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大東亜戦争期における、大東亜共栄圏や八紘一宇という理念の裏には、日本がアジア諸国、特に満州、中国北部、そしてあわよくば中国全土を支配下に入れ、それを以てして同盟国のドイツとともに、東は日本、西はドイツが手に入れ、日本としてはその東洋諸国に無限に続く天皇の系譜を知らしめ、全世界にも天皇の権威を示す、という意図があると立花隆氏が文芸春秋かなにかで書いていたのを記憶しているのですが、当時の日本、といってもおそらく陸軍でしょうが、は本当にそんなことを考えていたのでしょうか?

A 回答 (5件)

そんな大げさなことは考えていなかったでしょう。



帝国陸軍は、満州を日本の生命線と考え、満州事変を起こし、満州国を成立させた。その時の理念が、王道楽土、五族協和。石原莞爾は、この理想を追求すべき、と考えていた。彼に共鳴する軍人は多かったと思う。

日本の勢力拡大で、既得権益を侵されるのを恐れた欧米列強は、蒋介石を操り、執拗に挑発を繰り返した。国際連盟でも日本はいじめられる。帝国陸軍は、強力な一撃を加えれば、蒋介石など直ぐに降参するだろうと、シナ事変に突入したが、欧米の支援を受ける蒋介石はしぶとかった。泥沼の日中戦争になってしまい戦死傷者も膨大な数字となる。帝国陸軍は引くに引けなくなった。

こんなとき、ドイツがオランダ、フランスを占領し、イギリスを攻撃し始めた。ドイツの必勝を信じた日本は三国同盟を結び、本国が親独政権となった仏印北部に進駐する。翌年には蘭印の資源確保を狙い、南部仏印に進駐する。もう米英との戦争は避けられなくなる。この時の陸軍大臣が東条英機。

北部仏印進駐に先立ち、近衛内閣は、大東亜共栄圏、八紘一宇のスローガンを打ち出した。秀才軍人官僚である東條大臣は、こんなスローガンは一般国民向けの宣伝文句にすぎないと割切り、実務的に国益拡大、資源確保、日米決戦を怜悧に計算していたと思われる。

しかし、この理想追求を心から信じた軍人兵士は、多数いたと思う。彼らが、戦後にインドネシアやベトナムの独立戦争に参加したのだと思う。

欧米列強が好き勝手放題の当時のアジアにおいて、王道楽土、五族協和、大東亜共栄圏、八紘一宇の理念は、当時、アジアの先進民族であるとの自負を持った日本人にとっては、決して好戦的ではなく、平和なアジアを願う正義の理念であったと思う。

実務的官僚たちも、この理念に沿って、日本の国益を最大化できると考えていた。つまり、アジアにおける欧米列強の覇道的植民地主義を、日本の王道的植民地主義で駆逐すべき、と考えていた。第二次大戦前は、帝国主義・植民地主義の時代であり、列強間の戦争は、植民地争奪戦であり、第二次大戦後に定義される侵略戦争ではない。

日中戦争も、その本質は、蒋介石を傀儡とする、主にアメリカと、日本の間で戦われた、シナおよび満州の権益をめぐる争奪戦である。
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中には本気でドイツと世界を二分すると考えていた人もいたかも知れませんが、極一部だと思います


大東亜共栄圏や八紘一宇という概念自体が後付けの建前です。本音は植民地の確保、エネルギー問題の解決、ですよ。天皇もそれに利用されたのです
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江戸末期に中国に足場を築いて兵力を盾にした欧米に開国を迫られ植民地化されました


この経験から日本周辺のアジア地域は日本が支配しないと日本の平和はあり得ないと考えたことが大東亜共栄圏構想の基礎にあるのです

天皇云々はそういう考えを国民に植え付けるための口実だと思います
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それは恐らく「田中上奏文」や「東方会議」を論拠にしていると思われます。


(これらの詳細はWikiなどで調べてください。)

ですが、東京裁判においても検察側がこれらを証拠に日本政府が中国大陸や東南アジアへの侵略意図を持っていたことを立証し糾弾ようと試みましたが、結局、田中上奏文は偽書であることが判明し、また東方会議もそういった主旨の会議ではなかったことが明らかとなっています。結果として、日本政府には侵略意図は無く、日中戦争は偶発的に発生したということが逆に立証される結果となっております。
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少なくとも石原莞爾は、最終的に日本とアメリカが東洋的価値観と西洋的価値観で雌雄を決する、そのためには、満州を抑えないとならないとしています。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E7%B5%82% …
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