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宇宙はいつ誕生したか、いつ消滅するかなど、「時間的」な疑問だけが問題にされているように感じるのは私だけでしょうか?どこで宇宙は誕生したのか、どこで消滅するのかといった疑問と、それに対する解答などの事例がありましたら、教えて下さい。

A 回答 (17件中1~10件)

時間感覚に拘束されたままだと、宇宙がいつできたか、いつ消滅するかは決して解けません。


時間感覚は、人間特有の時間スケールにすぎないのではないでしょうか。

同様にどこに宇宙があるかも人間の空間感覚での事柄ですよね。

でも、もう一方の視点では、宇宙には、ことごとくなんにもないんですよね。
存在しないことこそが真に存在することであって、真に存在しないから存在しているようにしているということ。

結局、物事を存在させているのは、あなたなんですよね。
なので、いつ、どこに、という答えは、あなたの中にあります。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。皆さんの回答を読み、見て考えさせられます。そもそも「絶対唯一の大宇宙」について、「いつ、何処で」という問題の答えは無くて正解なのでしょう。いつとか何処でというのは「相対的疑問」でしょうから、絶対なる大宇宙には無意味な疑問なのでしょう。個々に生きているものの都合で想定すればいいのかも知れませんね。斬新でユニークな「宇宙 時空論」が考えられたとして、ユニークなだけでは、ひとりよがりに過ぎません。
 何故か皆がともに認める共通の答えを求めるのは、他の、社会の発展、平和繁栄などの役に立つ「技術」に結びつく原理などであれば、おおいなる喜びになると思うからでしょうか。一種の病気なのかも知れません。

究極の真理としての結論が出たとしても、それは「ただそれだけで価値があり絶対のもの」で、何かの役に立つとか平和に寄与するとかの「余分な相対的価値」は無いんでしょう。きっと。絶対なんですから!

補足日時:2010/08/03 21:58
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時、時間の定義例ですが 私は次のように考えます。


時:時刻、時間を合わせた厳密に定義されてない通常の過去から未来を一方方向に貫いている軸である
時刻:時の軸上の任意の一点
時間:ある時刻と別の時刻の時刻差である
最少時間:プランク長を光子がよぎる時間である。時間の量子化の可能性はある
時の始まり:物質(光子)の誕生と同時
時の終わり:全物質の消滅と同時
以上参考までに
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 yonaoshi-c さん、ANo.12です。


 無からある日あるとき、何かの契機とか理由で有が生ずるとすると、とても難しく、もう取り留めなく論理展開や事実検証が続きますね。
 だからというわけではありませんが、当然に如何なる無も有を生じない、という見かたがいいと存じます。
 無論、そのものがなかった状態(仮称)や時(仮称)はあるでしょう。
 誕生したということは誕生してないそういう、状態(仮称)や時(仮称)を考える人間智ですよね。

 誕生するものを存在するいうのか。
 そういう問題ではないでしょうか。
 それは誕生したのであるから、消滅する。始まりがあることは終わりがある。
 そういうものを存在といえるのか。
 原因があるものは原因が存在し、原因で出てきているものは存在しない。

 宇宙というものは何か、それがあるというのを幻想だとする哲学の一つの契機、側面はそこらにあります。
 空間だの時間だのって、カントや科学がいいますが、そんなのものは同語反復だという考えです。
 それらは意識の内容や働きの結果と内容として客体が存在するとなるこを以って、その存在の性格側面としてあるだけに過ぎない。
 というインド哲学に私は納得しています。
 Self-Realization Fellowshipでのパラマハンサ・ヨガナンダ大師後述する古代インド哲学です。
 世直しーcさんのお疑問の全ては、インドの哲人が数千年前に探求して、到達しております。
 上記の団体のバガヴァッド・ギータはその親切な説明となっています。ヨガナンダ大師の講述です。
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宇宙論は 質問者も ANo.7の補足欄で示されているように -宇宙論を論ずる場合「時と空 時間空間」の定義の見直しが必要だと思うのですがいかがでしょうか。

その定義をする事と宇宙論の答えは実は同じものなのだと直感します。-定義に帰着されるようにおもいます。
定義とはなにかという問題はありますが 一応 定義の意味は 言葉を尽くして説明しても言葉の堂々巡りにおちる究極の言葉で説明されるものとします。その定義は論理学では公理にあたりご存知のようにその証明はできないのです(自己言及の証明)。ということは 定義で決まる話は 正否の議論ではなく主張の話なのです。主張ですから個々一人一人の定義を開示して話を進めるしかない と思うのです。主張を一つにまとめるとすれば多数決で決めるのも方法と思いますが。あまり意味はない と思います。
そこで宇宙の定義例を考えます。
1)宇宙は観測できる物質が存在する時空間である
2)宇宙は観測できる物質が存在する時空間と、観測できるデータから演繹され物質が存在されとされる時  空間
3)宇宙は物質が相互に影響を及ぼす時空間の広がりである
4)宇宙は物質が相互に影響を及ぼすN次元空間の広がりである
5)宇宙は4次元空間である
6)宇宙はN次元空間である
7)宇宙は神である
8)宇宙は神の創造した全てである
  等々
私は どなたか発言されたかもしれませんが4)がいいと思っています。この場合は物質が中心となり 観測による暫定的には 有限サイズがきまり 太陽系を含む銀河の相対位置も決まるでしょう。
宇宙の始まりあるいは終焉は物質の始まりに相当しますが これは最新の物理学ではどうなっているか であります。まだ証明はされていないが 有力な説は10次元紐理論です。これによればビッグバンとビッグクランチを繰り返しているということのようです。この起点以前ありは終焉は物理学の有力理論としてはまだ出てきていないと思います。待つか自分で考えるかになるになりますが 私は期待して待つしかないと
思っています。分らんことは分らんとしていいという立場です。

 以上参考まで

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。「教えてgoo」としては、現実的な情報の教えあいが馴染むのでしょうが、哲学カテとなると、わからないことの主張のしあい、傾向になるのはやむをえないものと思いますが、程ほどにしたいとは思います。

世界の人口が何人かなど、一人の単位まで知りたいとは思いませんが、「時」の意味、定義を知りたいと思います。それが即「宇宙」の意味、定義に直結しているように思われてなりません。「場所」と「時刻」は実は同じ4時限現象を違った観測点からの印象の違いなのであろうと予測しています。仮説です。4値論(牧島象二氏)によれば、およそ仮説はなんでも「4つ」に収まるようですから、手間がかかりませんので、大いに仮説を立てて推論するといいと思います。

「時」と「時間」の定義の仮説などありましたら、教えて下さい。宜しくお願い致します。ちなみに小生は「時は凝集の架空の極」「時間」は時の方向への間の数量と定義してます。4次元目だけが「時間」などでは毛頭ないと考えています。定義の仕方に「幼稚さと矛盾、非論理性」がフンプンです!(怒笑)

宇宙を定義する前に、それを説明する時、空の定義が必要に思います。ぎりぎり原初的な言葉つまり「現象」を生き写ししたような言い回しのことばが理想的、哲学的です。

補足日時:2010/08/03 01:31
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No10回答者です。


受け売りですが「宇宙原理に従えば、宇宙には果てがない。よって宇宙膨張の中心は存在しない」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99
ということが正しいとすれば、場所の特定は主観的なもので、客観的には不可能だということになります。
ところで、無限は数学的にパラドックスを導きます。
連続撮影と言いますが、コマ数が多いだけで、コマとコマの間は不連続です。どんなにコマを増やしても、永久に不連続です。ところが無限の世界では、時間も空間も連続しているのです。コマ数が数え切れないからです。
無限は計算不能というのは、無限大(∞)と加算乗除を行っても、無意味だからです。無限大の2倍も3倍も、無限大に変わりはないのです宇宙が膨張しているというと、なんとなく宇宙に果てがあるように考えられるのですが、果てがないから無限なのです。
なお、No11の回答は含蓄が多いので、熟読なさると良いでしょう。
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 yonaoshi-cさん。


 実は貴方様のいう宇宙誕生というものがあるまでは、場所というものはなかったのです。
 宇宙ができたときに場所が幻想された。つまりできたのです。
 場所は今もない、実在していない。幻想だという事なんです。
 時間も私達も。存在とはないのです。存在をみている意識、一なる意識がある。その結果がこの宇宙と私達、そして時間と場所なんです。
 何も存在などはしていません。そういう哲学で私は存在しているので、哲学カテの回答投稿として以上のような内容で投稿します。
 そんな思想をどうぞご参考に。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。さて、場所の特定も時間の特定に無関係ではないと思いますが、それ以前の素朴な疑問が湧いてきました。それは、「物事の始めが無であると決め付ける理由がおかしい」と云うことです。有から有を生じてはいけないのでしょうか?論理に反するとは思えませんが。
「宇宙の場の特定」についての皆さんのご意見を見ているうちに、「無から生ずる」という先入観へのこだわりがあるうちは「宇宙論哲学」の進歩はないな、と感じてきました。ありがとうございます。お陰で少し考えが進展しそうです。今後も宜しくお願い致します。

補足日時:2010/08/03 01:41
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No.2 & 9です。

.

>>> No.9 補足欄
宇宙(大宇宙)の定義に「内部、外部」の区別は妥当でしょうか?例が悪いかも知れませんが、腸の壁を境に、バクテリアは体内と腸管内を往復したりして、内部外部の識別があいまいになっていたり、それに似たことが「菌根菌」にもいえます。菌根菌の住環境としては、内部外部も一緒です。大根の太い部分に体半分刺さりこんで、半分は外の土の中です。確かに、外部と内部の区別感覚はあるのでしょうが、連続性という観点からみると、切り離せないものを感じます。
<<<

どのような状態であれ、行き来できる場合には「時空連続体の内部」です。
参照 http://okwave.jp/qa/q5085016.html

たとえ、「ここが外部」だと思ったとしても、「内部」に影響を与えることができた場合、いや、少なくとも「内部」を観察できる場合には既に「内部」です。「時空連続体の外部」とは、「内部」から、完全に切り離されている(行き来することも、相互に観察し合うことも不可能な)状況を意味します。

>>>
時と空は垂直関係にある、あるいは、方向が互いに逆向き(膨張、収縮など)同じ素材の物理要素であるとすると、連続性に矛盾は発生しないと思います。
<<<

「全てが連続である(繋がっている)」という仮説のもとでは矛盾は発生しません。
不連続なところがある(すなわち、宇宙が複数に分断されている、ないし、相互に観察不可能な複数の宇宙が並列している)といった場合にのみ、連続性に矛盾が発生します(すなわち、不連続である)。
←実のところ、単なる「連続性」の定義の問題にしか過ぎません。

>>>
宇宙の外に出なくても宇宙を眺められると思うのはおかしいでしょうか?宜しくお願い致します。
<<<

おかしくはありません。
人智は現実を凌駕します。
空想・想像を含め、瞑想は人智ゆえの特権でもあるでしょう。

現実から乖離した瞑想も可能でしょうが、「内部」に立脚している(地に足がついている)からこそ「瞑想」が可能だという前提条件が必要でしょう。「宇宙」という立脚点があるからこそ、出ることが不可能な(観察不可能な)はずの「外部」から「宇宙」を空想したり想像することもできるということです。
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No5&7回答者です。


相対性理論は、場所の特定にも当てはまるのかも知れません。中心は存在し、かつ存在しない。それでも、自分の現在地を原点にすれば、それが宇宙の中心との距離や方向を測定する基準位置となるでしょう。その宇宙というのは、137億年前に誕生したと言われているこの宇宙のことです。しかし、137億年前、この宇宙が誕生する前も、時間と空間は存在したと考えられるのですが、その状態がどんなだったのかと言うと、質量が限りなくゼロに近い巨大なエネルギーの凝縮された点で、それが形成される前は、この宇宙と類似の歴史を辿ったのかも知れません。歴史は繰り返すと言いますから、恐らく正しいのでしょう。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。おおむねその通りと思います。で、年数には137億年とかの有限性と、実数が考えられますが、場所の「特定」若しくは「何らかの表現形式」はないものでしょうか?場所の特定が出来ないということは「認識できる宇宙は一つに限られる」という結論となりますが。それでよいのでしょうか?複数の小宇宙が大宇宙を構成しているという予測ができるなら、「それぞれの場所と年齢」はとりあえず「指定」可能だと考えるのですが。銀河系などは場所座標が想定できます。もし、大宇宙が一つと云うならば、場所の特定は必要ないし、出来ないことなります。大宇宙は観念的存在で実在しないのかも知れません。あるのは小宇宙で、その変化循環集団として一つの観念大宇宙があるという想定はどうでしょう。きりの無い宇宙論ですが、懲りずに考えていきます。宜しくお願い致します。

無限の概念についてもなにか斬新なアイデアがありましたら、ご教示下さい。

補足日時:2010/08/02 01:03
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No.2です。


>>> 補足欄
時空の問題は「天文学」の範疇をこえる哲学的課題だと思うので、哲学カテゴリで質問しました。宇宙論を天文学とか物理学の範疇に押し込めて考えると、発想が貧弱になるようです。哲学カテこそ宇宙、生命を考えるセクションだと思いますがいかがでしょうか?
<<<
仰るとおりです。

というより、本来、哲学は諸科学を含むものです。そういった意味からも、「天文学」内で扱われることをも含んで思索すべき問題になるでしょう。

少なくとも、現時点で思索しうるあらゆる仮説は、「時空連続体としての、この宇宙」内部でのみ検証可能な事柄であり、「その外部」といった思索をはじめた途端、「時空概念すら存在し得ないかもしれない」となるでしょう。

したがって、No.2で記述したように

1.現在扱いうる時空概念が適応可能な場合(時空として連続しているという仮説が、時間的にも、空間的にも正しい場合)
「現時点で観測可能な時空連続体としての宇宙全体の、あらゆる場所が誕生の中心であった」
とせざるを得ないということです。

2.現在扱いうる時空概念が適応不可能な場合(すなわち、「この宇宙の外」において、場所を特定しうるかどうかと言った場合で、「外」においては「この宇宙内での時空概念が適応できない」場合、ないし、「この宇宙」自体が時空的に「不連続」だった場合)
「不明」
とせざるを得ないということです。

この回答への補足

丁寧なご回答ありがとうございます。それに甘えてあえての質問ですが、宇宙(大宇宙)の定義に「内部、外部」の区別は妥当でしょうか?例が悪いかも知れませんが、腸の壁を境に、バクテリアは体内と腸管内を往復したりして、内部外部の識別があいまいになっていたり、それに似たことが「菌根菌」にもいえます。菌根菌の住環境としては、内部外部も一緒です。大根の太い部分に体半分刺さりこんで、半分は外の土の中です。確かに、外部と内部の区別感覚はあるのでしょうが、連続性という観点からみると、切り離せないものを感じます。

時と空は垂直関係にある、あるいは、方向が互いに逆向き(膨張、収縮など)同じ素材の物理要素であるとすると、連続性に矛盾は発生しないと思います。

内部に居て、外部から見ているような観察法があります。冥想法です。(冥想法は生活全てです。瞑想法でもほぼ良い。瞑想法は個人的心身のエクササイズに限定したイメージと定義して使っています)。生きていながら、同じ生きている感覚を感じられるのは不思議ですが,普通に体験しています。死んで外部から眺めなくても生きていることを感じられるのはどうしてなんでしょうか?宇宙の外に出なくても宇宙を眺められると思うのはおかしいでしょうか?宜しくお願い致します。

補足日時:2010/08/02 01:28
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量子論的には、有限な存在性(=宇宙)は、認識されることによって派生しています。


それによって、「宇宙が生まれた」という表現に潜在する、「無から有になった」という認識が違って来ます。
「有」の実態を知ると、それは「無」とオーバーラップするものである事が分かります。
全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限につめこむと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。

しかしその「存在」は、“いい加減”な認識=階層現象の表面的定性化に付随して派生するもので、根源的に絶対化しようとすると、元の無限不確定性に発散します。
実は、相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対によってしか存在は無い、という帰結を潜在的に持っています。
客観的時空や絶対的存在というのはない、というものです。

我々は「過去は既に終わっている」「未来はまだ来ていない」ので、「存在するのは現在」と考えますが、真の『現在』とは、認識体の感受表面での量子相互作用(光速)のみであり、その経験(過去=超光速)による予測(未来=光速下)として時空的広がりは発生しているのです。
相対性理論の四次元時空の方程式において、時間項はマイナスになっており、そのため空間軸と時間軸の等距離点に、“ゼロの面”ができます。
それが「ライトコーン」、即ち光子の形成する面であり、光速以下の領域(未来)と超光速の領域(過去)を分ける界面原点なのです。
そして超光速においてエネルギーは虚数化し、相互作用=二乗において負=過去(時間的反転)と等価になり、即ち、現在から過去と未来が対発生していると言えるのです。
そして、超弦理論において、全ての存在性は本質的に量子=光速に還元され、そうした非光速性が可能になるのも、先述の「階層現象の表面的定性化」によって可能になるのです。

無の不確定性無限の潜在としての、「自我仮説性」の相補としての「時空仮説性」。
即ち「自我仮説」が、宇宙膨張=光速の低下=物体収縮=不確定性(h)の収束における、hの減少の時系列化である時、それが架空の時間軸となって、空間的確定性としての無限不確定的空間性が、超光速(過去=経験=時間)と光速下(未来=予測=空間)に相補分化する受け皿となり、同一軸の延長が仮説的に直交基底をなす事によって、相補的不確定性を生じ、経験による予測=現象表面的定性化における、有限的存在(=非光速)を幻出しているのです。

即ち、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の相補として生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という無の射影として、存在は生じていると言えます。
無いとは分からない事が有なのです。
であれば、その「(認識される宇宙の)外」や「前」は、何もなくて当然です(元々無いのだから)。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

「時間項」のマイナスとは現実的にはどんなことでしょうか?物理とか科学の論証に数学は不可欠のようですが、数学的抽象概念はときとして「非現実的」で実際の宇宙存在の説明に仕えない場合があるように感じるのです。たとえば、量子論で明らかなように、数学的表現は可能ですが現実の物質存在には1/2はありません。1/2でもあれば「1」です!無いのは「0」です。その中間はないと云うのが「現実的物理」の結論です。哲学的結論でもあると思います。蛇足ながら、あるようでないのを「空」といわれています。自分では「空を空っぽ」と読みます!「くう」ではわかりづらいと思うのです。あるべきものがない時からっぽといいますね。「無」という概念は数学的論理的超抽象的表現で、純粋に無いことをあらわしていることに異論はありませんが、哲学的には「無いものを無いとは定義できない矛盾がある」と考えています。コメントいただけたら幸いです。宜しくお願い致します。

蛇足:最近の「時間論」では時間に「最小単位」がありや?との問題が検討されつつあるとのことです。量子論の影響でしょうか。ようやくまともな物理に近づいてきたようです。純粋数理学では「物理」は解けないと直感していますので。物理は「具体的な大きさ」のある世界の学問でしょう。時間と空間の最小単位は究極共通で「一回転」というのが「大橋波動理論」にあります。秒でもmでもありません。同感です。

補足日時:2010/08/02 01:52
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