申し訳ない。誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。
 合掌 南無阿弥陀
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>信者は何を根拠に教義を信じているのでしょうか?


>宗教の価値・魅力って何ですか?

この世において「信用」で成り立っていることは多いと思います。
明日学校や会社へ行くというようなこともそうでしょう。
明日学校や会社が開いている証拠はないでしょう。
しかし、行くということは、信じているということでしょう。
そしてそのとおり開いていたということが大半でしょう。
物事に妥当性が感じられれば信じることができるでしょう。
教義に妥当性が感じられれば信じることができるでしょう。
ちなみに、臨死体験で、霊魂として肉体から離脱し、眠っている自分の肉体を見下ろし、周囲の人々の会話を聞いたり、他部屋へ移動してその様相を見聞したり、霊界へ行って天国や地獄や神仏的存在を見聞したりし、覚醒後その様相を語ったりした体験談は色々あります。(他者の証明も可能なケースがあるわけです。)
また、退行催眠下で、前世や前々世での出来事を語らせると、本人の知り得ない時代地域での出来事を語り、調べるとそれが事実であった、ということもあったりします。
正当だと思う宗教は、善心善行がこの世でもあの世でも誰もが幸福になれる道であり、転生輪廻を重ねて精進して行き成長して行く過程に幸福を感じて行くことができる、と説いていると思いますが、それは妥当な論理だと思いますし、この世やあの世や来世以降を貫く幸福に関係するものですから、それこそ価値そのものであると思います。(以上は臨死体験や転生輪廻関係の様々な本や「太陽の法」等々の本を読んで納得できたものです。)
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皆さんが深い事を書いてらっしゃるので、私は簡単な事を。



宗教と言っても、私は既成宗教と新興宗教は分けて考えています。

既成宗教は文化、哲学、歴史。
新興宗教はそれに色づけしたもの。

私は両親がとある新興宗教を信仰しているので(私は信仰してません)、
小さい頃から信者さんたちを見てきて思ったのは、
基本的には皆さん、自分が幸せになるために信仰してらっしゃいます。
信仰を始めて病気が治った、問題が解決した。
この信仰をしていれば自分には災いが降りかからない、
と信じて、日夜活動に励んでらっしゃいます。
初めは純粋な気持ちでの信仰ですが、その内行事に駆り出されたり
役員になって仕事帰りに会合に行ったり、
段々仕事みたいになってきてるのが本末転倒と感じますが。
某学会は選挙活動も信仰の内の様ですしね。
もうそうなると、一言で済ませて申し訳ないですが、洗脳、ということかなと…。

あとは心の拠り所、ですかね。
会社ではパッとしないオレだけど、活動ではリーダーとして頑張ってる!という感じで。

ミュージシャンの大槻ケンヂさんは、著書の中で宗教は心の杖、と表現されてました。
自分に起こるいろんなことを、何かのせいに出来たら楽ですよね。

しかし新興宗教を信仰してる人って、おこがましいんですよね。
自分たちの宗教こそが一番!って言うじゃないですか。
謙虚さを知らない人にろくなのはいません。
教義ではそんなことも教えてくれないんでしょうかね…。
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人間は何かを崇拝するように作られているそうです。


日本人だけが「神とは何か?」と論じているのであって、世界のほとんどの人達は「居る、居ない」なんてレベルでの神論をしていないわけです。”世界のほとんどの人達が神を崇拝している”ここからスタートすべきであって宗教の選択から始まるべきです。
みんなが認めているもの、それを「いや、そんなことはない」と言うのは変わり者ではないでしょうか?みんなが良いとしている事は興味を抱くべきでは?私は若い頃変わり者だったために、この部分をおろそかにして、ずいぶん大切な物を失ったと感じています。
世界中を旅行しキリスト教に巡り会えた事は本当に幸運だと思っています。宗教活動がどう、ではなく科学的裏付けの事実、真理、本当の本物を知ることが出来たと言う意味で、です。
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集金マシン論を展開した #12です。



信仰は良くて、宗教が悪い点を一つ発見したので報告します。


信仰のよいところは、人に明確かけず、やかましくもないことです。

それに対比して、宗教の悪いところは、自分が正しくて、他は間違っていると信じてしまい、場合によっては臆面もなく声だかに主張する人を作っていしまうところです。
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創価学会の者です。



宗教といえば、「インチキ、カルト」とか「気休め」とよく言われますが、神や祖様におすがりして、多額のお金をお布施すれば救われるなどと説く宗教なら、確かに「インチキ、カルト」、「気休め」に過ぎないでしょう。カール・マルクスが言うように「阿片」で、有害ですらあります(もっとも、マルクスは、当時の腐敗堕落したキリスト教の僧侶だけを見て宗教一般を否定してしまったのです)。しかし、宗教には正邪があるのです。

正しい宗教とは、「神や仏にひれ伏し、随従するもの」ではなく、「自分自身に内在する無限の可能性を引き出す」ものなのです。教祖とか絶対者といった「外部のもの」に頼るのではなく、だれの内面にも秘められている、限りない知恵と生命力を開発していくものです。そこには、自分自身で自分の行動を決定付けるという自律性があります。他の者に盲従して、自分を見失うことなど決してないのです。そしてその引き出した「知恵や生命力」があれば、目前の課題や困難があっても、それらに立ち向かい、乗り越えていくことができるのです。あたかも山登りで、体力、脚力が弱ければ、登ること自体大変で、辛く感じられますが、体力も脚力も強ければ、周りの景色を悠々と楽しみながら登っていくことができるようなものです。

しかし、そのためには「生命と宇宙とを貫く根本法則」に基づく必要があります。それを仏法では「妙法」といいます。「妙法」とは「南無妙法蓮華経」のことです。正しい本尊に向かい、「南無妙法蓮華経」と唱えることが、その「知恵や生命力」を引き出す具体的な実践です。これによって、生活上の行き詰まりが打開され、不可能だったことが可能となり、自在の境涯になれるのです。これを「宿命転換」とも「人間革命」とも言います。

ただ、南無妙法蓮華経と唱えるだけであるなら、既成仏教をはじめ、数教団が実践していますが、これらには何の功徳(生活上の具体的な利益)もありません。なぜなら南無妙法蓮華経の創始者たる宗祖・日蓮大聖人の教えに反している部分があるからです。この宗祖の教えを正しく実践している世界唯一の教団は、「創価学会」なのです。真の正しい宗教は創価学会の中にしか存在しない、これが私の結論です。

こういうことを言うと、「なんだ、お前はただ創価学会の宣伝をしたいだけではないか」「独善だ」と思い、しらけるかもしれません。しかしこれは事実なのですから仕方がありません。真の力ある宗教には「文証」、「理証」、「現証」の三証がなくてはなりません。文証とは、ある教義・主張が経文等の文献上で裏付けられているか否かという基準。理証とは、その教義が道理に適い、また理性のうえから普遍妥当性があるか否かという基準。また現証とは、教えを実践した場合、現実のうえでその通りの結果(功徳)が現れるか否かという基準のことです。三証の中でも「現証」こそが重要です。この三つが創価学会における信心の実践の中にすべて具わっているから学会は正しいのです。

以上、特定の宗教団体の単なる宣伝みたいな回答になってしまい、お詫び申し上げます。しかし私は私なりの意見を述べさせていただきました。最後に、創価学会の最高指導者である、池田名誉会長の次の言葉を引用して終わります。

「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」(小説『人間革命』第1巻「はじめに」から)        
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誰でもアクセスできるヴァーチャル精神国家的擬似非営利団体ということでしょうか。

その膨張主義はもっとも忌むべきところです。
百害あって一利なしというべき存在でしょう。
やはり酒やらタバコのような中毒性があります(これが”魅力”の正体なのでしょう)ので、将来的には禁じるべきでしょうが、存在を許すのなら最低でも成人になるまでの人間には勧誘的な行為一切を禁じるなどの法律で制限する必要があると思います。
学問的な興味から研究したりすることは将来にわたって妨げられないと思いますが。
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宗教の正体とは、「不安定で不確実」これが正体。

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宗教の正体は集金マシンです。



宗教マシンとして有名な物の一つに国家という共同幻想がありますよね。
税金という名目で国民から集金して、核兵器など、個人で作れないものを作ったりするんです。

最近でこそ、国家が集金マシンの代表格になっていますが、国家が今ほど主流になるまえ、宗教が最強・最大の集金マシンでしたね。

個人の金を個人のものにしておくとね、酒飲んじゃったり、女買っちゃったり、男買っちゃったりして、使ってしまうでしょう?
そこで、個人の小銭を集金しちゃうんです。
小銭でも毎日のように集金すると大金になるよ。
小銭でも大勢から集金すると大金になるよ。

その大金を使って、神社や仏閣やパゴラや神殿を作ったんだ。
集金マシンとしては国家にまけたけど、金の使い道っていう点では、国家よりもすぐれているんじゃないかな。

おかげで、大工には良い仕事をさせてもらった。
日本だけじゃないよ、世界中で上等な建築って言えば宗教関係でしょう?
経済合理性を超えて、品質と耐久性、そして美を追求している。

集金マシンとしての国家と宗教のコンペティションも世界中であるね。
日本では、国家が集金マシンとしての地位を独占するかわりに、宗教には宗教法人という特別待遇で税金逃れする道を残して妥結。
ドイツなどでは、やはり集金マシンは国家に集中するかわりに、教会税なるものを創設し、宗教に対して代理徴収サービスをしている。

宗教の価値・魅力は建築だけじゃないよ。
美術や音楽だって、宗教という集金マシンが合ったおかげで本物が出来た。
本物が残った。
絵描や音楽家が自分で集金しなくちゃならない現代社会では、本物が出にくくなりましたよね。


宗教には、信仰という面と集金マシンという面があるんだけど、信仰は宗教が無くても可能なので、集金マシンの側面に注目してみましたが、いかかですか?
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 ありません。


 そのために宗教の起源を考えます。

 人間には広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき現象が見られるようです。その昔アイヌの間で こういうことが起こったそうです。

  一人のアイヌの男が 山で遭難した。戻って来ない。
  巫女が占なった。この山のどこそこあたりに倒れていると言う。果た
 してその通りであったが そのわけは こうだと説明した。

   ――わたしが からだ全体で 山になる。その山の全体に わたし
    の体を重ねてみる。
     そうすると 体の一部が 痛くなる。その部分が 山のどこに
    あたるかを考えてみれば そこに男は遭難しているはずだ。

 おそらくこの現象は 非科学的であっても 反科学的ではないのでしょう。
 神体山であるとか神木とよばれた樹木 これらに身心ともに寄り憑くというのは 原始心性だと捉えます。人間の自然本性にそのような《交感 correspondance 》のはたらく余地があったようで アニミスムともよびます。

 これをいいことに そこからは 自分でこの現象を操作しようとする動きが出ます。シャーマンです。
 何か身のまわりのことでも或るいは広く共同体全体のことでも 揉め事があったり衝突なり戦争があったりすると もはや上のアニミストたちの素朴な対処法ではなく そうではなく シャーマンの出番となったようです。
 何が何でも自己の努力によって 自己の意識を突き抜けて 何ものかの世界に身を持っていき さらにそこから 何らかの答えを得て戻って来るというのが シャーマニスムです。

 さらに時を飛びます。
 やがて あたかも初源のアニミスムの自然性を取り戻してのように しかも新たな心性を 人は獲得したと思われます。単純に それは 時間の獲得によるものでしょう。
 農耕をとおして つまり麦なり稲なりの栽培の過程をとおして つまりその種まきから取り入れまでの時間の経過をとおして 自己も 時間的な存在であることを知ります。
 要するに 自分たちは老いると ただ倒れるのではなく 死ぬのだという認識がからんでいるはずです。時間的存在であることは 心性を高めて その精神および身体において 歴史知性を獲得させたと考えます。世界へ その時間的存在なる自覚において 入った。
 ここまでの経過とその後の転回をも交えて 整理すると 次のようです。
 
 -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム
 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界への入り
 +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 
     社会力学上(政治的に) 寄せる。依らしめる。

 ヨリ→イリ→ヨセの順序を想定したのですが ではなぜ 最後にヨセが 出て来たのか。ここでは これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言ったりします)。そして これが 宗教の始まりです。

 言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる原始心性におけるアニミスム自然本性のほうを備えているでしょうから(むやみに捨て去ることはないでしょうから) その非科学的な心性として いわゆる信仰をも持っています。単純に 超自然のちからを かみと呼んだことでしょう。
 さて ここから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》なる人間類型が出ました。
 単純に言えば ヨリ・アニミスムを備えたイリ歴史知性は その信仰において 神との共生をふつうの生としており 実際に或る種の儀式として神との共食を持ちます。つまり 穀物の収穫に感謝し供え物をして 共に味わうわけです。つまり《まつり(奉り・祀り・祭り)》です。
 ヨセは このマツリを 一段高いところから(ふつうの歴史知性を超えたところの精神において) マツリゴトとして 制度化したというものです。マツリゴトとは 個人の信仰を束ねる宗教であり政治です。古事記には こうあります。

   その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナガタラシヒメのミ
  コトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき。
  
 四百年ごろのことだと推測されます。
 これは 一面としてあたかも その昔のシャーマンを思い起こさせます。そして違いは すでに人びとは一般に イリ歴史知性なる有限な存在としての自覚を持ったあとだということです。かくて ヨリ・シャーマニスム+イリ歴史知性の中から ヨセなるスーパー歴史知性の誕生というわけです。鬼っ子かも知れません。
 その昔のシャーマ二ストは まだ 人びとと同じ地平に立っていたところがありますが このヨセなる超歴史知性は この同じ水平を嫌ったようです。
 そのヒエラルキアとして成るものが 宗教です。
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