No.22ベストアンサー
- 回答日時:
これを崩すためには、どうすればいいか。
いつまで経っても崩されないので自分で崩してみようと思います。
「永遠を感じること」が究極の幸福へのキーワード。
ならば、永遠とは何か。人間の命には限りがあり、地球にだって寿命がある。
そんな常ならざる世界において永遠を感じたところで、それは常に理論的に
否定される運命にある。
つまり、いくら永遠と感じたとしても決して永遠ではないと断言できる。
永遠なんてどこにも存在しないのに、それを感じて究極だと思っても
それは虚構でしかない。それを知った上で永遠を感じることなんてできはしない。
そこに究極の幸福を見出すこと自体無理がある。
すなわち、有限なる世界にこそ究極の幸福が存在する。
確定していない未来は不安定で決して現在に幸福をもたらさない。
現在目の前に見えているその瞬間こそが究極であり、未来にその究極が
塗り替えられることがあったとしても、確定した現在の最大の幸福こそ
究極と言うべき幸福だ。
「ケーキを『いつまでも』好きなだけ食べられる」の論もおかしい。
現在の山ほどのケーキ以上の幸福ではないだろう。明日は今日以上に幸福かも
しれないが、それは確定していないし、山ほどのケーキに初めて
出会った感動はもう明日にはないだろう。『いつまでも』が続けば
続くほどそのありがたみが小さくなり、やがてはなんの幸福感も与えなく
なるからだ。永遠という要素を付加することで幸福が小さくなってしまう。
それでは決して究極に近づけない。
こんな感じかな。
相手の使った理屈で、違う結果を提示する。
自分で書いていて、「なるほど」と思うね。(笑)
そんな簡単に究極が定義できれば、哲学者は不要でしょう?
いろんな考察の中で叩いて叩いて残ったものが究極かもしれません。
それでも、何度定義しても時代とともに変わるとも思いますし。
「永遠を感じること」はひとつのヒントにはなるけど、結論にするには
弱すぎます。時間の中に生きている人間である以上、時間を無視して
状態を語ることは難しいし、永遠でなくても、少しでもその時間が
続いて欲しいと思うことはよくあります。
得難いからこそ、得たいし、その状態を続けたい、永遠であって欲しいと
願うのですが、実際に永遠を獲得してしまうと、得難いものではなく
なってしまい、幸福を感じることが難しくなります。
人間とは面倒な感情の動物です。
この回答への補足
>
いくら永遠と感じたとしても決して永遠ではないと断言できる。
<いや、本当に「永遠」になったら確実に地獄ですよ前にも書きました手塚治虫の「火の鳥ー第2章」を一度お読みになる事を勧めます。
>
そこに究極の幸福を見出すこと自体無理がある
<あれれ?気付いてくれましたか・・・・・・w
>
現在目の前に見えているその瞬間こそが究極であり、未来にその究極が
塗り替えられることがあったとしても、確定した現在の最大の幸福こそ
究極と言うべき幸福だ。
<おお・・・なんか哲学者っぽいですね。そんな事いったら、そもそもこのトピ自体が意味を成さないですが・・・
まあ、このトピの主旨は、「理想の在り方」ですからね
とりあえず、「確定した現在の最大の幸福こそ」ってのは正しいですよ
>
『いつまでも』が続けば 続くほどそのありがたみが小さくなり、やがてはなんの幸福感も与えなく
なるからだ。永遠という要素を付加することで幸福が小さくなってしまう。
それでは決して究極に近づけない。
<おお!、なんか凄く正しいですよ!
クジヤさんらしくないな(笑)、そう、永遠なんてのは・・・・・・まあ、とても幸福を維持できるわけないモノです。
>
こんな感じかな。
相手の使った理屈で、違う結果を提示する。
自分で書いていて、「なるほど」と思うね。(笑)
<いや、あなた自身が違うと認識し直した事は、とても素晴らしい事ですよ。
人間は自分の意見が正しいんだ!と求めてしまう部分があります。(憶らく、つまらぬ誇心から)その為、自身の考えが正しいか考察する事さえしない(逃げて)様な人が沢山います。例えば宗教信者や軍人などがソレに当たります。
それ自体、他人へ迷惑さえ掛けてしまう事がありますので(例ー正しいと決め付け、しっかり考察してないで殺人をする軍人など)、私は自分の考えを疑わない事自体が罪だと思ってます。ま、そんなこと言っても、なかなか自分の考えを見つめ直すのはムズカシイでしょう。他人の意見が「正しい」場合、それを受け入れ自分の知識(判断)にできる人は成長します。あなたがツマラヌ意地を張るなど意味無いことを持続せず、論理を考察する事を優先したことは非常に有能な事です。もし、クジヤさんが、それが出来ない人だった場合の事を考えてみてください、10年後も「永遠」こそ幸福なんだ!と言ってても不思議はないですから。如何に賢明な判断をしたかは明白です。
>
そんな簡単に究極が定義できれば、哲学者は不要でしょう?
いろんな考察の中で叩いて叩いて残ったものが究極かもしれません。
それでも、何度定義しても時代とともに変わるとも思いますし。
<ええ、人の数だけ「究極の幸福」はあるのでしょう。
しかし、その中で一番正しいのはどれか?と考えれば・・・・・まあ、それは置いといて
「何度定義しても時代とともに変わるとも思いますし。」は「個人によっても変わりますし」を付加して
とても正しい意見ですよ。
>
「永遠を感じること」はひとつのヒントにはなるけど、結論にするには
弱すぎます。時間の中に生きている人間である以上、時間を無視して
状態を語ることは難しいし、永遠でなくても、少しでもその時間が
続いて欲しいと思うことはよくあります。
<おお!なんか素晴らしく矛盾のない文ですね。思わず、ガンジーの言葉を思い出してしまいました(^^汗
「時」があるから永遠を求めてしまうのでしょう。楽しい時間もあれば苦しい時間もある。だから、永遠の幸福を求めてしまう。けど、実際に永遠になってしまったら・・・・ソレは決して幸福ではない、って感じなのでしょう。
「少しでもその時間が 続いて欲しいと思うことはよくあります。」 ええ、まったくその通りです。けど最近はそれさえ願望しない自分がいます、まあ、簡単にいえば続いて欲しい!と思えるほどの幸福を何も得てないだけですがね。
>
得難いからこそ、得たいし、その状態を続けたい、永遠であって欲しいと願うのですが、実際に永遠を獲得してしまうと、得難いものではなくなってしまい、幸福を感じることが難しくなります。 人間とは面倒な感情の動物です。
<まったくもって矛盾がありません。よくぞそこまで持論を捨てて、正しい論理を把握したものです。見事といった感想さえ受けてしまいます
以上。
No.23
- 回答日時:
#20のsowowです。
本題とはそれますが、僕が持つ永遠の命に対する想像が、jjjiiioooさんや手塚さんとはちがってるので、それを書かしてください。
しかもかなり不毛な妄想です、、、。
まず、もし永遠の命を手に入れることができたなら「飽きる」とゆう機能はなくなるか、弱まるようなきがします。
なにしろ永遠ですから、どんなに無駄なことでも、焦ることなもなくゆったりとした心地で続けていられると。
どんな快楽もだんだん効かなくなるのは実感ですが、快楽の種が尽きることはないでしょう?
「焦り」が「飽きる」を生んでる部分もある気がします。
僕の場合は、むしろこの命が有限であるとゆう真実に発狂するでしょう。
イメージとしては、「インタヴューウィズヴァンパイア」のレスタト(だったかな?)の軽さに近いのもを想像します。あれは人間を殺し続けないといけないとゆう設定がありますが、、。
たしかに永遠はいきすぎですが、それに近い時間を生き、すべてに納得がいった時点で自ら命を終わらせれるとしたら、それは最高の瞬間だろうと思います。
いや長々とたわごとを書いて、すいませんでした。
この回答への補足
このスペースを借りて、書き込んでくださった皆様にお礼を申します。
今の自分が思う幸福論ですが、「心に余裕があり、不安がなく少しの幸福感に満たされていれば、それで充分幸福なんだと正直に思います。」そして、それが究極の幸福で在るべきだと思います。
極端な事や、他人に迷惑を掛けてしまう事、善悪の判断が出来なるような事、感謝やありがたみを忘れてしまうような事、そーいう究極的(過度)な幸福は、求めるべき事ではなかったです。
呼吸するだけでも幸福感を感じれる・・・過度の幸福を求めればそんなことは不可能でしょう。実に長期的に幸福感に包まれる事が可能ですね。
過度の幸福を求めれば、感じられる幸福は実に短く、一瞬や その時 のみになってしまう。不思議ですね、向上心から「何かを求めようとしてる事が 小さな幸せを感じられなくしてしまうなんて」
出来れば、最小の幸福感を永続的に感じ続けられれば・・・それがもっとも幸せなのかもしれません
最近忙しくて返信が遅くなってしまいスミマセンでした。
>
どんな快楽もだんだん効かなくなるのは実感ですが、快楽の種が尽きることはないでしょう?
<どんどん飽きていき、どんどんどーでもいいモノに変わっていく、そして感謝やアリガタミは薄れ、快感や幸福感を求める余り「善悪」を気にしなくなる。
それでもすべてに尽きれば、苦しくなり楽になりたくなる。無限の砂漠のような空間から「死」という終始を求めるでしょう。
<
たしかに永遠はいきすぎですが、それに近い時間を生き、すべてに納得がいった時点で自ら命を終わらせれるとしたら、それは最高の瞬間だろうと思います
>神か悪魔に永遠を願い、叶えられちゃったら
話の展開として、そんなに都合良く逃げられるとは思えないんですよね。甘い物には罠があるって感じで・・・
でも、願望をすべて叶うには「あまりにも短い命」だから人は永遠を求めてしまいますが、「どんだけ幸福感を感じた=いい人生を得られるとは限らないと思います」
苦しんだから「当然」にも至上の幸福を感じられ、幸福に恵まれているから「事象やどーでもいい事」にしか幸福を感じられなくなる傾向もあります。
どちらが幸福か?どちらが在るべき姿なのか
私には前者の「当然にも幸福を感じられる」のほうが良いように思えます。
No.21
- 回答日時:
「私はこう思う」を通してしまえば尺度なんて必要ない。
何度も何度も何度も繰り返し書いていますが、まだその点が
伝わっていなかったんですね。
計るものを必要としないと考えるなら、論点は
「”永遠を感じる”が正しい尺度か」ではなく、
「尺度をもって計るべき問題かどうか」です。
No9でも
>究極の幸福を求めるためには、幸福のために必要な事象が何かを突き詰める
>必要を感じました。
と書いています。その原点すらも理解されていなかったということです。
あなたの視点から考えると、ここを責めないと議論になりません。
同じくNo.9で
>幸福の度合いを決めるルールが「永遠を感じること」
>だと言う意見です。
>質問では、幸福の起因材料よりも、そこから派生する
>具体的な事例を求めておられるようですので、
>適切な回答ではなかったかと思います。すいませんでした。
と、私はテーマと違うから一旦引くようにも書いています。
それに対して
>いえいえ、自分はどんな願望でも、かまいません
>と書いたはずです。それが幸福を論理的に思慮考察されて出された考論であっても構いません。(考論は好きですよ)
と、ルールを適用する考え方自体は肯定した上で定規の目盛りを批判しておいて、
>あなたの価値観で決め付ける事じゃないでしょ。失礼ですよ
と、ルールを適用する考え方自体を否定されています。
自分の言いたいことが後からだんだん見えてきたのでしょう。
これは成果だと思っています。
最後に、
>意味ないですよ。だってそれが永遠と遠い所にあったなら、あなたは「究極とは違う」とおっしゃるでしょうから。
やっとわかりましたか(笑) 気付いていないんだろうなとは思っていました。
自信の理由もわかってもらえたと思います。循環論法ですからね。
尺度とか定規は、それで計った結果が正しいとする道具です。
このルールを崩そうと考えるならば、その論法から生まれる矛盾点を突かないと。
「ケーキを山ほど食べる<ケーキを『いつまでも』好きなだけ食べられる」
の例がありましたが、これが必ずしも成立しない主張することが議論です。
価値観を押しつけるのがおかしいと言うなら、不等号の右側はどんなものだって
否定されてしまいます。それではルールの否定にはなりません。
この回答の1行目の問題です。
上に続きます!
この回答への補足
初めに書いておきますが、私はクジヤさんに対して敵意や嫌悪感はないですよ。むしろ、あなたからの返信は個人的に面白いと感じてますので、(あなたにとっても 楽しむ という所があるから返信されていると個人的には思ってます)つまり論考(争?)を楽しむといった感じなのでしょう。
しかし、初期の段階からクジヤさんのいう論理にムリを感じ意見をいいましたが、
あなたへの返信の文に、不愉快に感じる「指摘表現」がよくあったことと思います。しかし、自分は「発言への責任」を誰もが持ってると思いますし、あなたの言った事にオカシイ点があると感じたので、そこを指摘しました。
その場合、自分の書いた事がオカシかったと気付いたなら「認める」などをするべきだと思いますよ。
それがなされないので、自分も返信し続けましたが
「究極の幸福」の自分の想像していない「死角」的な部分を聞けなかったのは残念です。(まあ、書いた通り「幸福の有るべき姿」が分かったので今となっては不要ですがね)
それでは今回も「誹謗的発言」があるかもしれませんが、いつも通り返信したいと思います。
↑の文を、大体読みましたが
もう少し、分かり易くして頂けると有難いです。
とりあえず御自身がいった
>>>
「愛する人と共に」も「子供が産まれる」も、「本能」という指摘は
正しいと思いますが、本能の求めている「永遠」というキーワードを
見つめることで、より具体的で究極の幸福を見出そうとしています。
それが何であるかは皆さんが書かれていることそのものかと思います。
そして、それがいかに究極であるかは「永遠を感じる度合い」で計れると 考えています。
幸福の度合いを決めるルールが「永遠を感じること」
だと言う意見です。
<と書いた事を、お忘れですか?
私が究極の幸福とは?と聞いた所、
あなたが幸福の度合いが、永遠を感じること、で決められる
それがいかに究極であるかは「永遠を感じる度合い」で計れる
と書いたのですよ。
そもそもが勘違いしてますが、ある個人、Aとしましょうか、そのAにとって「究極」かどうかは、そのAの価値観によって決まるのですよ
Aにとって「究極」なら究極なのです。それを他人のあなたが「永遠とは遠いから究極じゃない!」などと勝手にいう時点でオカシイのです。あなたにとって究極ー永遠の度合い であっても他人の「究極の幸福」の尺度として用いようとするのは・・・自分の価値観を正しいと過信しているとしか思えませんね。何故に他人の究極に、持論を押し付ける必要があるのか?
Aの「究極だと感じる幸福の事象」をそれは究極の幸福ではない!という事がそもそもオカシイのです。
Aにとっては紛れもなく「究極」なのですよ、そこんとこ勘違いしてます。
No.20
- 回答日時:
非ぃー現実的な究極的幸福は明らかです。
「永遠の命」これしかない。
命があればなんでもできるー。
現実的な究極的幸福は無しです。
ありえない。
自分の場合は、一つ謎が解けたときはかなり気持ちイイけど、謎はいくらでも在るから究極なんてないです。
てゆーか人間が非現実的な幸福を想像できてる時点で、現実的な幸福はすでにそうとう影が薄いんじゃないかな?
そこは誤魔化そうとしても無駄ですよ。
この回答への補足
書き込みありがとうございます。
「永遠の命」ですか・・・・・自分はゼッタイ!嫌です。
若い体で、病や怪我を心配しなくていい。
そして、その他(肉体的充実度)が恵まれてれば・・・300年くらいは生きたいです。
でも、永遠は嫌です。手塚治虫の「火の鳥」という有名な漫画があります。その第2章「未来偏」をよんで貰えれば分かると思います。(古本屋に350円で売ってます、読むべき本だと思います)
ま、それだけでは無いんですが、単純に言うと「飽きる」でしょう。そしたら刺激を求め、正しさを忘れるカスになってしまうよ。快感中毒者みたいに理性がなくなっていき、正常な人間でいらなくなっちゃう。・・・・それで最終的には神経がやられて個人としていられなくなるんじゃないかな。
すいません、下の方への返信を書き込ませてもらいます。(ぺこり)
SOWOWさんへのお礼&返信は(補足の所に書かせてもらいます)
では下の続きを
議題を初めに戻しますが
「究極の幸福」がどうあるべきかが解かりました。
それは個人の自由ではないのです。価値観が違っても個人の自由であってはならないのです。つまり、万人がこうでなくてはならない!といった類のものでした。理由をすべて説明する気はないですが
「人にとって幸福とは、質素でなくてはならない」なのです。
理由を単記しますと、「人は主観で在ってはならない」からです。解かりますか?・・まあ、解からなくてもこれが正しい答えなのです。それが究極です。
以上。
No.19
- 回答日時:
ちょっと、見るのもイヤになっていたので無視していましたが、
まだ閉じていないので、久々に戻って参りました。
で、長い長い文章をいただいているのに黙りでは悪かろうと言うことで。
>文を読んで理解できない方には、分からないでしょうが
全くその通りです。
私的には「平行線」と結論は出ているので、質問について1つだけ
説明をします。「説明もせずに」を連呼されますし。
たとえば、端的にこの一文を出しましょう。
> あなたにとって一番の幸福が、ケーキを山ほど食べる事だったら?
> それを永遠で説明する事自体、無理が在り当て外れでしょう。
「ケーキを山ほど食べる事」を究極と定義していますが、それが究極かどうか
検証をしていませんね。自分でそう思えばそれが究極として決定されるならば
>最初に「質問の意図と違う」と申告した時点で終わっている話です。
ということです。「本当に究極なのか」という疑問なくして、
「永遠を感じること」という尺度を持ち出す場所がありません。
> <「私にとっては究極だ」と確定していない未来の究極を自分で
> 定義しまうなら、別の価値観の出る幕がないのは当然ですね。
>
> とやけっぱちにおっしゃっていますが
と書いておりますように、「ケーキを山ほど食べる事」を「私にとっては究極だ」
と規定した上で、私の提唱した「永遠を感じること」という尺度を持ってきても
無意味なのは理解できるでしょうか。
「この棒は1メートルだ」と定義しておいて、メジャーをあてたら90センチだった。
間違っているのはメジャーですかね?
具体的に考えてみましょう。
「ケーキを山ほど食べる事」とは、「ケーキを食べる」という行為が
幸福である場合であり、かつ、「山ほど」という量の多さが付加される
ことで、究極に近づいています。これを実際に食べるまでは、永遠に食べ
続けられるという予想が働いて「きっと究極の幸福だろう」と想像できます。
例示の中に永遠が含まれているので、的外れもなにも、ご自分で永遠を
語ってるんですが、お気づきでないところが悲しいところです。
「山ほど」とは「永遠に食べてもなくならないほど」でしょう?
「ケーキを食べること」だけでは究極に近づけません。
しかし、実際には山ほどのケーキでも食べ続ければ満腹になるし、ケーキが
永遠でも身体が許してくれないことも容易に予想できます。だから、この例では
究極と言うには少々弱い、と考えます。
「永遠を感じること」を尺度として考えると、「ケーキを山ほど食べる」は
決して究極と呼べるほどの幸福ではありません。
しかし、井の中の蛙の例のように、これを究極と思いこむことは自由です。
究極の幸福と感じている人を、もっと究極があると教えてあげて、不幸を
感じさせる必要性は感じません。
それは私の考える「永遠を感じる」という尺度と別の世界です。
永遠を感じなくても究極だと言い張るのは自由です。しかし、外から
尺度をもって計るなら、おそらく究極には遠いでしょう。
たとえば、ケーキの例を私流に究極に近づけるならば、
「ケーキを『いつまでも』好きなだけ食べられる」というのがより究極に近いと
思います。これでも身体的な問題が発生しますし、ケーキを食べることが
いつまでも幸福の第一条件であり続けるのは難しいでしょうけど、
永遠を感じる度合いをアップさせることで、より究極に近付いたと思いませんか?
一度の「山ほど」より、未来に向かって「永遠に食べ続けられる」方が幸福では
ないでしょうか。
> なにやら訳分からない奇文。<目立つのが、「仮定の究極」を「決定の究極」とした上で
> 「永遠を感じる」に合致しないという論法。
このように、「永遠を感じる」という価値観をキーにした場合、「ケーキを山ほど食べる」は
「仮定の究極」であって、この価値観で計れば決して究極ではないにも関わらず、それを
究極だと定義(「決定の究極」)して、「永遠を感じる」に合致しないと言われても、
究極から遠ければ合致するはずがないんです。例示のほとんどがこのパターンです。
まず、例示が本当に究極と言えるのか、その検証は必要でしょう。検証をしないなら
>最初に「質問の意図と違う」と申告した時点で終わっている話です。
に舞い戻ってしまいます。
これを書くにも時間がかかっています。
全部を説明しろと言われても、時間がかかるので遠慮したいところです。
「ケーキを山ほど食べる」の例で私の考え方に矛盾を感じたら、また書いて置いてください。
それから、「これは絶対、『永遠を感じる』では説明できないだろう」という例を1つ選んで
くれませんか。永遠を感じるという要素を無視して究極の幸福は語れないと私は考えていますので、
その考えをうち破る論、または例を考えていただければ大歓迎です。
自分の考え方が変えられるなんて、これほど楽しいことはないですよ。
短く書いたつもりだったけど、長いですね。
出きる限り順を追って、わかりやすく書こうと思うと、文章が長くなっていけません。
この回答への補足
さて、まずは最近何かと忙しくて まったく返信できなかったことをお詫びします。
では返信を、・・・・・しかし結論から言うと「究極の幸福」がどう在るべきか、もう答えが解かってしまったので(個人の価値観など関係無くこうあるべき、というモノが)・・・・ちょっと議論に進展はないと思いますよ。
ま、それでも論理を語り合うのは面白いので暇ならまた返信してくれれば返信します。
それでは、まず
>「ケーキを山ほど食べる事」を究極と定義していますが、それが究極かどうか検証をしていませんね
>「本当に究極なのか」という疑問なくして、
「永遠を感じること」という尺度を持ち出す場所がありません。
ただの仮定です。その場合、どう永遠が関係しているのか?という趣旨のはなしです。
>「永遠を感じること」を尺度として考えると、「ケーキを山ほど食べる」は
決して究極と呼べるほどの幸福ではありません。
>しかし、井の中の蛙の例のように、これを究極と思いこむことは自由です。
>永遠を感じなくても究極だと言い張るのは自由です。しかし、外から
尺度をもって計るなら、おそらく究極には遠いでしょう。
あのさ、個人の価値観はそれぞれ人によって違うでしょ、当然、幸福の具体的事象もソレにあたる。あなたの幸福が永遠と連動してなくては駄目のようですが、ただ食欲を充たすだけの単純な行為に至極の幸福を感じる人だって居るわけです。(生命的に純粋な行為を好むのは極自然だし)
<決して究極と呼べるほどの幸福ではありません
あなたの価値観で決め付ける事じゃないでしょ。失礼ですよ、なにより<究極の幸福と感じている人を、もっと究極があると教えてあげて、不幸を 感じさせる必要性は感じません。
自分でいってる事を理解してますか?その言葉通り「あなたの観点→そこに非なるからと言って 究極の幸福と呼べるほどじゃない。などと良く言えますね。
御自身の論理が、正当な尺度などと考えるのは浅はかな事でしょう。 (続きは↓に)
では続きを
<「仮定の究極」であって、この価値観で計れば決して究極ではないにも関わらず、それを
究極だと定義(「決定の究極」)して、「永遠を感じる」に合致しないと言われても、
究極から遠ければ合致するはずがないんです。例示のほとんどがこのパターンです。
え、何をいってるんでしょうか?(笑)
私はあなたの言う「幸福の尺度=永遠を感じるで説明できる」に矛盾を感じたので
「ケーキを山程食べるのが、究極の幸福である人」を話の仮定としてだして、あなたの説明を要求したわけです。
それで<究極から遠ければ合致するはずがないんです。例示のほとんどがこのパターンです。
とおっしゃっていますので、上の論理はあなたの幸福にのみ該当する 尺度 という事が、あなた自身理解できたと思います。価値観は個人によって相違する→幸福感も同意。永遠に連動した事で、幸福の尺度として説明できるなどとは皆目見当違いですよ。それで永遠と連動しなければ究極とは遠いなどと個人の価値観を無視し勝手に決め付ける。 そもそも自身の幸福の具体的事象からその方程式を考えたといってましたね?その時点で、あなたの~なのです。そしてあなた自身、それは一時の法則でしか無い事も理解したほうが良いですよ(幸福は年や流れで変わりますから、あなた自身10年後の究極の幸福が変わってても自然な事でしょう?それを無理に一定にする事など・・・・ちょっと、ねえ、論理が浅はかです。
<永遠を感じるという要素を無視して究極の幸福は語れないと私は考えていますので、
その考えをうち破る論、または例を考えていただければ大歓迎です。
意味ないですよ。だってそれが永遠と遠い所にあったなら、あなたは「究極とは違う」とおっしゃるでしょうから。例?まだ理解されていないので書きますが
例1「散歩をする」・・・これが究極の幸福の人が居たとします。では永遠とどう関連が?他にも例を書きますか?「ビールを飲む」これが究極の幸福の場合は?
永遠と関係無いでしょう、なにより無理にこじつける必要はないし、あなたが連想する理由も、それが自分の究極の幸福からきた方程式と言う時点で、説明の意味が無いです。理由は、あなたじゃない他人なんだから です。
文を書き切れないので、続きは上の方のお礼の所に書かせてもらいます。(上の方スイマセン)
No.18
- 回答日時:
農民芸術概論
農民芸術概論綱要
宮沢賢治
農民芸術概論
序論
……われらはいっしょにこれから何を論ずるか……
農民芸術の興隆
……何故われらの芸術がいま起らねばならないか……
農民芸術の本質
……何がわれらの芸術の心臓をなすものであるか……
農民芸術の分野
……どんな工合にそれが分類され得るか……
農民芸術の諸主義
……それらのなかにどんな主張が可能であるか……
農民芸術の製作
……いかに着手しいかに進んで行ったらいいか……
農民芸術の産者
……われらのなかで芸術家とはどういふことを意味するか……
農民芸術の批評
……正しい評価や鑑賞はまづいかにしてなされるか……
農民芸術の綜合
……おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか……
結論
・われらに要るものは銀河を包む透明な意志巨きな力と熱である
農民芸術概論綱要
序論
……われらはいっしょにこれから何を論ずるか……
おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である
■「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
この言葉は、現在一番問われている問題ですね。
賢治さんの幸福はここにありました。
僕らは、幸せを小さくとらえすぎてはいないだろうか?
正直
<■「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
の文まで、何が何だか
文の意味を把握できませんでした(文系苦手なので)
<賢治さんの幸福はここにありました。
僕らは、幸せを小さくとらえすぎてはいないだろうか?
なるほど、でもなかなかムズイですよね。
そんな世界になれば、それは幸福でしょうし、そんな世界になって欲しいですが・・・・・今の現実見ると当分そうはなりそうにないですね。
回答ありがとう御座いました。
No.17
- 回答日時:
「縛られた巨人」より 熊楠語録02
苦手の代数は二十九点。予備門の採点法は酷烈である。一課目の失点でも落第させると
いうのが校則であった。かくして明治十八年(二八八五)十二月二十九日、熊楠落第。
「阿呆め、ぼくのような天才を落第させるような学校に誰がいてやるもンか」
東京での暮しにも、予備門にも未練はなかった。ないというより、学校生活のあわただしさに熊楠は疲れていたのかもしれない。退学届をだすと熊楠は、吻とした顔つきで下宿に帰ってきて、荷造りをはじめた。
「店仕舞じゃ、店仕舞じゃ」
が、恐いものしらずにみえても熊楠は、そのじつ含羞のひとである。ふらふら病というのも頭痛持ちというのも半分は真実であったにせよ、あとの半分ほどは落第への照れ臭さを隠すための一種の擬態であったのかもしれない。すでに熊楠は、大学予備門で学ぶ学問への情熱を喪っていた。詰め込み主義の鋳型のなかの″秀才教育″のくだらなさに飽きていた。だが、そのくだらなさを父や家族たちに百万遍説いても理解してくれる筈はなかった。
「明治十九年春二月、予、疾を脳策に感ずるをもって東京大学予備門を退き、帰省」
二十五日、父と共に横浜から近江丸に乗った熊楠は、翌二十六日神戸着。二十七日、大阪を経て和歌山に着く。
こうして家に帰ってきた熊楠だが、病人らしく殊勝な顔つきでいたのは二、三日で、それから後は夜を徹して在京中に集めた標本の整理にかかり、昼すぎに起きては気晴しの散歩と称して、御坊山などに登って腐朽樹の幹や岩かげをのぞきこみ粘菌や地衣類の採集に熱中していた。
粘菌というのは動物界と植物界の間に置かれた原始動物の一群で、動物であり植物でもあり、一夜にして動物から植物に変身する変形菌でもある。
「見ちゃれ、いまにぼくはパークレーの六千点を超えちゃる」
粘菌を観察することは、生命の根源を湿ねることであった。一晩のうちにたちまち無から有を生じるどとく膨脹勃興し「その膨脹力は実に嘘のごときものありて、一貫二貫の大石を数尺跳ね転がす」ほどの菌、かと思うと朝、馬糞に生じた無数に群生した菌が、昼にはもう「朝菌晦朔を知らず(荘子)」と影も形も失くなっている菌。その、いのちの神秘が熊楠の心をゆすぶりつづけている。
「ぼくの夢は…」
大学予備門でも帝国大学でもない。地球だ、と熊楠は思う。世界を馳けまわり、世界中の学問をし大自然を観察し、天地のいのちの不思議を知ることであった。
「無尽無死の大宇宙の大宇宙のまだ大宇宙を包蔵する大宇宙を、たとえば顕微鏡一台買うてだに、一生見て楽しむところ尽きず」
これ以上の幸せはないでしょう。
この回答への補足
<「無尽無死の大宇宙の大宇宙のまだ大宇宙を包蔵する大宇宙を、たとえば顕微鏡一台買うてだに、一生見て楽しむところ尽きず」
これ以上の幸せはないでしょう。
いや、この「熊楠さん」て人にとって「顕微鏡一台」が
とても幸福な事だったとします。しかし、「究極の幸福」であったかは解からないのではないでしょうか?
それにこの「熊楠さん」の究極の幸福についてより
mathmaticsさんの「究極の幸福」は?そこが解かりません。この文と関連性があるとか?
No.15
- 回答日時:
究極の幸福、それは「生まれないこと」。
何故ならば人間にとって最善のことは生まれないことなのだから・・・。参考URL:http://www5a.biglobe.ne.jp/~crazyboy/oripan/essa …
この回答への補足
ん?いや、生まれた後にいっても遅いでしょ
それに幸福な人生を送る人だって居るのだから
<人間にとって最善のことが生まれないこと、かどうかは、さて置き
生まれた後の、究極の幸福は何ですか?と聞いてるのです。では
No.14
- 回答日時:
2度めまして。
朝目が覚めた、のバランタインです。
そして今、眠れなくて困っている。。。(^^;)
>ほんとですか?それが究極の幸福ならある意味羨ましいです
でしょうね。私も自分で発言しておきながらそう思います。
いろいろと幸福な時、というのは私にもあるのですが
朝目が覚めなければその幸福は実現しない訳ですから、
そういう意味での究極ですよね。
学生時代に私は、友人を突然の事故で亡くしましたから
その時に、生きることについての考え方が少し変ってしまったのだと
思います。イイ意味で、ですが。
ちなみに、いろいろと幸福な時(のほほんと現実的)
何か目標をたてた時、それが実現できれば幸福だなぁと思います。
たとえば今は副業ですが、好きな絵を描くという仕事で大成できれば
幸せを感じるでしょうね。でもそれって幸福というよりも、
なんだか欲望や野望って感じですね(笑)
またの書き込み、ありがとう御座います。
ええ、イイ意味に、ですね。
美味しい物を食べて、もっと美味しい物を食べる。
そのうち何を食べても美味い、と感じられなくなって
何を食べてもマズイ、としか感じなくなる。
有難味を感じられることは、大事ですね。
そう考えると欲望の自制が出来ない人は不幸な人だな~
欲望の呵責にはまった時、一時的に幸福だと認識するだろうけど 、その後は、幸福不感症(?)で・・・・不幸そのもの・・
<でもそれって幸福というよりも、
なんだか欲望や野望って感じですね(笑)
こうなれば良いなー(求めるもの) → 願望&目標&野望&欲望など
幸福を考えれば、形は違いますが必ずそうなっちゃいますから、別にわるい事じゃないんじゃないかな。
イイ意味で、「目標」になって努力や活力になればGood!
回答ありがとう御座いました。
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