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哲学することでは、悟りの世界には到達できないか?

言語活動で、目に見えない世界の真実に迫ろうとする哲学。
非言語活動の、瞑想や等で心の真実に迫ろうとする座禅。

西洋で生まれた哲学。
東洋で生まれた瞑想、禅

アプローチの違う二つ。
哲学は、瞑想、禅が到達する悟りの世界には、決して到達できないのか?

主張とその理由を述べてください。
 

A 回答 (23件中21~23件)

禅の悟りに限定しますと:


私の知っている禅宗の僧侶は「悟りには信仰がなくてはならない」と言います。
最近の西洋哲学はほとんど「神」の呪縛から離れようとする考え方が強いので、このアプロ-チから悟りに至るのは難しいでしょう。

私は悟りも信仰も、人間の脳の中のホルモンの作用だと思っています。
深いところで「クスリ」なしで快感が得られる「能力」が悟りの本性だと思っています。信仰も実は同じですね。

現代医学は「悟り」の脳波は解析できていますが、今後脳内ホルモンの解析からも何かわかるかもしれません。

マルクス(確か?)が「宗教はアヘンだ」と言ったのはけだし名言です。

宗教にせよ悟りにせよスーフィズムにせよ、「クスリ」なしで快感が味わえる能力は、まともな人間にとっては必要な事ではないでしょうか。

私は昔座禅をして板の「節」が大きく見えたり小さく見えたりした体験があります。そのもっと先に「悟り」があるそうですが、私のような不信心者には到達できないようです。

この回答への補足

修正
疑問だらでです。 → 疑問だらけです。

すみません・・・
 

補足日時:2010/09/19 19:09
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この回答へのお礼

 
>悟りには信仰がなくてはならない

信仰とは何でしょうか?
具体的な、人格神のような存在を必要とするものでしょうか?
人知を超えた存在に対する、畏怖の念で十分なのでしょうか?

どこからが信仰で、どこからが未知のものに対する畏怖で信仰で無いとの境は存在するのでしょうか?

なぜ、悟りに信仰心が必要なのでしょうか?

疑問だらでです・・・
 

お礼日時:2010/09/19 19:08

哲学はあくまでも論理的にさまざまな人間の命題に迫ろうとする学問です。

ですから、いくら掘り下げても根拠が明確でないものを採用することはなく、その不完全な結論までが哲学の領域です。
悟りというのは仏教思想のひとつですが、哲学のテリトリーにも仏教哲学は含まれます。ただ現代の哲学的考察では、悟りを論理的に説明することができません。悟りそのものには根拠となる中心がなく、かなり非科学的な理屈を容認しなければなりません。つまり哲学的思考から悟りははみ出てしまうんです。だからといって悟りはないか、と問われれば僕はあると思います。存在するかしないかわからない神や仏を手放しで信じるには根拠がありませんが、歴史的に見ると人間社会にはつねに神や仏が寄り添っていました。その歴史の中である心の状態を悟りといったのだろうと思います。
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まるで方向が違うでしょうね。



知識や知恵を身につけようとする哲学。
すべてを捨てようとする禅。
すべてを捨たいという意欲も捨てようとする禅。

山に登り頂上を目指す哲学
川の流れに身をまかせ、大いなる海に至る禅
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