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 創世記第一章(第一節~第五節)についてご造詣の深い質問(神が天地をつくったのか)がこの哲学カテにでました。
 聖書の勉強をしたことがないので、教えてください。

 http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%89%B5%E4%B8%96 …より。
 1:1 はじめに神は天と地とを創造された。
 1:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
 1:3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
 1:4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
 1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

(質問)
 1. この創造のときに神は存在していたのですか?どこに存在していたのですか?

 2. 光がないときをやみと指しているようですが、光の出現の前にあったのであればそれは、光よりも神に近いものであり、光よりも本源的だといえませんか?

 3. 光とは可視光線ですか?可視不可視を含めた光線ですか?やみとはそういう可視不可視の光線もないという事ですか?(可視光線もものに反射してから見えます。反射しないと見えません。反射しない状況を私たちは闇といいます。ここでいうやみはそういう闇ではないのですね?)

 4. 神は光を為し、それとやみとを区分したかのようです。
 仮に区分したのであるなら、その境界は何なのでしょうか?夜と昼との間、朝と夕べでしょうか?

 5. そしてそのどちらに神はいるのですか?境界にいるのですか?

A 回答 (15件中1~10件)

キリスト教の神は"Omnipresence"-いつでもどこにでもいる(在る)という特徴を持っているようです。

 科学的に理解することは難しいようですが、科学的な説明をつける人もいます。
 
どのように解釈するかは宗派や人によって異なりますが、一例としては
光を造ったということを、この宇宙の法則を造ったと理解している人もいるようです。 そうだとすると(アインシュタインがいったように)光=エネルギー=物質で別に区別する必要もないとも考えられます。
昼と夜を造ったというのは、時間を作ったと理解する人もいるようです。 (相対性論理には時間も大きな要素となっています。) 実際に天地創造で太陽と月と星(の運行)が造られたのは4日目となっています。

キリスト教では、全知全能であり、どこにでも在って、完全な善である(物質、空間や時間にとらわれる存在ではない)と定義されていると思います。(光でも闇でもない)

http://en.wikipedia.org/wiki/God
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この回答へのお礼

ShowMeHowさん、早速ありがとう御座います。
 このアドレスを今、読書中のバガヴァッド・ギータに貼り付けて、参考にしようと思い、質問をさせていただきました。
 
 【全知全能であり、どこにでも在って、完全な善である(物質、空間や時間にとらわれる存在ではない)】、つまり【全知全能で遍在普遍、だから(光でも闇でもない)】ということなのですね。
 それは人間の認識を超越していて、人間が自分の能力で把握できないという事ですね。
 ではどのように対面したら良いのでしょうね。多分信仰や尊崇なんでしょうね。
 困ったものです。どうことばで表すのかも困りますね。

 ありがとう御座いました。どうよろしくお願い申しあげます。

お礼日時:2010/09/01 10:46

 お答えします。



 ( a ) 神は 人間にとって表象し得ません。象(かたち)に表わし得ません。絵でも音でも文字でも考えでも表わし得ません。もし表象し得たなら それは 神ではありません。人間の精神における想像力による産物としての《観念》であるに過ぎなくなります。

 ( b ) わづかにしかも じんるいは《かみ》あるいは《信じる》という言葉を持つに到っており いまも使っています。これは如何に? では これらは何を意味する言葉なのか?

 ( c ) 言葉は一般にこの経験世界のものごとに対応した内容をその意味とします。ところが 神という言葉は 端的に言って その対応がありません。表象し得ないのですから。

 ( d ) おそらくこの《非経験の領域なる神》と《経験的な存在である人間》とを結ぶものは それがあるとしたなら 《信じる》という行為である。

 ( e ) 信じるというのは ひとつに 経験世界における《考える(表象する)》を超えた行為である。言いかえると 考えることの出来ない(表象しえない)何ものかとの対面である。
 ひとつにはしかも その神と人間もしくは《わたし》を結ぶというのなら そこで 結ばれたという事件が起きると言わざるを得ない。言いかえるとそれは 《わたし》の時間的な意志行為である。

 ( f ) わたしの時間的経験的な意志行為であろうと見ているが おそらくそれは わたしからの行動や操作によってはついぞ叶えられない事件であろう。その意味は わづかにどこかから・何ものかによって与えられたものを受け取るという意志行為であろう。その受領証を発行することが わづかに人間に出来る行為であり それが《信じる》であろう。

 ( g ) さて 神はどこにいるか? ――どこにでもいるでしょうし どこにもいないでしょう。《わたし》の中にいるでしょうし それはわたしの自由になる持ち物などとしては いない。

 ( h ) 神は いつ いるか? ――いつでもいるでしょうし いつも いないでしょう。《わたし》のいま・ここにいるでしょうし それはわたしの自由にすることができる持ち物などとしては いない。

 ( i ) この宇宙が出来たとするならその出来たとき 神はとうぜんその宇宙を超えているのだから 擬人化して言えば その宇宙の生成を神は見守っていたことでしょう。その後の経過やじんるいの歴史などなどすべての経験的な現象やことがらに対しても 同じであるでしょう。

 ( j ) ここで言うとすれば 経験世界である宇宙を超えて存在すると想定される神については 見守っていたと仮りするならば その天と地をその神がつくったと表現してもそれほどおかしくはない。その世界を超えているからです。覆っているし含んでいるとさえ表現されうる。経験世界が神をつくったとは ぎゃくに 言えないわけです。

 ( k ) 《はじめ・創造する・天・地・形・やみ・淵・水・おもて・おおう・光・ある・言う・見る・良し・分ける・昼・夜・名づける・夕べ・朝・なる・第一・日》は すべて 経験世界のものごとであり それを表わす言葉です。これらを超えているのが 神です。超えていることによりそれらを覆い包み含むとも表わされ得ます。

 ( l ) 神は光速をむろん超えています。歴史を超えています。世界をつつんでいます。
 神は 宇宙の初めもその前をもそのあとをも超えています。宇宙の生成は それなりに(そのモノの運動にしたがって)出来たし そこから経過して来ていると考えます。

 ( m ) もしそのほかに何かプラス α があるすればそれは
 ◆ 1:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
 ☆ の中の《神の霊》 これは何を言うのかです。あるいは

 ◆ 1:4 神はその光を見て、良しとされた。
 ☆ の中の《良しとする》とは どういうことか? おそらく上の《神の霊》と関係するのではないか。なぜなら《良し悪し》となれば モノの自己運動とは別の――神にとってのとは言わないまでも 人にとっての――世界連関があるかも知れないゆえ。言いかえると ひとそれぞれの主観的な判断 つまり意志行為 の問題であるかも知れません。良し悪し ないし 善悪のことです。

 ◆ 1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
 ☆ ここで《夕べとなり》のあと 《夜に入り》とか書かれていない。そのまますでに明くる《朝となった》と書いてある。もしこのように人も夜に渡されずに 眠りの世界を経るのだとすれば そうだとすれば 上の《神の霊 あるいは 人間にとっての善悪(価値観)》とかかわらないであろうか? 

 (あぁニ千字)

この回答への補足

 bragelonneさん
 お忙しいところ、ご本家様よりお越し下さり心よりお礼申し上げます。大変触発的なご回答をありがとう御座います。
 (a)【神が人間にとって表象し得ないという事をよく理解します。】
 (b)【やはり信じるということにいくのですね。】
 (c)【経験界には神ということばに対応がないということを理解します。】
 (d)《非経験の領域なる神》と《経験的な存在である人間》とを結ぶものがあるとしたなら それは《信じる》という行為である。【そしてまた、神を求める、愛するという事ですね】
 (e)【《わたし》時間的意志行為ということを教えてもらいました】
 (f)わづかにどこかから・何ものかによって与えられたものを受け取るという意志行為、【ということも信じるということな(になる)のですね。】
 (g)【異論はありません。】
 (h)【異論はありません】
 (i)【この“超える”、そして“見守る”というフレーズはよく出会うのですが注意して使う必要がありますね。感覚をよく表現しているのですが。】
 (j)【bragelonneさんにわたしが、確認を求めるというか、コメントが欲しいところです。】
  経験世界を超え、見守り、覆う。そして含む。これに異論はありません。でもbragelonneさん、まさかこの超え、見守り、覆うものが、自己に異質なものを含んでいるんではないでしょうね。
 “含む”って自己の中におくことでしょうね。ならばその被含存在は神たるものの自己自身ではないのでしょうかね。
 なお無論、経験世界から神を産出するということは、わたしとしても問題外のことです。
 (k)よくわかります。
 (l)【ここも全く異論がありません。そして“生成”ということばで神を離れて、経験界が自然に展開する意味を受け取ります。だから“見守る”ということなのでしょうね。これは神と創造界、森羅万象の関係を思うのにとても示唆的なタームですね。“生成”と“見守る”は対になりうると存じますし、神と経験界との関係を示す大事な言葉ですね。】
 (m)
 ◆1:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。【私はここの《神の霊》は《神の意志と意識そして、force》かなと思います。】
 ◆1:4 神はその光を見て、良しとされた。【私は関連的な善悪の評価判断ではなく、単純にbless、嘉すだとくらいにしか読み取れませんでした。
  つまり神はそこに自己を見た(自己とした)。ということだと思いました。】
 ◆1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
 {☆・・・・上の《神の霊 あるいは 人間にとっての善悪(価値観)》とかかわらないであろうか?}
 【私はそういう方向に思えませんが、bragelonneさんの今後のご思索を期待します。】

補足日時:2010/09/02 11:34
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この回答へのお礼

 bragelonneさん
 素晴らしいことをお教えいただき心よりお礼申し上げます。
 宇宙創成説のような神話的仮説は、その時代、文化圏の科学的エトス (http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6153187.html
 とかいう難しい質問があるようですが、私としては時代や文化圏のエトスがどうのということなどは問題にしていない中での質問でありました。
 確かにそういう面からも思考の対象にできるかも知れませんが、聖書の完璧性はともかく、創世の部分は、私は宇宙や人という経験界を超えたところでの問題だと思っております、そう捉えています。
 万世そして森羅万象において、万人において、世界の何処でも通じる真理の上の真理だという考えです。
 森羅万象の創世と構造であり、人間の創世と構造であると思っています。
 神を語る事は人間を、そして森羅万象を語ることだと思っています。
 人生の勝利とは神を語り、森羅万象を祝福して出て行くことだと思っています。
 エトスだのパトスだのということばで、50年も前に若い教員が教授会で発言していたが、まぁ今は一本の花草として祝福しております。

お礼日時:2010/09/04 07:23

だから



話の大本の
そこだよそこ

そこが違うんだってぇ~の



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プロテスタントのクリスチャンです。

エホバの証人、モルモン教とは関係ありません。

聖書は神の言葉であると言われていますが、人にもわかる言語で書かれています。いまでは多くの言語に翻訳されて、絶滅しそうな民族のための言語で書かれた聖書もあります。そのような神様の言葉が何故ある翻訳者の手を通して他の言語に訳されうるのでしょうか。聖書は一字一句誤りのない神の言葉であるなら、翻訳などで誤謬の入る余地のある作業など許容されるはずがないと思われないでしょうか。

つまり聖書は言葉面にある事を問題にしていません。むしろ言葉を重ねて説明されたその背後にある事実や真実にたどり着くように意図されておりまして、その真実が重要だとのべています。ギリシャ語あるいはヘブル語から日本語に訳されたのが現代の日本語聖書ですが、翻訳団体により表現に多少の相違があります。繰り返すようですが、文字面は背後の真実に比べたら重要ではありません。以上の事をご理解いただいた上でご質問1のみ眺めてみたいと思います。

>>1. この創造のときに神は存在していたのですか?どこに存在していたのですか?

ご質問者さまの質問は3次元に時間を足した4次元を想定しておりますので、「初めに神は天と地を創造された」とき、天も地もないときにどこかにいたのですか、いる場所がなかったはずですという鋭い質問になっております。神をご自分の限定された環境から眺めますと、その理論は破綻します。例えば前後と左右の次元しか認識しない存在者は上下にも次元がある事に気づきません。回答者はクリスチャンですので、少なくとも神は我々の次元を超越していると諸手をあげて認めております。「神はアルファでありオメガである」神様は空間だけでなく時間をも超越していると思います。

その神がイエスキリストを地上におくりこまれたと述べているのが聖書です。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 」2000年前に大工の男があなた方の罪を赦すためにあえて十字架についたという歴史的事実に目を向けられますようご期待申し上げます。

この回答への補足

 実は私はSelf-Realization Fellowshipというところの教えで勉強し、精進しております。
 なかなか素直になりきれない、現代のソフィスケイティドの人間で、理屈と精進、勤行でアクセスしております。

 仰せのことはその通りと存じます。

 でもcincinnatiさん、cincinnatiさんがそのようなご境地になるには偉大な邂逅か、偉大なプロセスがなかったのでしょうか?

 質問のような事柄などは、しゃべくっていても何の益もないかも知れません。
 それはcincinnatiさんのようになれがそうでしょう。

 興味本位の、知的遊びの議論かもしれませんね。わたくしは読書の途中で表題に引用したご質問に合いました。
 聖書の創造の事項に関連していたので、記念的に質問を出しました。
 実は十数年前からの読書でしたが、毎日数ページずつ、今四回目の読書です。
 英語なので、両文章を書きながらです。一回読むのに二年半かかっています。
 遅遅たる歩みです。

 ありがとう御座いました。

補足日時:2010/09/02 17:40
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この回答へのお礼

 【文字面は背後の真実に比べたら重要ではありません。】ことを心して、【2000年前に大工の男があなた方の罪を赦すためにあえて十字架についたという歴史的事実に目を向ける】ことは重要ですね。ご回答ありがとう御座いました。

お礼日時:2010/09/02 16:50

1について



>1:1 はじめに神は天と地とを創造された。

 この「神」は人格神を表しているようですね。その人格神がどうやって創造されたのか、ということについては創世記には書かれてないようです。

もう見ているかもしれませんが、http://sora.ishikami.jp/stories/universe.html これはどうでしょう。一般の良識人が見ればかなり引いてしまう内容かもしれないです。

2について

 光があってこそ影が出来ます。光がなければ影(陰)はできません。また、影がなければ光を認識できないでしょう。

 創世記に「光の前に闇がある」ともし書かれているとすれば、それは闇ではなく、光と影(闇)を含んだ混沌のようなものではないでしょうか。





 木で出来た胡桃(木胡桃)はありません。着ぐるみならあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9D%80%E3%81%90% …

偉大なる虚構であり、中の人は小さいのではないでしょうか。

 それから、尼河童は知識とうんちくが多いです。
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この回答へのお礼

 天軸さん
 ありがとうございました。
 光と影を含んだ混沌といえば混沌の状態(といえば状態)でしょうね。
 ありがとう御座いました。
 木胡桃は現実にはないということもありがとう御座いました。

お礼日時:2010/09/02 16:56

<その時>


 
上にある天は名づけられておらず、下にある地もまだ名づけられていなかった頃。


<その時(この時)>はですね、「はじめにアプスーがあり、すべてが生まれ出た。混沌をあらわすティアマトもまたすべてを生み出す母であった。水は互いにまざりあっており、野は形無く湿った場所も見られなかった。神々の中で生まれているものはいなかった>


とありますので、1の答えは「どこにもいなかった」ですね。

2.
アプス(真水) ティアマト(塩水) ムンム(霧)と例えられていますが、要するにプラスとマイナスと・・何かなんかじゃないかと。

3.
「神の姿に似せて天体を作った」とありますので、太陽は神に似姿なわけで。
人間の視覚は限界があり、非常に狭い光の波長しか認識できませんので、その狭い領域の波長を人間は「可視光線」と言っているわけで。

>反射しないと見えません。

太陽そのものを見ると目がやられてしまいますが、蛍光灯やロウソクの灯り程度なら直接見ても大丈夫。

>反射しない状況を私たちは闇といいます

例えば太陽はもともと惑星だったわけで。
それがどんどん小さくなって、臨界点に達したとき爆発して外にエネルギーを放出するようになったわけで。
電子かなにか知りませんが、それが激しく衝突して火花が散っているわけで。
太陽って巨大な原子炉ですから、オゾンホールができると、直接有害な宇宙線を浴びてしまい、皮膚がんとかになるわけで。
そうじゃなくても大気だけでは防げないので、日々我々は被爆してますけどね。


4.
要するに地球が時点しているからでしょ?
太陽とは逆の方にいると太陽光線が届かないので夜になるわけでしょ?
地球が時点していなければ、太陽に面した面は常に昼だし、逆は暗闇。(他の惑星が無いと限定して)

太陽がぼっかーんと爆発して、太陽の引力と外に向かった力の均衡が取れた位置に今地球がいて、衛星のように回っているわけでしょ?
この軌道に乗らずに地球がそのまままっすぐ進んでいってたら、太陽が届かない場所にいるわけだから、まっくらなわけで、人間なんて存在しなかったわけです。

たまたま偶然に稀なることが起こって、今の軌道あたりをグルグル回ることになったので、生命が誕生しては滅びを繰り返し、人間もできちゃって「おてんとうさんは生命の源だ ありがたやー」ってなっているわけです。

宇宙船で地球の外に出たら、昼と夜の区別はありません。

5.ナンセンスだと思います。
だって他の星みてください。生命が生存できない環境の星ばかりじゃないですか。
太陽に近ければ水分がひあがってしまうし、遠いと氷点下の世界になる。
自転しないと、片方は常に昼で水がひあがり砂漠になるし、片方はいつまでも夜で氷が解けない状態になり植物が育たない。
うまくバランスが取れたくるくるまわる地球であっても、火の玉だった頃は生命は存在できなかったし、氷に覆われていたときも、人間は誕生しても集団は数十人で、氷に覆われていたので食べ物があまりなく子孫を増やすのがとても難しかったわけで。


人間が急激の増殖しだしたのは、農耕を発見してからと言われています。
そうなると他の動物のように、一日中食料を求めて移動するってことをしなくて済むようになり、天体を観察することで、いつ種をまけばいいかがわかりだし、貯蔵をしてとれないときもそれ食べて生き延びたわけだし、太陽は生命にとってとても大切な存在だと知っていたから、太陽信仰が起こったわけです。

月が突然小さくなり、大爆発をしたら、もう一個プチ太陽ができることになり、気候も変わるでしょうね。
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この回答へのお礼

 木胡桃さん、こんにちは。ありがとう御座います。お話はそのとおりと存じます。

 
 1.上にある天は名づけられておらず、下にある地もまだ名づけられていなかった頃。【つまり人間の認識となっていない状態ですね】
 【人間の認識を神がする段階まで、1の答えは「どこにもいなかった」ということでもありえますね】

 私も人間を通して全てがなされているという理解を持っており、精進しているヒンドゥの思想もそのような言い方になっています

 2.要するにプラスとマイナスと・・何かなんかじゃないかと。【私もそう存じます。精進している思想もそういう創造論になっています】

 3.異論がありません。

 4.お話はお話として、異論ありません。

 5.はいそのとおりです。

 至極科学的だと存じます。だから異論はありません。ありがとう御座いました。

お礼日時:2010/09/02 17:10

○全知全能の神といわれる存在は高次元の巨大な意識エネルギー体と呼ばれるものですね。


その高次元のエネルギーの意思が低次元に展開していく様を断片的に表現しているのが創世記ということです。
つまり、はじめに神の「かくあれという」念いがあり、その念いにより、3次元宇宙意識、3次元宇宙意識が銀河意識を創造し、銀河意識が恒星意識を創造し、恒星意識が惑星意識を創造し、その後「光あれ」という念いで世に言われる「ビッグバン」が3次元宇宙意識のいたるところであったのですね。これ以降の話ということでしょうね。以降、恒星は光を担い、それ以外は闇を担っているということですね。
この後、惑星に生命を創造するために全知全能の神の意識体がいくつかの惑星に次元を落として投網をかけるように張り巡らされたということでしょう。その各意識体が各惑星に生命の創造を行ったという流れですね。
聖書や宗教で言うところの全知全能の神は高次元の根本の神ではなく、各惑星に存在する根本神の一部である次元を落とした意識体ですね。この意識体は救世主とも呼ばれますが、救世主の中の救世主、主の主が根本神の直系ということでしょうね。地球は主の主が存在する選ばれた惑星ですね。
高次元の根本神の念いと低次元の創造主の念いは同根ではあるが違うものですね。根本神の念いを体現する現場の責任者ですからね。
このような流れで、整理して創世記を読めば理解できるのではないでしょうか。
つまり、次元の異なるものを同じ土俵で考えても到底理解できないという話なのですね。
聖書の記述は断片的ですし、強いて言えば、書いた者の理解の程度でしかないですから参考程度にしかならないものですね。
参考程度に
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この回答へのお礼

 mmkyさんいつもありがとうございます。

 聖書や宗教のいう創造神のまえに、創造の意識以前の存在については、私達のSelf-Realization Fellowshipでも説いておりますので、mmkyさんのお話をそれにそって、理解しようと努力しました。ありがとうございました。

 ○全知全能の神といわれる存在は高次元の巨大な意識エネルギー体と呼ばれるものですね。
 【であるかもしれませんね。そして以下は意識体でもある高次元の巨大な意識エネルギー体の創造ということを、自然科学的に読み解いてくださっているのですね。そして聖書などの創造神には、更に根本神、全体神が系統的にあるというお話ですね。そのことについては私も異論を挟みません。】

 ありがとう御座いました。

お礼日時:2010/09/02 17:27

釈尊はさとりへの道だけを説いたと言われている



さとりを啓くということがないから
誤謬は起こる

これは何を意味してるか


そのものを見てはいけない



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小さいものから大きなものまで様々あるさとりのなかで



大きいものは境界を生ずる

境界はその明晰性によって


慈悲
自立

含まれ



依存

との間には言葉以上の明確な切断がある
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さとりはそれぞれの生における通過点に過ぎないけれども



それを通過したものは
それを境に意識は確実に変容し始める


しかし
哀れにも理解しようとする努力によって
伝言ゲームの中の誤謬までしっかり固定化し定着させてしまうものは
その誤謬がこびりついてしまっていて落とせない
かおなしっていう妖怪状態

糞味噌を一緒くたにして飲み込んでいて峻別できない

何か原因があって長年瞑想のワークショップに通ってもさとれなかったり

など
様々な要因で人がさとりに至ることが妨げられる
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