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中国史に詳しい方にお尋ねします。

ギリシャの歴史家が、「550年、東ローマ皇帝が二人のキリスト教伝道師を秘かに中国入りさせ、中空の杖の中に蚕の卵を隠して持ち出した。以後、養蚕事業が欧州で広まった。」と書いています。中国の歴史書に、550年ころキリスト教伝道師が中国へやって来たという記録があるのでしょうか。

ちなみに550年の中国は、南朝は梁、北朝は魏でした。ただし魏は東西に分かれていました。梁や魏の歴史書に550年ころキリスト教伝道師が中国へやって来たという記録はありますか。

A 回答 (2件)

 歴史上、記録に残る最も早く中国にキリスト教(ネストリスス派)を伝えた人物だと、阿羅本になると思います。



 唐代貞観9年(635年)にアッシリア東方教会の使いでネストリウス派の主教として、宣教団を率い、首都・長安へ向かったそうです。

 唐太宗は宰相の房玄齢に長安郊外まで出迎えさせる程の厚遇で迎え、資金援助の下で長安に寺院(教会)を立てています。
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%BE%85% …

 なお、これ程の厚遇を受けたと言う事は、かなり前から中国に非公式に人を派遣し、情報を収集し、唐王朝に働きかけを行なっていた者が居たのは確実でしょう。

 ちなみに、中国の歴史で大泰(ローマ帝国)が出て来るのは、後漢書で「和帝の永元九年(97年)に西域都護の班超が甘英を使者として大秦に派遣した」です。

 1世紀にはすでに使者の派遣が取りただされる程度に、民間交流が存在していたのですから、秘密裏・小規模・個人的な中国へのキリスト教の伝播は特定が困難ではないかと…。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。参考にさせていあただきます。

お礼日時:2010/08/13 12:32

はじめまして




私の記憶ではビザンティンは二人のキリスト教宣教師でなく二人のインド人僧(仏僧?)の助力により
繭と桑の木を手に入れたと覚えたような気がしますが
記憶のみなので確証はありません

北魏後期の首都である洛陽には四夷館と呼ばれる外国人商人専用の館を設置し
そこには1万人の外国人商人がおり、その中にはビザンティンの商人もいたようです
実際、ビザンティン製と思われる銀やガラス製の杯や水差しが遺物として出土しているので交流があったのは確かですが
国家としては他国へのキリスト教布教に積極的でないビザンティンが中国まで布教活動するか疑問です
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この回答へのお礼

ありがとうございました。参考にさせていあただきます。

お礼日時:2010/08/13 12:31

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