あなたは何にトキメキますか?

救済

この語がむなしく響くのはなぜか

A 回答 (15件中1~10件)

たとえば、わたしはtoolbox33さんと話が通じたことがない。

経験と言葉ってなんでしょうね。
書物の言葉は、耳や対人関係から得た言葉と、また違う言葉ですけれど、
人にふさわしいほうで話すという修行は難しい。
隠喩はどちらの言葉にもありますが、書物の言葉の隠喩を解するコードというのは複雑にできています。
それを解くプロセスが読み手に委ねられていますしね。
一方、ダイジェスト化され、見出し化された言葉は吸収しやすいものですが、耳や対人関係から得た言葉はまさにダイジェストと見出しの過程を踏んだ後の言葉です。
それであっても隠喩から免れてはいませんが、意味と象徴はずっと狭まっています。
人によっては、後者の特質が書物の言葉の特質であると信じて疑わない人もいまして、これはおそらく、隠喩に対する感受性の違いに起因するのだろうと思います。

ところで救済も、コードの共有が必要なんじゃないかな。

semonkkさんでしたっけ、お名前がもう抹消番号になっておられて。
天国に行きたそうなのでまさにご冥福をお祈りするところではあるのかもしれませんが。。。
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> この語がむなしく響くのはなぜか



この文章には動作主体が欠落していて、「いまのわたしたちにとって」もしくは「近代人にとって」という条件が必要かと思います。

小学生のまだ低学年の頃、わたしは子供向けにリライトした『平家物語』がそれはそれは好きで、繰りかえし読んでも飽きなかったものです。ただ、子供心に不思議だったのは、女性登場人物のほとんどが、祈ってばかりいる。滅亡の予感に怯えながら、何をするかといって、ひたすら念仏を唱えている。何度読んでも、もっとしっかりしなきゃダメじゃない、と思ったものでした。

大人になって読み返すと、彼女たちがいったい何に怯えていたのか、ちょっとちがう角度から見えてくるんです。たとえば清盛の臨終も近い頃、妻の時子は地獄から、馬や牛の顔をした獄卒の乗った火車が迎えにくる夢を見る。車には「無」の字を書いた板が打ちつけてあり、何かと尋ねると、「無間(地獄)」と書くところを、まだ書き終えていないのだと言われて、時子は恐怖におののく。

つまり、時子が怯えていたのは、現世での没落ではなく、来世です。質問に即して言えば、救済されないことに怖れおののいていた。だからそのたびに、念仏ばかり唱えていたのです。

時子は、壇ノ浦での最期、孫の安徳を抱いて「浪のしたにも都のさぶらうぞ」と入水する。念仏を唱えることで浄土にいけると信じ、幼い子を抱いて海に飛び込んだ。おそらく、このときの救済に向けての必死さは、いまのわたしたちには想像すらできないレベルであったろうと思います。

「救済」という言葉がむなしく響くどころではない、彼らの思い描く「浄土」は、わたしたちの想像をはるかに超える強度でもって、「そこ」にあったのでしょう。

それに対して、近代最初の文学といわれる『ドン・キホーテ』の最期の場面はどうか。彼は「去年の古巣に今年の鳥はおらぬもの」と言い残して亡くなります。
「救済という言葉がむなしく響く」近代人となって死んだ、と言い換えることができます。

つまり、何ごとかを深く信じることで救済されるという「大きな物語」を近代人は失った、ということができると思います。

わたしたちがその中に生き、わたしたちのものの見方、考え方の方向性を決めている「大きな物語」は、結末に救済を用意していません。だからこそ、「去年の古巣」を見たときのようなむなしさを感じるのでしょう。

> 救済は人間の能力の限界のかなたにあるからユートピアとも言えますが、そのユートピアが人間の能力において存在するとなればそれは空想においてだけですよね。
> この空想というのは下の質問で述べられているように現実からの逃避にすぎないのでしょうか?

たとえば時子が見た夢を、空想、と言ってしまえるのか。
当時の人びとが抱いていた異界のリアリティというのは、空想という言葉で片づけられるものではないでしょう。「成立していることがらの総体」を「世界」と呼ぶとしたら、時子にとって、中世人にとっての「世界」は、異界をも含んでいたように思います。

「救済」という物語の中に生きていないわたしたちにとって、救済を考えると、不可避的にそれは「空想」になってしまうし、そうなると、「現実からの逃避」ということにもなっていきますが、異界を含めた世界を生きていた人びとにとっては、「現実」そのものです。

ですから、ご質問の答えは、近代のわたしたちが「救済」という大きな物語を失ってしまったから、という回答ができるかと思います。
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この回答へのお礼

もはや虚しい響きもなくなって、

現代人の私はユートピアの現実性を空想するばかりです(笑)。

お忙しいところご回答いただき誠にありがとうございました。

お礼日時:2010/07/11 04:48

 No.7&10です。



 評言をいただいたので ひとことです。
 ★ (No.10お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~
 有神論、無神論については以下のように認識しています。
 有神論が一歩合理化されると「理神論」となり、「理神論」がさらに合理化されると「汎神論」となり「汎神論」がさらに合理化されると「無神論」となる。
 しかしその無神論も神の代わりに自然、人間、物質等を世界への超越者として絶対化する限り逆説にすぎない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なるほど。《合理化》というのには 《感覚》を超えるというだけではなく 例のパスカルの《信仰は 神が有るに賭けたほうが 有利だ》というのも 賭けの問題じたいが 合理的思考なのだと思った次第です。

 あと 有神論の場合にも 無神論における《逆説》と同じような事態が現われますよ。
 ★ しかしその無神論も神の代わりに自然、人間、物質等を世界への超越者として絶対化する限り逆説にすぎない。
 ☆ 神の代わりにたとえば 《右のほほを打たれたら 左のほほをも差し向けよ》という文字ないし観念を絶対化してしまう場合です。これは 個人の信仰が 教義にされてしまい集団組織をともなった宗教に埋没してしまった場合に起こりやすいと思います。
 モノも観念も かたちあるものであり 偶像崇拝になるかと考えます。
 蛇足でした。
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質問者さんが「限界の彼方にある」「空想において」とするものは、ベンヤミンにあっては〈星座〉のレトリックに収束しているでしょう。


ベンヤミンを焼き直し、ユートピア論客の巣窟フランクフルト学派の列聖に少々キナ臭く鈍い輝きで座しているアドルノなら、救済は、感覚的主観的な現象を救済するものであるから、つまり仮象の救済であるからむなしいし美である、となりますね。いまごろ名を挙げるにはベタな感がないでもない人物たちですが、ご質問の方向性を思いました。
彼らのモダニズムの議論のうちに、〈歴史〉とか〈神話の超時間性〉というものがあります。
それは、たえず正当化をかさねる表面的構造をしており、作話の有機的結合を可能にし、またそれを生き生きと受領するような社会的主体性 (社会コードの抑圧、抑制を受けている) によって、全体の体制化を為しています。
しかしモダニズムにおいて、このような〈歴史〉は破砕され、自明性を失い、経験的統一や連続性という仮象を否定されるのだとアドルノは考えます。そのかわり現れるとするのは、潜在する被抑圧構造への、現象還元的な一回性を捉える知覚です。
見取り図としては、ベンヤミンにせよアドルノにせよ、こうした〈歴史〉と世界である有機的な全体性の仮象の救済が、〈星座〉に集約される現象還元的な一回性の体験にほかならないのだと思いますが、それ---仮象の救済が、
> 現実からの逃避
なのかどうかといえば、
現実が生の内実であるためには必然の手続きであり、モダニズム以降の人間の踏み損ねている日常の形式の醜悪な実態ゆえに、ときには逃避のように---空想の虚しい局面のように映るということでしょう。
このことは宗教にかかわらず世界が十全であり満ち足りているという経験的な統合の問題であり、時間をどのようにわがものとして自然にそれに寄り添うことが出来るかという身近な方法論にもつながっています。
時間的連続性を破壊する内的衝動のたゆまざる運動は、経験の内への没入を通してライプニッツいうところのモナド論的に〈彼方にあるもの〉を表象化しようともくろみます。成像(イメージ)とはそのようなもくろみにおいて、目標にあることそのものを経過し、経過それ自体であることを否定し、否定をとおして否定されたものを含みながら新たな目標にあることを本質としており、経験的主体と調和しえない彼方であると言えます。
ここに絶対性があるかのような幻覚をアドルノは仮象特性のひとつに数えていますが、彼は、仮象が精神的営為に材料化されて形態をもつかぎりにおいて内容というものを得ており、仮象は内容から救済(解放といってもよいでしょう)されなければならないのだけれどまさにその内容によって自己救済されるしかないというような難題について述べていたと思います。
救済という問題の虚しさは多面的です。たとえば形骸化した信仰は、膠着した内容となりプロパガンダであり絶対であり正当という名の作話捏造であり支配力であるゆえに、その内容に依る限りはその内容からは救済されないような形式において虚しい救済を描き出しています。
また一方で、ただ経験の内への深い洞察によって、調和しえない彼方を一回的な手続きで星座化する労力によって、抑圧からの解放そのものを構造化するという仮象のありようも、それ自体では虚しい断片と成り果てるでしょう。それが全体視に耐えて生の歴史(通時性のあるもの)になるとすれば、たゆまぬ堆積によるはずです。
現実そのものが、いずれかの様相および内容でわたしたちの認識にかかっていて、どちらに偏るのでもないのが一般的だと思います。かかる現実とはすでに「空想」「逃避」の産物としてしか経験しうる現実ではないという掌握を、「空想」「逃避」という概念を無効にして考えることから、生における救済もまた「空想」「逃避」ではない問題として扱えるものになります。
erlosenの意向にお応えして以上のようなことを思いました。さきほど見ていたワールドカップの結果は反映していないつもりですが。。。ご参考になれば。

この回答への補足

お忙しいところご回答いただき誠にありがとうございます。

最近何だか死んで天国へ行くことが「空想」ではなく「理想」になってきたような気がするんですが、この場合一つの次元の死において新しい次元への飛躍という意味で「革命」といえるんでしょうか。
いや、たんなる妄想でした。
貴重なご意見ありがとうございました。

補足日時:2010/07/01 02:54
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#8です。



>救済はエルレーゼン(解放)という意味
:前回の「救済の本質は自己救済に回帰する」を、これに置き換えれば、「他者を解放する者は自らを解放する者である」という意味になります。
もっと正確に言うと、
「他者を解放せんとする者は自らを解放せんとする者である」
とでもなりましょうか。

これはあくまで、人間による人間の解放についての見解を述べたものなので、「>救済は人間の能力の限界のかなたにあるからユートピア」という前提自体が、つまり、救済、解放に関する解釈(定義)自体に擦れ違いがあったようです。

それはさておき、救済というユートピアを希求するのは現実逃避か、というのがご質問の趣旨と解釈します。
「下の質問」というのが面倒なのでよく目を通していないのですが、宗教的救済という意味であれば、宗教そのものが、そもそも現実逃避以外のなにものでもない、というのが私のスタンスです。
「>人間の能力の限界のかなた」にある何かが存在すると信じ(信仰し)、それに「>人間の能力の限界のかなたにある」ユートピアを求めるという構図は現実逃避そのものと言わざるをえないように思われます。

宗教には全く疎い者ですが、仮に救済というものがあるとするならば、自らが自らを救済する、という形しかないのではないでしょうか。
要点だけ述べれば、方法論として、他者を救うことによって、実は自らが救済されていたことに気づく、
というパターンが多いでしょう。

つまり、私見では、他者を救わんとする宗教者ほど自己の救済を希求している者はいないはずです。
重要なのは、その自己救済において、どういった状態を救済と認識しているのか、ということであって、そこに普遍性があれば、自己救済→他者救済という逆の構図も即座に成立するわけです。
こういった(心理的)メカニズムを否定するわけでも、またその必要性もありませんが、ここに救済者としての神を設定しようとするのが、宗教の誤りと言えるのでしょう。
無論、それは、不可知を不可知として放置したままでは救済につながらない、と感じてしまう人間というものの性に、元はと言えば端を発しているようでもあります。

このようにご質問の本旨を「神の救済」と捉えた場合、「>この語がむなしく響く」と感じるのであれば、それは、本来、不可知以外のなにものでもないもの(こと)を不可知ではない、と無理やり同意せざるを得ない構図が背後に潜んでいることに気づくからなのかもしれません。
あまりご参考にはならないと思いますが、このような感想です。
  
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 No.7です。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 エルレーゼン(解放)とかサルベーレ(いやす)という意味で・・・の救済というのはNO5さんが仰るように、危険と脅威のただなかにあっても揺るがされることのない単なる安全さ以上の積極的な健全さ、言いかえるとその生の内側から変形された新しい生が救われた者によってわがものとされることがその名に値するだろうと思うんですよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 少し表現にこだわるとしますと わたしにはこう思われます。すなわち
 ○ 生の内側に自然本性としてあった力が 泉の湧き出るごとく息づくようになり その水が尽きない。そういう《わたしがわたしである》状態また動態として――その意味で《旧い人を脱ぎ あたらしい人を着て》――生きるようになる。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 救済は人間の能力の限界のかなたにあるからユートピアとも言えますが、そのユートピアが人間の能力において存在するとなればそれは空想においてだけですよね。
 この空想というのは下の質問で述べられているように現実からの逃避にすぎないのでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まづ【Q:宗教の本質】で言う《現実からの逃避》というのは まったくそのまま明らかなことです。なにしろ 個人の信仰(非思考)を集団における教義としてのせいぜいが信念(経験思考)として抱いているものだからです。個人においてさえ そのようなことは起こります。
 ☆☆ (回答No.7) ~~~~~~~~~~~
 いちばんの原因は 《すくい》にしろ何にしろ 信仰――非思考――のことがらを 観念として捉えているところにあります。
 非思考つまり 経験思考に非ずと言っているのに これを 思考のもんだいとして扱っている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ したがって問題は
 ★ 救済は人間の能力の限界のかなたにあるからユートピアとも言えますが
 ☆ というときの《ユートピア》の中身ということになります。非思考とは どういう現実か? です。
 ふたたびみたび確認しますが
 ★ そのユートピアが人間の能力において存在するとなればそれは空想においてだけですよね。
 ☆ つまりこの《人間の能力において》というのが 《非思考であるものを 思考において観念としそれを或る種の信念とする》かたちです。それだとすれば あくまで《想像の産物》として――その観念も仮りのすがたつまり偶像ですから――偶像崇拝ということになります。つまり まさしく《空想》です。

 《人間の能力の限界のかなたにある(あるいはまた この経験世界を超えたところとしての)ユートピア》の場合は 人間にとって分かるか分からないかが分からない領域ですから 思考を超えているわけで ひとはただこれを想定しているだけのことです。
 ただし 人間の存在にかんする条件として じつは否応なくそういう想定がすでに自然本性としてそなわっていると言えるのではないでしょうか? 《絶対》や《無限》のことです。
 このようなユートピアというのは われわれの心に或る種の仕方で窓がそなわっているといった現実ではないかと考えます。その心の窓において ひとは心の明けを持ち 心の伸びを帯びる。これが 泉であると思います。
 そのあと この泉を 神のしわざであると捉えるか(受け取るか) それとも 無神のしわざであると判断するか それは人の――良心・信教の――自由だとされています。

 あと この無神論にしろ有神論にしろいづれにしても心の窓に泉の水の湧き出るのを見守るようになるには じっさいもんだいとして《現実からの逃避》というかたちのきっかけもありますよ。
 赤ん坊でも多少ともこの世の空気を吸って来ているので そのきびしい現実に場違い(あるいは間の違い)を覚えます。ですから 《わたしがわたしである》ようになる心の窓をそれとして見止めることができるのは 或る種の自己防衛としての現実逃避――要するに 内省――のときを持つことがきっかけになると思います。

この回答への補足

お忙しいところご回答いただき誠にありがとうございます。

本当に素晴らしいご意見だと思いました。
何も反論はないです。
真のユートピアとはまさに空想を超えた世界だと思います。

ご回答とは直接関係ありませんが有神論、無神論については以下のように認識しています。
有神論が一歩合理化されると「理神論」となり、「理神論」がさらに合理化されると「汎神論」となり「汎神論」がさらに合理化されると「無神論」となる。
しかしその無神論も神の代わりに自然、人間、物質等を世界への超越者として絶対化する限り逆説にすぎない。

大変貴重なご意見ありがとうございました。

補足日時:2010/07/01 03:20
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 他人を救済しようとする、救われない人々を思い起こすから。

この回答への補足

「この信仰をすれば私の肌は白くなりますか?」
某宗教団体の方が布教活動の折に黒人女性にそう問われて言葉に窮したそうです。

補足日時:2010/06/27 22:39
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この回答へのお礼

この某宗教団体に社会変革と文化革命と年限変革を同時触発的に起こす力があるだろうか。

お礼日時:2010/06/28 00:57

あらゆる救済の本質は自己救済に回帰するように思いますが、通常、他者の救済という意味だけに捉えてしまいがちだから、という気もしますね。

この回答への補足

実はこの下の質問に触発されて質問させていただきました。
質問タイトルの救済はエルレーゼン(解放)という意味にとっていただければありがたいです。

補足日時:2010/06/27 22:46
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この回答へのお礼

それで、ズバリお聞きしたいのですが。

救済は人間の能力の限界のかなたにあるからユートピアとも言えますが、そのユートピアが人間の能力において存在するとなればそれは空想においてだけですよね。
この空想というのは下の質問で述べられているように現実からの逃避にすぎないのでしょうか?

お礼日時:2010/06/28 00:40

 こんにちは。



 信仰の問題と思って 回答を寄せます。
 ★ 救済 / この語がむなしく響くのはなぜか
 ☆ No.1のご回答と同じかどうか 微妙なのですが いくつか考えられると思います。
 いちばんの原因は 《すくい》にしろ何にしろ 信仰――非思考――のことがらを 観念として捉えているところにあります。
 非思考つまり 経験思考に非ずと言っているのに これを 思考のもんだいとして扱っている。救済が成り立つとは どういうことか? 則天去私なりと。煩悩を離れわたくしを去るならば さとりを得た状態であり救われているのだと。
 そんな観念は どうでもよいことです。非思考なのですから。

 いまひとつに われわれ人間は 生きているということにそのむなしく響く要因があります。いかに掬われても たも(網)で掬われている状態にあるのであって その境地は 動態です。生きているというものです。
 生きているのでなければ あほらしいとも言えますし 生きているのであるゆえ やがて朽ちるべき身にあるからには そのこととの関連では むなしいでしょう。どうなるか分からないからです。あるいは どうなるか分からず分からなくても すでに身はおろか心もすっかり掬われているというのが 救済の中身であり 動態としての境地です。

 次には この掬われている境地にある人は まだそうでない人を 何らかのかたちで引き寄せるもののようです。ブラック・ホールではなく そうではなく ホワイト・ホールだと言いたいのですが 要するに あからさまに言って 境地として人びとのあいだには 格差があります。人生は動態であり過程ですから そのように時間的にして相対的な格差が見られます。
 あとの者が先になり 先の者があとになるとも言われますが ともかく境地に差が出て来ています。つまづきの石になってつまづく(つまり 去って行く)人は別として あとの者は その掬われている人に近づきます。つまりは そのごみ処理について 助言をくれというわけです。
 近づく人びとの中には その意識の排泄を盛んにしてゴミを出す場合もあります。掬われている先の者は このごみ処理を手伝ってやるわけですが とりわけ熱を挙げてそうするわけでもありません。そうして いづれにしても 効を奏さない事態もいくらでもあります。
 つまりは 意識の排泄を昔と同じように繰り返しているという事態を知ると 《むなしく》なるでしょう。生身の人間だからだと思います。

 そのほかでは どうでしょうねぇ。

この回答への補足

この救済というのはエルレーゼン(解放)とかサルベーレ(いやす)という意味で使わせていただきましたが、この下の質問を拝見するとこの救済という言葉が虚しく響きまして、それが質問させていただいた理由です。
その意味での救済というのはNO5さんが仰るように、危険と脅威のただなかにあっても揺るがされることのない単なる安全さ以上の積極的な健全さ、言いかえるとその生の内側から変形された新しい生が救われた者によってわがものとされることがその名に値するだろうと思うんですよ。

補足日時:2010/06/27 23:53
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この回答へのお礼

それで、ズバリお聞きしたいのですが。

救済は人間の能力の限界のかなたにあるからユートピアとも言えますが、そのユートピアが人間の能力において存在するとなればそれは空想においてだけですよね。
この空想というのは下の質問で述べられているように現実からの逃避にすぎないのでしょうか?

お礼日時:2010/06/28 00:38

アスワンダム、アスワンダムを作ったことで実感できなくなったってことじゃないかと。


でも、それエジプトの人が嘆くべき。


えっと、古代エジプトでは一年の始まりは今でいけば7月頃だったらしい。
(古代と今の暦は違うのですが。)

ほんで、明け方に東の空だったかな?詳細は忘れましたが、とにかくシリウスがある特定の場所に明け方出現すると、そこから1年が始まるとしていたらしい。
このシリウスがもしかして後に聖書では洗礼者ヨハネになったのかもしれない。
今映像で確認しましたけど、太陽が南十字星と重なる前に、3つの星とシリウスが東の空に上りますので、やはり大洪水の前兆を知らせるシリウスが、イエス物語ではヨハネって名前になったんじゃないかと。



前兆があるとやがて大洪水が起こり、ナイル川が大氾濫し、農地のほとんどが水浸しになり、数ヶ月続いたあと水が引けて、ナイル川の肥えた土に覆われた土地になり、食べ物が生い茂ることになっていたのだそうです。
種まくだけで、後は大洪水に後水がひけてほったらかしておくと作物が実り、それを収穫していたらしい。
これも一つの女神の救済と考えられるかも。


で、大洪水になった間、農民はやることないし、食べるのに困っていたので、行政はピラミッド建築をして、失業対策をしていたらしい。
これも一つの救済措置と考えられるかも。


ところが大洪水が起こらないようにダムを作っちゃったんですね。
ナイル側の肥えた土は農地を覆わなくなり、それまで放置しているだけで豊作だったのに、洪水が無くなり手入れをしないと作物が取れなくなり、土地も痩せていったわけです。

ダムの建築は女神の救済を阻む結果になり、、、、
自然を人間がコントロールした結果、エジプトでは干ばつは無くなり水の放出量を調整して計画的に作物ができるようになったのですが、、、
日本でも伐採のしすぎで、地滑りを木が防いでいたが、木を切ってしまったことで、山に降った雨は地下にしみこまなくなり、地すべりで建物は倒壊するわ・・・

こっちやると、あっちが立たずでプラマイ0ってことじゃないかと。

この回答への補足

>こっちやると、あっちが立たずでプラマイ0ってことじゃないかと。

確かに虚しいですね。

補足日時:2010/06/28 00:05
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この回答へのお礼

実は今日オートレースで負けが込んで非常に虚しいです。
勝利の女神から見放されたようで。

お礼日時:2010/06/28 02:47

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