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文字と"デッサンの線"に近似はみられますか


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6052445.html
文字と、デッサンの線はどうちがいますか

こちらに継ぐ問いになります
よろしくお願い致します

A 回答 (13件中1~10件)

デッサンの描画はそのとき創出された言葉のようなものであり、普段書く文字は記憶によって繰り返し使用される言葉です。

自ら生み出したものであるかどうかが違う点であると思います。
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訂正



× 自分で質問しておいて自分でその内容を理解していないということよくあることです。

○ 自分で質問しておいて自分でその内容を理解していないということは、よくあることです。


それから、No.3にも書きましたが、「デッサンの線と単なる線は同じ」ということで良いでしょうか。

 解らなかったら素直に解らない、と言ってもらえないとアドバイスのしようもありません。
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>「文字」とは何を指して言っている   は、"文字が包含する何か、文字が包含される何か"を前提としてますよね。



 いえ、文字とは何か、という意味です。文字の本質は何か、と言っても良いかもしれません。

>文字=0とします。このままでは文字は現せませんよね。

 文字=0とするなら、0が文字ですね。

 記号論理学か何かですか?

 自分で質問しておいて自分でその内容を理解していないということよくあることです。

 文字とは何か、ということがわかっていないようですね。
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(No.9です。

こちらは、その後編になります。)

【まとめ】
生まれて初めて描いたデッサンの線は、幼すぎて文字に似て、訓練を積んで研ぎ澄まされた感性が求める線もまた、デザイン化されることで文字に似ることがある。―― そう言うことだと思います。
もともとのデッサンの意味は、あくまでも目に映る像をリアルに模写すること、誰の目から見ても、それがそのままに存在しているように描き表すことであって、デザインと目的は異なると思います。

「デッサン」における線の目的は、前回も述べましたが、
「線を面として捉える訓練を積み、今、目の前に見える立体の向こう側に回り込む線を描けるようになること」です。
そして、私が考える「文字」の線とは、
「そこに見える、現象の更に向こうを心の中に映し、それを相手に伝える目的を持つ」ということです。
デッサンは、立体の向こう側を描く線、質感を捉える線であり、文字の線とは心の内を記号化することで伝える線です。
文字には、発信する側・受ける側に予め共通の約束事や感性があって、初めて本領を発揮できるけれど、それがなければデザイン、冷めた目で見るとただの記号です。
しかし、デッサンに言葉を載せようとすると、その絵はデザイン化されて記号化され、文字の線に似る(バッラの『街灯』の光の表現がV字であったように)こともあるのだということです。

文字とデッサンを繋ぐ線とは、デザイン、つまり「意匠」ということです。
現象よりも心を尊重して描かれた線は、「文字に似る」ということだと思います。
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No.5,6です。

お礼をありがとうございました。
御返信の内容は私には難しいですが、前回書き漏らしたこともあるので、自身に力不足を感じていますが再チャレンジしました。
この先、補足していただいても返信は出来ないかも知れませんが、そのときはご容赦下さい。

未来派ですか。
私は印象派が好きです(別に誰にも聞かれていないけれど^^)。
私は美術を囓ってはいたものの美術史には疎く、未来派をざっと勉強し直して(というか眺めて)の投稿になります。
【ヴァーチャル絵画館/イタリア 未来派】 http://art.pro.tok2.com/Twenty/futurism.htm
他にも数件検索して、ジャコモ・バッラ の絵画『争いの内側』『綱でひかれた犬のダイナミズム』『街灯』、ウンベルト・ボッチョーニ の彫刻『空間における単一連続体』などを大きめの映像で観ました。
本物の作品を間近に、しかも、その流派の作品を たくさん観た上でないと論じてはいけないんだと思いますが、なかでもバッラの『綱でひかれた犬のダイナミズム』と『街灯』が特に印象深く、ビデオテープの早回しの映像みたいで、スピード感があります。

先ず、バッラの『街灯』ですが、まるで花火みたい。
それこそ、線香花火を束にして一度に火を付けたら、こんな風に見えるだろうなという感じ。網膜に焼き付いた残像を魂の感じるままにキャンバス?(画材までは調べていないので断定は出来ないけれど、油彩かな?)に叩きつけた、そんな印象です。
面白いのが、「光の一つ一つが粒子のように、原色を多用してV字型に矢が降り注ぐように」描かれていること。
そして、『綱でひかれた犬のダイナミズム』は、犬を連れている婦人と犬の足、尻尾、綱(チェーンに見えますが)が幾重にも重なり、歩くと言うよりも、小股でシャカシャカと走っている様に見えます。
それこそ、チェーンが擦れる音、足音、息遣いが聞こえて来る感じです。
「アニメーションを一枚の絵に納めようとしたらこうなる」そういった印象を受けます。バッラが現代に生まれていたらアニメーターになっていたかもしれません。

また、ボッチョーニとジーノ・セヴェリーニ の絵画はコラージュのよう。人物も背景も幾何学的な模様のように画面に展開されています。
それは、まさに連続体。万華鏡を覗いた映像のようです。
ボッチョーニ の彫刻『空間における単一連続体』、これもよくぞ挑戦したなと思います。彫刻で残像の表現は難しい。でも、人体が力学的に向かって進んでいく方向、動きそのものが力強く表現されています。

――ここまでで感じたことは、「デッサンも最後はデザイン化されて記号になるのでは」ということです。
デッサン力が備わっていないと、対象をよく観察し本質を掴めないから、それらをデザイン化しても上手く表現することは出来ないけれど、文字のその起源を遠く「象形文字」に辿るなら、それは自然――「万物を模写したもの」ですよね(No.1さんの御回答と同じようになってしまいましたが、デッサンと文字の線の違いについての私見は後述します)。
その様に思いを巡らせると、文字が「絵から記号に変わって行った」様に、近代絵画の世界にも同じような動きはあったと言えると思います。
けれども、それは、象形文字に代表されるように昔からあったことだと思います。
日本に目を移すならば、銅鐸に描かれた絵は、弥生時代の生活が幾何学的な線で描かれていて、あれも象形文字のように見えます。
実際に、「大橋銅鐸」に描かれている『鹿を射る人』や『杵で臼を突く人』、それらは文字だと解釈され、研究されたりしたそうです。

(後編、【まとめ】に続きます。)
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 皆さんの精緻で情感的・詩的な回答に野暮な質問をして申し訳ないのですが、



 まだ質問を理解していないのでしょうか。

 「文字」とは何を指して言っているのか解れば答えようがあるかもしれません。

この回答への補足

お礼、下書きでは出来るだけ見やすくと工夫して書いたのですが、投稿してみると、

その工夫のせいで凄く見づらいものになってしまってるようです。申し訳ありません。

補足日時:2010/07/24 08:02
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この回答へのお礼

ありがとうございます。


「文字」とは何を指して言っている   は、"文字が包含する何か、文字が包含される何か"を前提としてますよね。

そこから離れて、「文字」とは、を考えます。

文字=0とします。このままでは文字は現せませんよね。文字=0で、じゃ 0を問えば良いではないか、では

"文字が包含する何か、文字が包含される何か"を前提、に戻ってしまいます。

文字=0 文字を現すと、文字=0=0.1や 文字=0=ー0.1 或は、文字=0=ー0.2や 文字=0=ー0.4

続けます。文字=0=0.3や 文字=0=0,7、文字=0=ー0.8でもいいし、文字=0=2.4 でも。

そうすると、(=を出来る限り省きます) 文字0+文字0=文字0.3 や 文字0+文字0=ー文字0.6、

文字0+文字0=ー文字1.3 ということができるということになります。

(文字も省きます) 0+0=0.1 0+0=2.9 0+0=ー7.6 0+0=5.5

         0+0=0  ということもできる、「文字」だとわかります。

  0+0=0の場合は、

  "文字=0で、じゃ 0を問えば良いではないか、では

  "文字が包含する何か、文字が包含される何か"を前提、に戻ってしまいます"

  とゴッチャにしたりゴッチャにされないようにしないと。

  (わざと或はわざとじゃなくゴッチャ、というのも勿論あると思います。)





以上のような上に、話が展開してると思います。



引き続き宜しくお願いいたします。

お礼日時:2010/07/24 07:50

こんにちは。



遥か古の頃より、文字が「言葉」と結びついてきたのなら、
デッサンは「紋様」「模様」との関わりが深かったと言えましょう。
文字や言葉では湛えきれない零れた多くのものを、デッサンは
無意識や非常識に、また時に歪像で映し出してきた経緯がみとめられます。

マラルメの『骰子一擲』の世界とは何か、あるいは
『那智滝図』の線描、あるいは『鹿下絵和歌巻』のコラボなど色々想うに、
「たかが」文字なのかデッサンなのかどうか、また、そうだとするのなら、
その試み、そしてその根源とは一体何だったのか、等と問いたくなる気も致します。

時代性や自然環境の推移などの要因によって、
両者の間で近似が見受けられるかもしれないというのは過言でしょうか。
もしくは、デジタルな文字と3DCGの線と、アナログのそれらとでは、
いかなる差異があるのでしょうね。

夏休みに入るため、酷い尻切れとんぼ状態になってしまいましたね、すみません。
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この回答へのお礼

尻切れとんぼ...感じなかったですよ。
テレポートするキーワードと乱れが快いです。ありがとうございました。






引き続きよろしくお願い致します。

お礼日時:2010/07/24 21:10

(No.5です。

こちらは後編になります。)

デッサンで大切な表現とは、「空間」 「質感」 「光と影」です。
一口に光と言っても、「自然光」 「照明光」 とあります。
これも、デッサンの世界では、描き分けねばなりません。
そのように、書道家(またはその道を目指す人)が“描く”「書」の世界もまた、デッサンに相通じるものがあると思います。
書の世界で墨の色が大切なように、デッサンにおいても「影」の扱いは大切です。一番暗い色調を、ここだと定めたら、それはそれ以上に暗くしてはなりません。これを動かしてどんどん暗くしてしまうと、白い石膏像がグレーになってしまいます。
また、暗いのと黒は同じではなく、暗闇でない限り影の中にも必ず反射光はあるので、影を単純に黒色と捉えてはなりません。
影を単純に色だと捉えてしまうと、質感が殺されてしまい、白い石膏像を描いていても煤けたような、汚れのような表現、「可笑しな線が何の脈絡もなく像に乗っかった様な」表現になってしまうのです。

参考リンクのウィキペディアの画像のデッサンは、線を効果的に生かしていますが、デッサンの世界では、線も「面」として意識されます。
線を「面」として意識できないと、効果的な線の強弱、省略が出来ないのです。線を唯の線として、面の意識無く描くとデッサンはデッサンではなく、調和と空間美を失います。そして、失敗したモノクロのCGの様になってしまいます。
今、目の前に見える立体の向こう側に回り込む線が描ける人は、「線を面として捉える訓練を積んだ人」です。
「書」の世界にもそれに通じるものがあると思います。
それは、「そこに見える、現れている形の更に向こう」を心の中に映し、それを作品として、「鑑賞している側の人間にも伝える訓練を積んだ線」です。

デッサンにおいては、描く作業は、「紙の中に手を入れて塑像を作り上げる作業」と捉えていただくと解りやすいと思います。
木炭デッサンを習った方なら解ると思いますが、木炭を木炭紙の上に重ね 、ガーゼで擦り、親指で木炭を払いながら反射光を表現したり、余分な木炭をガーゼで叩いて払ったり、パンで消す作業は、描くというよりも、粘土をこねたり、彫刻をする作業に良く似ています。
ここが、デッサンが唯の線の表現ではなく、対象物を面(立体)として捉える訓練である由縁です。
ですから、彫刻家を志す人は、必ずデッサン力をものにしなければならないというのは頷けます。
デッサンは、手の平も指も使って描きますので、目の前の対象物に触れているかのような作業をします。ですから、線を残すのであれば、それはカッターで切り取ったようなものではなく、立体を表す効果でなくてはなりません。

「書」における墨の飛び散り、滲みや擦れ、筆の勢い、余白が生み出す空間の美しさ、それらにもデッサンに通じる物があります。
余白が生み出す形を生かした輪郭を「線」と捉えるのであれば、二つの線は、意識の向け方としては似ていると思います。
「書」も「描」も対象に向かって働かせる心の動き方は似ていますが、「書」でいう線とは、「勢いと溜め」が勝負で、デッサンにおける線とは、 「連続性を保つこと、それを感じさせること」です。
何故なら立体とは、たどれるものであって、途切れるものではないからです。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。

これが返信にあたるか確かではないのですが、述べさせて頂きたいと存じます。




まず、未来派、光をかいくぐる速さを求め、が凄い速さで頭をよぎり

"デッサンの線"が、光を切削 (なんか皮肉のよう)

しかしそんなの呆気なく、露になる面と影にまとわりつかれ

"起した"は、"見える”に回収され光のパペットを露にする



技術的なことでいえば、時間軸とどう対峙するのか興味をそそられて居ります。






引き続きよろしくお願い致します。

お礼日時:2010/07/23 18:20

――哲学的な思想ではなく、美術に傾倒した回答で宜しければ。



先ず、デッサンの定義を明らかにした上で話を進めたいと思います。
絵を特に習ったことのない方だと、デッサンとクロッキーを混同することもあると思いますので、クロッキーについてもここで触れたいと思います。(※ここでは、二つの参考リンクの画像の違いにも注目して下さい) 
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【デッサン】『デッサン(Dessin、素描とも)は物体の形体、明暗などを平面で描写する美術上の作業を指す。単に下絵を意味する場合もある。西洋のデッサン及び西洋に倣ったデッサンは線的に描く場合であっても、形体表現が基礎に据えられ明暗の表現を尊重し描かれる。これは単に明暗の比例、尺度を写そうとする活動という意味ではなく、線の効果が明暗の表現を担うということである。』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%83% … より一部抜粋

【クロッキー】『クロッキー(croquis:フランス語)とは速写(速写画)と言い、対象を素早く描画すること、またはそうして描かれた絵そのものを指す。スケッチ(写生)とも言うが、特に短時間(10分程度)で描かれたものをクロッキーと称する。
主に動物や人体など動きのあるものを素早く捉える訓練として行われる。』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD% … より一部抜粋
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文字の線もまた、使う素材によって表情が違います。
単に「硬筆」で書かれた文字は、絵画の世界においては「クロッキー」に例えることができると思います。
硬筆で書かれた文字も、クロッキーも、「対象物が何であるのか」ということ、その「対象を構成する大まかな要素」、「約束事を描き留めている」のに過ぎません。自らの内で深めて練り上げた線ではありません。
共に、「対象の尺度を表面的になぞるように、直感で描かれた線」と言えると思います。それは、「カメラのシャッターを切る」という感覚に近いと思います。

しかし、「毛筆」となるとまた趣が異なります。
毛筆で書かれた文字でも、特に塾や小学校で習うような綺麗なお手本の文字だと、ある意味においては「デッサン」に近いものがあります。
崩れのない綺麗な文字を書写するときは、デッサンするときと同じように対象物を深く観察します。そして、筆の勢いを要するところ、留めるところと意識を集中させて書きあげねばなりません。
しかし、単に模倣に留まっている間、「書写と写生という姿勢は、クロッキーとも似ています」。その意味においては、「二つの線は線でしかなく、近似したもの」だと言えると思います。

(後編に続きます。)
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お礼をありがとうございます。


ご質問自体は(言い方は悪いですが)もう歴史的に手垢のついた問題でしょうが、
象徴形式を扱ってきたヴァールブルク派が美術を認知科学の方へ引き寄せてきたのと同じ道筋で、
これを認知の問題とすることはもっとも容易でしょう。
あるいはまた、プラトン-アリストテレスが描いたようにミメーシスとイマーゴの問題とするとき、
そこには、代替のプロセスへの視点と、イマーゴ・デイ(神の似像)への視点が分かち難くあります。
これらがしてきたように、記号と象徴についての議論は、

わたしたちの抽象と捨象のプロセスが、何を外から借りてきて行われるか、何を参照して行われるか、

という問題をめぐっています。


いただいたご返答からの連想ですが、世界地図とは何かというのも面白い問題ですね。
地図あるいは国境線ですが、
それらも何かの代替であるということについて、わたしは考えたことがありませんでした。
国境線は、記号体系ではない筈のものですが、
神がそこにどう顕わであるかという問題を論じれば、
精緻な仕事ならば貨幣論を抱合するだろうと思います。
穴だらけの仕事ならば、いくぶん統合失調的に自閉した仕事に陥る恐れがありそうです。
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この回答へのお礼

ご質問自体は(言い方は悪いですが)もう歴史的に手垢のついた問題でしょうが...


あっ そういえば

遠い街の隅っこのちいさい神社のひっそりと開かれる蚤の市、わざわざでかけますよ。



ありがとうございます。





引き続きよろしくお願い致します。

お礼日時:2010/07/24 21:25

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