「夫を成功」へ導く妻の秘訣 座談会

なぜ戦前の日本軍は暴走してしまったのですか?

関東軍の暴走や、5.15事件、2.26事件…。
真珠湾攻撃の前には既に南方で勝手に戦端が開かれていたとか。
それから、敗戦時にも玉音放送を中止させようと陸軍のクーデターが起こるなど、なぜ戦前の日本では、軍事がコントロール不能になってしまったのですか?

当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?

※これはド素人の質問ですので、質問文中に認識違いなどがあった場合は遠慮なく指摘して頂いて結構です。その際はどうぞお手柔らかに…

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A 回答 (7件)

>当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?


一言で言えば大日本憲法の条文にある「統帥権」でしょうね。
米国・英国の軍隊は文民統制(シビリアンコントロール)が為されていました。
大日本帝国軍の指揮系統は建前上、天皇の命令だけしか聞き入れない制度になっていました。
これを「統帥権」と呼びます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5% …
明治天皇のように、自から指揮、命令していた時代はそれで良かったのでしょう。
内閣・国務大臣も戊辰戦争を戦ってきた人々でしたからね。

時代が進むにつれて、「統帥権」の変容したのが、軍部の暴走した要因だと思います。
大日本帝国陸海軍には行政組織の陸軍省と海軍省が有り、それぞれに大臣がおりました。
これらは内閣の一員の行政組織で、人事権、徴兵などを行政事務を行ないます。
それとは別に海軍には軍令部、陸軍には参謀部があり、軍令部総長・参謀総長がおりました。
実際の作戦立案、実行を一手に握っていました。

最初は海軍省>軍令部、陸軍省>参謀部の関係でした。
現役の軍人とはいえ、官僚ですのである程度の常識を持ちイケイケの軍人を抑えていたのですが
それに不満を持つ軍人が「天皇は陸海軍を統帥す」の文言を盾にとり、統帥権の独立を画策し始めました。
次第に省令等を改定し、海軍省<軍令部、陸軍省<参謀部の力関係になりました。
つまり、軍人の文が弱まり、武が強くなってきました。
国会議員が異議や反対意見を述べたりすると「統帥権干犯」を持ち出し、反対意見を封殺していきました。
つまり、建前上、天皇のみしか軍隊を指揮命令する事が許されない
神聖にしてだれも犯す事の出来ない武力集団に仕立て上げたのです。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tousuike …

しかるに、昭和天皇は皇太子時代、大英帝国を訪問し、英国の立憲君主制に触れ、それを模範にするお考えが有りました。

国王・皇帝が独裁的に指揮・指示・命令をするのではなく、それを輔弼する内閣・国務大臣の政策を承認する形を取りました。
それで、天皇の名の下に、自分の都合よく相手国に武力行使を独断専行で行い、全て事後承諾で戦争へと進んだのです。
結局は、降伏か戦争継続かで意見が分かれ、収集が付かなくなり、昭和天皇のご聖断となった訳です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。とても参考になりました。やはり統帥権が問題の根源なんですね。明治ではうまくいってたやり方が昭和で綻びを見せたといういことは、政治が硬直していて時代の変化に即応できなかったという事でもあるんでしょうか…。ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/16 11:01

もともと明治維新体制はその権力基盤の脆弱さから軍と政府を明確に分離することで、反政府勢力が政府を揺さぶっても軍には変わらず「体制の擁護者」たる事を求めました。


この体制そのものは、当時としては妥当なものだと言えます。
無論、このような体制は対外戦争には不向きなものですが、明治時代は伊藤博文、山県有朋など元勲が「超法規的」に軍と政府の意思統一を図った為、問題は表面化しませんでした。
しかしながら日清・日露を初めとする戦争の勝利は「明治体制の正しさの証明」と受け止められ、体制の変革を困難なものとしてしまいます。
しかしながら元勲のカリスマ性に頼った体制が長続きするはずが無い事は当時から明白であり、大正~昭和初期には「統帥権の独立」は「純粋な作戦面に限定されるものである」とする立場が主流であり、軍が政治的にも政府から独立していると見なす立場は軍内部でも少数派でしかありませんでした。
ところが1930年のロンドン軍縮会議において当時野党であった政友会の犬養毅、鳩山一郎らが「統帥権の干犯」であると軍縮条約を調印した政府を攻撃し、統帥権を一気に拡大解釈してしまいました。
これ以降、議会で軍部の行動を統制しようとすると政敵から「統帥権干犯だ!」と揚げ足を取られる事態を招き、議会は自ら軍部に対するチェック機能を放棄してしまうのです。
当然ながら、議会における目先の駆け引きに「統帥権」を弄ぶ行為は国民の信頼を失ってしまい、議会の地位はこれ以降、低下の一途を辿ります。
更にこの「統帥権の独立」を盾にとって行われた1931年の満州事変が「大成功」と認識され、国民の圧倒的支持を受けてしまったことで「統帥権の独立」はドンドン肥大化してしまうのです。
実のところ当時から「統帥権の独立は時代錯誤」という意見そのものは珍しいものではなく、軍事や政治に関する書籍でも普通に批判は行われていたのです。
つまり「統帥権」とはとっくに時代錯誤と見なされていた古くさい憲法の条文を「目先の権力闘争に目を奪われた近視眼的政治家」と「それを利用した軍部」そして「無責任にもてはやしたマスコミや世論」が揃って持ち上げ、それを「神性不可侵」の存在にしてしまったことが、軍部の暴走を招いてしまったのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。史実に基づいた説得力ある内容で、とても参考になりました。それにしても何という議会政治の皮肉。野党が政府攻撃をするために用いた材料が軍部に利用され、こんな悲劇を招く結果になるとは…。国益よりも政局優先の無責任な政治は現代でも当てはまる事を考えると、背すじが寒くなってきます。ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/16 22:44

日本には、昔から「上位にある人が実権があるとは限らない」という不思議な伝統があります。



外国企業なんかじゃ、「上になればなるほど働く」となります。よくアメリカなんかじゃ「5時になると仕事の途中だろうがなんだろうがすぐ帰る」なんていいますけど、それはブルーカラーのような下位の人たちの話で、ホワイトカラーの人たちとなると「早朝から深夜まで」「休日もへったくれもない」となります。つまり偉くなればなるほど働くシステムになっています。

しかし日本の場合多くの会社で、社長は単なるお飾りであったりします。他ならぬ内閣総理大臣がそうで、我が国じゃ首相だからといって何でもできるかというと、首相ってどちらかというとあんまり何もやらないで、大臣とか議員や官僚なんかが走り回っているわけです。
日本人てね、どういうわけか「偉い人に権力を持たせる」っていうのを嫌がる民族なんですよ。小沢一郎氏なんて裏でキングメーカーになっている割には誰も文句いわないけど、「首相になる」となればものすごく嫌がる人が出てくるわけです。欧米の価値観では、「キングメーカーが表舞台に立って権力を振るうのは当然」となるわけですが。

というわけで、旧日本軍には「統帥権」というのがあったわけですが、現場の軍人はそれをタテに暴走していくわけです。
これは現代でも事情は変わっておらず、例えば海外派遣の自衛官が戦闘状態に巻き込まれたらどうするなんて実は全然決まってないのです。いや、一応「現場で判断する」ってなっているのですがすごーく曖昧にしてあるのです。だから、もしそうなったら現場は「暴走せざるを得なくなる」のです。どこまでがOKで、どっからがダメなのかが決まっていないのです。そもそもシステム的に暴走するようになっているんですね。暴走したときに歯止めになるものがありませんから。

もし日本にリアルに有事が発生したら、首相は閣議を開いて・・・なんて決まっているのですがいざそうなったときにそんなことをのんびりやっている時間なんてないわけで、もしそうなれば最終的にはおそらく自衛隊も腹をくくって暴走するしかなくなると思います。
実際のところ、1976年に函館にソ連のMig-25が亡命した事件では「ソ連軍コマンド部隊が函館を急襲して戦闘機を破壊しに来る」という情報が入り、現場はどうするか凍りついたそうです。しかし当時の政治情勢はいわゆる「三木おろし」のまっただ中でそんなときに有事のどうこうなんて政治家は誰も関わりたがらない。致し方なく、現場の部隊は「もしソ連軍来たらば反撃せよ」と決意を固めます。だって、攻撃されたのになすがままにされたなら自衛隊の存在意義がないじゃないですか。
結局、この暴走未遂事件は襲撃がなかったのでそのまま終わり、しかし準備したり連隊長が命令を出しちゃったりしたのは事実だったので、関係者は処分され事件は闇に葬られたそうです(公式資料には何も残っていないそうです)。

満州事変にしても515事件にしても226事件にしてもそうなんです。政治がうだうだしていて何も前に進まないので「既成事実を作ってしまおう」となったのです。
この、「既成事実を作ってしまおう」って現代のサラリーマンもやってしまう人は多いんじゃないでしょうか。特に「切れ者」と呼ばれている人に。経営陣の判断を待っているといちいち小田原評定で何一つ決まらない。そこで切れ者の部長なんかが「やってしまえ」と既成事実を作ったら経営陣が事態に引きずられる形で承認するなんてことがね。

またこれは重要なことですが、515事件が起きた後、実行した将校たちに全国から助命嘆願運動というのがものすごく起こったのです。裁判はその大衆の熱気に引きずられる形で将校たちは軽い処罰で済んでいます。
226事件の将校たちは可哀想でしてね。彼らは自分の熱意と決意を陸軍の重鎮と呼ばれる人に相談すると、その重鎮は「おおいにやれ」とどう見ても「重鎮が承認した」以外に取れない一言を発します。それで彼らは大いに勇気づけられて実行に移すのですが、しかし他ならぬ昭和天皇が激怒、「俺が兵を率いて戦う」とまでと言い出して彼らは「叛乱兵」となります。
実は226事件には何人か黒幕が存在したことが戦後かなりたって裁判資料が出てきたことで明らかになりました。その黒幕たちは当時の陸軍の錚々たるメンバーで、もしそれが明らかになったら相撲界の野球賭博問題以上の大問題になったでしょう。そして裁判は秘密裏にされ、重鎮を始め黒幕たちは掌を返して「そんなことは知らんなー」と将校たちを裏切ったのです。


実は日本史というのは、「煮え切らない政治と軍事の暴走の歴史」でもあるのです。幕末の大政奉還から倒幕の密勅なんかの流れもそうなんですよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。非常に示唆に富む内容で、とても参考になりました。回答を読んで分かったのは、戦前という時代が決して特殊だったわけではなく、日本が長年引きずっている体質が悲劇を起こしたということですね。非常に興味深いエピソードも盛り込まれていて勉強になりました。この回答は教訓として抱かせて頂きます。ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/16 22:28

難しい話しは既に説明されているようなので簡単に記します。



官=公務員というものは組織防衛の塊だということです。それは現代にも続く弊害であります。

難しい図上演習や訓練を指揮し高い給料をもらってキレ者、米国通と言われた山本五十六でさえ負けるとわかっていながら「半年は暴れてみせましょう」とその間に他が早期講和をして欲しいと縦割他力本願。
負けるから戦争辞めますとは言えんわなぁ。
自分の所属の組織を優先するあまり陸軍の足を引っ張るなんて現代の省益を死守するのにポスト、金の争奪戦そのままじゃないですか。

配属年度に縛られていた旧帝国エリートと現在も下々から搾取し続ける官僚。
彼らにとっては自己>所属>省であって国家を憂いている人はごくわずか、他人の命は軽いのです。

一億総中流という錯覚を続けられなくなった現在、経済戦争に負けて泣いていくのは下々の人たちです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。やはり、縦割り官僚制度は日本を長年蝕む宿痾なんですね…。官僚の組織防衛本能が国益を蝕む構図は現代も殆ど改善されず放置されているのは恐ろしい事だと思います。ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/16 15:01

>当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?



根本的な誤りという点では#2の方が書かれた「総帥権の独立」(と解釈した軍部)と天皇個人が機関説に則っていたため、天皇個人として動かなかった(動けなかった)ことが暴走を許したということになります。

では諸外国ではどうでしょう。近代国家まで引き継がれている民主国家における軍事指揮権は、古代の共和国ローマに発します。
これは「軍事指揮権は元首(または指揮官)にゆだねるものの、軍事行為の遂行には議会の承認が必要である」ということです。古代国家では、税として兵役がありましたので、王族が収めるような国なら王が「戦争をする」と決めれば、その国に住む臣民は従うしかないのですが、古代であっても民主国家では兵役はそのまま市民生活を混乱させるため、政治を司る指導者だけの判断では出来ないようになっていたのです。

ですから現代でも「文民統制(シビリアンコントロール)」という名称で、たとえアメリカであっても議会の承認なしには戦争を行うことができないのです。

ところが明治政府のころの日本はこの点が良くわかっていなかったらしく(いや分かっていたけど、いろいろな駆け引きでうやむやにしていた)、国家の体系としては君主国家であるため臣民は天皇の命令には従う、しかし同時に立憲国であるため本来なら文民統制が必要、という具合でした。
軍人としては「天皇陛下のご命令で死地に赴く、天皇陛下に忠誠を誓う」ことを誇りとしていたのに、議会の民間人どもにゴチャゴチャいわれたくない、というのが本音だったのでしょう。
日清・日露と戦争に勝ってしまったために、軍部の発言力が増し、いつしか総帥権の独立が既成事実化し、軍部の暴走を招くことになります。

昭和天皇は確かにかなりリベラルな方だったようで、天皇といえども憲法の下におり、天皇の職務は内閣が輔弼する、つまり内閣=臣民がすべて行って、元首は君臨すれども統治せず、を地で行くお考えであったようです。またこの輔弼(現行憲法では内閣の助言と承認)を適正に考えれば総帥権は内閣の内閣の助言と承認を必要とすることになり、シビリアンコントロールが利くはずだったわけです。
これを天皇機関説と呼ぶのです。

ですから、現在でも議論になっている「天皇に戦争責任はあるのか」という問題は、どちらとも言えないという部分があり、皮肉なことに最終的に天皇が「終戦の詔」を発表し戦争が終了したことをもって、天皇には責任がある、という論調も見られるようです。

では根本的な誤りはどうして出来てしまったかというと、それは日本の統治システムの歴史的な要因が絡んでいます。
まず軍部が元首や文民に統制されないようになると、ほぼ間違いなく暴走します。ポルポト派の虐殺もそうですし、アウンサンスーチー氏を軟禁しているビルマも軍事政権です(もっとも民主的な政権なら暴走しないか、というとそうでもないですが・・・)
ですから軍部の暴走はどの国でも当たり前です。
ところが天皇機関説は英国をモデルにしているのですが、それ以上に昔から日本の統治システムは「機関」だったのです。
そうせい候、で有名な毛利敬親を代表として、戦国時代以降の幕府と各藩は老中を中心とした合議システムで決断し当主はお飾り的な「君臨すれども統治せず」を地で行くシステムが出来上がっていたのです。宮中にあっては鎌倉幕府が出来て以降徐々にそのようになっていったようです。
先ほど書いた明治政府の駆け引きとは、近代化するに当たって元首の統治能力を組み込みたい勢力と、天皇であっても日本的な統治システムを引き継ぎたい勢力の駆け引きであり、それが明治憲法をして「内閣の輔弼」と「国家元帥は天皇」という(後になってみれば)禍根を残す表記になったわけです。

米国は歴史の浅い最初からの民主国家ですから別にして(それでも南北戦争がありましたが)、英国などは長い歴史の中で自国軍部の暴走や隣国の軍部の暴走により戦争せざるを得なかったという歴史を有しているがために、近代になってからは軍部の暴走を抑える仕組みを明確にしているのです。

主題とは違いますので、詳しくは書きませんが、もちろん軍部を支持する国民の声というものも当時の日本にはあり、普通選挙がされた後での軍部の暴走ですから、単に国民は被害者だったということではなく、何らかの責任を負っていた、という事実に向き合う必要もあるといえます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。詳しい解説でとても参考になりました。立憲君主制は今でも誤解している人達が多く(というか私も思いっきりあやふやです)難しいと思います。この点はもっと勉強しなければいけないと痛感しました。ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/16 11:17

 大日本帝国憲法に規定されている日本帝国陸海軍は、内閣と同等の立場で天皇の下に位置していました。


 これを戦前は「統帥権の独立」といって、内閣=行政は軍事を動かす権限がありませんでした。

 明治時代においては、天皇直属の機関である枢密院に、幕末・明治の軍隊のトップであり、しかも政治家でもあった明治維新の立役者=元老たちが所属し、個人的影響力の大きさを使って、政府・軍を統括していました。

 しかし、明治維新から時代が経ち、枢密院に行政府・軍両方に大きな影響力のある人物がいなくなってしまったために、枢密院が軍・政治を統合する機能を失い、国際政治・外交を踏まえた上で軍事を統括する機能を持った組織が、事実上存在しなくなり、天皇個人のみがその役目を負わされることになってしまいました。

 しかし、昭和天皇は当時の日本においては、相当にリベラルな考え方を持った人物で、東京帝大教授の美濃部達吉が「天皇機関説」を主張し、結局、美濃部は不敬罪の疑いにより取り調べを受け(起訴猶予)、貴族院議員を辞職し、美濃部の著書である『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』の3冊は、出版法違反として発禁処分となった事件に対し、
「美濃部の言う通りではないか。」と発言した記録がありように、基本的には、天皇個人が政治的決断をするべきではないと考えていたため、「統帥権」=軍の指揮権者が事実上存在していない形になっていました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。とても勉強になりました。統帥権が内閣(行政)から独立しているという形態がそもそも間違いの元だったという事でしょうか。この辺はこれからも勉強したいと思います。ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/16 10:51

 当時の日本国民の気持ちも「イケイケ」だったと思いますよ。



1868年 明治維新
1894年 日清戦争
1904年 日露戦争
1910年 韓国併合
1931年 満州事変
1932年 上海事変
1932年 満州立国
1937年 支那事変
1941年 真珠湾攻撃

 ようするに、明治維新となって、海外の列強に追いつき追い越せで富国強兵・殖産政策が採られましたね。で、たとえば1894年の日清戦争と1941年の真珠湾攻撃では50年も経ってないわけで(日本は現在戦後65年です)戦えば必ず勝ってたわけです。もちろん国民全員が好戦的でもなかったでしょうが、「イケイケ」って気持ちは納得できますよね?ずっと勝ってるわけですから・・・実際はそうでもないにせよ、その都度景気もよくなり、日本はあっという間に実力(資源)もないのに強くなったわけです。

 そうなると、軍部の暴走ってことではなくいけるところまでいってしまうのが人の性だとおもいます。
多くの日本国民の総意って感じではないでしょうか。

 アメリカはべつとして、ヨーロッパ列強は何百年と侵略の歴史を繰り返してきました。
日本はこの100年(っていうか、1945年の敗戦までの60年ほどですよね?)しか侵略の歴史はありません。欧米諸国はやはり喧嘩の仕方を知ってたってことでしょうね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。これは鋭いご指摘だと思います。軍部の暴走という観点からばかり考えてしまいがちですが、それを後押しする世論というか、形に現れない国民感情というものが見逃せない要素なんですね。ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/16 10:42

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Q軍部の暴走を止められなかった理由

戦前の軍部はなぜ暴走したのですか?
張作霖爆殺は、なぜ軍の指揮権を持つ天皇に許可無く行われましたか?
そして、その実行犯を天皇が罰しろと言ったのに、罰せられませんでしたか?
柳条湖事件、満州事変、盧溝橋事件、日中戦争と、軍部と天皇との関係も教えてください。

Aベストアンサー

もともと戦前の日本の軍制は政治と軍の統帥を明確に分離するものでした。
これは明治政府の権力基盤が不安定であったことから、反政府勢力と軍が結びつくのを恐れた結果です。
当然ながらこのような軍事と政治を分離した体制は、対外戦争において非効率的なものですが、日清・日露戦争では伊藤博文や山形有朋などの元老が言わば超法規的に軍と政府の意思統一を図ったため、問題は表面化しませんでした。
ですが皮肉にも日清・日露戦争の勝利はこの体制の「正しさの証明」となってしまい、加えて共産主義革命に対する恐れから、戦前の日本では本来過渡的な体制であったはずの明治体制の抜本的な変革は、さしずめ戦後日本における改憲のごとく、タブー視されるようになってしまいました。
しかしながら元老のカリスマ性に頼った体制が長持ちするはずが無い事は自明の理であり、このために大正期は「軍の統帥権とはあくまでも純粋な作戦面に限定される」という言わば「解釈改憲」でこの問題を乗り切っていたのです。
しかしながら抜本的な改革が行われなかった結果、軍と政府の分立状態は次第に亀裂が大きくなり、張作霖爆殺事件でも真相究明ではなく田中義一内閣総辞職で幕を引く結果となりました。
そしてロンドン軍縮条約調印時、野党であった政友会は政府を攻撃するために「海軍軍令部の同意の無い軍縮条約の調印は統帥権の干犯である」と非難し、軍の統帥権を一気に拡大解釈してしまいました。
この結果、これ以降に政府や議会が軍の行動を統制しようとすると「統帥権の干犯だ」と揚げ足を取られる事になってしまいました。
(当時の書籍を読むと現役の軍人でも「統帥権の独立は時代遅れであり、国家の将来に禍根を残す」と激しく非難している例もあります)

そしてもう一つ重要なのは、当時の日本では中国大陸に有していた利権(いわゆる「特殊権益」)は「日露戦争で多大な犠牲の末に獲得したものであり、絶対に手放してはならない」という、これまた戦後の日本における一時期の憲法九条のように、その是非を論じる事の出来ない不可侵の存在であるかのように評価されており、その利権の保持を目的とした武力行使は世論やマスコミの強い支持があったのです。
この為に満州事変では軍中央の意向に逆らって占領地を拡大し、現地軍が勝手に満州国建国を行った事をマスコミがこぞって支持し、軍中央も政府も暴走を追認してしまいます。
当然ながらこの結果として「軍中央や政府を無視しても戦果さえ挙げれば認められる」という「下克上」の風潮が生まれ、その後の日中戦争においてズルズルと占領地を拡大する現地軍を止めることが出来なくなってしまいます。

総じて言えば本来、過渡的な体制であった筈の明治維新体制が、皮肉にもその成功故にこそ維持され、時代に合わなくなった状態で行われた普通選挙による民主化が、党利党略しか考えない近視眼的な政治家を生んでその問題を拡大し、また政府及び軍中央が武力行使を支持する世論に阿って誰もが責任を取ることを回避していった結果だと言えるでしょう。

もともと戦前の日本の軍制は政治と軍の統帥を明確に分離するものでした。
これは明治政府の権力基盤が不安定であったことから、反政府勢力と軍が結びつくのを恐れた結果です。
当然ながらこのような軍事と政治を分離した体制は、対外戦争において非効率的なものですが、日清・日露戦争では伊藤博文や山形有朋などの元老が言わば超法規的に軍と政府の意思統一を図ったため、問題は表面化しませんでした。
ですが皮肉にも日清・日露戦争の勝利はこの体制の「正しさの証明」となってしまい、加えて共産主義革命に...続きを読む

Q昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか?

軍幹部や閣僚、枢密院の事実上の強制である「助言」に逆らえなかったのはなぜなのでしょうか?
天皇は、軍部を最終的に指揮・統括する統帥権を持っていたのですよね。
様々な事由で軍や政治家の意見を聞き入れなければならない状況もあったと思います。しかしミッドウェー以後の戦況を正確に知っていたなら、最早戦況は絶望的で、このまま戦いを続けたなら軍人のみならず、多くの国民の命が失われることは火を見るより明らかであったことは知っていたはずです。
軍・政治家の「助言」は飽くまで助言であり、例えそれに反したものであっても、最終の決断を下す権限を当時の天皇は持っていたのですよね。そしてそれは、何人たりとも妨げることはできなかったのですよね?
にもかわらず「本当の」統帥権を発動できなかったのは一体なぜなのでしょうか?

Aベストアンサー

>昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか?

大日本帝国憲法の第4条には、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」とありますが、続いて「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあり、55条に、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責任ニ任ス」、同2には「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」とされています。天皇は憲法上「統治権の総攬者」ではありますが、輔弼と副署と言う制限された存在でもありました。これが「天皇機関説」の根拠ともなりますし、NO7の方が回答されていらっしゃるように、昭和天皇が自身を「立憲君主」として律していた根拠でもあります。
つまり、統帥権を含め国務は輔弼の臣の輔弼行為に依拠し、天皇は積極的な国政への関与を控えていたと言うことです。皆さんがおっしゃているように田中首相への叱責、二二六事件、終戦の決断以外には判断を下していません。終戦についても最高戦争指導会議構成員会議および閣議が意見の一致をみないために、最高戦争指導会議に枢密院議長を入れ、御前会議の形式をとり、天皇の判断を仰いだために天皇が決断したのであって、昭和天皇も決断を求められるのは本来の形でないと思っていらしたようです。
ですから、戦争がいかに不利になろうとも、国務・統帥の輔弼がない限り停戦・休戦・終戦にならなかったのではないでしょうか。また、統帥部の輔弼がない限り、終戦への統帥権の発動もなかったと思います。
このように輔弼を受けることにより、責任は輔弼の臣が取るべきもので、天皇自身には及ばない体制が成立しています。西園寺が天皇に田中首相叱責で注意したのはこの点であり、長い伝統を持つ公家社会(天皇を含め)の伝統的方策(生き残るための知恵)にも合致していたからです。

以上、参考まで。

>昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか?

大日本帝国憲法の第4条には、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」とありますが、続いて「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあり、55条に、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責任ニ任ス」、同2には「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」とされています。天皇は憲法上「統治権の総攬者」ではありますが、輔弼と副署と言う制限された存在でもありました。これが「天皇機関説」の根拠ともなりますし、NO7の方が回答さ...続きを読む

Q日本がハルノートをを受け入れ戦争しなかったら?

歴史で”たら、れば”は持ち出す事は駄目なんですが、もし、太平洋戦争に突入しなかったら日本はどうなっていたでしょう? 戦争で余りにも多くの方がなくなりましたが、戦争しなかった方が日本の将来は明るくなる事が期待できたのでしょうか?

Aベストアンサー

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の失業者が
街に溢れ、あちこちで暴動が発生していました。
ルーズベルトは、ニューデールなどの政策を打ちましたが効果は
さっぱりです。
それでどうしても戦争をやる必要があったのです。
戦争は最大の公共事業ですから。その証拠に戦後、米国
経済は見事な復活を遂げています。
その現れがハルノートです。

これは私の偏見ではありません。
米国歴史学の権威チャールズ・A・ビーアド元コロンビア大教授は
公文書を調べて、ルーズベルトが巧妙に日本を戦争に引きづり込んだ
過程を明らかにした本を出版しましたが、これは事実上の発禁処分
にされてしまいました。

31代米国大統領のフーバーが、ルーズベルトを、日本を無理矢理戦争に
引きづり込んだ狂気の男、と評した書見を残しています。
彼は、ルーズベルトは真珠湾を知っていた、とも書き残しています。


米西戦争では、 1898年 2/15 ハバナ湾で、
米国戦艦メイン号が謎の爆発沈没しています。
これで米兵266名が死亡し、スペインの仕業だ、
ということになり戦争が始まっています。

ベトナム戦争では有名なトンキン湾事件が発生しています。
1964年8月、北ベトナムのトンキン湾で北ベトナム軍の
哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射した
とされる事件です。
これをきっかけにアメリカは本格的にベトナム戦争に介入しましたが、
その後、ニューヨークタイムズが、米国のやらせであることを暴露し
真実が明らかにされました。

湾岸戦争 1990年 では
アメリカの駐イラク特命全権大使のエイプリル・グラスピーが
イラクのクエート攻撃に対して
「介入するつもりはない」と発言しており
これを信じたフセインがクエートを侵略しましたが、
米国軍等により撃退されています。
米国は約束の存在を否定していますが、当の大使は、それ以後、公式の場には
一切姿を見せなくなりました。

その他にも怪しいのはいくらでもあります。
以上が、日本が戦争を拒んでも、ダメだったろうと思われる理由です。

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Q対米開戦はなぜ避けられなかったのか?

 近・現代史にお詳しい方にお尋ねいたします。
 なぜ、日本はアメリカを相手に太平洋戦争をしなければならなかったのでしょうか?言い換えれば、当時の日本を支配していた軍部首脳はなぜ、大国アメリカに戦いを挑んだのでしょうか?
 数年前に初めてニューヨークを訪れて以来、そのことがわかりません。エンパイアステートビルディングなど、空をも貫くようにそびえ立つ摩天楼の多くは、既に20世紀の初めから建設されていたはずです。あれを見れば、当時の日米の国力の差は歴然としていたはずです。子犬が巨象に挑むがごとく、あのアメリカに正面から戦をしかけるなど、私には全く理解できません。現に、真珠湾攻撃を指揮した連合艦隊司令長官の山本五十六は十分に国力の差を承知していました。「アメリカの国力を知りたいならば、デトロイトの自動車工場を見れば一目でわかる」とまで言っておりました。山本五十六は大正から昭和にかけて何度かアメリカに勤務した経験があったからだとは思いますが。
 それとも、当時の軍首脳たちは全くアメリカの国力を分析することなく、戦争になれば元寇のような神風が吹くから必ず勝てる、とでも信じて開戦に踏み切ったのでしょうか。もしそうならば、「彼を知り己を知れば百戦危うからず」という孫子の兵法も知らなかったこととなり、敗戦は当然の結果となりましょう。ちなみに、開戦時の首相東条英機は訪米の経験がなかったようです。たしかに、国連脱退による孤立、ABCD包囲網、アメリカからの石油の禁輸など、日本に対する国際状況は日増しに厳しくなっており、日本としてもやむを得なかったのかもしれません。
 しかし相手が資源豊かな大国であることを考えた場合、どう見ても無謀な戦いであったような気がしてなりません。太平洋戦争はどうしても避けられなかったのでしょうか?
 ご存知の方は、どうか私の素朴な疑問にお答えくださるようお願い申しあげます。

 近・現代史にお詳しい方にお尋ねいたします。
 なぜ、日本はアメリカを相手に太平洋戦争をしなければならなかったのでしょうか?言い換えれば、当時の日本を支配していた軍部首脳はなぜ、大国アメリカに戦いを挑んだのでしょうか?
 数年前に初めてニューヨークを訪れて以来、そのことがわかりません。エンパイアステートビルディングなど、空をも貫くようにそびえ立つ摩天楼の多くは、既に20世紀の初めから建設されていたはずです。あれを見れば、当時の日米の国力の差は歴然としていたはずです。子犬が...続きを読む

Aベストアンサー

 日本という国には、資源がありません。工業用原料も無いし、我々国民の食糧も、米を除けば無いわけです。だから、国民の生活資源も、産業・工業用原料も含め、あるいは石油も含めて、1億2千万人が生活していくのにどうしても必要なのは、船のトン数にして6億トン。
 これだけの資源を海外から買ってきて、そして国民が一生懸命働いて、これを製品にして、別の表現をすれば付加価値を付けて、そして輸出をしているわけです。6億トンの資源を入れて、ソロバンを合わすためには、6000万トンを輸出しなければなりません。
 それは戦前も同じでした。そして、この代金の決済には外国に置いてある資産(ドル)で行われるのです。
 しかし、昭和16年7月25日アメリカは『在米日本資産の全面凍結令』を公布し、続いて26日にはイギリス、次いで27日にはオランダ・香港も日本の在外資産を全面凍結しました。

 在外資産の凍結を受けると、日本には石油が1滴も入ってこなくなります。いや、石油だけではなく食糧、工業用原料一切が輸入できなくなります。これらは、在外資産(ドル)を持っていて初めて買えるわけですから。
 言葉を換えて言えば、日本はアメリカに『死ね』と言われたのです。江戸時代のように2千万の人口だったら自給自足もできたかもしれませんが、戦前の日本の人口は8千万で外国からの輸入なくしては生きていけません。
 戦後、日本が戦争に突入した理由をマッカサーは『安全保障』だったと言い、東京裁判のパール判事は、『ハル・ノートのようなものを突きつけられたら、モナコやルクセンブルクでも矛(ほこ)を取ってアメリカに立ち向かうだろう』と言いました。

 それでもまだ、日本は基本的には『和』を目指していました。8月5日に、日米関係の危局を打開するために、日本は仏印(フランス領インドシナ)以外の領域には進出しない、米国比島(フィリピン諸島)の中立を保障する、米国との正常な通商関係を回復する、など新たな提案をアメリカに対して行っています。

 そして、その2日後の8月7日に近衛首相は天皇に拝謁をして、『アメリカへ行ってルーズベルト大統領とトップ会談をして、事態の打開を図りたい』と申し上げて、許可を得て、アメリカに向かいました。しかし、トップ会談は拒否されたのです。

 9月6日の御前会議では、結局『和』と『戦』の両用の決定が下されました。それは、10月までに日米交渉がまとまらなかったら、改めて、対米開戦を検討するというもので、対米交渉の色々な条件が決められました。そして、昭和天皇は、『対米交渉の努力をもっとやれ』と実質的に『和』の方の決定を下されたのです。
 当時、戦の準備で一番時間がかかるのは、海軍の連合艦隊でした。日本の連合艦隊は、戦艦大和をはじめ約130万トンの艦隊兵力を擁していて、世界第二位でした。戦争をするとなると、それらがみんな横須賀や呉や佐世保のドックに入って、人間ドックのようなことをやらなければならない。それに、戦艦の大砲もみんな新しいものに取り替えなければならない。それまでは平時の大砲で、それだって撃てなくはないのですが、いざ戦争となった時には取り替えることになっていて、それを海軍では、出師(すいし)準備と言い、二ヶ月ぐらいの期間を要しました。
 海軍の出師に対して、陸軍は動員と言い、これは人と鉄砲と馬さえあればできるので、海軍よりもはるかに早くできました。

 11月に入った26日、国務長官のハルが野村・栗栖大使に有名な『ハル・ノート』を渡します。このハル・ノートに書かれていた事は9月初めの要求と全く同じで、三国同盟からの脱退と中国大陸からの全面撤兵、それに満州国の解体でした。
 このハル・ノートの全文を見て、政府と大本営は協議を重ねた結果『開戦止むなし』の結論に達し、12月2日の御前会議で開戦の正式決定がなされました。
 
 これが日本が戦争に突入した理由と直前の状況です。早い話『窮鼠猫を噛む』と言うか、だまっていても、飢え死にだし、それだったら少しでも可能性のある方にと言うことです。だからアメリカとの戦争計画なんて無いし、慌てて突入せざるをえなかったのです。(まとめれば数行ですむことを長々と書いてすみません。)

 日本という国には、資源がありません。工業用原料も無いし、我々国民の食糧も、米を除けば無いわけです。だから、国民の生活資源も、産業・工業用原料も含め、あるいは石油も含めて、1億2千万人が生活していくのにどうしても必要なのは、船のトン数にして6億トン。
 これだけの資源を海外から買ってきて、そして国民が一生懸命働いて、これを製品にして、別の表現をすれば付加価値を付けて、そして輸出をしているわけです。6億トンの資源を入れて、ソロバンを合わすためには、6000万トンを輸出しなけれ...続きを読む

Q満州国建国の目的を教えて下さい。

なぜ日本は満州国という独立国を建国したのですか?当時の国際事情や国内事情などを踏まえながら、建国の目的を教えて下さい。

Aベストアンサー

当時、日本を含めた列強諸国は中国に数多くの利権を有していました。
これはアヘン戦争以来、一世紀近くに渡って列強諸国が鎬を削って中国での利権獲得競争を行った結果でした。
そして植民地獲得競争において出遅れた日本において、満州周辺で獲得した利権はほぼ唯一に近い「海外利権」でした。
このため当時の日本では「満蒙の特殊権益」は「明治以来、先人が苦労と犠牲と投資を重ねて獲得した利権」であり、また「国家の生存に必要不可欠」と認識されていました。
しかも当時は世界恐慌の結果、引き起こされたブロック経済化により日本製品は欧米やその植民地の市場では高額の関税を課せられる事となったために、その重要性がかなり誇大に意識されるようになっていたのです。
誤解を恐れず敢えて言えば「戦後の日本における一時期の憲法9条」のように、その是非を議論すら許されないという風潮があったのでした。
しかしながら第一次大戦以降の世界的なナショナリズムの高まりにより、中国においても列強に奪われた利権を奪い返す国民運動である「「国権回復運動」が起こりました。
ただしこのようなナショナリズムに根ざす運動は、現在でもそうですがしばしば過激化し、外国勢力への排撃運動に近いものになる事もよくありました。
その結果、日本人の多くは中国で獲得した利権が危機にさらされており、それが日本という国家の生存すら危うくしかねないという(現在の視点からすれば)かなり大げさな意識がもたれていました。
これは戦後の日本でも「日米安保は戦争の道」「PKO活動で日本は軍国主義化する」とか後から見ると馬鹿馬鹿しい話が大きな政治問題になったことを考えれば、理解しやすいのではないかと思います。

ただし満州事変当時の日本政府はまだ国際協調路線を取って、交渉で穏便な事態解決を望んでいました。
ところがその前にロンドン軍縮条約で引き起こされた「統帥権干犯問題」のため、政府は軍の統制を取ることが出来ず、満州事変により日本軍は政府の不拡大方針を無視して満州の殆どを制圧し、一気に「特殊権益問題」の解決を図ったのでした。
この行為は現在では「軍の暴走」とされますが、当時の日本ではマスコミは拍手喝采して支持し、事態の不拡大を計った「政府の弱腰外交」を非難しています。
そしてこの国民世論の後押しを受けて建国された満州国について、欧米との対決を望まなかった当時の犬養毅首相は承認を渋りますが、五・一五事件で暗殺され(犬養は統帥権干犯問題を引き起こしてこの事態を招いた張本人のひとりであるので、自業自得の一面もあります)、日本政府は軍の暴走と国民世論に引きずられる形で満州国を承認、欧米との全面対決、そして国際連盟脱退へと向かってしまいます。

このように満州国の建国は決して日本が国家意思として行ったものではなく、当時の日本人の「満蒙の特殊権益」に対する過剰な意識と中国側の反発、そして軍の統制問題などが絡み合ったために、一部の暴走を国家が追認するという非常に危ういものでした。
しかしそれが当時は「大成功」を収め、国民からも高く評価されてしまった事で、その成功体験が後の日中戦争、そして太平洋戦争の遠因となり、大日本帝国を滅ぼしてしまうのです。

なお満州事変当時の日本国民の意識について論じた本で、簡単な書籍としては「日米もし戦わば―戦前戦中の「戦争論」を読む(光人社)」などがあります。

当時、日本を含めた列強諸国は中国に数多くの利権を有していました。
これはアヘン戦争以来、一世紀近くに渡って列強諸国が鎬を削って中国での利権獲得競争を行った結果でした。
そして植民地獲得競争において出遅れた日本において、満州周辺で獲得した利権はほぼ唯一に近い「海外利権」でした。
このため当時の日本では「満蒙の特殊権益」は「明治以来、先人が苦労と犠牲と投資を重ねて獲得した利権」であり、また「国家の生存に必要不可欠」と認識されていました。
しかも当時は世界恐慌の結果、引き起こされた...続きを読む

Q日本は強かったの? 他国から歴史をみたら日本なんてなんてことない国だったの?

第一次、第二次世界大戦の時代
私は今まで、日本はアメリカに負けたけど、日本は戦争に強かった。と思っていました。零戦とか戦艦大和とか聞くし、神風特攻隊を出撃させたのは、作戦には疑問を持ちますが、とにかく日本は強かったんだと思っていました。でも、実際そうなんでしょうか?戦争に関して知識は豊富ではないですが、昔のVTRなどをみていると、簡単に言うと、ずるい方法をとったりしていたようにいわれてました。(約束破り?)
私は日本で日本の歴史を勉強するので日本は負けたけど、すごかった、強かった、というような感じを受けるものが多いですが、ほかの国から歴史を見たら、日本なんてなんてことなかった かのような存在だったのでしょうか?教えてください

Aベストアンサー

ご質問が「第一次、第二次世界大戦の時代、日本は強かったの」
ですが、
「アメリカには勝てないが、かなり強かった」といえます。

第二次大戦の時期の列強陸海軍ランキングを仮に作成してみます。

陸軍
1) アメリカ
2) ドイツ
3) ソ連
<この間、かなりの差>
4) 日本 4) フランス 4) イギリス
7) イタリア
(他はランキング対象外)

海軍
1) アメリカ
2) 日本
3) イギリス
<この間、かなりの差>
4) イタリア 4)フランス
6) ドイツ
(他はランキング対象外)

<陸軍について>
日本陸軍は弱かった、人命無視のムチャクチャな作戦をやって自滅して行った…という悪いイメージがありますが、仔細に見るとそうでもありません。

A) 支那事変は、蒋介石率いる国民政府が、上海周辺にドイツ軍事顧問団の指導で建設した第一次大戦型の塹壕陣地(第一次大戦の常識では『突破不可能』。ゼークトラインと呼ばれた)を建設した上で、上海に駐屯していた海軍の上海特別陸戦隊を襲撃し、救援にやってくる日本陸軍を、上海周辺の塹壕陣地に誘致して殲滅する、という計画で始まりました。

蓋を開けてみますと、上海特別陸戦隊は意外なほど頑強に戦って陸軍の援軍が来るまで持ちこたえ、杭州湾に上陸した日本陸軍3個師団は、国民政府が頼みにしていたゼークトラインを「浸透戦術」を巧妙に用いることで少ない損害で突破し、国民党軍を包囲殲滅しながら国民政府の首都である南京へ進撃しました。

これは蒋介石にとって全く予想外のことで、国民政府軍は総崩れとなりました。日本陸軍は、上記のランキングでは「ランキング対象外」の国民政府軍より「遥かに強かった」と言えます。

ウィキペディア 第二次上海事変
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89

B) ポツダム宣言受諾の「後」に、ソ連軍が北方から千島と南樺太に侵攻しました。
千島列島の北端である占守島、日本領であった南樺太には、比較的装備が良く、兵員も充実した守備隊が残っていました。
8月15日以降のソ連軍の攻撃に対し、占守島と南樺太の陸軍部隊は善戦し、
「占守島においては、上陸したソ連軍をもう少しで海岸に追い詰めて全滅させるところまで戦う」
「樺太においては、ソ連軍の南下を食い止め、南樺太の日本人が北海道へ逃げる時間をかなり稼ぐ」
という戦いぶりを見せています。

<海軍について>
日本海軍については、アメリカに次いで世界第二位の戦力を持っていたのは異論がない所で、戦前においては、東太平洋は「日本の海」でした。

「空母機動部隊」はアメリカと日本だけが編成して運用できたものですし、18インチ砲搭載の戦艦を建造できたのは日本だけです。第二次大戦終結までに完成させた大型空母の隻数で言えば、アメリカが圧倒的に多いわけですが、次に多いのは日本です。第三位のイギリスにかなり差をつけているはずです。

無限の物量と高度な技術を持つアメリカと戦っては、昭和19年のサイパン沖海戦で日本空母機動部隊が壊滅し、レイテ沖海戦で航空機の援護のない「レイテ湾への特攻」を命じられた水上部隊がろくな戦果を挙げられずに甚大な被害を受け、「沖縄への大和特攻」(坊の岬沖海戦)で終わったわけですが、アメリカ海軍相手にここまで戦える海軍は日本海軍だけだった、というのは紛れもない事実でしょう。

ご質問が「第一次、第二次世界大戦の時代、日本は強かったの」
ですが、
「アメリカには勝てないが、かなり強かった」といえます。

第二次大戦の時期の列強陸海軍ランキングを仮に作成してみます。

陸軍
1) アメリカ
2) ドイツ
3) ソ連
<この間、かなりの差>
4) 日本 4) フランス 4) イギリス
7) イタリア
(他はランキング対象外)

海軍
1) アメリカ
2) 日本
3) イギリス
<この間、かなりの差>
4) イタリア 4)フランス
6) ドイツ
(他はランキング対象外)

<陸軍について>
日本陸...続きを読む

Q戦前の軍部独裁と議会政治の終焉

何で戦前の日本は雪崩を打ったようにして議会政治が崩壊していき、軍部独裁に移行してしまったんですか?

僕は日本史の中でこれが一番不思議です。今でも解せません。

戦後の民主主義ほど完全ではなかったとはいえ、戦前も曲がりなりにも民主主義国家として議会政治が機能していたのに、何で太平洋戦争直前くらいになると、怒濤の勢いで一気に軍部独裁が成立してしまったんですか?

ごく大まかな説明でもいいので理由が知りたいです。因みに議会政治が終焉した年を具体的に特定すると、何年になりますか?

余談ですけど、僕はこの危険な史実こそ、日本の歴史2000年の中で後世の人間が一番学ばなくてはならない点だと思っています。

Aベストアンサー

他の方も述べておられますが、戦前の日本では軍部と政府が並列に存在していました。
これは明治維新政府の基盤が脆弱であったことから、政府と軍部を一本化せずに並列とすることで反政府勢力が政府を揺さぶっても軍部は替らず「体制の擁護者」たることが求められたのです。
当然ながらこのような体制は対外戦争には不向きなものですが、日清日露戦争時は伊藤博文、山形有朋などの元老が行って見れば「超法規的」に軍部と政府の意思統一を図ったのでこの問題は表面化しませんでした。
しかし皮肉にも日清日露戦争の勝利は「体制の正しさの証明」となってしまい、既に時代遅れとなった体制を昭和まで引きずる事態となってしまいます。

しかしながら昭和初期には軍・政府の並列体制の不備もまた明らかであり、このため「軍の統帥権はあくまでも純粋な作戦面に限定され、軍部は政府に従うべきである」とする見解が主流となっていました。
ところが1930年のロンドン軍縮条約調印時、衆議院では野党の政友会が「政府が勝手に軍縮条約を結んだのは統帥権の干犯である」と政府を攻撃し、統帥権を一気に拡大解釈してしまいました。
これ以降、議会で軍部の行動を制しようとすると政敵から「統帥権干犯だ!」と揚げ足を取られる事態を招き、議会は自ら軍部へのチェック機能を放棄してしまうのです。
議会における目先の主導権争いの為に、国益を大きく損なったと言えるでしょう。

そして当然ながら議会における目先の足の引っ張り合いのために統帥権を弄ぶ政党の行動は、有権者の失望を招き、それと共に「統帥権」をタテにとって政府を無視し、満州全域を制圧した「満州事変」がマスコミや世論の喝采を浴び、国民は軍部の暴走を支持するようになってしまいます。

このように戦前の議会政治の終焉は
「過去の体制がその成功故に時代遅れとなっても維持され続けた」
「政治家達が体制の不備を改正するのでは無く、政敵の足を引っ張る事に利用した」
「体制の不備をついて暴走した軍部の行動が短期的には成功を収め、政府や議員に代わり国民の支持を得た」
といった理由があるのです。

敢えて言えば議会政治の破綻が始まったのは1930年、その後年々崩壊を続け、最終的に終焉したのは大政翼賛会が設立された1940年でしょう。

他の方も述べておられますが、戦前の日本では軍部と政府が並列に存在していました。
これは明治維新政府の基盤が脆弱であったことから、政府と軍部を一本化せずに並列とすることで反政府勢力が政府を揺さぶっても軍部は替らず「体制の擁護者」たることが求められたのです。
当然ながらこのような体制は対外戦争には不向きなものですが、日清日露戦争時は伊藤博文、山形有朋などの元老が行って見れば「超法規的」に軍部と政府の意思統一を図ったのでこの問題は表面化しませんでした。
しかし皮肉にも日清日露戦争の...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Qユダヤ人はどうして嫌われているのでしょうか?

映画「ホテル・ニュー・ハンプシャー」で、
「このホテルにユダヤ人がいるんじゃあるまいな」という
発言がありました。
シェイクスピアの「ベニスの商人」もユダヤ人です。
チャップリンの初期の映画にもユダヤ人をばかにする人種差別的ギャグがあるそうです。
ヒットラーにも嫌われました。
どうしてユダヤ人は嫌われるのでしょうか?
イエス・キリストがユダヤ人なのですが、白人はそう思ってないのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

いくつかありますが・・・
ユダヤ教の中における考え方に「選民思想」があります。簡単に言えば自分たちが優勢人類だ、という代物なのですが・・・
これをもっている民族はたいがい他の民族と仲良く出来ません。
理由は簡単です。本来同等の立場であるにもかかわらず自分たちのほうが上であるという態度を取っているのですから、嫌われるのはある種当然といえましょう(この選民思想に近い思想を持っている民族はすべからく嫌われています。このごろは減りましたがまだそういったのを持っている日本人も同様です。気をつけたいものです)。

さらには独自コミュニティを形成してそれを崩そうとせず、あくまで頑なにユダヤであるということを固持してきました。
これは、キリスト教という緩やかなつながりでつながっていた西ヨーロッパ圏では、ユダヤという存在は異端という点がその場に存在しているようなものです。
日本でもそうですが・・・自身たちとは違う風貌、習慣を持つ人は少なからず煙たがられる傾向があります。
さらには、銀行業などの当時「卑しい」とされていた職業で設けていました。余所者に自身たちの金を吸い上げられるのですから、決して面白いわけはありません。

もう一つが、政治的要因。
政治で、国民の不満をそらす方法に、悪役をつくる、というのがあります。
簡単に言えば、こじつけでも「~が悪い」というのをつくれば、そこに国民の不満がいきますから、政府とかそういったお上に攻撃がこなくなります。
で、ユダヤはキリストを十字架送りにしたというのがありますから、非常に悪役に仕立てやすいのです。上に書いた民族的な特徴も仕立てやすい理由です。

大体、嫌われる、あるいは嫌われている人、民族には共通項があります。
1.お金にうるさい(理由はともあれお金をためる人全般)
2.異文化的である。または異文化の性質を強く持っている
3.異郷の地でがっぽり稼ぐ人
4.郷に入らば郷に従えを実践しない人
5.自分たちのほうが偉いと少なからず思っている人
などなど・・・
ただ、こうやって見るとわかるように、どこぞの民族も似たようなことをやっています(車をアメリカで売りまくって、ご当地の車会社から白い目で見られたりする国です。まあ、いまはあまりやらないのかな・・・?)。
結局、嫌われる民族か、そうでないかというのは、ある意味紙一重なところがあります。
ユダヤが嫌われているのは、これらを満たしてしまっているせいと、国を持たなかったという地政学的悲劇のためと考えています。

いくつかありますが・・・
ユダヤ教の中における考え方に「選民思想」があります。簡単に言えば自分たちが優勢人類だ、という代物なのですが・・・
これをもっている民族はたいがい他の民族と仲良く出来ません。
理由は簡単です。本来同等の立場であるにもかかわらず自分たちのほうが上であるという態度を取っているのですから、嫌われるのはある種当然といえましょう(この選民思想に近い思想を持っている民族はすべからく嫌われています。このごろは減りましたがまだそういったのを持っている日本人も同様で...続きを読む


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